08.6.8「患難をも喜ぶ」
ローマ 5:1-11
:1 ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。
:2 またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。
:3 そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、
:4 忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。
:5 この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。
:6 私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。
:7 正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。
:8 しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。
:9 ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。
:10 もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。
:11 そればかりでなく、私たちのために今や和解を成り立たせてくださった私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を大いに喜んでいるのです。
序)信仰によって義とされる。
さて、ローマ書の4章では、アブラハムが行いや律法ではなく、信仰によって、義とされたということについて書かれてあります。
そして、私たちもまた、信仰によって義と認められていることから、5章が始まります。
私たちは、信仰によって義と認められるのですね。
エペソ 2:8 あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。
:9 行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。
律法によってであったり、行いによるのではないのです。
もし、行いや律法を全うすることによって義と認められるのなら、私は今日もこのようにみなさんの前で聖書を開いてお話しすることなどできません。
私たちの実際の生活ではいろんなことがあります。
心が穏やかでないようになることもあるでしょう。理不尽なこともあるでしょう。心が沈む時もあるでしょう。
そんな中で、人を心の中で裁いてしまったり、悪口を言ってしまったり、、、と神様の前に喜ばれるとは思えないようなことをしてしまうこともあるかもしれません。
実際、私も経験しています。
その大小はありますのが、ひどい時は、本当に神様に心を向けることに困難を感じることもあるのです。
でも、そんな時でも、神様はその私の悪い心や行動で、義としてくださらないのではなく、
イエス様に目をむけ、心を向け、イエス様の十字架によって救われることを信じていく時に、義として下さって、そんなひどい状態であっても、ありのままで私を受け入れて下さる方であることを知る時に、イエス様に心を向け続けることの大切さを実感するのです。
みなさんもいろんな人生を歩まれているでしょう。
いろんな辛い思いも経験しておられることでしょう。神様の前に罪を犯してしまうこともあるかもしれません。
でも、信仰によって義と認められるのです。その為にも、いつもイエス様に心を向けて、変わらない救いを受け取りましょう。
その時に、あなたの心が少しずつでも変えられていくのです。
そのように、信仰によって義とされたなら、私たちは、大いに神様を喜びましょう。
1.喜びの先取り
そして、聖書にあるように、患難さえも喜ぶものになりたいですね。
私たちがもし、行いによらなければ、義と認められないとすれば、何と苦難の道が待っているでしょうか。
苦しい道のりを耐え忍び、その中でいろんなことを学び、悟りのような境地を開いて、ようやく義と認められたら、その時にはようやく喜ぶことができるでしょう。
いろんな宗教がありますが、実際にそのようなものもあるでしょう。
でも、それでも救われないのです。なんと虚しいでしょう。
聖書は、患難さえも喜ぼうではないかといっています。
これは言い換えれば、先程の苦しい道のりの中でようやく義と認められて、その時に喜べることがわかっているから、もう今から喜びましょうということとも言えますね。
つまり、同じ道を歩んだとしても、その先にあるものによって喜ぶことができるなら、その時になって喜ぶのではなく、今の困難なことでさえ、もう喜ぼうということなのですね。
喜びの先取りとでもいいましょうか。。
その道のりの中で、
・患難は忍耐を生み出します。
苦しいことを経験していくと、忍耐力が養われていきますね。マラソンでもそうでしょう。人生はよくマラソンにたとえられたりしますが、まさにそうですね。苦しい練習を積み重ねる時に、持久力が養われるように、忍耐が生み出されるのですね。
・忍耐は練られた品性を生み出します。
そして、忍耐は練られた品性を生み出すといいます。私たちの人格もそのような中で形成されて、成長していくのでしょう。
マラソンでいえば、そのような持久力がついていくと、レースのどこでどれだけの力を入れたり抜いたりして、レースに勝つという強さというか、技術的なものが身につくようなものでしょうか。
・練られた品性は、希望を生み出すのです。
そして、さらに希望を生み出すのです。そのように人格が形成され、成長していくと、多少のことでは動揺したりせず、その中であっても、希望を持つことができるようになります。
マラソンでいえば、誰かがレース中盤でスパートをかけて前を走ったとしても、慌てることなく自分のレースをして、最後には抜いて優勝するという希望を見ることができるはずです。
そして、何よりこの希望があるということは、本当に喜ばしいことですよね。
だから、喜べるんだから、そのスタートとも言える患難さえも喜ぼうというのです。
でも、希望が失望に終わるなら、そこには喜びはないですよね。
苦しい道を通って、耐え忍び、その中でいろんな経験を重ね、人格も形成されるかもしれません。
そして、最後に開放されて、喜ぶことができるかもしれませんが、そこに希望を見出すことができるのでしょうか?
それで、救われるのか?死んだあとどこにいくのか?
ようやく信じてここまで歩んできたのに、希望がなかったら、失望に終わったら、なんと虚しい歩みとなるでしょう。
でも、聖書はいいます。
「この希望は失望に終わることがありません。」
失望に終わらない希望があるのです。
なんとすばらしいことでしょう。
もし、私たちの歩みの中で、最後にすばらしい希望が待っていて、その希望は必ずかなう。失望に終わらないということがわかっているのなら、私たちは今の苦難をただ苦しいだけと思うでしょうか?
違いますよね。それは喜びです。
なぜなら、この道の先に確実に希望があることを知っているからです。
2.希望は失望に終わらない。
では、なぜ失望に終わらないのか。
「:5 この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」
私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからなのです。
神様はわたしたちに誰も真似できない愛を示して下さいました。
それは、今日読んだ箇所からだけでも十分わかりますが、他の箇所も読めば、読むほどにわかりますよね。
もう一度読んでみましょう。
ローマ5:6-11
:6 私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。
:7 正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。
:8 しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。
:9 ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。
:10 もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。
:11 そればかりでなく、私たちのために今や和解を成り立たせてくださった私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を大いに喜んでいるのです。
だから、私たちは、患難であっても、そうでなくても、イエス様を大いに喜びましょう。
そして、その先にある希望を持ってイエス様を喜び、与えられた人生を歩みましょう。
患難さえも喜ぶ人生を歩みたいですか。
イエス様を信頼し、イエス様に心を向けましょう。
そこから、神の愛が注がれて、私たちの中に「失望に終わらない希望」が与えられます。
神様の愛に応答し、この喜びの人生の一歩を踏み出す人は幸いです。
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