2008/06/29

08.6.29「満たされるイエス様」

マルコ8:1-10
:1 そのころ、また大ぜいの人の群れが集まっていたが、食べる物がなかったので、イエスは弟子たちを呼んで言われた。
:2 「かわいそうに、この群衆はもう三日間もわたしといっしょにいて、食べる物を持っていないのです。
:3 空腹のまま家に帰らせたら、途中で動けなくなるでしょう。それに遠くから来ている人もいます。」
:4 弟子たちは答えた。「こんなへんぴな所で、どこからパンを手に入れて、この人たちに十分食べさせることができましょう。」
:5 すると、イエスは尋ねられた。「パンはどれぐらいありますか。」弟子たちは、「七つです。」と答えた。
:6 すると、イエスは群衆に、地面にすわるようにおっしゃった。それから、七つのパンを取り、感謝をささげてからそれを裂き、人々に配るように弟子たちに与えられたので、弟子たちは群衆に配った。
:7 また、魚が少しばかりあったので、そのために感謝をささげてから、これも配るように言われた。
:8 人々は食べて満腹した。そして余りのパン切れを七つのかごに取り集めた。
:9 人々はおよそ四千人であった。それからイエスは、彼らを解散させられた。
:10 そしてすぐに弟子たちとともに舟に乗り、ダルマヌタ地方へ行かれた。

序)集まる。
みなさんは、何かの為に集まったり、並んだりしたことはありますか?

ぼくはあります(^^;
学生の時には、パチンコ屋さんの開店前に並んだこともあります。
先着○名様とかのものをゲットするために並んだこともあります。
遊園地やテーマパークでは、アトラクションに乗るために並びます。
また、子供の運動会には、親が集まってきます。
テーマーパークでは、パレードのために、人々が集まってきます。

人は何か自分がほしいものを得るためであったり、何かを期待して集まったりします。

ここでは、4000人もの人がイエス様のもとに集まってきていたのです。

今日はここから、共に教えられたいと思います。


1.イエス様のもとに集まっていた。

4000人もの人がイエス様のもとに集まっていたのです。
それはイエス様を求め、イエス様に何かを期待し、そこに集まってきていたのでしょう。
聖書を見ると、3日間も食べるものもないのに、イエス様のもとに集まっていたようです。
ある人は遠くからきている人もいたようです。
3日も食べられないような状態でありながら、イエス様を求めて集まっていた人達。
本当にイエス様を求める心、信仰で溢れていたのでしょうね。

私もそのように本当に飢え乾いてイエス様を求めていただろうかと考えさせられました。
食べるものに困ることもないし、車でどこへでも行けるような時代。
なかなかこの時代のこの出来事を理解することは難しいかも知れません。
でも、ひとつ言えることは、イエス様を求める心、信仰をもつことは本当に大切なことであるということです。
10人や20人ではないのです。
4000人です。
マルコ伝のもっと前から読むと、男だけで5000人が集まっている記事も出てきます。
また、いろんな状況の人がイエス様を求め、イエス様に期待して集まり、並んでいることがわかります。

私たちの信仰をもう一度見直す機会となるなら、幸いです。

私たちは、
何の為に礼拝に集まるのでしょうか。
何の為に祈るのでしょう。
何の為に御言葉を読むのでしょう。
何の為に福音を伝えるのでしょう。
何の為に愛し合うのでしょう。
イエス様を求めるため、イエス様と出会うため、イエス様にささげるため、イエス様に触れるため、イエス様に近づくため、イエス様に期待して・・・。
イエス様の為に集まっていますね。

絶えず、イエス様のもとに集まり、イエス様に目をむけるものでありたいですね。


教会は集まるためにあるということも言えると思います。
ここで4000人が集まったのは、最初から4000人がイエス様を目指していたのかというと、そうじゃなかったかもしれません。
イエス様を求めてイエス様のもとへ向かっていった人々を見て、自分も・・と集まった人もいたかもしれません。
また、多く人が集まっていったので、ついていった人もいたかもしれません。
どちらにせよ、イエス様を求めて集っていった人々には大きな影響力があったと言うことができると思うのです。

伝道を考えるときも、イエス様を求める人々に影響されたり、そこに人が集まるから影響されたり、その集まった場所にイエス様を求める人々が形だけでなく心からイエス様を求めているから影響されたりするのではないかと思うのです。

そういう意味では、個人的な信仰は個人的な信仰生活で送ることは可能かもしれませんが、イエス様の影響力が大きく人々に及ぼされていく為には、集まることはとても重要な意味を持っていると思うのです。だから、教会が存在するということも言えるのではないでしょうか。
私たちが集っていることは本当に大きなことなのです。



2.イエス様は満たされる。

さて、イエス様はその中でこの群衆たちをどうされたのでしょうか。

4000人もの人がいるのです。
弟子達も言っています。
「こんなへんぴな所で、どこからパンを手に入れて、この人たちに十分食べさせることができましょう。」
実際にパンは7つしかなく、魚が少しあっただけのようでした。
弟子達だけでわけても足りないんじゃないかというような量です。
それなのに、4000人もの人をどうやって・・・。

イエス様はこの7つのパンを感謝して裂いて配らせました。
すると、どうなったのか書いてませんが、4000人が満腹になったというのです。
イエス様がどのような方法でされたかを今日は注目しません。
イエス様はわたしたちが不可能と思えるような状況であっても、満たされるお方であるということを知りましょう。
パン7つで4000人を満腹にされたのです。
イエス様を心から求めて集まった人ばかりじゃなかったかもしれません。
そのような人々に影響を受けて集った人々やなんとなく付いてきて人々もいたかもしれませんが、それらの人々も全て満腹にされたのです。

その前には、パン5つと魚2匹で男だけで5000人を満腹にされたのです。
何倍になったとかじゃないんです。
今あるもので集まった人全てを満たされるお方であることがわかります。

私たちはイエス様に期待し、イエス様を求めます。
そして、イエス様に目を向け続けます。
その時に、イエス様はわたしたちを満たすことができるお方であるということなのです。

大きな集会で、設備も整っていて、すばらしい演奏と
技術的に優れたワーシップリーダーが導く賛美と
有名なメッセンジャーがメッセージする集会では満たされるが、
小さな部屋で、何の設備もなく、
楽器もなく、ワーシップリーダーの技術もなく、
名もないクリスチャンがメッセージする集会では満たされないというのではないのです。
イエス様は、今あるもので、全ての人を満たすことのできるお方なのです。

そのポイントは、

「イエス様」です。

イエス様を求め、イエス様に期待するのです。
大きな集会でも、ワーシップリーダーでも、メッセンジャーでも、ミニスターでもないのです。
イエス様なのです。

だから、教会にイエス様を求める人々が集まり、イエス様を求めているなら、そこに影響されたり、なんとなくでも一緒に集った人でさえ、イエス様ならその全ての人々を満たされるのです。
そのような集会を持ちたいですね。

私たちはイエス様を求め、イエス様に期待し、イエス様に目を向け続けるものでありたいですね。
今日もそう願い、今週もそう歩まれるなら、本当に幸いです。
イエス様がその全てを満たして下さるお方だからです。