2008/06/22

08.6.22「必要な忍耐」

ヘブル10:32-39
:32 あなたがたは、光に照らされて後、苦難に会いながら激しい戦いに耐えた初めのころを、思い起こしなさい。
:33 人々の目の前で、そしりと苦しみとを受けた者もあれば、このようなめにあった人々の仲間になった者もありました。
:34 あなたがたは、捕えられている人々を思いやり、また、もっとすぐれた、いつまでも残る財産を持っていることを知っていたので、自分の財産が奪われても、喜んで忍びました。
:35 ですから、あなたがたの確信を投げ捨ててはなりません。それは大きな報いをもたらすものなのです。
:36 あなたがたが神のみこころを行なって、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。
:37 「もうしばらくすれば、来るべき方が来られる。おそくなることはない。
:38 わたしの義人は信仰によって生きる。もし、恐れ退くなら、わたしのこころは彼を喜ばない。」
:39 私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者です。

口語訳
:32 あなたがたは、光に照されたのち、苦しい大きな戦いによく耐えた初めのころのことを、思い出してほしい。
:33 そしられ苦しめられて見せ物にされたこともあれば、このようなめに会った人々の仲間にされたこともあった。
:34 さらに獄に入れられた人々を思いやり、また、もっとまさった永遠の宝を持っていることを知って、自分の財産が奪われても喜んでそれを忍んだ。
:35 だから、あなたがたは自分の持っている確信を放棄してはいけない。その確信には大きな報いが伴っているのである。
:36 神の御旨を行って約束のものを受けるため、あなたがたに必要なのは、忍耐である。
:37 「もうしばらくすれば、/きたるべきかたがお見えになる。遅くなることはない。
:38 わが義人は、信仰によって生きる。もし信仰を捨てるなら、/わたしのたましいはこれを喜ばない」。
:39 しかしわたしたちは、信仰を捨てて滅びる者ではなく、信仰に立って、いのちを得る者である。


序)主に心を向け続ける。
先週は父の日礼拝でしたが、先々週のお話で、主に心を向け続けることがとても重要であること、
また、患難をも喜ぶことをお話しました。
それは、患難が忍耐を、忍耐が練られた品性を、練られた品性が希望を、そして希望が失望に終わらないというすばらしい約束を通して、今ある患難をも喜ぶという信仰でした。

でも、実際は患難なわけですから、辛く苦しいことを通るわけですよね。
今までも通ってこられたかもしれませんし、これから通るかも知れませんが、その時の励ましとなり、そんな時でも御言葉によって立つことができ、絶えずイエス様に心を向け続けられるなら、本当に幸いです。

今日は、そんな中で忍耐することについてみていきましょう。


1.確信を放棄しない。

私たちが神様に抱いている確信を投げ捨ててはならないですね。

私たちが救われたのは、イエス様の十字架によるのです。
また、私たちの行いによらず、ただ恵みと信仰によるのです。

私たちはこの確信を持っているから信仰生活を送れるのではないでしょうか。
あるいはこの確信を得るために歩んでいるのだと思うのです。

確信をもっていると、強いですね。
また、動揺するような時にもしっかりと立つことができます。

なぜ、この確信を放棄せず持ち続けていくことを神様はおっしゃるのでしょうか?
それは、その確信には大きな報いがもたらされるからです。



2.必要なのは、忍耐

そして、そのように確信を放棄せず、歩み続ける時に、私たちに必要なものがあるのです。

:36 あなたがたが神のみこころを行なって、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。

患難が待ち受けている人生で、私たちは確信を放棄せず、歩んでいきたいですね。
神のみこころを行って約束のものを手に入れるための歩みに必要なのは、
「忍耐」です。

ヘブル12:1-2
こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。
信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。

人生を歩むことは忍耐が必要であることがここでもわかります。
そして、その歩みは信仰の創始者であり、完成者であるイエス様から目を離さないことがとても大切なんですね。


今は忍耐の時だなぁ、と感じることはありますか?
今、まさにそうだ、という人もいるでしょう。
過去にもそんな時があったなぁという人もいるでしょう。
そうですね。これからもあるでしょう。

でも、ここでわかるように、私たちの信仰をはじめて下さったイエス様が、
私たちの信仰を完成して下さることを信じて、確信を持って歩み続けるものになりたいです。

イエス様が信仰の創始者であり、完成者であるから、このイエス様に目をむけ続けて、忍耐を持って走り続けるのです。


結)確信を放棄せず、忍耐を持って、イエス様を見上げ続ける人生を歩みたい。

最後に一人の方の証を紹介します。
十歳の女の子が突然嘔吐し、その後、食べることも飲むこともできなくなってしまいました。
摂食障害だそうです。特別な治療法はなく、栄養状態を維持しながら時を待つしかないというのが今の医学の現状だそうです。その期間も数年から、長くて7年くらいだそうです。
栄養を届ける為に鼻からチューブを入れた状態での生活が始まりました。
しかし、そのご家族はクリスチャンでしたので、祈りましたし、多くのクリスチャンの執り成しの祈りもありました。
そんな苦しい中で、その都度、イエス様からくる主にある喜びと平安があったそうです。あるときは御言葉が与えられ、あるときは、深い祈りに導かれ、、、
すぐに癒されたということではなかったですが、このご夫妻は、苦しい悲しい感情の中でも、絶えず主にある平安が心の奥底にあることを感じておられたそうです。
娘さんは、約2年半の後にチューブをはずすことができて、完全に癒されたそうです。

このご家族の中にはきっと確認があったに違いないと思うのです。
その確信を放棄せず、忍耐し、祈り続けられたのだと思うのです。
その結果、癒しという報いだけでなく、力強い信仰という報いをも受けられたのだと思うのです。

この方は、証の中でこのようなことも書かれています。
「どんな困難な中でも、神様を見上げる時に、心からの喜びと感謝と笑いがあり得ることを、私たちは体験しました。」

私たちはいかがでしょうか。
確信を放棄せず、忍耐を持って、イエス様を見上げ続ける人生を歩みたいですね。