2008/09/14

08.9.14「共に歩まれるイエス様」

ルカ 24:13-:32
:13 ちょうどこの日、ふたりの弟子が、エルサレムから十一キロメートル余り離れたエマオという村に行く途中であった。
:14 そして、ふたりでこのいっさいの出来事について話し合っていた。
:15 話し合ったり、論じ合ったりしているうちに、イエスご自身が近づいて、彼らとともに道を歩いておられた。
:16 しかしふたりの目はさえぎられていて、イエスだとはわからなかった。
:17 イエスは彼らに言われた。「歩きながらふたりで話し合っているその話は、何のことですか。」すると、ふたりは暗い顔つきになって、立ち止まった。
:18 クレオパというほうが答えて言った。「エルサレムにいながら、近ごろそこで起こった事を、あなただけが知らなかったのですか。」
:19 イエスが、「どんな事ですか。」と聞かれると、ふたりは答えた。「ナザレ人イエスのことです。この方は、神とすべての民の前で、行ないにもことばにも力のある預言者でした。
:20 それなのに、私たちの祭司長や指導者たちは、この方を引き渡して、死刑に定め、十字架につけたのです。
:21 しかし私たちは、この方こそイスラエルを贖ってくださるはずだ、と望みをかけていました。事実、そればかりでなく、その事があってから三日目になりますが、
:22 また仲間の女たちが私たちを驚かせました。その女たちは朝早く墓に行ってみましたが、
:23 イエスのからだが見当たらないので、戻って来ました。そして御使いたちの幻を見たが、御使いたちがイエスは生きておられると告げた、と言うのです。
:24 それで、仲間の何人かが墓に行ってみたのですが、はたして女たちの言ったとおりで、イエスさまは見当たらなかった、というのです。」
:25 するとイエスは言われた。「ああ、愚かな人たち。預言者たちの言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち。
:26 キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光にはいるはずではなかったのですか。」
:27 それから、イエスは、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされた。
:28 彼らは目的の村に近づいたが、イエスはまだ先へ行きそうなご様子であった。
:29 それで、彼らが、「いっしょにお泊まりください。そろそろ夕刻になりますし、日もおおかた傾きましたから。」と言って無理に願ったので、イエスは彼らといっしょに泊まるために中にはいられた。
:30 彼らとともに食卓に着かれると、イエスはパンを取って祝福し、裂いて彼らに渡された。
:31 それで、彼らの目が開かれ、イエスだとわかった。するとイエスは、彼らには見えなくなった。
:32 そこでふたりは話し合った。「道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか。」


序)実は共にいる
私達にとっては、イエス様が共におられるとは思えなかったり、イエス様から離れていると思っている時でもイエス様は見守り、ちゃんと共にいて下さる。
今日はそんな話しをここから見ていきたいと思います。


1.イエス様は共に歩まれる。:15
復活されたイエス様は、前に立ちはだかって「私は復活したのだ」とかいって御自身を現されたのではなく、語り合っているところに近づいてきて一緒に歩いていかれたのです。
イエス様は私達の生活の中で、そっと近づいて共に歩んで下さっているのです。

でもこの時は弟子達はそれがイエス様だとは気付けなかったようです。
ですから、イエス様の死と復活について、イエス様に説明することになっちゃいました。
このことからもイエス様は私達と同じ目線に立って下さり、同じ目線で歩んで下さるへりくだったお方であることが伺えます。

さて、イエス様が共に歩んで下さるとき・・・

①イエス様が聖書を解き明かして下さる。:27
イエス様が共に歩んで下さる時に、聖書が解き明かされてくるということが起こるようです。

聖書を読む時に、イエス様が解き明かして下さるというのですから、素晴らしいですね。
聖書を読んで行く時に、何度も読んだ箇所であっても、新たなことが教えられることを体験されたことはないですか。
イエス様がそばにいて解き明かして下さっているのかも知れません。
ですから、聖書を読む時には、
「イエス様、今から神の言葉である、聖書を読みますが、イエス様が共にいて下さって解き明かして下さって、私がもっと神の言葉によって生かされていくように導いて下さい」とか祈ってから読むと素晴らしいですよ。

イエス様は共に歩んで聖書を解き明かして下さいます。


②心が内に燃えてくる。:32
イエス様が共に歩んで下さり、交わり、聖書を解き明かして下さる時、私達の内側が燃えてくるというのです。

心が燃えることはいいことですが、気をつける必要もあります。
例えば聖会などで一大決心をすることがあったりします。
聖会とはどんな時間(期間)でしょう。世の中のことを一時的に忘れ、イエス様だけに心を向け、イエス様と交わり、またメッセージを聞いてそれを通して聖書の解き明かしを聞いたりしていますよね。そういう時です。
そのような時はイエス様に対してここでもあったように、心が燃えるのです。
ですから、献身の決意をしたり、自分にとっても大きな決心をしたりしやすいのです。
これ自体は悪いことではありませんし、いいことです。
ですが、その時の思いは一時的な思いである場合もありますから、帰って聖会などの後、一度冷静になり、自分の決心の思いがどのようなものなのか一人でもう一度祈ってから吟味すべきだと思います。
そして、それが本物であるなら、心に燃やされた火を消さないように祈りつづけるべきですね。

でも、確かに言えることは、イエス様が共に歩み、交わって行く時に心が燃えるということです。
これ自体は素晴らしいものです。
私達が心燃やされる時、イエス様のために何かしたいという情熱になるでしょう。
私達が心燃やされる時、この素晴らしいイエス様を伝えたいという思いになるでしょう。
私達が心燃やされる時、救い主なるイエス様を知ってほしい、そして信じて救われて欲しいという願いになるでしょう。
これらは全て素晴らしいことであり、神の前に正しいことであり、わたしたちの神様からの使命でもあります。
ですから、イエス様によって心が燃やされることは素晴らしいことなのです。

イエス様が共に歩んで下さり、交わるときに心が燃えてきます。


結)イエス様は共に歩んでくださる
イエス様は共に歩んで下さるのです。感謝しましょう。
私たちは、、とにかくイエス様のところに行く、イエス様を求めることは大切です。
これは私達ができることですから、これからもそうしましょう。
でも、今日はたとえ私達がイエス様のところに行こうとしていなくても、イエス様は共に歩んで下さるということを教えられたと思います。なんと素晴らしい恵みでしょう。

皆さんはクリスチャンになってから、あるいはその前後あたりからイエス様が共におられたと思いますか?
そうじゃないんですよ。イエス様はずっと共におられる私達が気付いていないだけの時もあるのです。
ですから、わたしたちはなおのことイエス様を求めましょう。

:29で二人の弟子はさらに先に行かれる様子のイエス様をしいて引き止めました。その時イエス様はそこに留まられ、その結果弟子二人は共におられるのがイエス様であることがわかったのです。
私達と共にイエス様は歩んで下さいますが、わたしたちもまたイエス様を求めるものでありたいと思います。

最後に有名な詩を読みたいと思います。

あしあと-FootPrints-

ある夜、私は夢を見た。
わたしは、主とともに、なぎさを歩いていた。
暗い夜空に、これまでのわたしの人生が映し出された。
どの光景にも、砂の上にふたりのあしあとが残されていた。
一つはわたしのあしあと、もう一つは主のあしあとであった。

これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、
わたしは、砂の上のあしあとに目を留めた。
そこには一つのあしあとしかなかった。
わたしの人生でいちばんつらく、悲しい時だった。

このことがいつもわたしの心を乱していたので、
わたしはその悩みについて主にお尋ねした。
「主よ。わたしがあなたに従うと決心したとき、
あなたは、すべての道において、わたしとともに歩み、
わたしと語り合って下さると約束されました。
それなのに、わたしの人生のいちばんつらい時、
ひとりのあしあとしかなかったのです。
いちばんあなたを必要としたときに、
あなたが、なぜ、わたしを捨てられたのか、
わたしにはわかりません。」

主は、ささやかれた。

「わたしの大切な子よ。
わたしは、あなたを愛している。
あなたを決して捨てたりはしない。
ましてや、苦しみや試みの時に。
あしあとがひとつだったとき、
わたしはあなたを背負って歩いていた。」


訳詩:松代恵美
原詩:Margaret Fishback Powers


共に歩まれるイエス様、この主から離れないものになりたいですね。