2008/08/10

08.8.10「イエス様に近づこう」

ヘブル4:14-16
:14 さて、私たちのためには、もろもろの天を通られた偉大な大祭司である神の子イエスがおられるのですから、私たちの信仰の告白を堅く保とうではありませんか。
:15 私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。
:16 ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。

序)イエス様に近づくとき
今週はいよいよサマーカンファレンスがあります。
毎週の礼拝や、日々の主との交わりを通しても、イエス様に近づくことはできますが、特別に長い時間や期間を通して、イエス様に近づくことは、素晴らしい恵みです。
今日はそんなサマカンを前に、イエス様に近づこうと題して、分ち合いたいと思います。

順に見ていきましょう。

1.イエス様は大祭司 :14

祭司とは、神と民の間で執り成す役割をする人です。
民の罪を羊等に負わせ、その羊をほふり、そのささげものをもって、神の前に立ち、民の罪の赦しを求めて執り成す人です。
民は神の前に直接立つことはできず、祭司を通して神様にささげものをしたりしていたわけです。

今は、私たちはイエス様の十字架のあがないによって、神様と交わることができるようにされています。
まさに、イエス様が祭司となって下さっているわけです。

だから、信仰の告白を堅く保とうではないかと勧めています。

私たちの信仰の告白が虚しく終わることもなく、無駄になることもないからです。
それは、イエス様が偉大な大祭司としていてくださるからです。

先日、内閣の改造がありました。
総選挙がまたあるのかもしれません。
どちらにせよ、私たちの声が届くことはなかなかありません。
なかなか私たちの声が届かないというのが私たちの現実の生活での実感です。

でも、神様に対して、声が届くという素晴らしいことがあるのです。
だからこそ、「信仰の告白を堅く保とう」と勧められているのです。

祈ったことは既になったと信じなさいとありますが、これも信仰の告白ですね。

こんな話しがあります。
昔、ある村で雨が長い間降らないので、作物にも悪い影響が出てきて困っていました。
その村の教会では、雨が降るように、神様に祈る祈り会がもたれていました。
その日も祈り会のある日でした。
ある婦人は、その日もいつものように祈り会にいく予定でした。
家では「早く祈りが聞かれて、雨が降ってくれないかねぇ」といっていました。
そして、祈り会にいく為に、教会へいこうと家を出ようとしたときに、
子供が言いました。
「お母さん、傘は持っていかなくていいの?」
お母さんは言いました。
「何いってるんだい。こんなにいい天気なのに、雨なんて降るわけないでしょ」
すると、子供は言いました。
「でも、今から神様にお祈りするんだから、帰りは雨が降るんじゃないの?」
おかあさんは「・・・・・」

子供は神様を純粋に信じているんですね。
だから、イエス様も幼子のようにならなければ神の国に入れないとさえいわれたのでしょう。

私たちは、大祭司であるイエス様がおられるのですから、信仰の告白を辞めるものではなく、堅く保つものになりたいですね。


2.イエス様は弱さを知っておられる :15

この大祭司なるイエス様ですが、私たちの弱さを知って下さっているのです。
同じように地上での罪の誘惑の世界を歩まれて、同じような試みに合われたお方です。
しかし、私たちと決定的に違うことは、罪を犯されなかったということです。

イエス様は罪を犯されなかったからといって、私たちの弱さを見て、軽蔑されることはなさいません。
その弱さに同情して下さる、その気持ちを分かって下さる方なのです。

ダビンチコードという映画が以前ありました。
ぼくは見てませんし、原作も読んでませんから、よく知りませんが、
ダビンチが書いた絵等に暗号のようなものが仕組まれており、イエス様はマグダラのマリアとの間に子供がいて、今もその子孫が続いているというようなことが描かれているらしいですね。
キリスト教のことをよく知らない人が見れば、
「もしかしたら、そうかもしれないんだなぁ。結局、宗教の一つで、そんなもんかぁ」って思われるかも知れませんね。
これが本当なら、イエス様は罪を犯されたことになります。
はっきり言っておきましょう。
100%ありません。
イエス様は罪を犯されなかった神の子です。

でも、私たちの弱さを理解してくださる理解者でもあるのです。
素晴らしいですね。
きっとマグダラのマリアの弱さも理解し、同情されたでしょう。
だから、マリアはイエス様に従う人生をその後歩んだのだと信じます。

イエス様は、あなたの弱さもご存知で理解して下さるお方なのです。


3.イエス様に近づこう :16

ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。

私たちは弱さを持った罪人です。イエス様の十字架がなければ、神の前に立つことなど到底できないものです。
でも、イエス様はわたしたちの為に、十字架にかかり、その全ての支払いをして下さって、神様と私たちとの断たれていた関係の間に入って執り成して下さる大祭司として今もいて下さるのです。
このあわれみと恵みを受けることが赦されています。

なんという素晴らしいことでしょう。
そして、更に、あわれみと恵みを受けて、おりにかなった助けを受けることも約束されているのです。
その為に勧められているのが、「大胆に恵みの御座に近づこう」ということです。

恵みの御座とは、
祈り、礼拝、賛美等、神様と交わり、神様を思う場所がそうではないでしょうか。

「わたしは弱いもの、神様の前に出ることなんてできないもの・・・」と思い、遠ざかっていないでしょうか。

神様はもうすでにそんなことはご存知です。
あなたの罪も弱さも嘆きも悲しみも・・・。

だから、あなたも受けることができる「あわれみと恵み」を用意して下さっているのです。
それは、イエス様の十字架による救いです。
このイエス様の救いを受け入れたなら、更に受け続けるために、恵みの御座に近づくものになりたいですね。