2008/10/19

08.10.19「イエス様にとどまる者」

ヨハネ 15:1-11
:1 わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。
:2 わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。
:3 あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよいのです。
:4 わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。
:5 わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。
:6 だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます。
:7 あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。
:8 あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。
:9 父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。
:10 もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。
:11 わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです。

序)実を結ぶ枝になる。
いよいよ秋らしくなってきて、多くの実を結ぶ季節になってきました。
柿や栗、松茸・・は食べられそうにないですが(笑)

実を結ぶことは本当にすばらしい祝福をまわりにも与えます。

私たちは枝だと書いてあります。
そして、実を結ばない枝は取り除かれ、実を結ぶものは刈り込みをされるとあります。
同じ枝なら、実を結ぶ枝になりたいですね。

実を結ぶ枝になるために聖書から見ていきましょう。


1.木にとどまらないと・・・

枝がぶどうの木にとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。
枝だけでは枯れてしまいます。

私たちが実を結ぶために必要なことは、
「ぶどうの木であるイエス様にとどまる」

とどまっていないとどうなるのでしょう。

①実を結ぶことができない。
枝だけでは実を結ぶことができません。
当たり前ですが、実を結ぶための栄養が送られることがないため、実を結ぶことができず、枯れてしまいます。
枝が木につながっていなければ、実を結ぶことはできないのです。

②何もすることができない。
枝だけでは何もすることができないのです。
枝が木から離れてしまってはもう何もできずに枯れてしまうだけですね。

枝が木にとどまっていないと、実を結ぶことはできず、何もすることもできず、いずれは枯れてしまい、燃やされてしまうのです。
私たちもまた、木であるイエス様にとどまっていないと、実を結ぶことはできず、何もすることができない人生を歩むことになってしまうということですね。

イエス様につながることが私たちにとってどれだけ大切なことかがわかります。


2.イエス様にとどまるとは・・・

では、イエス様にとどまるとはどうすることなのでしょうか。

①御言葉にとどまる。:7
あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。

イエス様にとどまっているなら、御言葉が私たちのうちにとどまるのです。
御言葉ににとどまるとは、御言葉を実践することではないでしょうか。

救いを得るのに、行いは不要です。
イエス様を救い主として信じて、バプテスマを受けるだけです。
そこに何ら善行などは不要です。
でも、聖書にある祝福を受けるためには御言葉を実践する必要があります。
私たちが御言葉を実践する時に、祝福の神様はわたしたちの求めるものを与えて下さるのです。

御言葉にとどまる、つまり御言葉を実践して行く時に私たちは神様によって多くの実を結び、イエス様の弟子となり、神様に栄光をお返しすることができるのです。
そして、これがイエス様にとどまるということなのです。


②神の愛の中にとどまる。:9
父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。

神様の愛の中にとどまるとは、戒めを守るということです。
「わたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛の中にとどまるのです」といわれていますから。

これは、戒めをすべて守ることが前提なのではないのです。
戒めを守るなら、あなたを愛しましょうといわれているのではありません。

まず、イエス様がわたしたちを愛して下さったのです。
だから、この愛の中にとどまりなさいといわれています。
神を愛する時、戒めにある「わたしのほかに、他の神々があってはならない」を破って他に神をつくるでしょうか。
神の愛で人を愛する時、戒めにある「盗んではならない」を破るでしょうか。
全ての戒めは、神を愛し、自分を愛し、人を愛する時に全うされるのです。
ですから、神の愛の中にとどまることは、同時に戒めを守ることであるのです。

私たちは神様に愛され、神と人とを愛し、戒めを守り、神の愛の中にとどまるものになりたいですね。


イエス様にとどまるとは、御言葉を実践し、神の愛の中で戒めを守ること。

イエス様にとどまる時に、多くの実を結び、さらに刈り入れされて成長し、成熟していくのです。
そして、神様の栄光を見ることができるでしょう。


結)喜びが満たされる。
ぶどうの木であるイエス様に、枝である私たちがつながる時にすばらしい祝福があることがわかりました。
そして、それらは、イエス様の喜びがわたしたちのうちにあり、私たちの喜びが満たされるためです。

イエス様によって、喜びが満たされるような素晴らしいこの話しをイエス様から聞けることを感謝し、喜びを満たしていただきましょう。
「イエス様にとどまる者」でありたいですね。