09.3.8「仕える、ということ」
ルカ10:38-42
:38さて、彼らが旅を続けているうち、イエスがある村にはいられると、マルタという女が喜んで家にお迎えした。
:39彼女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていた。
:40ところが、マルタは、いろいろともてなしのために気が落ち着かず、みもとに来て言った。「主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをするように、妹におっしゃってください。」
:41主は答えて言われた。「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。
:42しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」
序)先月、5つのパンと2匹の魚で5000人のお腹が満たされたお話の中で、その為に仕えた弟子達はその神様の祝福の一部始終を見、更に弟子達も祝福に預かったということを教えられましたが、今日は、この「イエス様に仕える」ということについて、マルタとマリヤの話しから教えられたいと思います。
ここで、マルタとマリヤは二人とも、イエス様の前に仕えたわけですが、そこに微妙な違いがありました。
そして、イエス様はマリヤの方がよいものを選んだといわれました。
さて、その違いを見て、わたしたちはイエス様が言われるよいものを選びたいと思います。
1.マルタ・・・イエス様の為に。
マルタは、イエス様を喜んで家にお迎えしました。そして、そこでくつろいでもらって、食事を用意したり、いろいろとおもてなしをしようと思って、忙しく動き回っていました。
これはマルタが「イエス様に喜んでもらいたい、イエス様の為に何かしたい」と思っていたのでしょうが、一方マリヤはイエス様の足下に座って、マルタの手伝いを何もしません。
さすがにマルタもイライラしてきて、とうとうイエス様に言ってしまいます。
「主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをするように、妹におっしゃってください。」
さて、マルタは誰の為に誰を喜ばせたいと思って、おもてなしの準備をしていたのでしょうか。
イエス様の為です。でも、ここで、イエス様にこんなことをいってしまいました。普通お客さんにそんなこと言わないですが。。。
イエス様の為に・・・と思ってやっていると、時にこんなつまずきを体験することがあるのです。
イエス様の為にやっているのに、何もしない人を見ると裁いてしまったり、「主よ、なぜあの人はイエス様の為になにもせずにいるのにあんなに祝福されて、私はこんな大変な思いをしているのに、これだけの祝福なのですか?」と言ってしまったりすることと同じようですね。
「イエス様の為に仕える」ことは素晴らしいことです。
でも、その時には、どうしても人と比較したり、その成果を気にしてしまって、時には不平不満の原因にもなってしまうのです。
イエス様の為に仕えたなら、仕えられたことを喜ぶことができるなら素晴らしいですが、なかなか弱い私たちは難しく感じてしまうことも度々です。
さて、一方のマリヤはどうだったのでしょうか。
2.マリヤ・・・イエス様に。
マリヤは、イエス様の足下に座って、イエス様の語られるみ言葉に聞き入っていました。
これは、イエス様に仕える姿なのではないかと思うのです。
実際、マルタが不平を言った時に「マリヤはよい方を選んだ。そしてそれを彼女から取り上げてはいけない」とおっしゃった。
マリヤの方がよい方を選択したわけです。
これはどういうことなのでしょうか。
例えば、この礼拝ひとつとっても、早く来て会場を準備する人がいます。賛美の司会や奏楽、印刷物を配る人、プロジェクタ、メッセージ、祈る人、献金係、会場の片付け、CS・・・と様々な仕える人によって成り立っています。
それらを否定して、ただ、イエス様の話しを聞く・・・聖書を読んでいればそれでいい?
そうではないですよね。
先ほどの礼拝で仕えてくれている多くの人は、イエス様の為に仕えているのでしょうか?
もしそうだとしたら、つまずきの原因になるかも知れませんから気をつけましょう。
皆さんは、礼拝等で仕えてくださっていますが、これは、「イエス様に仕えている」のです。
私たちは、イエス様「の為」に仕える、よりも、イエス様に仕える、ことを選択する方がいいとイエス様はおっしゃっているのだと思います。
この違いなんです、最初に言いたかったのは。。。
牧師は教会では、イエス様のために・・と思って、信者たちを訓練しようとしているかもしれません。
それが正しいと信じて、、、。
聖書を読みましょう。祈りましょう。捧げましょう。仕えましょう。。。と。
でも、それよりも、牧師がイエス様に仕えているなら、信者はその牧師の姿を見て、
イエス様に仕えることを学ぶのではないでしょうか。
また、イエス様に仕えるように信者に仕えるとき、そのように仕えられた信徒はまた、イエス様に仕えるように互いに仕えるものに成長していくのだと信じます。
イエス様のために仕えるのではなく、イエス様に仕えるということは本当に大切なことです。
よく聞く話しですが、子供が遊んで欲しいというので、おもちゃを与えた。
ゲームを欲しがったから、買ってあげた。退屈だというので、DVDを見せておいた。
それらがすべて悪いとは思いません。
でも、その子達は、本当は親からの「愛」が欲しいのでしょう。
触れ合って遊びたいのです。
「ものより思い出」ってCMが以前ありましたが、言い当てていると思いました。
親はその子のために・・と思って、おもちゃを与え、ゲームを与え、DVDを与え、
なんでも与えてきたのかも知れません。
でも、本当に与えなければならないのは、「愛」だと思うのです。
イエス様のために何かするよりも、イエス様に仕える、イエス様を愛することの方が大切なんですね。
そして、イエス様はそうされるだけの方なのです。
なぜなら、イエス様は私たち人類を愛して、私たちが罪によって滅びることから救われるために、
十字架にかかり自らの命を捨ててくださって、愛を示してくださいました。
ローマ 5:6 私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。
:7 正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。
:8 しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。
そして、今もその愛は変わらずに私たちに注がれているのです。
すべての人が救われて欲しい・・と。
結)私たちは、同じ仕えるなら、
「イエス様の為に仕える」のではなく、「イエス様に仕える」ものになりたいですね。
あなたのために、命を捨てるほど愛してくださったイエス様に仕えるものに。。。
イエス様が「よい方を選んだ」と言われたマリヤの選択。。。「イエス様に」仕える選択をこれからもしていきたいと願います。
そして、その選択をするなら幸いです。
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