09.2.8「イエス様の前に」
ヨハネ8:1-11
:1 イエスはオリーブ山に行かれた。
:2 そして、朝早く、イエスはもう一度宮にはいられた。民衆はみな、みもとに寄って来た。イエスはすわって、彼らに教え始められた。
:3 すると、律法学者とパリサイ人が、姦淫の場で捕えられたひとりの女を連れて来て、真中に置いてから、
:4 イエスに言った。「先生。この女は姦淫の現場でつかまえられたのです。
:5 モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするように命じています。ところで、あなたは何と言われますか。」
:6 彼らはイエスをためしてこう言ったのである。それは、イエスを告発する理由を得るためであった。
しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に書いておられた。
:7 けれども、彼らが問い続けてやめなかったので、イエスは身を起こして言われた。
「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」
:8 そしてイエスは、もう一度身をかがめて、地面に書かれた。
:9 彼らはそれを聞くと、年長者たちから始めて、ひとりひとり出て行き、イエスがひとり残された。女はそのままそこにいた。
:10 イエスは身を起こして、その女に言われた。
「婦人よ。あの人たちは今どこにいますか。あなたを罪に定める者はなかったのですか。」
:11 彼女は言った。「だれもいません。」そこで、イエスは言われた。
「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」
序)映画パッションのワンシーンにこの箇所がありました。
地面に指で何かを書いておられるイエス様
姦淫の罪を犯したという女
そしてその女を連れてきた人達
人々の手から落ちていく石
そして去っていく人々・・・
今日はそんな聖書の箇所から、そのそれぞれの立場から教えられていきましょう。
1.裁こうとする人
律法学者とパリサイ人は、姦淫の場で捕えられた女を連れてきて、イエス様を試すために裁こうとした。
私たちは、つい人を裁いてしまったり、裁こうとしてしまったりすることはありませんか。
学校の授業参観なんかで、学校に行く事がありますが、
その際、学校には駐車スペースがないので、自転車等で来るようにと事前に言われています。
ところが、当日は、車がどんどん入ってくるのです。
近くの市役所やお店の駐車場に停めてくる人もいますが、学校に乗ってきて、運動場に停める人がかなりいるのです。
通知がされているにも関わらず、このような状態です。
うちは、近くの知り合いのところに車を停めさせてもらうか、自転車で行くようにしていますが、このような光景を見るとなんとも気分が悪くなるものです。
そんな時、ついつい、腹が立って、
「親の言う事を聞けとか、先生の言う事を聞けとか子供に言う前に、自分が学校から言われてることをちゃんと聞けよ。自分が言う事きかへんのに、子供が言う事きくわけないやろ。」とか、
心の中で、裁いている自分がいるのです。
でも、そんな時はいつも、何とも言えない後悔にも似た気持ちになって、
「あー、神様、これらの人を哀れんで下さい。神様の救いに預かることができますように。って祈るべきなんですよね」って思うのです。
いかに自分が人を裁こうとしやすいものかを自覚しています。
ここでも、多くの人がいましたが、イエス様に
「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」 と言われて、
年長者からはじめて、全員が裁くことができずに去っていきました。
私も先程のような時、他にもいろんな時にその人を裁こうとしている自分を見つけますが、
その時はいつも、
「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」
を思い出し、自分も罪人でイエス様によって許されてるから今があるということを思い出して、悔改めるのです。
まあ、しょっちゅうです^^;
私たちは裁こうとする人になりたいですか?
できれば、なりたくないですよね。
「人のふりみて、我がふりなおせ」とはよくいったものです。
自分の罪は見えずに、人のアラや悪いところばかりに目が行ってしまいやすい私たちをイエス様はそうはならないように、このような出来事を聖書に残して下さっているのだと信じます。
マタイ7には、
「さばいてはいけません。さばかれないためです。
あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。
また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。
兄弟に向かって、『あなたの目のちりを取らせてください。』などとどうして言うのですか。見なさい、自分の目には梁があるではありませんか。
偽善者よ。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます。」
私たちは裁くものにはならず、そのようなことを思った時は、自分を見直す時として用いるならば、主は更に成長させて下さるでしょう。
2.罪を犯した人
姦淫の場で捕えられた女は、確かに罪を犯した人でした。
でも、最後は許されました。
私たちは罪を犯していないのでしょうか。
いえ、先程も話しましたが、同じ罪を犯してはいないとしても、罪を犯していない人ではないはずです。
義人は一人もいません。
私たちは皆、神様の前には罪人の一人に過ぎません。
罪人はどうすべきでしょうか。
ここで、この女は無理矢理ではありましたが、イエス様の前に出てくることになりました。
ここにヒントがありますね。
罪人は、イエス様の前に出るのです。
私たちもイエス様の前に出て、罪を告白し、悔改めた時にイエス様に赦されました。
罪人は、イエス様の前に出るのです。
私たちは既に罪赦された罪人ですが、それでも、罪を犯してしまうこともあるかも知れません。
そんな時はどうするのでしょう。
イエス様の前に出るのです。そして悔改めるのです。
女も自らではなかったですが、結果的にイエス様の前に出ました。
もし、この女が捕えられずに罪を犯してもそのままでいたなら、また罪を犯してしまったかも知れません。
あるいは、罪を犯し続けたかも知れません。
でも、イエス様の前に出ることによって、その罪の赦しを得ることができました。
そして、きっとその後は罪を犯さないような人生を歩む努力をしたと信じます。
私たちにとっては罪を犯していない時の方がイエス様の前に出やすいですよね。
でも、罪を犯してしまった時、イエス様の前に出ることを困難に感じることもあるでしょう。
だからこそ、そんなときであるからこそ、イエス様の前に出なくてはならないのです。
罪を赦してもらうために。。。
勿論、その為には、イエス様に罪を告白し言い表し、悔改めなければなりません。
でも、そうするなら、
1ヨハネ 1:9
もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。
罪を犯してしまった時、そうでない時もですが、イエス様の前に出るものになりましょう。
3.罪を裁かれない方
イエス様は、裁くことができない方ではありませんでした。
でも、裁かれなかった。
「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」
女はきっとイエス様の愛に触れたことでしょう。
もし、イエス様の前に出ることがなかったら、罪を犯し続けていたかも知れない女でしたが、
無理矢理ではあったけれども、イエス様の前にでることによって、
罪が赦され、イエス様の愛に触れ、この後の人生で同じ罪を二度と犯さないようになったと信じます。
罪を裁かれない方、イエス様は、罪を赦すことができるお方です。
なぜなら、イエス様は私たちの罪の為に、その命を代償としてささげて、
罪の代価を支払って下さった方だからです。
私たちがイエス様の前に出て、悔改める時、許されるのはなぜでしょうか。
それは、イエス様が命を捨てて下さったから、
イエス様が私たちを愛して、私たちの為に、罪を負って下さり、その罰を受けて下さったから、
そのことを知る時に、同じ罪を二度と犯さないようにその人生を歩もうとするのではないでしょうか。
でも、確かに人間には弱さがあります。
それでもまた同じ罪を犯すこともあるかもしれない。
それはまだまだ自分の力で歩もうとしているからです。
そんな時こそ、更にイエス様の前に出て、イエス様により頼んで、
イエス様を自分の力として、歩むように導いておられる時だと信じます。
結)イエス様の前に出て・・
罪を犯した女は、無理矢理ではあったが、イエス様の前に出た。
そのことによって、結果、罪の赦しを受ける事ができました。
また、その女を裁くために連れてきた人々も、そのことを通して、イエス様に前に出てきました。
その結果、自らの罪を自覚し、そこから去っていった。
それらの人々は、イエス様の前に出た事によって罪を自覚したのです。
イエス様の前に出るときに、イエス様に出会うのです。イエス様を経験するチャンスなのです。
私たちは、人を裁くことができるようなものではありません。罪人です。
でも、イエス様の前に出る時に、その罪は赦され、イエス様の愛に触れ、
イエス様と共に、歩む人生を送ることができるのです。
イエス様を第一とし、イエス様を今日も見上げて、イエス様の前に今日も出て、
歩み続ける人は幸いです。
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