2009/03/22

09.3.22「義と認められて生きる人生」

ガラテヤ2:15-21
:15 私たちは、生まれながらのユダヤ人であって、異邦人のような罪人ではありません。
:16 しかし、人は律法の行ないによっては義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる、ということを知ったからこそ、私たちもキリスト・イエスを信じたのです。これは、律法の行ないによってではなく、キリストを信じる信仰によって義と認められるためです。なぜなら、律法の行ないによって義と認められる者は、ひとりもいないからです。
:17 しかし、もし私たちが、キリストにあって義と認められることを求めながら、私たち自身も罪人であることがわかるのなら、キリストは罪の助成者なのでしょうか。そんなことは絶対にありえないことです。
:18 けれども、もし私が前に打ちこわしたものをもう一度建てるなら、私は自分自身を違反者にしてしまうのです。
:19 しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。
:20 私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。
:21 私は神の恵みを無にはしません。もし義が律法によって得られるとしたら、それこそキリストの死は無意味です。」


序)義と認められる
義と認められるとは、
罪ある人間が正しい人として、罪がないもののような人として、神に認められることを言います。

もしある人に身寄りがなく、唯一、配偶者と子供が一人いたとします。
あなたが車で走っていて、しかも周りのことを考えずに暴走しているときに、その配偶者と子供をはねて殺害したとします。そして、あなたがその配偶者と子供をなくした人の前に連れて行かれたとき、この人があなたになんの罪も問わず、正しい人として、罪のないものとして、あなたを認めたとしたら、どうでしょう。
考えられない、想像できないようなことですよね。

私達が神の前に義と認められるということは、それほどすごいことなのです。
そして、義と認められるために必要なことはたった一つです。
今日は、そのようなことについて、ともに見て行きましょう。


1.律法の行いによって

人は律法の行いによっては義と認められない。

律法の行いによっては義と認められないとのことですが、
では、律法は必要ないのか、行いは無意味なのか、といえば、それは違います。

ヨシュア 1:7-8
ただ強く、雄々しくあって、わたしのしもべモーセがあなたに命じたすべての律法を守り行なえ。これを離れて右にも左にもそれてはならない。それは、あなたが行く所ではどこででも、あなたが栄えるためである。
この律法の書を、あなたの口から離さず、昼も夜もそれを口ずさまなければならない。そのうちにしるされているすべてのことを守り行なうためである。そうすれば、あなたのすることで繁栄し、また栄えることができるからである。

律法の行いによって、義と認められることはありませんが、それによって、繁栄し、栄える事が約束されています。
逆に、「律法の書に書いてある、すべてのことを堅く守って実行しなければ、だれでもみな、のろわれる。」(申命記27:26)とあります。
律法を行う事で、義と認められる事はありませんが、のろわれず、繁栄が約束されているのです。

また、

1コリント6:9-10
あなたがたは、正しくない者は神の国を相続できないことを、知らないのですか。だまされてはいけません。不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、盗む者、貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者はみな、神の国を相続することができません。

とあるように、律法を行わないならは、神の国を相続することができません。
神の国を相続するという素晴らしい祝福にあずかるためには、律法を行うことが必要なのです。

でも、注意しなければいけないのは、律法を行ったからといって、義と認められることはないのです。それらは、祝福のためであり、繁栄の約束のために過ぎないのです。
しかし、私達は義と認められる為ではなくても、神につくものとして、律法を行う事に努めることは、神の前に正しい事なのです。


律法の行いによって義と認められませんが、神の祝福や繁栄を受ける為に、律法を軽んじないものとなりたいですね。


では、義と認められるためには、、


2.キリストを信じる信仰によって

キリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる。

私達が神の前に、正しい人、罪がない人のように認められるには、
「キリスト・イエスを信じる信仰」が必要なのです。

ここに私達の大きな希望があります。
もし、律法によって義が認められるとすれば、誰一人として義と認められる人はいないでしょう。
ローマ3:10にも、「義人はいない。ひとりもいない。」とあります。
律法によっては、誰も義と認められない中で、誰もが義と認められる道が備えられているのです。
なんと素晴らしい事でしょうか。
それが、「キリスト信じる信仰による義認」なのです。

これが私達が受けて、また伝えている「救い」であり福音の根拠です。

キリストを信じる信仰は、全ての人に開かれています。
行いは、人によってはできること、できないこともあるでしょう。
しかし、この信仰は誰もが持つことができます。

そして、このことが実現する為に大きな犠牲が払われているのです。
イエスキリストが十字架にかかって命を捨ててくださり、信じる全ての人が義と認められるために、その身代わりとなって、受けるべき苦しみ、痛み、悲しみ、死を受けてくださったのです。
その犠牲によって、キリストを信じる信仰によって義と認められるという素晴らしい恵みが私達に用意されました。

このようにして、義と認められた人は、どのように生きていくのでしょう。

結)キリストと共に生きる。

イエス様の大きな犠牲によって、神の前に義と認められる道が備えられたことを知るとき、そして、その恵みに預かるとき、私達はもはや自分のためではなく、キリストと共に生きることができるのではないでしょうか。
パウロはこのようにいいました。
:19 しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。
:20 私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。
:21 私は神の恵みを無にはしません。もし義が律法によって得られるとしたら、それこそキリストの死は無意味です。

私達は、律法によって義と認められません。キリストを信じる信仰によって義と認められるのです。この神の恵みを受ける事が、神の恵みを無にしない生き方ではないでしょうか。
もし、律法によって義を得ようとするなら、それはキリストの死を無意味にしてしまうのです。

私達がキリストを信じる信仰によって、義と認められる事を受け止め、キリストと共に生きるとき、キリストの死は私達の中に生きて、キリストが私達のうちに生きておられるといえる人生を歩むことができるのだと信じます。
この素晴らしい人生、キリストと共に生きる人生を歩みたいですね。