2007/02/25

07.2.25「愛が豊かになるなら」

ピリピ1:9-11
:9 私は祈っています。あなたがたの愛が真の知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かになり、
:10 あなたがたが、真にすぐれたものを見分けることができるようになりますように。またあなたがたが、キリストの日には純真で非難されるところがなく、
:11 イエス・キリストによって与えられる義の実に満たされている者となり、神の御栄えと誉れが現わされますように。

(口語訳)
:9 わたしはこう祈る。あなたがたの愛が、深い知識において、するどい感覚において、いよいよ増し加わり、:10 それによって、あなたがたが、何が重要であるかを判別することができ、キリストの日に備えて、純真で責められるところのないものとなり、:11 イエス・キリストによる義の実に満たされて、神の栄光とほまれとをあらわすに至るように。


序)パウロの祈り
「あなたがたの愛が豊かになり・・・」
パウロは獄中にいながらにして、ピリピの人たちに対して、このように祈っているといいました。
それは、あなたがたの愛がいよいよ豊かになるための祈りでした。
私たちもここから、私たちの愛がますます豊かになるためのポイントを二つ見ていきましょう。



1.真の知識

「神を知る続けること」

真の知識によって、愛が豊かになるのです。

真の知識とはなんでしょう。
これは、御言葉をさしていると思います。

世の知識は、人を誇らせ(1コリント 8:1)、いずれすたれて(1コリント 13:8)いきます。
しかし、真の知識、すなわち神を知る知識、キリストを知る知識(ピリピ 3:8)は、真に価値があり、愛が豊かに増し加わるのです。

聖書は、神様からのラブレターとも言われるほど、神の愛について書かれています。
聖書を読むとき、神が私たちをいかに愛しておられるのかをみることができます。

天地創造の時、まず神は天と地を作られ、あらゆる生き物、植物等を作られ、全てを備えた上で、最後に、人を作られました。
しかも、神に似せて創られたのです。
神が人をいかに愛しておられるのかがわかります。
また、最初の人であるアダムとエバが罪を犯したときにも、動物の皮で着物を作り、与えられました。
ノアの時代には、地上が罪が満ちているような状態になりましたが、人を完全に滅ぼすことをせず、ノアの家族を選び、生かされてその子孫が現在の私たちであることを見ても、神の愛を知ることができます。

また、イエス様のことを読むとき、そこにも神の愛を見ることができます。
病んでいる人を癒し、悪霊に取り付かれている人を解放し、慰めが必要な人に本当の慰めを与えられ、あちらこちらで神様の愛を見ることができます。

そうです。
私たちが見ようと思えば、見ることができるようにしてくださっているのです。
私たちはそれを見るか見ないか、、、これは私たち自身にかかっています。

私たちは、真の知識によって、ますます愛が豊かになるために、聖書から神様の愛を見て、知っていきたい。



2.あらゆる識別力

「イエス様の判断力」

あらゆる識別力によって、愛が豊かになるのです。

あらゆることについて、識別できる能力を身に着けることで愛が豊かになるというのです。
これは、「イエス様なら、こんなときどうされるか」ということを繰り返し、経験していくことで、身についてくるのではないでしょうか。

福音書を見ると、イエス様がどんなときにどのように行動されたかをたくさん見ることができます。
大きな意味では、「真の知識、神を知る」ことでもあるのですが、実際にイエス様の行動を知って、自分の生活、人生の中で、イエス様ならどうされるかということを識別して行動することで、あらゆる識別力が養われるのではないかと思います。

安息日に癒しをされたこと、罪人といわれている人の家に入って食事をされたこと、ザアカイの家に泊まられたこと、サマリアの女に話しかけられたこと、、、
イエス様は、どうされたかを見ていくときに、イエス様ならどうされるかを祈りつつ生活することにより、識別力を養うことができるのではないでしょうか。

実際に、生活の中で、
「こんなときどうする?」って場面は多々あると思います。
そんなときに、「オレなら・・・」ではなく、「イエス様ならどうされるだろう・・」という視点で判断していくなら、それは神様の喜ばれるところとなるでしょう。

愛がますます豊かになるためにも、あらゆる識別力を身につけたい。


結)神の栄光とほまれとをあらわすに至る
私たちが真の知識とあらゆる識別力によって、私たちの愛が豊かになることによって、

・何が重要であるかを判別することができるようになる。
・キリストの日に純真で攻められるところのないものになる。
・イエスキリストにより義の実に満たされる。

そして、神の栄光と誉れとをあらわすようになるのです。

こんなにも素晴らしい祝福に預かることができるのです。
勿論、まだまだかもしれませんが、今できる一歩を、今日できる一歩を、今週できる一歩を踏み出す人は幸いです。

2007/02/18

07.2.18「主を羊飼いとする幸い」

詩篇231篇
:1 主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。
:2 主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。
:3 主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。
:4 たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。
あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。
:5 私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。
私の杯は、あふれています。
:6 まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。
私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。

序)幸いな人
前回、詩篇1篇から幸いな人がどんな人なのかをみました。
今回は、詩篇23篇にも書いてある幸いな人をみていきましょう。
6節に「まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。」とあります。
生きている限り、いつくしみと恵みが追ってくるというのです。自分が追い求めるのではなく、追っかけてくるというのです。幸いな人といえますよね。こんな人生を歩みたいですね。
ですから、23篇にも幸いな人についての内容が書かれてあるとわかります。
さて、こんな幸いな人、幸いな人生を歩むためのポイントを二つ見ていきましょう。

1.主を私の羊飼いとする。

1節に「主は私の羊飼い」とあります。
<主が>わたしの羊飼いというのとはちょっと違います。
<主は>わたしの羊飼い・・・です。
例えば、先生とか師と呼ばれるような人がいますが、これらは、周りの人が一般的にそう呼んでいる場合や、自分から言っている場合、ある特定の人が呼んでいる場合等があります。
小中学校の先生(教師)などは、新学期になると、「今日から、みなさんの担任の先生になりました、○○です」というように、自分から生徒に対して先生であることを言います。別にこれが悪いとかいう意味ではないので、誤解のないように(^^)
ところが、大学等になると、「あの先生・教授の授業が受けたいから」といって、授業を受けに行ったり、、、
あのお医者さんに診てもらいたいからということで、その医者を指名して診察を受けに行ったり、
板前、シェフなど料理の世界でも弟子入りして自らその人を「師匠」と呼んだり、、、
落語や芸術の世界などでは、弟子入りして、自らその人を「師(師匠)」と呼んだりします。

先生とか師と呼ぶ場合、自発的に「先生」と呼ぶ場合と、そうでない場合があることがわかりますが、わたしたちはイエス様に対してどうでしょうか。

ここでの「主は私の羊飼い」という表現は、イエス様の方から「わたしがあなたの羊飼いですよ」と言われているのではなく、自分から「イエス様は私の羊飼いです」と告白し、弟子入りするような感覚です。

さて、みなさんはイエス様に飼われている羊だと思ってませんか?
イエス様はそんなことはなさいません。私たちが「イエス様こそ、私の羊飼いです」と告白する時に、イエス様は私たちの羊飼いとなって下さるのです。

では、イエス様を私たちの羊飼いとした人は、どうなるのでしょう。

:1私は、乏しいことがありません。
①乏しいことがない。
リビングバイブルでは、「必要なものはみな与えて下さいます」とあります。
イエス様は私たちの必要を全てご存知です。
その上で私たちに必要なものは全て与えて下さいます。
ですから、マタイ6:33では、
まず神の国とその義とを求めなさい。そうすればこれらのものは全てそえて与えられるであろう。
といわれています。

:2主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。
②安息と養いが与えられる。
家畜のようにエサを食べさせ、肥え太らせるために養われるのではなく、
「緑の牧場に伏させ」とあるように牧草の豊かな牧場でゆっくりと寝転がって、そこで憩い、安息を得させて下さり、また流れの緩やかな水のほとりに連れていって、そこで水を飲んだり、あるいは水浴びをしてきれいにして下さるのかも知れません。
本当にゆっくりと休んでリラックスさせて下さることがわかります。

:3主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。
③回復させ、導かれる。
このようにゆっくりと休ませ下さり、さらにはその魂を生き返らせて下さる。
つまり、死んでいた魂をも もう一度行きかえらせてくださるのです。
そして、御名のために・・・イエス様のための働きができるように導き助けて下さるのです。
イエス様のための働きとは、別に牧師になるとか宣教師になって海外に行くとかいうことだけじゃなくて、普段の生活の中でイエス様と共に歩むときに、その人にイエス様が計画されている最高の働きができるようにして下さるということです。その導きをイエス様が与えて下さるのです。

:4たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。
④わざわいを恐れず、慰めが与えられる。
たとえ、死の暗い谷間を歩くことがあっても、恐れない。それは、イエスさまが共にいて守って下さるからです。なんと素晴らしい守りでしょう。危険な道を歩む時に、イエス様のむちと杖で導いて下さるから、そのむちと杖に私にとっては危険から守ってくれる慰めとなるんです。

:5私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。
⑤完全な勝利の中で祝福に満たされる。
敵の前で食事と整えるというのは、なんという余裕。完全な勝利です。そして、頭に油を、つまり祝福を注いで下さるのです。そしてその杯はあふれている。素晴らしい満ち溢れた祝福が私たちに注がれるのです。なんという圧倒的な勝利であり、祝福でしょうか。

:6まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。
⑥生涯いつくしみと恵みに追われる人生となります。
そして、私たちの生涯、死ぬまで、いつくしみと恵みが追ってくる人生。追い続ける人生ではなく、恵みが追ってくるのです。なんという幸いでしょう。

主を自分の羊飼いとする人にこんなに素晴らしい人生が用意されているのです。
主を私の羊飼いとしたいと願われますか。それは本当に幸いな人です。


2.いつまでも主の家に住まう。

最後に「私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。」とあります。
イエス様を私の羊飼いとする時に、イエス様のそばでイエス様と共に歩む人生を送るときにこんなに素晴らしい人生となるなら、わたしたちはどうしたいと思うでしょう。
素直に、「いつまでもそうしていたい」と思うのは自然なことでしょう。ですから、このダビデの歌も最後にその言葉でしめられているのかも知れません。

主を羊飼いとし、その家に生涯住み続ける。そんな人生を歩みたいですね。
今日、主を私の羊飼いと告白する人は幸いです。そして、いつまでも主の家に住まう人は幸いです。

2007/02/12

07.2.11「幸いな人として」

詩篇 1:1-:3
:1 幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人。
:2 まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。
:3 その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。

序)幸いな人とは・・
今、野球のキャンプの時期ですが、よく目にするニュースが楽天のT中投手の話題です。大物ルーキーということで注目されているという点もあるのでしょうが、実際にN村監督も「一級品」とベタボメするスライダー等、実力も備わっているようですから、すごいです。このT中投手といえば、夏の甲子園で、S藤投手と投げ合ったということで、有名ですが、S藤投手はプロには行かず大学への進学を選択しました。T中投手は、どこからの指名でもプロに行くと決めていました。中には意中の球団からの指名じゃないということで、涙する人もいたり、中にはそのためにプロには進まない決断をした選手もいました。プロならどこでも、まずは大学へ、意中の球団以外は社会人・・・といったいろんな選択があります。どれが幸いかはその人が判断することでしょう。
そういう意味では、幸いというのは、人それぞれの感じ方によるともいえますね。

あなたにとっての「幸い」とはどうでしょう?
今日、お読みした箇所は、神様が「幸い」とおっしゃっている箇所です。
神様が幸いとおっしゃることとはどんなことなのか、一緒に見て行きましょう。

1.幸いな人とは:1

「悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座につかなかった、その人。」

これは言葉通りのことをいえば、悪者の計画に乗せられて共謀するようなことをしない、とか、罪を犯す人生を歩まない、とか、人の悪口を言ってばかにしたり笑ったりするようなことをしない、といったことです。
現実的には、銀行強盗を企む人に「一緒にやらないか」と誘われてその計画に乗るような人はいないでしょう。また、自ら罪とわかっていて、その道を歩もうとする人もいないでしょう。
以前、新聞に泥棒を続けてそのお金で豪邸まで建てていたという人が捕まった・・・という記事を読んだことがありましたが、罪人の道を歩んだ一つの例かも知れません。
でも、罪人というのは何も、悪いことをするという意味だけではありません。
まことの神様から背を向けて歩むことが「罪」なのです。ですから、神を信じない道に立つことをも意味しているといえるでしょう。ですから、神様に心を向けて歩む人は幸いですね。

また、人をばかにして笑ったり、悪口を言ったりするような場に遭遇することもあると思いますが、そのようなところにも参加しないというのが幸いな人だと言っています。ついつい腹が立つことがあったりすると、悪口を言ってしまったり、言っている人と一緒になって同調したりという弱さはありますが、そうしない人を幸いな人だと言っているのです。

私たちは、目に見える出来事や人にも注意する必要はありますが、その背後に働く悪の力に対しても目を見張って、悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かない人になりたいですね。

さて、そういう人は「幸いな人」だといわれているわけですが、そうは言っても、自分の力でこれを実行することは困難を覚えることも多々あるでしょう。実はそういう人である理由があるのです。
それが・・・


2.幸いな人となれるには:2

「まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。」

もし、先ほどのようなことを自分の力でやろうと思うなら、大変なことでしょう。おそらく自分の弱さに失望することになるかもしれません。しかし、
幸いな人は、そうなれる理由があります。それが、ここです。
その人は、主の教えを喜びとします。聖書の言葉を喜びとするのです。それが自分にとって、受け入れがたいことであっても、喜びとする人は幸いな人です。そして、昼も夜もその教えを口ずさむ、とあります。聖書の言葉を喜びとして受け入れ、いつも思い巡らし、口ずさんでいるなら、それに反する思いが自分に来た時に、気付きが与えられて、祈ることができるでしょう。
このように、神の言葉、聖書の言葉が幸いな人にとって、力となるのです。

わたしたちは完全には程遠いものですが、主の教えを喜びとし、昼も夜もその教えを口ずさむものになりたいですね。そして神様は聖霊として、私たちと共にいて助けて下さるのですから、ますますイエス様を求めていきたいと思います。

では、そのような幸いな人はどうなるのでしょう。


3.幸いな人の道には:3

「その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。」

素晴らしい祝福です。水路のそばに植わった木は、その水路から十分な水分をとり、栄養をとり、成長します。そして、季節がくると実が自然となり、その葉は枯れることもありません。そんな人生を歩むことができるという約束です。
私たちが主の教えを喜びとし、いつもその教えを思い、実践していく、つまり、悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざけるものの座に着かないなら、絶えず必要に満たされ、何か特別なことを何もしなくても、時が来ると自然と実を結びます。そして、何もしても栄えるのです。

アブラハムは、神様の祝福がいつもありました。だから、何をしても栄えました。そんな人生が私たちにも用意されています。

しかし、このことは、今の私たちにはなかなか理解できないかもしれません。
「今、なかなかうまくいかないことがある。これで本当に幸いな人生なんだろうか・・」
もし、そのように感じるなら、理由は2つのうちどちらかだと思います。
1つは、主の教えを喜びとせず、その教えを思わず、口ずさまず、実践していないから。。
もうひとつは、そのようにしているが、今はまだわからないだけ。。
人生の終わりに、振り返ったときに、「歩んでいる最中は気づかないことが多かったけど、本当に幸いな人生だった。」とわかるに違いないと信じます。
ですから、今は、イエス様に目をむけ、イエス様を目指して、イエス様と共に歩む人となるなら、本当に幸いですね。
今日、幸いな人としての一歩を踏み出す人は幸いです。

2007/02/04

07.2.4「明るく輝くなら」

ルカ11:33-36
:33だれも、あかりをつけてから、それを穴倉や、枡の下に置く者はいません。燭台の上に置きます。入って来る人々に、その光が見えるためです。
:34からだのあかりは、あなたの目です。目が健全なら、あなたの全身も明るいが、しかし、目が悪いと、からだも暗くなります。
:35だから、あなたのうちの光が、暗やみにならないように、気をつけなさい。
:36もし、あなたの全身が明るくて何の暗い部分もないなら、その全身はちょうどあかりが輝いて、あなたを照らすときのように明るく輝きます。」


序)あかり、光は大切なもの

以前、旅行に行ったときのことです。
寝る前に、カーテンをひきました。
かなり立派なカーテンだったと記憶しています。
次の朝、目覚ましで目を覚ますとまだ真っ暗。。。
まだ朝じゃないのかと思いましたが、そんなはずはありません。
そう、カーテンが分厚く遮光カーテンだったので、光が入って来なかったのです。

家の中に明かりが入ってくるのは、窓からです。窓が光を遮るようなものに覆われていたらその部屋は暗くなります。

光は本当に大切ですよね。
周りを照らしてどこに何があるかわかるようにしてくれる。
それによって障害物に注意しながら歩くことができるし、ものを探すこともできる。
また、明かりがついていると、それを目印にしてそこに向かって進んでいける。
岬の灯台とかはそのものですね。
また、高い建造物の上などには、明かりが点滅していたりします。
これは空を飛ぶ飛行機などがぶつからないように注意を促すために点いています。
いろんな意味で光、明かりは本当に大切ですし、重要な役割を果しています。

イエス様もこのたとえで、あかり、光について語られています。
私たちとイエス様との関係の中で、このあかり、光についてみていきましょう。


1.からだのあかりは「目」です

からだを家とたとえれば、目は窓と言えるのではないでしょうか。
目が健全なら、全身も明るいと言われてます。

もし、家の窓が曇っていたり、子供が黒のマジックで落書きだらけになってもそのままに放置しておいて、更にそれがひどくなっていったらどうでしょう。
その家の中に入る光はどんどん暗くなっていくでしょう。
カーテンを閉めれば暗くなります。それが遮光カーテンなら真っ暗になるかもしれません。
真っ暗になった家の中を動き回ると壁にぶつかったり、机の角で打つかもしれません。
怪我をしてしまいます。

同じように私たちの内側に光が届かず暗闇になるなら、悪いものが襲ってきても気付かずに傷つけられたり、自分で闇雲に動いてしまって怪我をすることもあるかもしれません。

そうならない為にも私たちは窓をきれいにしておく必要があります。
またカーテンで光を遮らないようにすべきです。
私たちの体のあかりは目ですから、目を守って暗くならないようにする必要があります。

目とは何でしょう。詳訳聖書では、「良心」と書かれてあります。
目は見張る役割もしますよね。まさに良心の役割です。
この良心を守るためには、どうすればいいのでしょうか。

?御言葉によって、汚れを教えてもらう。照らし出してもらう。
御言葉は私たちの心を照らし出します。
聖書を通して多くの人が内側に何かしらの変化を体験しているのです。
これはまさに心を照らされているということではないでしょうか。
鏡のようなものともよく言われます。
自分ではなかなか見えないものを写し出してくれるのです。

でも、その汚れが見えたからそれだけでいいのでしょうか。

?イエス様によって、汚れを清めていただく、取り除いてもらう。
汚れたままでいいので、イエス様の前に出るのです。
イエス様は私たちのその汚れを清めて下さる方だからです。
その時に私たちの体は明るくなるでしょう。

聖書を通して、示されたり、教えられたりした時に、
「う?ん、いい話しだ。いい教えだ」と感心しているだけではなく、
イエス様の前に出ることも重要なのです。
ですから、礼拝メッセージの後の祈りも大切なんですね。
私たちは、イエス様によって目を守り、私たちのうちの光が暗闇にならないように気をつけましょう。


2.全身があかるいなら

そのように私たちの目を守り、うちのあかりが暗闇にならないようにしていくなら、全身があかるくなるでしょう。
その時、その人は輝いて、周囲をも照らす、明るくする存在になるのです。

よく「あの人は輝いている」とか「あの人の顔は輝いている」とかいいますよね。
別にその人の額が広くて、光ってるからいっているわけでもなく、紅白の○川○一や小○幸○をさしていっているわけでもありません。
これは実際に光ってるわけではなくて、そのような表現をしているに過ぎません。

モーセがシナイ山で神様と話しをし、十戒を持ち帰ったときは、顔が輝いていたと書いてありますから、神と語り合い、神と交わったなら、本当に輝くのかもしれませんね。

人は内側が明るく光りを持っているなら、外側に向かってそれが現れるんですね。

でも、窓をきれいにして外から光を入れることも大切かも知れないけど、電気を点けたらそれでいいんじゃない?という人もいるかも知れません。
同じようにイエス様という光をうちにいただいたら、内側は絶えず光をもっているんだから、もう目はどうでもいいんじゃない・・・と。

そうでしょうか?
もし、雨戸を閉め切った家の中で電気を点ければ家の中はあかるいでしょうが、
そのあかりを外にはなつことはできません。
私たちも、内側にイエス様の光を持っていたとしても、
目が悪ければその輝きを外に放つことはできません。

それにイエス様は、
「あなたのうちの光が、暗やみにならないように、・・・」といわれてます。
既に内側に光があることが前提のことばです。
光があっても、暗闇になる可能性があるから、こういう言い方をされたのではないでしょうか。
ですから、どちらにせよ、目が健全であることは大切なことです。
それは、うちの光が暗闇にならないためにも、その光を外に放つ為にも。。。


結)さて、わたしたちの目はどうでしょうか。全身は明るいでしょうか。
もし、明るくないのなら、聖書を通し、イエス様の前にでて、その原因を教えていただき清め、きれいにしていただきましょう。
もし、明るくてうちに光があるのなら、暗闇にならないように気をつけましょう。
その時に、別に光を放とうと力まなくても、光は放たれていくのです。
そう、うちの光が暗闇にならないように守っていくなら、
光は自然と外に向かって明るく輝くのです。