2008/12/28

08.12.28「忘れてはならないこと」

ルカ 17:11-19
:11 そのころイエスはエルサレムに上られる途中、サマリヤとガリラヤの境を通られた。
:12 ある村に入ると、十人のツァラアトに冒された人がイエスに出会った。彼らは遠く離れた所に立って、
:13 声を張り上げて、「イエスさま、先生。どうぞあわれんでください。」と言った。
:14 イエスはこれを見て言われた。「行きなさい。そして自分を祭司に見せなさい。」彼らは行く途中できよめられた。
:15 そのうちのひとりは、自分のいやされたことがわかると、大声で神をほめたたえながら引き返して来て、
:16 イエスの足もとにひれ伏して感謝した。彼はサマリヤ人であった。
:17 そこでイエスは言われた。「十人きよめられたのではないか。九人はどこにいるのか。
:18 神をあがめるために戻って来た者は、この外国人のほかには、だれもいないのか。」
:19 それからその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰が、あなたを直したのです。」

序)すばらしい事をなされる神様
イエス様は、私たちにすばらしい事をなさいます。
先週のクリスマスパーティーには、44名の出席者がありました。
これも神様のすばらしい御業です。
直前の一週間では、子供たちが熱を出したり、他にも兄弟姉妹で体調を崩された方もおられましたが、当日は癒され、守られて、祝福されたときとなりました。
このようにすばらしい事をなされる神様ですが、他にも今年たくさんのことを神様がなしてくださり、私たちはそれを見、体験してきたのではないでしょうか。

お読みいただいたところでも、ツァラアトに冒された人が清められるという神様のすばらしい御業が起こりました。
この箇所を通して、神様のなさるすばらしい事のため、私たちに必要なことを共に見て行きましょう。

1.イエス様に出会う。

イエス様に出会う事から、始まる。

ツァラアトに冒された人は、イエス様に出会いました。
そして、あわれみを求めて、叫んだのです。
イエス様に出会わなければ、何もスタートしません。

私たちがイエス様のすばらしい御業を見る事ができるのは、イエス様に出会ったからではないでしょうか。

ツァラアトに冒された10人もイエス様に出会い、あわれみを求めて叫び、そして、イエス様から言葉をいただきました。
その通りに行動したときに、きよめられたのです。
これらは、イエス様との出会いから始まったのです。

さて、今日はもう一つ、大切なことをお話します。


2.イエス様のもとで、感謝する。

イエス様のもとに帰ってきて、感謝をささげ、神をほめたたえる。

もう一つ、大切なことは、、
イエス様との出会いにより、すばらしいことを体験したなら、イエス様のもとに帰ってきて、感謝をささげ、神をほめたたえることです。

私たちは、イエス様に求めることは、得意かも知れません。
病を癒してください。体調を守ってください。仕事が順調に行くようにしてください。人間関係を祝福してください。経済を守ってください。必要を満たしてください。家族を友人を会社の人を救ってください。
クリスマスパーティを祝福して下さい。一人でも多くの人が来れるようにしてください。イエス様に出会う事できるようにしてください。

それらは、すばらしい事です。求めなさい、と主も言われています。
そして、主はそれに応えてくださるでしょうし、今まで応えてくださってきたでしょう。
みなさんもそれを体験してこられたのではないでしょうか。
本当にすばらしい事です。

ツァラアトに冒された10人も、イエス様に出会い、イエス様に求め、イエス様から言葉をいただき、行動しました。その時、ツァラアトがきよめられたのです。
すばらしい事です。
この10人のうちの一人は、自分がいやされたことを知り、大声で神をほめたたえながらイエス様のもとへ帰ってきて、ひれ伏して感謝したのです。
このとき、イエス様はそれを見て言われました。
「きよめられたのは、十人ではなかったか。
ほかの九人は、どこにいるのか。
神をほめたたえるために帰ってきたものは、この他国人のほかにはいないのか」

そうです。私たちも、イエス様に出会い、イエス様に求めて、お言葉をいただいたり、イエス様の御業を見たり、体験したりするときに、なすべきことがあるのです。
それが、
イエス様のもとに帰ってきて、感謝をささげること、です。

この箇所は、多くの人は、イエス様に出会って、すばらしい御業を体験しても、そのままイエス様のもとに帰らずにその後の人生を送っていくことを示唆しているのかもしれません。
10人のうちの9人がそうしたのです。

私たちは、どちらでしょうか。
イエス様のもとに帰ってきて、感謝する1割、1人でありたいですね。

先週のクリスマスパーティーに来てくださった多くの人々を導いてくださったイエス様、
パーティーを祝福してくださったイエス様、
多くの守りと癒しを見せてくださったイエス様に私たちは感謝をささげましょう。

今年、多くのすばらしい事をしてくださったイエス様、
教会の中にもしてくださったし、一人一人の中にもしてくださったイエス様、
このイエス様に感謝をささげましょう。

私たちは、感謝を忘れてはなりません。
詩篇 103:2 わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。
その出来事のスタートにあるイエス様の存在を忘れてしまってはいけないのです。


結)感謝によって、信仰は前進する。
イエス様は、「きよめられたのは、十人ではなかったか。ほかの九人は、どこにいるのか。神をほめたたえるために帰ってきたものは、この他国人のほかにはいないのか」と言われた後に、
帰ってきて、感謝をささげ、神をほめたたえた人に言われました。
「立って行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのだ」
この10人のうちの一人は、神をほめたたえる為に帰ってきて、感謝をささげたことで、その信仰によって、いやされ、きよめられただけでなく、イエス様から救いの宣言を受けたのです。
最大の奇跡を体験する事になったのです。
感謝をささげることによって、その信仰は完成するということ大げさかもしれませんが、その信仰は確実に前進し、成長するのです。
そして、さらにすばらしい神様の御業を体験するのです。

今日は今年最後の礼拝ですが、今年の感謝をイエス様にささげるものとなり、来年に向かってさらに神様のすばらしい御業を体験させていただきたいと願います。

2008/12/22

ありがとうございました

12月21日は、クリスマスパーティーをしました。
メンバーたちのご家族やご友人や会社の方、このサイトをご覧になってきてくださった方などを迎えて、楽しいひと時を過ごすことができました。
聖書から、クリスマスの本当の意味をお話しました。
イエス様を心にお迎えされた方もいらっしゃって、とても嬉しく思います。

イエス様に心から感謝と栄光をおささげして・・・

メリークリスマス!

2008/12/14

08.12.14「主を愛する心を備える」

ルカ 10:25-37
:25 すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスをためそうとして言った。「先生。何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」
:26 イエスは言われた。「律法には、何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか。」
:27 すると彼は答えて言った。「『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』また『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』とあります。」
:28 イエスは言われた。「そのとおりです。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。」
:29 しかし彼は、自分の正しさを示そうとしてイエスに言った。「では、私の隣人とは、だれのことですか。」
:30 イエスは答えて言われた。「ある人が、エルサレムからエリコへ下る道で、強盗に襲われた。強盗どもは、その人の着物をはぎとり、なぐりつけ、半殺しにして逃げて行った。
:31 たまたま、祭司がひとり、その道を下って来たが、彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。
:32 同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。
:33 ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い、
:34 近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやった。
:35 次の日、彼はデナリ二つを取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』
:36 この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。」
:37 彼は言った。「その人にあわれみをかけてやった人です。」するとイエスは言われた。「あなたも行って同じようにしなさい。」

1コリント 13:1-:13
:1 たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。
:2 また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。
:3 また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。
:4 愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。
:5 礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、
:6 不正を喜ばずに真理を喜びます。
:7 すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。
:8 愛は決して絶えることがありません。預言の賜物ならばすたれます。異言ならばやみます。知識ならばすたれます。
:9 というのは、私たちの知っているところは一部分であり、預言することも一部分だからです。
:10 完全なものが現われたら、不完全なものはすたれます。
:11 私が子どもであったときには、子どもとして話し、子どもとして考え、子どもとして論じましたが、おとなになったときには、子どものことをやめました。
:12 今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。
:13 こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。



序)主を愛する心を・・・
先週、先々週とクリスマスに向けて、私たちの心を備えましょうということで、聖書からご一緒に教えられてきました。
アブラハムとイサクの箇所から、主を信頼する心を備えました。
そして、長血の女の箇所から、主に期待する心を備えました。
私たちが主を信頼し、主に従い、主に対する信仰を持って、
不完全なものや人に期待するのではなく、完全な神であるイエス様に期待する時、
主は私たちの人生に素晴らしい祝福と計画を持って導いて下さるし、応えて下さることを見てきました。

私たちは、イエス様が何かして下さるから、祝福して下さるから、自分の目標を達成させて下さるから、主を信頼し、主に期待し、主に従うのでしょうか。
私たちの欲望の為に、主を使うようなことがあってはならないのです。
私たちの行動には、「愛」が伴っていなければなりません。
1コリント13章では、そのことが書かれてありますね。
愛がなければ、何の値打ちもなく、何の役にも立たないのです。

今日は、3つめとして「主を愛する心」を備えさせていただきましょう。


1.愛する心

愛する心は、いろんなところに向けられます。
伴侶、子、親、兄弟、友人・・・
プレゼントひとつ買ってあげるにしても、本当に喜んでもらえるものをあげたいと思いますよね。
高いものなら何でも喜ぶとかじゃなく、心のこもった贈り物と表現するように、
「心」を込めるんですね。これが愛する心であったりするわけです。
だから、相手に伝わったりするのです。

最初に読んでいただいた、サマリヤ人の話しでは、強盗に襲われた人がいましたが、
そこに通りかかった祭司もレビ人も、見て見ぬふりなのか無視していったのです。
しかし、サマリヤ人が通りがかって、この人を見て「かわいそうに」思い、手当てをし介抱したのです。
「かわいそうに」思ったというのがひとつの愛の心であると思うのです。
神様は私たちの心に愛という一言では表しきれないようないろんな感情を与えて下さっています。
かわいそうに思うのは、同情かも知れません。でもこれも愛のひとつだと思うのです。
喜んでいる人を見て、「よかった」と思う心も愛のひとつだと思います。

愛する心とは、相手の思いを察する心、相手の立場に立つ心だと言えるかもしれませんね。

サマリヤ人は、愛する心を備えていた人であったといえるのです。

人を愛する時、それはまた、見返りを期待してしまう時もあるでしょう。
恋愛している人は、相手に自分を好きになってもらいたいがために、愛を表現します。
それは、時には期待通りにはならないこともあるでしょう。

でも、神様を愛する時に、そこには、見返りは必要ありません。
それは、神様がまず私たちを愛して下さったからです。
神様は私たちが神を愛するかどうかもわからない前から、私たちを愛して下さったのです。
そして、今も愛し続けて下さっているのです。
私たちは逆に応える立場なのです。
主が私を愛して下さったから、私も主を愛し、人々を愛します、という心こそ、主を愛する心と言えると思うのです。


サマリヤ人は、イエス様を愛したのでしょうか。
強盗に襲われた人を愛したのでしょうか。
答えは、その両方です。
イエス様は、これら小さい者の一人にしたことはすなわち私にしたのである、とおっしゃいました。
地上で私たちが隣り人を愛することは、それはイエス様を愛していることでもあるのです。

ペテロはイエス様が死んで復活された後、
「私を愛するか?」と3度言われ、「主よ、私があなたを愛することはあなたがご存知です」と答え、その時のイエス様の返された言葉が、「私の羊を飼いなさい(牧しなさい)」という言葉でした。

イエス様を愛するなら、あなたに委ねられている人々(羊)を愛し、養いなさい、といわれたのです。
イエス様を愛することは、イエス様が愛しておられる人々を愛することなんですね。

イエス様を愛する心を備えたなら、それは隣り人を愛する心を備えたことなのです。


2.愛することは見えること

主を愛する心を備えたなら、隣り人を愛する心を備えたわけですが、
愛することは、何か目に見えないことではないのです。
見えることなのです。

サマリヤ人は、強盗に襲われた人を助けました。
主を愛することがそのような形としてあらわされたのです。

主を信頼する心、主に期待する心、に比べて、主を愛する心は見えにくいにようも思えますが、実はそうではなく、最も見えやすいのだと思うのです。

私たちは、行いを求められているのではありません。
サマリヤ人は善の行いの為に、助けたのではなく、その人を愛する心から助けたのです。
見えている結果は同じでも、その心が違うなら、意味は変わってくるのです。
たから、「愛がなければ、何の値打ちもない」といわれているのです。

私たちも、やらなきゃいけないから行動する くらいなら、辞めておいた方がいいかもです。
愛する心が備えられているなら、そう行動するからです。

ペテロはイエス様に3回も「愛するか」と聞かれました。
ペテロは3回目に聞かれた時は、心を痛めたと書かれてあります。
私たちは、もし、愛の心が備わってないから、無理してるから、辞めておこうとする時、
心が痛むのではないでしょうか。
愛する心が備わっていない自分に心が痛くなるのですね、きっと。
それが何度もあるなら、ペテロのように、心を痛めることでしょう。

だからこそ、イエス様に祈るのです。
そして、私たちのうちに賜っている聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれると約束されています。
愛する心が備わっていないと感じたら、祈りましょう。
愛なる神様に。。。

その繰り返しの中で、主を愛する心が備わり、人を愛する心が備わり、見える形となって現れてくると信じます。

決して、行いを求められているのではなく、愛する心を備えましょう。


結)私たちが備える心は・・・

主を信頼する心(信仰)
主に期待する心(希望)
主を愛する心 (愛)


この3つを備えるものになりたいですね。
この3つは、1コリント13:13にあるように、
こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。

私たちが備える心は、
信仰と希望と愛、なのですね。
そして、その中でもっとも優れているのが、愛なのです。

私たちの備える心は、
イエス様に対する信仰と希望と愛なのです。

今日、主を愛する心を備えていく人は幸いです。