2009/08/30

09.8.30「 新しい戒め 」

1ヨハネ 3:16-:24
:16キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。
:17世の富を持ちながら、兄弟が困っているのを見ても、あわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょう。
:18子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行ないと真実をもって愛そうではありませんか。
:19それによって、私たちは、自分が真理に属するものであることを知り、そして、神の御前に心を安らかにされるのです。
:20たとい自分の心が責めてもです。なぜなら、神は私たちの心よりも大きく、そして何もかもご存じだからです。
:21愛する者たち。もし自分の心に責められなければ、大胆に神の御前に出ることができ、
:22また求めるものは何でも神からいただくことができます。なぜなら、私たちが神の命令を守り、神に喜ばれることを行なっているからです。
:23神の命令とは、私たちが御子イエス・キリストの御名を信じ、キリストが命じられたとおりに、私たちが互いに愛し合うことです。
:24神の命令を守る者は神のうちにおり、神もまたその人のうちにおられます。神が私たちのうちにおられるということは、神が私たちに与えてくださった御霊によって知るのです。

ヨハネ13:34-35
:34あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。
:35もしあなたがたの互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。

序)
先週、「一番大切な戒め」というお話を分かち合いました。
オアシスチャーチの理念ともいえるメッセージだとお話ししました。
さらに今日のメッセージはその続きのようなもので、先週と今週とでセットになっています。

さて、聖書をみていきましょう。

旧約に多くの戒めを与えられたにも関わらず、新約の時代にイエス様が来られて、私達に新しい戒めを与えられました。
ですから、これは新約に生きる私達にはかなり重要な戒めに違いないと思うのです。
その戒めというのが、
「わたし(イエス様)があなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」
です。
今日はこの戒めについて再度見ていきましょう。


1.イエス様の愛を知る。
「わたしがあなたがたを愛したように・・・」ヨハネ13:34
「キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。」1ヨハネ3:16

今年、私は免許の更新の年です。
今は誕生日の前後1ヶ月、2ヶ月間が更新期間で、直前にハガキで通知がきます。
3年とか5年とかの有効期間がありますから、5年もたつと、この通知がこないと忘れてしまいそうですね。でも、事前に通知が来るので、忘れていても思い出すことができて、期限が切れて無効になることを防ぐ事ができます。
また、免許を取得した日がいつであっても、期限が切れるのは基本的に誕生日になっているのも、誕生日のたびに思い出すことができるようにするためなのでしょうね。

このように、事前に通知したり、理由を聞いておいたりすれば理解できますし、受け入れやすいわけです。

新しい戒めを与える前には、その理由、動機付けが必要だと思うのです。

イエス様も私達に新しい戒めを与えるにあたって、その理由、動機付けを与えられました。
「私があなたがたを愛したように・・・」
「主は、わたしたちのためにいのちを捨てて下さった。それによって、わたしたちは愛ということを知った。」

ヨハネも、
1ヨハネ 3:1 わたしたちが神の子と呼ばれるためには、どんなに大きな愛を父から賜わったことか、よく考えてみなさい。
と言っています。

私達もまず、この神の愛を知りましょう。深く味わいましょう。ここがスタートであり、絶えずここからスタートすべきです。
まず神が愛して下さった、その愛を知った、その愛を受けた、その愛が今も注がれている。
これがスタートであり、帰って来るところです。

そして、その愛を知り、受け止めて、初めて「互いに愛し合う」ことができるのです。


2.互いに愛し合う。
「あなたがたも互いに愛し合いなさい。」ヨハネ13:34
「私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行ないと真実をもって愛そうではありませんか。」1ヨハネ3:18

聖書をとおして、祈りをとおして、またサマカンのメッセージを通して、私たちは神様から御言葉をいただき、夢をいただき、一歩ずつ、遅くてもいいから、前進することを学んだと思います。
しかし、前に進むとき、そこには苦難もあるでしょう。エネルギーが必要です。
でも、同時にそれは、言葉や口先だけではなく、行いを伴うから体験することなのです。

私達が愛し合うという時、行いと真実とを持って愛し合うということが必要なのではないでしょうか。
失敗することもあるかも知れません。愛せない時もあるかも知れません。
いいんです。その時はもう一度、神の愛を知りましょう。味わいましょう。溢れるばかりに受け止めましょう。
そうしたら、きっと、神はまた、愛し合う愛の力を注いで下さると信じます。聖霊を通して。。。

以前も話しましたが、よく、「祈ってますよ」という言葉をクリスチャンは使いがちです。
勿論、いいことです。
ぼくも、以前はよく使っていました。でも、ここ何年かは違うんです。
時々、メールや電話で、みなさんから「祈って下さい」とリクエストを受けることがありますが、その時、私は、
あまり「祈ってますよ」とは返事せずに、「祈ります」と返事することが多いのです。

私の中では、祈ってます。は絶えず祈っている、毎日祈っている、というイメージが定着していました。
ですから、「祈ってますよ。」と言うと、自分で自分を追込んでしまうし、忘れていたりしたら、罪悪感さえ感じてしまうんです。
ですから、リクエストを受けたら、すぐに祈ります。そして、「祈りますね」と返事するのです。
そして、時々思い出したときには祈るようにしています。
サマカン後に、聖書通読と祈りの課題のシートを毎週お配りするようになって、毎日ではないかわらぶきも知れませんが、時々課題を見て祈るようにしていますし、「祈ってますよ」でもいいのかもしれませんが、以前はそのようにかなり意識したときもありました。

ですから、みなさん、リクエストして下さることはうれしいことですが、ぼくも含めてみんなが、毎日祈り続けているわけではないかも知れないということです。
でも、人ぞれぞれその人のスタイルで祈ってくださっていると思いますし、何より、イエス様が聞いていて下さるので、大丈夫です。

話しが少しそれましたが、つまり、祈っていますよ。と返事して、毎日の朝の祈りで、夕の祈りで・・・と決められた時にと思って、祈れないよりは、その時だけでも、思い出したときだけでもいいから、祈る。ということの方を私は優先しているんです。
これは、少なくとも私に実践できることだからです。

先週午後、A教会の子ども夏祭りに行ってきました。
クレープ、お菓子すくい、氷、ジュース、ヨーヨーすくい、スーパーボールすくい、射的、ストラックアウト、ハテナボックス等、盛りだくさんでした。スタッフの人がお世話してくださってい
したが、合間を見て、スタッフもそれぞれに参加して一緒に楽しんでおられました。
氷は、じゃんけんして勝てばカキ氷、負ければチューペットでした。
その中で、ポコポコじゃんけんというのがありました。
スタッフとじゃんけんして、ピコピコハンマーとヘルメットで戦うやつです。
そのスタッフが牧師先生だったのです。頭をたたかれる役を牧師先生??とびっくりしましたが、子供達は容赦なくクリーンヒットを連発していました。
牧師先生の仕える愛、言葉だけじゃない愛を感じたひとコマでした。
また、近所の子供達もこられていたようで、地域に仕えておられるんだなと思いました。
そして、自分達ができることで仕えておられる姿に言葉や口先だけでなく行いと真実とをもって愛しておられるということを感じました。

私達も、実践できることから、「愛し合う」実践をしましょう。

そして、その時に、私達は神様の中におり、神様も私達の中におられることを見るでしょう。


3.神と共にいる。
「それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」
ヨハネ13:35
「神の命令を守る者は神のうちにおり、神もまたその人のうちにおられます。」1ヨハネ3:24

先週、一番大切な戒めというお話の中で、神を愛し、隣り人を愛することについてお話しました。
この戒めを守る時、聖書の全ての律法は全うされるとまでいいました。
確かに、そのとおりです。あなたが隣り人を愛する時、その律法は全うされます。
でも、その隣り人はあなたの愛をどう思うかはわかりません。またあなたを愛してくれないかも知れません。
でも律法は全うされているのです。「愛しなさい」ということを守り実践したわけですから。。。
しかし、今日お話した「互いに愛し合いなさい」という戒めは、あなた一人が相手を愛したからとて、全うされるものではないのです。
あなたも愛し、相手もあなたを愛する時に、全うされるのです。
だから、聖書は、「あなたがた」と言っています。
私達クリスチャン同士が愛し合う時に、この戒めは全うされるのです。

この戒めは、個人に言われたというよりも、むしろ、主の名によって集う人々へ言われた戒めと受け止める方が自然です。

そういう意味で、教会に属するということは大切であると言えるのかも知れません。
お客さんとして、礼拝だけ守りに教会に行く、、、これもありですが、そのような信仰生活だけでは、この戒めはなかなか実践できないと思うのです。

先週、礼拝の中でペアになって互いのために祈りあいました。
これは、この戒めの実践ですね。互いに愛し合ったのです。礼拝に参加するだけでも、この戒めが実践できるというのもすばらしいことだと思います。
さらに、それ以外の時にも実践するなら、もっとすばらしいことです。

ですから、教会というイエス様によって集められた人々の中で、互いに愛し合い、仕え合い、祈りあい、、、という中で、この戒めを実践することができるのです。

その中で、愛し合うことに困難を感じることもあるでしょう。礼拝だけの人はその困難はあまり体験しないかも知れません。
でも、困難を感じるからこそ、また、神様の愛を知ることも深く味わうことも、体験することもできるのだと思います。
そして、わたしたちが愛し合い、それを人が見る時に、人々は私達を主の弟子であると認めるのです。
その結果、全ての人に対して、証しとなり、宣教となるのです。

神を愛し、自分を愛するように隣人を愛し、そして、、
互いに愛し合いましょう。

2009/08/23

09.8.23「一番大切ないましめ (全ての土台)(愛が全て)」

マタイ 22:34-40
:34 しかし、パリサイ人たちは、イエスがサドカイ人たちを黙らせたと聞いて、いっしょに集まった。
:35 そして、彼らのうちのひとりの律法の専門家が、イエスをためそうとして、尋ねた。
:36 「先生。律法の中で、たいせつな戒めはどれですか。」
:37 そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』
:38 これがたいせつな第一の戒めです。
:39 『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。
:40 律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」

マルコ12:28-31
:28 律法学者がひとり来て、その議論を聞いていたが、イエスがみごとに答えられたのを知って、イエスに尋ねた。「すべての命令の中で、どれが一番たいせつですか。」
:29 イエスは答えられた。「一番たいせつなのはこれです。『イスラエルよ。聞け。われらの神である主は、唯一の主である。
:30 心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』
:31 次にはこれです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』この二つより大事な命令は、ほかにありません。」

申命記 6:5 心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。

レビ記 19:18 復讐してはならない。あなたの国の人々を恨んではならない。あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。わたしは主である。



序)聖書にはたくさんの戒め、約束、教え、勧め・・・などありますが、モーセの十戒でもわかるように、戒めはとても大切です。約束や教え、勧めなどは、そうしなければならない、というほどの強い拘束力もありません。
でも、戒めは、「・・・しなければならない。・・・しなさい。」といったような強い拘束力をも持ったものであると思います。
では、一番大切な戒めは・・・それが今日の御言葉です。

しかし、そのことを学ぶ前に、ひとつ確認しておきましょう。
Ⅰヨハネ4:7-11--
私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛して下さって・・・

「まず神が私たちを愛して下さった。愛して下さっている。」ということを確認しましょう。
・十字架の死 ・罪からの救い、解放 ・永遠の命 ・今も共にいて下さる etcによってもわかります。
勿論、聖書に書いていますしね。

そして、今日このことをまず、心に留めて下さい。

「まず神が私たちを愛して下さった。下さっている」

では、見ていきましょう。

1.「神を愛する」「自分を愛するように、あなたの隣り人を愛する」

聖書でもっとも大切な命令は?「大宣教命令」?
いいえ、神を愛し、人を愛すること(このメッセージの箇所)です。
大宣教命令も大切な命令ですが、今日の命令の延長線上にあると言ったほうがいいでしょう。
そのこともあとでわかります。

さて、人には私たちの心が伝わります。
本当にその人を愛して、その人のことを思っているのか?本心から?
例えば誘って教会に来てくれたら(素晴らしいことです)、
そして、これからも続けてきてほしい。是非、イエス様の愛を知ってほしい。イエス様に出会ってほしい。本当の救いに導かれてほしい、、、そのように願い、祈り、更に行動するなら素晴らしいことですし、それは、愛、ですね。

でももし、
「私は宣教の義務を果した。信じるかどうかはこの人次第、血の責任はこれで私にはない。」などという本心が奥底にあるなら、それは本当にその人を愛している行動といえるでしょうか?

本当に愛しているとわかるまで、何もできないかも知れません。
愛するから、救われてほしいと願うのであり、役に立ちたいと思う。
だから、宣教があるんです。教会が大きくなるためでも、教会が組織化するためでもありません。
神がその人(全ての人)を愛しておられる。わたしもその人を愛している。
だからその人に仕え、その人を助け、その人を救ってあげたいと願う。
そして、イエス様の救いに預かって欲しいと願う。。。
愛するがゆえ・・・なのです。
そして、教会が大きくなることも、組織化することも、それは愛の結果であり、愛するがゆえであるのです。

勿論、行動が先立つ場合もあります。
そこに、愛があるのか?と言われてもよくわからないけど、とにかく救われてほしいと願い伝道することもあるでしょう。
それもありです。自分の中に愛がないと思うなら、愛なる神様に、愛を求めればいいのです。
そのように、伝道等の行動が先立ち、そこに愛を求めて、神を愛し、人を愛するということもあります。

とにかく、全ての土台、全ての動機は、「愛」からであるということです。


モーセの十戒で見てみると、
出20:3--
●神を愛する
・あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。
・あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水のなかにあるものの、どんな形をも造ってはならない。 それにひれ伏してはならない。それに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神であるから、わたしを憎むものは、父の罪を子に報いて、三、四代に及ぼし、わたしを愛し、わたしの戒めを守るものには、恵みを施して、千代に至るであろう。
・あなたは、あなたの神、主の名を、みだりに唱えてはならない。
・安息日を覚えて、これを聖とせよ。

●自分を愛するように隣り人を愛する
・あなたの父と母を敬え。これは、あなたの神、主が賜わる地で、あなたが長く生きるためである。
・あなたは殺してはならない。
・あなたは姦淫してはならない。
・あなたは盗んではならない。
・あなたは隣人について、偽証してはならない。
・あなたは隣人の家をむさぼってはならない。隣人の妻、しもべ、はしため、牛、ろば、またすべて隣人のものをむさぼってはならない

他にも、聖書のあらゆることは、「神を愛し、自分を愛するように隣り人を愛する」時に、全うされるのです。

2.これらふたつのいましめに、律法全体と預言者とがかかっている。
聖書に書いてあることを実践しようとする。つまり、戒めを守り、教えに従い、約束のために行動し、勧めを受けていく・・・言い換えれば御言葉に生きようとすることは、全てこのふたつの戒めに集約できるのです。
全ての土台なのです。

賛美し、礼拝するのは、神を愛しているから。
聖書を読むのは・・・
祈るのは・・・
交わるのは・・・
助けるのは・・・
話しを聞くのは・・・
福音を伝えるのは・・・
仕えるのは・・・
教えるのは・・・
  全て、神を愛し、自分を愛するように隣り人を愛するから、することであり、できること。

救われる為には何をすればいいのですか?
  >>悔改めて、イエスの名によるバプテスマを受ける。
救われた後は何をすればいいのですか?
  >>神を愛し、自分を愛するように隣り人を愛する。


難しい神学や教えを理解しないとクリスチャン生活はできないのでしょうか?
学びたい人は学べばいいと思います。否定はしません。
でも、多くの人は、もっとシンプルな信仰生活をしたいと願っていると思います。
神もまたいわれています。
「神を愛し、自分を愛するように隣り人を愛しなさい」と。
そうする時に、聖書の言葉の一言一句を知らなくても御言葉に生きるという生活が人々の中に成就していくのです。

そして、神を愛し、自分を愛するように隣り人を愛するのは、
まず、神が私たちを愛し、今も愛し続けて下さっているからなのです。
ここに動機があり、根拠があります。

このタイミングで、オアシスチャーチの基本理念を確認すべきと思い、今日はこのメッセージに導かれたと感じています。
オアシスチャーチの基本理念は、このメッセージです。

「神を愛し、自分を愛するように隣り人を愛する人、教会を目指す」

この朝、わたしたちを愛してやまないイエス様が一番大切な戒めとして言われている
「神を愛し、自分を愛するように隣り人を愛する」ことにさらに一歩踏み出せる人は幸いです。

2009/08/09

09.8.9「たましいに安らぎを」

マタイ11:28-30
:28 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
:29 わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。
:30 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」

序)休みは必要
人には休みが必要です。
旅行に行ったり、スポーツをすることで、リフレッシュすることも休むことになる場合もあるでしょう。
ゆっくり寝て休むというのは一番身近な休み方かもしれません。
人それぞれ休み方も違うかもしれませんが、休みは必要なものです。
そのようにいろんな方法でみなさんは体を休めたり、心を休めたりすることをしておられると思います。

では、魂の休みはどこでどのように得るのでしょう。

魂の休みを与えられるイエス様を今日の聖書の箇所から見て行きましょう。


1.<誰が> すべて(:28)

例外はないのです。全ての人です。クリスチャンだからそうじゃないからという条件もなにもないのです。
イエス様は、全ての人に魂の休みを与えて下さる方なのです。
つまり、今日ここにおられるみなさんも一人残らずイエス様は対象として見てくださっているのです。


2.<どういう時に> 疲れた人、重荷を負っている人は(:28)

十分に休みをとって元気な人には必要ないかもしれません。
でも、そんな人はいるのでしょうか。
みなさんは、心が傷ついた経験はありますか。

友達とうまくいかなかったり、失恋したり、仕事がうまくいかなかったり、やろうと思っていた事ができなかったり、家族が出て行ってしまったり、亡くなったり、信用していた人から裏切られたり、、、。人はその傷の深さは違ったとしても、誰もが傷つく経験をしているのです。
心が傷つくと、魂は疲れます。重荷を負います。つまり誰もが疲れた人、重荷を負っている人となるのです。

イザヤ 61:1 神である主の霊が、わたしの上にある。主はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。・・

聖書は、心の傷ついた者がいることを前提に「心の傷ついた者をいやすために・・」と書いてあります。
イエス様は、心の傷ついた者を癒すお方なのです。
そして、疲れた人、重荷を負っている人に魂の休みを与えると約束してくださっているのです。


3.<どこで> わたしのところに来なさい(:28)

イエス様のところに行くことが魂の休みへの第一歩なのです。
私たちも、魂の休みが必要なときは、まずイエス様のもとへ行けばいいのです。
イエス様は心優しく、へりくだった方だから、この方のもとで休みが与えられるのです。
では、どのようにして休ませてくださるのでしょう。


4.<どのようにして>

①わたしのくびきを負って
(:29)
くびきとは、牛を並べて歩かす為に用いたりする横板のことです。
農作業をするときに、今はトラクターがありますから、耕す時にはそれを使いますが、家畜に頼っていたときには、何頭かの牛を並べて、耕す鍬のようなものをひかせるわけですが、牛のスピードが一定になるために、使ったのがくびきというものです。
これは何を意味するのでしょうか。

イエス様と歩調を合わせて歩むことを意味するのです。

マラソンとかでは、最初からハイペースだと後から失速します。
かといって遅いと引き離されて後から追いつけなくなってしまいます。
また、ペースが乱れると余計な体力を消耗してしまったりします。
その人にとって一番いいペースで走ることが重要です。
24時間テレビでは、100kmマラソンが恒例になっていますが、練習段階でスペシャリストからアドバイスを受けたり、走るときはペースメーカーがついたりします。
私たちもイエス様と歩調を合わせることで、休みを得る事ができるのです。

イエス様のくびきとは、聖書の言葉です。
自分の勝手なペースで進むのではなく、聖書の言葉に聞き従うことです。
聖書を通して、イエス様が今、私に何を語っているのか。
その言葉に従う・・・これがイエス様のくびきを負うことだと思うのです。

②わたしから学びなさい(:29)
イエス様から学ぶ。イエス様ならこんな時、どうされるか。
その答えは聖書にある。
聖書は、神を愛し、自分を愛し、隣り人を愛することを命じています。そして、全ての律法がこれにかかっているとあります。
イエス様の愛を受け、愛に生きる。

イエス様は、弟子の一人であるイスカリオテのユダが自分を裏切る事をご存知でした。
それを知っていた上で、全ての弟子達を愛し、最後まで愛しとおされたのです。
そして、十字架の死に至るまで、自らの使命をまっとうされました。
イエス様の十字架は、罪の刑罰です。
死刑という刑罰です。イエス様は何か罪を犯されたのでしょうか。
聖書を見ると、イエス様は罪を犯されませんでした。

ヘブル 4:15 私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。

では、なぜ十字架で死刑になったのか、それは誰の罪のためか。。
それは、私の罪のためです。そして、あなたの罪のためなのです。
聖書は、全ての人は罪人だと言っています。

ローマ 3:23-24 すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。

全ての人が、心に癒しを必要としているように、全ての人には罪の許しが必要なのです。
そのために、神様が人類の歴史上ただ一度だけ、地上に生まれられ、その人類の罪を負われ、十字架でその刑罰を身代わりに受けてくださったのです。
あなたがイエス様を知る前にすでにイエス様はあなたのためにも命を捨ててくださったのです。
そして聖書は、ここに愛がある。と言っています。

イエス様から学ぶときに、本当の愛を知ります。この愛に生きることはすばらしいことです。


5.その時に、「魂にやすらぎ」が与えられる。
魂に休みを得たいなら、安らぎを得たいなら、
イエス様のもとにきて、御言葉に従い、イエス様の愛を受けて、愛に生きるものになりましょう。

イエス様があなたの罪の身代わりに十字架に架かって死なれました。
あなたが、イエス様を罪からの救い主として信じ、受け入れるなら、あなたの罪は神の前に許され、まるで罪のないもののように認められるのです。
そして、その時、本当の意味でイエス様の愛を受け止める事ができるでしょう。そして、この愛に生きる事ができるようになるのです。

あなたは、魂の安らぎを得ていますか。
求めるなら、今すぐ得る事ができます。イエス様のもとに踏み出しましょう。
あなたは、魂の救い、罪の許しを受けていますか。
求めるなら、今すぐ得る事ができます。イエス様は待っておられます。

そして、魂に休みを得たなら、さらにイエス様を求めましょう。

ヨハネ7:37-38
「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」

生ける水が川となって流れ出て、人々を潤すものとしてイエス様に用いていただきましょう。

2009/08/03

09.8.1-2サマーカンファレンス

8月1日、2日の二日間、サマーカンファレンス2009がもたれました。
「突破する力」というテーマでメッセージをいただき、
すばらしい恵みと祝福とチャレンジを受けた二日間でした。
神様に感謝!!