2008/03/23

08.3.23「イエス様の復活を信じますか」

マタイ 28:1-10
:1 さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方、マグダラのマリヤと、ほかのマリヤが墓を見に来た。
:2 すると、大きな地震が起こった。それは、主の使いが天から降りて来て、石をわきへころがして、その上にすわったからである。
:3 その顔は、いなずまのように輝き、その衣は雪のように白かった。
:4 番兵たちは、御使いを見て恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。
:5 すると、御使いは女たちに言った。「恐れてはいけません。あなたがたが十字架につけられたイエスを捜しているのを、私は知っています。
:6 ここにはおられません。前から言っておられたように、よみがえられたからです。来て、納めてあった場所を見てごらんなさい。
:7 ですから急いで行って、お弟子たちにこのことを知らせなさい。イエスが死人の中からよみがえられたこと、そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれ、あなたがたは、そこで、お会いできるということです。では、これだけはお伝えしました。」
:8 そこで、彼女たちは、恐ろしくはあったが大喜びで、急いで墓を離れ、弟子たちに知らせに走って行った。
:9 すると、イエスが彼女たちに出会って、「おはよう。」と言われた。彼女たちは近寄って御足を抱いてイエスを拝んだ。
:10 すると、イエスは言われた。「恐れてはいけません。行って、わたしの兄弟たちに、ガリラヤに行くように言いなさい。そこでわたしに会えるのです。」


序)イエス様は復活された
イエス様の復活の出来事は、4つの福音書全ての書かれてあります。
確かに、十字架で死なれて、アリマタヤのヨセフによって墓に葬られたイエス様が復活なさったのです。
復活は、超重要な出来事です。
今日は復活祭ですが、これは、クリスマス以上に重要な出来事と言えるかも知れません。
イエスキリストがこの地上に生まれられたことは、今現在の人類の歴史上でも、事実として取り扱われており、教科書にも載っています。つまり、信じられているのです。
しかし、復活についてはどうでしょう。
宗教的な教え、伝説のようなもので、キリスト教徒が信じているとされているものとされているのが、今の世の中での認識ではないでしょうか。
しかし、聖書に書いてある通り、イエス様は復活されたのです。
さて、あなたはイエス様の復活を信じられますか。信じておられますか。

4つの福音書から、イエス様の復活の時の出来事を通して、共に教えられたいと思います。


1.偽装しようとした。マタイ28:11-15

マタイの福音書から。
27:62さて、次の日、すなわち備えの日の翌日、祭司長、パリサイ人たちはピラトのところに集まって、:63こう言った。「閣下。あの、人をだます男がまだ生きていたとき、『自分は三日の後によみがえる。』と言っていたのを思い出しました。:64ですから、三日目まで墓の番をするように命じてください。そうでないと、弟子たちが来て、彼を盗み出して、『死人の中からよみがえった。』と民衆に言うかもしれません。そうなると、この惑わしのほうが、前のばあいより、もっとひどいことになります。」:65ピラトは「番兵を出してやるから、行ってできるだけの番をさせるがよい。」と彼らに言った。:66そこで、彼らは行って、石に封印をし、番兵が墓の番をした。

このようにして、番兵に墓の見張り番をさせたのです。
しかし、先ほど読んでいただいたとおり、主の使いによって、石はころがされ、イエス様は復活されたのです。そして、その番兵たちの報告を聞いた祭司長やパリサイ人達は、偽装しようとしました。

マタイ28:11-15
:11 女たちが行き着かないうちに、もう、数人の番兵が都に来て、起こった事を全部、祭司長たちに報告した。
:12 そこで、祭司長たちは民の長老たちとともに集まって協議し、兵士たちに多額の金を与えて、
:13 こう言った。「『夜、私たちが眠っている間に、弟子たちがやって来て、イエスを盗んで行った。』と言うのだ。
:14 もし、このことが総督の耳にはいっても、私たちがうまく説得して、あなたがたには心配をかけないようにするから。」
:15 そこで、彼らは金をもらって、指図されたとおりにした。それで、この話が広くユダヤ人の間に広まって今日に及んでいる。

祭司長やパリサイ人は、聖書を知っている人たちです。
預言者の預言も読んでいるのです。
そして、イエス様が実際に復活された出来事を聞いたのです。
それでも彼らは信じるどころか、その事実をもみ消そうとして、偽装まで謀ったのです。

なんという頑なな心でしょうか。
そして、恐ろしいことをしたのでしょう。
まさに神に敵対するような行動です。

しかし、私たちも以前はそれを信じなかったものであったでしょう。
実際に見ていないのだから仕方ないと言う人もいるでしょう。

でも、果たして実際そうなのでしょうか。
実は、「信じたくない」「認めたくない」「信じるのが怖い」「信じるべきではない」といったような自分の中での「決めつけ」とか「固定観念」とか「逃げ」とかがあなたをそうさせていた、あるいはそうさせているのではないでしょうか。

祭司長たちもまた、
「いや、ここでイエスが復活したことを認めてしまったら、私たちは今まで偽預言者扱いし、十字架にまでつけて殺してしまったのだ。私たちは神に敵対したことになってしまう。だから、イエスが復活したなんて、弟子たちの作り話なのだ・・・」と自ら言い聞かせるようにして、この偽装をしたのではないのでしょうか。
表向きはそうでなかったかもしれませんが、その深層心理ではそのような葛藤があったのではないかと思えるのです。

私たちも同じように、
「イエス様が復活されたことが事実で、イエス様が神様なら、今までの自分の人生はなんだったんだ。全てが否定されてしまうんじゃないか。こんなに苦労して今まで生きてきて、今までの自分の人生を否定されてしまうじゃないか。だったら、決して、そんなことは認められない。だから、イエスが神様だなんて、信じられるか。復活なんてありえない。非科学的だし、そんなもの信じるわけには行かない・・」と思う自分の心に、
悪魔が「そうだ、その通りだ。お前の考えは正しいぞ。そんな信じられない話に乗っかるんじゃない。お前は自分を信じていればそれでいいんだ・・」と更に助長するのです。
すると、悪魔の存在をも信じていない私たちは、
「だよな・・、やっぱり、信じるなんてしないぞ。だいたい、そんなこと信じられるわけない・」
とイエス様を、まことの神様を信じるチャンスを逃してしまうのです。

これは、私たちの過去でもあるかも知れませんし、未だにイエス様を信じていない人々の多くの人の心の奥底にあるものかもしれません。
そんな中で、イエス様を信じて受け入れることができた私たちは本当に奇跡であり、イエス様に感謝しなければなりませんね。

このような偽装が私たちの心にも仕掛けられることがあるのです。
私たちはそれを聖霊によって守っていただいて、イエス様を信じるものになりたいですね。


さて、弟子たちはどうだったのでしょう。

2.聞いても信じなかった。マルコ16:11-14、ルカ 24:25-27

マルコの福音書とルカの福音書から。
マルコ 16:11-14
:11 ところが、彼らは、イエスが生きておられ、お姿をよく見た、と聞いても、それを信じようとはしなかった。
:12 その後、彼らのうちのふたりがいなかのほうへ歩いていたおりに、イエスは別の姿でご自分を現わされた。
:13 そこでこのふたりも、残りの人たちのところへ行ってこれを知らせたが、彼らはふたりの話も信じなかった。
:14 しかしそれから後になって、イエスは、その十一人が食卓に着いているところに現われて、彼らの不信仰とかたくなな心をお責めになった。それは、彼らが、よみがえられたイエスを見た人たちの言うところを信じなかったからである。


弟子たちは、イエス様が生きておられる、その姿を見たことを聞きましたが、信じようとしませんでした。
彼らは、イエス様が十字架にかかられる前に、イエス様から直接御言葉を聴いていたにも関わらず、信じようとしなかったのです。

私たちは、実際、聖書を通して、当時、イエス様の復活を見た人たちの話を知ることができます。しかし、それを信じるかどうかは確かに私たちにかかっています。
それを信じることができたということもまた感謝なことです。

では、人の話をなんでも信じていいのでしょうか。
振り込め詐欺が滋賀県でも被害者が出ています。人の話をそのまま信じてしまうのです。
税金の還付が受けられるから・・、年金の手続きをすれば、還付金が出るから・・、等と言葉巧みに騙してきます。
また、おかしな宗教が出てきて、大金を巻き上げたりして、騙される事件もあります。

そんな時代ですから、イエス様の復活を語っても、その救いを話しても、信じてもらえないということを体験することもあるでしょう。

私たちもまた、クリスチャンの体験談だから、クリスチャン、あるいは教役者の話しだから、、、というので、そのまま聞いたことを信じていいのか、ということも注意する必要があるのでは、、と思ってしまうかも知れません。

さて、イエス様は聞いたことをそのまま信じなかったから、不信仰と頑なな心だと責められたのでしょうか。
実はそうではありません。それは、ルカの福音書の箇所でわかります。

ルカ 24:25-27
:25 するとイエスは言われた。「ああ、愚かな人たち。預言者たちの言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち。
:26 キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光にはいるはずではなかったのですか。」
:27 それから、イエスは、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされた。

そうです。聞いた出来事が事実かどうかということも重要ですが、それ以上に重要なのは、御言葉であるかどうかです。
救い主であるキリストがそのような苦しみを受けて、復活し、栄光に入ることが預言者によって語られている。そして、神の御言葉は必ず成就することを知っているなら、それをなぜ信じないのか、ということを責められたのだと思うのです。
弟子たちはそのことをイエス様から聞いていたのに、信じなかったから、その不信仰を責められたのです。

私たちは、聞いた事柄が、神の言葉から来ているのか、預言の成就なのか、それを見る必要があります。
そして、その出来事が信じがたいことであったとしても、神の言葉であるなら、信仰によって受け止め、信じるものとなりたい。


3.見ないで信じる幸い。ヨハネ20:24-29

さて、イエス様の復活は事実です。
しかし、みることはできません。
トマスもまた、見るまで信じないと言いました。

ヨハネ20:24-31
:24 十二弟子のひとりで、デドモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたときに、彼らといっしょにいなかった。
:25 それで、ほかの弟子たちが彼に「私たちは主を見た。」と言った。しかし、トマスは彼らに「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません。」と言った。
:26 八日後に、弟子たちはまた室内におり、トマスも彼らといっしょにいた。戸が閉じられていたが、イエスが来て、彼らの中に立って「平安があなたがたにあるように。」と言われた。
:27 それからトマスに言われた。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」
:28 トマスは答えてイエスに言った。「私の主。私の神。」
:29 イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」

トマスは、「その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません。」と言ったのです。
それに対して、イエス様は、8日後にトマスもいるところで来られて、
「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」と言われました。

あなたは、イエス様の復活を、イエス様が救い主であることを、信じますか。
イエス様は言われます。
「信じないものにならないで信じるものになりなさい。」
そして、こうも言われます。
「見ずに信じる者は幸いです。」

私たちは今、イエス様を肉眼で見ることはできません。
しかし、神の言葉である聖書に、救い主が生まれられることから、苦しみを受け、死なれて、復活し、栄光を受けられることが書かれてあり、そして、実際にそのことが起こったことが記されており、聞いています。

見てないからと言って信じないものにならずに、見てなくても信じるものになりましょう。


結)イエス様を得るために

それは、イエスの御名によって、いのちを得るためです。

ヨハネ20:30-31
:30 この書には書かれていないが、まだほかの多くのしるしをも、イエスは弟子たちの前で行なわれた。
:31 しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。

イエス様が十字架にかかられる前にこのように言われています。

ヨハネ11:25 イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。:26 また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」

いのちを得るため、イエス様ご自身を受け取るため、信じるものになりましょう。

2008/03/16

08.3.16「復活の前に、葬り」

マルコ15:33-47
:33 さて、十二時になったとき、全地が暗くなって、午後三時まで続いた。
:34 そして、三時に、イエスは大声で、「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ。」と叫ばれた。それは訳すと「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」という意味である。
:35 そばに立っていた幾人かが、これを聞いて、「そら、エリヤを呼んでいる。」と言った。
:36 すると、ひとりが走って行って、海綿に酸いぶどう酒を含ませ、それを葦の棒につけて、イエスに飲ませようとしながら言った。「エリヤがやって来て、彼を降ろすかどうか、私たちは見ることにしよう。」
:37 それから、イエスは大声をあげて息を引き取られた。
:38 神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた。
:39 イエスの正面に立っていた百人隊長は、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「この方はまことに神の子であった。」と言った。
:40 また、遠くのほうから見ていた女たちもいた。その中にマグダラのマリヤと、小ヤコブとヨセの母マリヤと、またサロメもいた。
:41 イエスがガリラヤにおられたとき、いつもつき従って仕えていた女たちである。このほかにも、イエスといっしょにエルサレムに上って来た女たちがたくさんいた。
:42 すっかり夕方になった。その日は備えの日、すなわち安息日の前日であったので、
:43 アリマタヤのヨセフは、思い切ってピラトのところに行き、イエスのからだの下げ渡しを願った。ヨセフは有力な議員であり、みずからも神の国を待ち望んでいた人であった。
:44 ピラトは、イエスがもう死んだのかと驚いて、百人隊長を呼び出し、イエスがすでに死んでしまったかどうかを問いただした。
:45 そして、百人隊長からそうと確かめてから、イエスのからだをヨセフに与えた。
:46 そこで、ヨセフは亜麻布を買い、イエスを取り降ろしてその亜麻布に包み、岩を掘って造った墓に納めた。墓の入口には石をころがしかけておいた。
:47 マグダラのマリヤとヨセの母マリヤとは、イエスの納められる所をよく見ていた。

1コリント15:3-5
:3 私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、
:4 また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと、
:5 また、ケパに現われ、それから十二弟子に現われたことです。


序)「死」と「葬り」と「復活」この記事は、4福音書の全てに出てきます。
いかに大切なことであるかが伺えます。

この箇所は、イエス様が十字架に架かられ、そして死なれた直後の出来事が書かれてあります。
私達は、イエス様の十字架の死、そして復活についてはよく聞きますし、大切であることも聞いています。
しかし、1コリント13:3-5を読むと、「葬り」が「死」「復活」と同じように大切なことであることがわかります。

4つの福音書全てに出てくるということで、その重要性もわかります。

来週は復活祭礼拝、復活を記念しての礼拝ですが、その前に今日、葬りについて共に聖書からメッセージを受け取っていきましょう。


1.葬りとは・・・完全に委ねること

4福音書全てに、アリマタヤのヨセフの名前が載っています。
ヨセフは十字架で死なれたイエス様を下げ渡して、葬った人です。

イエス様は十字架の死に自ら向かっていかれました。自ら死なれたのです。
また、誰かに起こしてもらって復活されたわけではありませんよね。
しかし、葬りについては、アリマタヤのヨセフに葬ってもらったのです。

イエス様は運ばれる時に「ちょっと歩こうか?」とか自分で少し動かれたわけではないですよね。
イエス様でさえ、完全に委ねられたのが、葬りです。

イエス様の十字架の死を私達の身代わりの死として受け入れ、わたしたちもその死にあずかることによって罪から救われます。
そして、わたしたちも葬られる必要があるのですが、それは完全に委ねることを意味するのです。

私達は誰に完全に委ねるのでしょうか。
それは、イエス様です。

イエス様がこのとき、アリマタヤのヨセフに完全に委ねられたように、私達はイエス様に完全に委ねるのです。
そうすることによって、イエス様の葬りにもあずかることとなるのです。

完全に委ねることは難しく感じる時や難しく感じることもあるでしょう。
しかし、死んだ人が葬式でジタバタしないように、わたしたちも葬ってくれる方に対して、全く委ねるものになりたいです。

葬りとは、完全にイエス様に委ねることです。


2.葬りとは・・・完全に死を認めること


先ほどの釣り上げたヘラブナは、死んでいたわけではなかったのですが、死んだふりのようにも見えました。

葬られた人は、死んだふりをしているわけではありません。
葬りとは、死んだことを公表することでもあります。

葬式をすることによって、この人は死んだのです、と公表しますよね。
墓に葬ることによって、この人は何年何月何日に死にました、と公表するのです。
もし、その人が本当に死んだのではなく、死んだふりをしているだけだったら、
墓に葬ろうとしたら、拒否するでしょう。
「実はまだ死んでないんだ」と言うでしょう。

私達はイエス様が十字架で死なれた死がわたしの罪の身代わりとしての死であることを受け入れて、その死にあずかります。
そして葬られるのです。
もし、死んだふりをしているだけなら、葬られることを拒むでしょう。

私達はイエス様の死にあずかり、葬りにもあずかり、そして復活にもあずかるためには、
完全に死を認め、葬られなければならない。
イエス様の葬りにもあずかるために。。。

私達の内にある罪が死んで、葬られるためには、完全に死を認めることです。



結)死んで葬られることは一度でいいのか。
イエス様の死を自らの罪の身代わりとして受け入れ、その死にあずかり、その葬りにあずかって、バプテスマを受けた人もいるでしょう。
その人は、もうそれでいいのでしょうか。
勿論、そうですね。罪からの救いという点では、それでいいのです。

しかし、わたしたちはその後の人生の歩みの中で、死んだはずの過去の自分、罪を犯してしまうこともあるかもしれません。
そうです。
イエス様は完全な方ですから、一度死んで葬られたら完成でしょう。
しかし、わたしたちは不完全な者です。ですから、一度死んで葬られたからといって、完成するとは限りません。
この地上での肉体を持っている以上、完成はしないのです。肉体が死に、天に帰る時に、完成するのです。
それまで、地上ではこの肉体に魂を宿していただいて、罪赦された罪人として歩んで行くのです。
ですから、何度でもイエス様の十字架の死にあずかり、葬りにあずかるのです。
その時に、復活にもあずかることができるのです。

イエス様の死と葬りと復活にあずかるものになりたいですね。

2008/03/02

08.3.2「そこにある神の御業」

マルコ5:1-20
:1 こうして彼らは湖の向こう岸、ゲラサ人の地に着いた。
:2 イエスが舟から上がられると、すぐに、汚れた霊につかれた人が墓場から出て来て、イエスを迎えた。
:3 この人は墓場に住みついており、もはやだれも、鎖をもってしても、彼をつないでおくことができなかった。
:4 彼はたびたび足かせや鎖でつながれたが、鎖を引きちぎり、足かせも砕いてしまったからで、だれにも彼を押えるだけの力がなかったのである。
:5 それで彼は、夜昼となく、墓場や山で叫び続け、石で自分のからだを傷つけていた。
:6 彼はイエスを遠くから見つけ、駆け寄って来てイエスを拝し、
:7 大声で叫んで言った。「いと高き神の子、イエスさま。いったい私に何をしようというのですか。神の御名によってお願いします。どうか私を苦しめないでください。」
:8 それは、イエスが、「汚れた霊よ。この人から出て行け。」と言われたからである。
:9 それで、「おまえの名は何か。」とお尋ねになると、「私の名はレギオンです。私たちは大ぜいですから。」と言った。
:10 そして、自分たちをこの地方から追い出さないでくださいと懇願した。
:11 ところで、そこの山腹に、豚の大群が飼ってあった。
:12 彼らはイエスに願って言った。「私たちを豚の中に送って、彼らに乗り移らせてください。」
:13 イエスがそれを許されたので、汚れた霊どもは出て行って、豚に乗り移った。すると、二千匹ほどの豚の群れが、険しいがけを駆け降り、湖へなだれ落ちて、湖におぼれてしまった。
:14 豚を飼っていた者たちは逃げ出して、町や村々でこの事を告げ知らせた。人々は何事が起こったのかと見にやって来た。
:15 そして、イエスのところに来て、悪霊につかれていた人、すなわちレギオンを宿していた人が、着物を着て、正気に返ってすわっているのを見て、恐ろしくなった。
:16 見ていた人たちが、悪霊につかれていた人に起こったことや、豚のことを、つぶさに彼らに話して聞かせた。
:17 すると、彼らはイエスに、この地方から離れてくださるよう願った。
:18 それでイエスが舟に乗ろうとされると、悪霊につかれていた人が、お供をしたいとイエスに願った。
:19 しかし、お許しにならないで、彼にこう言われた。「あなたの家、あなたの家族のところに帰り、主があなたに、どんなに大きなことをしてくださったか、どんなにあわれんでくださったかを、知らせなさい。」
:20 そこで、彼は立ち去り、イエスが自分にどんなに大きなことをしてくださったかを、デカポリスの地方で言い広め始めた。人々はみな驚いた。

序)ある一人の男の話
彼は、いろんなものに支配されていました。
酒に溺れ、タバコで体はボロボロ。。。
スナックの店のカウンター越しに愛想よくしてくれる女性の気をひこうと毎日通いづめて飲み代にお金はつぎこまれ、それでもお金儲けをしようと野望は持っているけれども、実現が難しいとわかると、半分人生をあきらめて、その日その日がよければそれでいい、というような生活になっていったのでした。
それでも、彼は自分自身にコンプレックスを持っており、悩みのないような振りをしていたけれども、本当は悩みだらけでした。

そんな彼に転機が訪れました。
友人から、イエス様の話しを聞いたのです。
彼は、聖書の話しなんて聞いたこともなかったし、教会にもいったことはありませんでした。
それでも、仲のいい友人だから、話しに一応耳を傾けました。
その話しを聞いている最中もビールを片手に、タバコを吸い、聖書の話し、友人がクリスチャンになった話しを聞きました。
彼は半信半疑でしたが、友人がしきりに進めるので、一度友人がいっている教会へ足を運ぶことにしました。

彼は、日曜の朝、友人と一緒に教会にいき、礼拝に出席しました。
一種異様な雰囲気を感じた彼は驚き、毎週日曜を死ぬまで教会に通わなければならないなら、なんという不幸な選択だろうと感じました。
でも、同時に、本当にここで言っている、聖書に書いてある神様が本当の神様なら、無視するわけにはいかないと思ったのです。
次の週は仕事で礼拝には行けませんでしたが、その翌週はもう一度行こうと思っていました。
しかし、また用事が入っていけませんでした。
彼は「仕方ない。来週行こう」と思いました。
しかし、直前に今度は仕事が入ったのです。
「まあ、仕方ない、来週は行こう」
そう思ったのです。
しかし、その次の週も急な用事が入り、教会には行けませんでした。

彼はこの時、思ったのです。
「自分は教会にもう一度だけ行ってみようと思っている。
それなのに、行こうと思っているのに、行けない。
もし友人が行っているように、神様と悪魔がいるなら、
悪魔は、俺が神様のもとに行って神様のことがわかるようにならないように、行くことができないように、妨げられているのかも知れない・・・。
そして、そのまま行けなくして、神様からおれを遠ざけようと悪魔がしているのかもしれない。
もし、そうだとしたら、俺は来週、どんなことがあっても、教会にいくべきだ。
なぜなら、そこは本当の神様の存在を知ることができる場所かも知れないから。。」と。

そうして、彼は次の週、あらゆる用事や仕事が入ろうとしても、断って教会に行きました。
そして、とにかくここでクリスチャン達が言っている神様が本物なのかどうか、わかるまで行ってみようと決意したのです。
その決意の故に、彼はその礼拝後、洗礼を受けました。

そして、その後、彼は神様の存在を確信し、イエス様の救いを確信し、
教会に通い、神様を愛するクリスチャンの一人となりました。
彼は今、自分の召しを神様に問いつつ、
今自分にできることを精一杯神様の前にささげつつ、
ある教会で奉仕し、一人でも多くの人が神様の愛を体験し、
イエス様の救いに預かって、イエス様につながることができるように願い、
その信仰生活を送っているのです。


そして、その「男」とは、ぼくです(^^;


これはぼくの救われた時の証しから現在の証しですが、
一人の男の話として、外から見るように話すと、このようになるんですね。


さて、これと同様に、今日、お読みいただいたこの汚れた霊につかれた男の話しから、
神様が
どんなに素晴らしい方か、
どんなことをして下さる方かを見て、
共に神様をあがめたいと思います。


1.人の力の限界

人の力ではどうしようもできないこともある。

:3 この人は墓場に住みついており、もはやだれも、鎖をもってしても、彼をつないでおくことができなかった。
:4 彼はたびたび足かせや鎖でつながれたが、鎖を引きちぎり、足かせも砕いてしまったからで、だれにも彼を押えるだけの力がなかったのである。
:5 それで彼は、夜昼となく、墓場や山で叫び続け、石で自分のからだを傷つけていた。

この男は汚れた霊につかれており、もはや誰も、鎖をもってしても、彼をつないでおくことができなかったのです。

私たちの生活する中で、自分の力ではどうすることもできないようなことも体験するのではないでしょうか。
最初に話した私のことですが、就職した年の4月に仕事中に自分のミスもあり、事故で死ぬような経験をしました。
特にそれからというもの、人間どんなにがんばっていても、いつどんなことで死ぬかもしれないということを思うようになり、
その日その日が楽しければそれでいいじゃないか・・・というような気持ちを持って生活するように自分を追込むようになっていきました。
自分ではどうすることもできないという経験でもありました。

子供をターゲットにした、悲痛な事件が後を立ちません。
学校や幼稚園、保護者や地域が一生懸命になって、子供を守ろうとしても、
その保護者が加害者になることもあります。
また、地域の人が加害者になることもあるのです。
どんなに法律で規制しても、その抜け道を探し出し、悪いことをする人がいます。

自分達ができる限りのことをやったとしても、守れない時もあるのです。
また、どうしても限界もあります。

地震に強い家を作ったり、地震の振動を免れる家を人間は作ります。
津波から守る為に高い防波堤を作ります。
雪に強い建造物も作ります。

それでも、それを越える自然災害がやってくることもあります。
雪で建物が崩壊することもこの冬はありました。

人には限界があるのです。
どうしようもない人間の力の限界は体験することはあるのです。
地震で、津波で、雪害で、暑さで、台風で、ウイルスで、病気で・・・。


この汚れた霊につかれた男もそんな人間の限界を越えてしまって、
どうしようもない状況でした。


でも、そこにイエス様が来られたのです。


2.イエス様に不可能はない

イエス様はその限界をも打ち破られるお方です。

:15 そして、イエスのところに来て、悪霊につかれていた人、すなわちレギオンを宿していた人が、着物を着て、正気に返ってすわっているのを見て、恐ろしくなった。

この人の力ではどうすることもできなかった男を正気に返らせられたのです。

私の場合も、イエス様との出会いがなければ、
「太く短く生きればいい」
「その日その日が楽しければそれでいい」
「人間、いつ死ぬかわからないのだから」
と思って生きていったと思います。
もし、そうしていたら、今私はどうなっていたのでしょう。
もう死んでいなかったかもしれない。
いたとしても、体はボロボロ、心もボロボロ、とにかくなんとなく過ごしていたかもしれない。

でも、そんな私を救って下さったのが、イエス様でした。

今は本当に健康にもなって、無茶するような人生ではなく、神様に信頼し、委ねつつも自分だけでなく、周りの人のことも配慮することができるようになり、
苦しかったり、悲しかったりすることもありますが、楽しく感謝な日々を送ることができています。


イエス様には不可能はないのです。


今の時代、いろんな問題があります。
でも、私たちはイエス様にあって、希望を持つことができるのです。

Iさんは、病気で娘さんを亡くされました。
でも、天国でまた会えるという希望があります。

イエス様は無から有を生み出し、死人をよみがえらせることのできるお方です。
不可能はないのです。

このお方に私たちは希望を見出すものになりたいですね。
そして、イエス様に希望があることを一人でも多くの人に知ってもらいたいと祈ります。


さて、イエス様によって解放された男は、イエス様についていきたいと願いましたが、
イエス様はどうされたでしょう。


3.召しと賜物

イエス様についていくだけが召しではない。

:18 それでイエスが舟に乗ろうとされると、悪霊につかれていた人が、お供をしたいとイエスに願った。
:19 しかし、お許しにならないで、彼にこう言われた。「あなたの家、あなたの家族のところに帰り、主があなたに、どんなに大きなことをしてくださったか、どんなにあわれんでくださったかを、知らせなさい。」
:20 そこで、彼は立ち去り、イエスが自分にどんなに大きなことをしてくださったかを、デカポリスの地方で言い広め始めた。人々はみな驚いた。

イエス様に救われた人は、イエス様についていきたいといいました。
でも、イエス様はそれを許されず、そこに留まり、家族や地方の人々に証ししたのです。

私が救われた時は、京都市に住んでいました。
半年後に地元長浜に戻ってきて、ここに住み、滋賀の救われた教会で過ごしました。
今は地元長浜で、主にささげているわけですが、
これは、ぼくの場合です。
人によっては、どこかに送り出されるでしょう。
そこに留まって仕えることに導きがあるかもしれません。
牧師になる人もいれば、伝道者になる人や、宣教師になる人もいるでしょう。
そうではなく、教会で仕えつつ、職場で用いられる人もいるでしょう。
あるいは地域で用いられる人もいるかも知れません。
病気がちで入院されている人なら、病院で用いられるかもしれません。

神様は一人一人に自由に賜物を与え、それぞれに召しを用意されているのです。
何もみんなが同じ道を歩むのではないのです。

ペテロやヨハネ等、弟子達は、仕事も捨て、家族とも別れ、イエス様についていくことが召しでした。
でも、この男はそこに留まり、そこで神様が自分になさったことをいい広めることが召しでした。


私たちも一人一人、召しが違います。
誰とも比べる必要もないのです。
神様の召しに従って、歩むことが神様が私たちに願っておられることです。


結)一人の人の人生に神様が関わって下さる時、それは素晴らしい神様の御業です。
あなたの人生にも神様は関わって下さるし、それは神様の御業の一つなのです。

人の人生の数だけ、神様の御業はあります。
どんな悲観的な状況であっても、神様に希望を見出すことができ、
神様がそこに介入される時、素晴らしい御業があらわされ、
更にその人の人生を通して、多くの人に影響を与えていくのです。

このイエス様に希望をおき、イエス様の召しに従って、
イエス様を見上げつつ、歩む人は幸いです。