2009/12/20

09.12.13「 内側から来る神への信頼 」

ルカ 2:1-7
:1 そのころ、全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストから出た。
:2 これは、クレニオがシリヤの総督であったときの最初の住民登録であった。
:3 それで、人々はみな、登録のために、それぞれ自分の町に向かって行った。
:4 ヨセフもガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。
彼は、ダビデの家系であり血筋でもあったので、
:5 身重になっているいいなずけの妻マリヤもいっしょに登録するためであった。
:6 ところが、彼らがそこにいる間に、マリヤは月が満ちて、
:7 男子の初子を産んだ。それで、布にくるんで、飼葉おけに寝かせた。
宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。

序)クリスマスに備える
クリスマスに備える・・・これはキリストの来臨に備えることをも意味します。
つまり今の私達に言い換えれば、キリストの再臨に備える意味もありますね。
今はまさに終りの時代だと思えば、再臨に備えることはとても大切なことです。

今日も御言葉を通して、クリスマスに備えていきましょう。

イエス様が生まれる直前の数ヶ月の出来事を見て行きましょう。

1.イエス様が生まれる前にベツレヘムへ移動した。:1-5

ナザレからベツレヘムまで、直線にして110kmはある。
その直線上は山地なので少なくとも120~150kmはあったと思われます。
時速4kmで1日8時間歩いたとしても3,4日はかかる。
ここから、土岐までが100kmくらいで、香芝までが130kmくらいでしたから、その距離を身重な体で歩いていくわけですから、かなり過酷な旅であったと想像できますね。


しかし、

ミカ 5:2
しかしベツレヘム・エフラタよ、あなたはユダの氏族のうちで小さい者だが、
イスラエルを治める者があなたのうちからわたしのために出る。
その出るのは昔から、いにしえの日からである。

この預言がありましたから、イエス様はベツレヘムでお生まれになるはずでした。
そして、ヨセフとマリヤははからずも人口調査の為にベツレヘムへ移動することになったのです。
このことから、前回もお話したように、神様の言葉は必ず成就することを教えられます。

しつこいようですが、

●神様の御言葉は必ず成るんです。

世の中に絶対はないということがあると思いますが、神様の言葉は絶対なのです。


この意味を履き違えないで下さいね。
神様の言葉が絶対というのは、
神様の言葉だから絶対に従わなくてはならないという単純な意味ではありません。

神の言葉は、聖書です。
聖書を通して解釈された教理は、「教理」でしかありません。
聖書を通しての悟りは、「その人の悟り」でしかありません。
聖書を通して語られるメッセージは、「メッセージ」でしかありません。
預言者を通して語られる預言は、「預言」でしかありません。

どれも100%の神の言葉ではないのです。
混ざり物があるとでもいいましょうか。。


確かに「本当に」神様の言葉なら絶対に従うべきでしょう。。
でも、ここに人間に弱さに付け込んだ悪魔の罠が待っていることがあります。
いろんな教義があります。
しかし気を付けないと、教義を神の言葉としてしまうと危険です。
神の言葉は聖書そのものだけです。それも本当は原典が読めれば一番いいのですが・・・。
それ以外は人の解釈であり、そこから出てきた教義教理です。

とにかく、神の言葉は必ず成就します。
人の預言は外れても、神の預言は外れません。絶対なります。


私達はこの神の言葉を信頼し、より頼み、しっかりと受け止め握り続けたいですね。



2.イエス様は馬小屋で生まれた。:6-7

これは、ヨセフとマリヤが馬小屋に滞在していたことを意味します。
ヨセフとマリヤは、御使いから告げられて自分達の間に生まれてくる子は聖霊によるものであり、イスラエルを治める方であることを聞いていますから、自分達はその両親であるんだということですから、その自分達を馬小屋にしか泊めないなんて、なんて無礼な!という事もできたかも知れません。他の客を馬小屋に追いやってでも客間に入れろということもできたかも知れません。
でも、そんな事を言わずに空いている馬小屋でもいいから…とそこに滞在しました。

ここで、

●神の御名の権威をやたら振りかざさない。

ことを教えられます。

出エ20:7 あなたは、あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。 とあります。


私達が主の名を唱えるのは、どんな時でしょう。
祈りの時、悪魔に命じる時ですよね。
ましてや、未信者や信者に主の名を唱え、振りかざすことは神様が禁じておられます。
これは、ひとつめの話しとも関連してきますよね。

「聖書にこう書いてある。これはこういう意味(解釈)だから、あなたはこうしなくてはならない。これは主の御心であるし、主の命令だ。」なんて牧師や預言者などに言われたらどうでしょう。「主がそう言っておられるのなら・・・」と従うことになってしまうでしょう。
でも、本当にそうでしょうか。

預言についてはどうでしょう。
どう受け止めるべきか…みたいな。
「聖書が第一。預言は励ましや慰めといった意味で受け止めるべき」なのです。

どんな素晴らしい預言があっても、聖書を越えるものではないのです。
どんな素晴らしいメッセージを聞いても聖書を越えるものではないのです。

聖書の素晴らしさを再確認しましたね。イエス様はまさに御言葉が受肉したお方です。

私達は、主の名、その権威によって、悪魔に命じたり自分に告白したり、祈ったりはしても、
決して人にその権威をかざすような言動はしないように心掛けたいですね。


結)神様への信頼
私はここを読んで全体的に感じたんですが、
ヨセフとマリヤは決してその時の時代の流れに逆らっていないということです。
律法にも忠実で敬謙な神を信頼する人であったと思うのですが、
その時の流れに逆らうようなことはしていないですよね。

身重にもかかわらず、人口調査の為に100km以上の距離をも移動し、
身重にもかかわらず泊まるところがなくて馬小屋に滞在する事も拒否せずに。
ここに、目に見えてはあまり見えなくても、内側にある神様への信頼の大きさ強さをみるような気がします。
その信仰が、神の言葉の成就にもつながり、主の御名をみだりに唱えたり振りかざしたりしない行動へとつなげていったのだと感じました。

私達も、目に見える事に振り回されずに、御言葉をしっかり握り、神様だけを信頼する信仰を強くしていただいて、マリヤとヨセフのようにしっかりした歩みをすることによって、神様の御業を見て行きたいと願います。