2009/11/08

09.11.8「イエス様があなたを呼ぶ時」

出エジプト3:1-10
:1 モーセは、ミデヤンの祭司で彼のしゅうと、イテロの羊を飼っていた。彼はその群れを荒野の西側に追って行き、神の山ホレブにやって来た。
:2 すると主の使いが彼に、現われた。柴の中の火の炎の中であった。よく見ると、火で燃えていたのに柴は焼け尽きなかった。
:3 モーセは言った。「なぜ柴が燃えていかないのか、あちらへ行ってこの大いなる光景を見ることにしよう。」
:4 主は彼が横切って見に来るのをご覧になった。神は柴の中から彼を呼び、「モーセ、モーセ。」と仰せられた。彼は「はい。ここにおります。」と答えた。
:5 神は仰せられた。「ここに近づいてはいけない。あなたの足のくつを脱げ。あなたの立っている場所は、聖なる地である。」
:6 また仰せられた。「わたしは、あなたの父の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」モーセは神を仰ぎ見ることを恐れて、顔を隠した。
:7 主は仰せられた。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の悩みを確かに見、追い使う者の前の彼らの叫びを聞いた。わたしは彼らの痛みを知っている。
:8 わたしが下って来たのは、彼らをエジプトの手から救い出し、その地から、広い良い地、乳と蜜の流れる地、カナン人、ヘテ人、エモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人のいる所に、彼らを上らせるためだ。
:9 見よ。今こそ、イスラエル人の叫びはわたしに届いた。わたしはまた、エジプトが彼らをしいたげているそのしいたげを見た。
:10 今、行け。わたしはあなたをパロのもとに遣わそう。わたしの民イスラエル人をエジプトから連れ出せ。」


序)不完全な私達を完全に用いられる方
みなさん、パソコンは使われるでしょうか。
今、このメッセージを読まれているということは、使われているのでしょう。
私はほぼ毎日使っています。
私は、クラリスワークスというソフトを愛用しています。でも、このソフトは、Win95版しかありません。それを今XPに入れて利用しています。
ですから、印刷バグなどがあり、完全には使えない状態です。
ウインドウズなので、ワードやエクセルを使えればいいと思い、やってみたときの話しです。
とにかく、何がなにやらわかりません。
改行するだけでも、文字がずれたり、おかしなことになってしまいます。

でも、ワードを使いこなす人がいます。
この人が作った文書は、なんでこんな文書が作れるんだ?と思うほどすごいものができます。
エクセルにいたっては、ちょっとしたソフトのようです。
ぼくはそれを使うだけでも大変です。

ワードやエクセルなどは、高機能ですごいことができるのでしょうが、使える人が使うとすばらしいものができるのに、使いこなせないぼくが使うと、ストレスはたまっても、成果はなかなかたまりません。

実は私達も同じなのです。
イエス様の御心を知り、それに従うことが出来れば素晴らしいのですが、なかなかそうはいきません。思いは良いのですが、方法が間違っていたり、神様の時でなかったり・・失敗の連続かもしれません。
そうです。私達は完全ではないのです。完全な方はイエス様のみです。
だから、安心してください。時々間違って良いのです。
でも、イエス様を愛し、イエス様に従いたい・・という思い、心を持っているならば、
イエス様は、不完全な私達を完全に用いてくださるお方です。

私が使ってもたいした成果はできないワード等も、使いこなせる人が使うと素晴らしい成果が出来上がるように、私達がイエス様に委ねるなら、完全に用いてくださると信じます。

モーセが持っていた思い『神の民であるイスラエルの人々を救いたい!』という思いは決して間違ってはいませんでした。でも方法や時が間違っていたのです。
そして、エジプトから逃げ出し、ミデヤンの地にやってきました。
でもそこでアブラハムの子孫である祭司とであうことが出来たのです。
モーセは不完全だったかも知れません。でも神様はそんなモーセの心を見ておられたのです。そして、モーセを呼ばれるのです。イスラエルの民をエジプトから救い出すために。
今日は、イエス様があなたを呼ぶ時・・・というテーマでお話します。
イエス様が呼ばれるのは、モーセだけではありません。
あなたも呼ばれるのです。素晴らしいイエス様の栄光をあらわすために。


1.イエス様が呼ばれた時・・モーセは羊を飼っていた。

モーセはエジプトから逃げ出し、ミデヤンの地で暮らすことになります。
そして羊を飼っていました。
神がエジプトからイスラエルの人々を導くためモーセの名を呼んだ時、彼は羊飼いだったのです。
実は、これはとても大切なことです。
それは、仕事で仕える、ということの大切さをあらわしているからです。

聖書には仕事をしている時に呼ばれた人が他にもいます。ペテロ・マタイ・ダビデ・・
ペテロは漁師でした。そしてひたむきに仕事をしていたのです。一晩中漁をしていたのですから。
マタイは収税人として働いていた時にイエス様が「私に従って来なさい」と呼ばれました。
またダビデは、(モーセと同じように)羊を忠実に飼っている時に選ばれたのです。
格好良くゴリアテを倒した後・・ではないのです。

Ⅰサムエル16:11 サムエルはエッサイに言った、「あなたのむすこたちは皆ここにいますか」。彼は言った、「まだ末の子が残っていますが羊を飼っています」。

サムエルがイスラエルの次の王となるべき人がこの家にいる、といってやってくれば、
ひょっとして私かもしれない・・と思ってまっているのが普通でしょう。
でもダビデはそんな時も羊を飼っていたのです。与えられた仕事を忠実に仕えていました。
モーセも同じです。
祭司の娘と結婚したのですから、祭司になっていれば良かったのに・・と考えたことはありませんか?その方がなんだか良さそうですね。
でもイエス様はあえてそうはされなかったのです。
普通の仕事を、忠実に仕えている時に・・・です。

教会では霊的・・という人が注目を浴びますが、私はそうばかりではないと思います。
もちろん、祈り、イエス様の臨在を感じることはとても大切です。
出来るだけ敏感になりたいものです。

私の好きな御言に、、
Ⅰコリント1:22-25
ユダヤ人はしるしを請い、ギリシヤ人は知恵を求める。しかしわたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝える。このキリストは、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものであるが、召された者自身にとっては、ユダヤ人にもギリシヤ人にも、神の力、神の知恵たるキリストなのである。神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからである。

しるしや奇跡、知恵を求めるのは異邦人です。
そうではなく単純に十字架にかかられたイエス様を愛する心・・・それが大切です。
私達は、社会や学校でこそ人間関係や色々な問題、試練を経験するのではないでしょうか。
そこで忠実に仕えることができなければ、どうしてイエス様に忠実に仕えることができるでしょう。

マタイ25:40
すると、王は答えて言うであろう、『あなたがたによく言っておく。わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである』。
エペソ6:6-7
人にへつらおうとして目先だけの勤めをするのでなく、キリストの僕として心から神の御旨を行い、人にではなく主に仕えるように、快く仕えなさい。

たとえあなたが聖書とは全く違う仕事をしてたとしても、あなたが忠実に仕えているなら、それはイエス様に忠実に仕えているのと同じことなのです。
イエス様はあなたが何をしたのか、ではなく、いつもあなたの心を見ておられるからです。

わたしは今までいろんなところで仕事をしていました。
学生の時にはいろんなバイトもしてきました。
やめたいと思ったこともありますし、実際にやめてきて今があり、
今も仕事をしています。聖書とは遠い仕事です。
でも、それらの仕事での経験は、どんな聖書学校でも習うことの出来ない多くの学びがありました。その中でいかに忠実に仕えるのか・・、ということもとても重要です。

そしてそんな時こそ、イエス様があなたを呼ばれるのです。
さあ、あなたをわたしの栄光のために用いよう、と。
あなたのまわりの民を救い出すためにあなたを用いよう、と。
信じましょう。そしてイエス様の御声に耳を傾けましょう。



2.イエス様が呼ばれた時・・柴は燃えていた。

さて、モーセは燃える柴を見つけます。
あれはなんだろう?不思議なものがあるなあ・・・と思って近づいていきます。
炎が輝いているのです。

3:2 すると主の使いが彼に、現われた。柴の中の火の炎の中であった。よく見ると、火で燃えていたのに柴は焼け尽きなかった。モーセは言った。「なぜ柴が燃えていかないのか、あちらへ行ってこの大いなる光景を見ることにしよう。」

イエス様の臨在がある時、柴は燃えているのです。
私達もイエス様の臨在に触れるなら燃えるのです。
私達の心が燃えるのです。

ルカ 24:32 彼らは互に言った、「道々お話しになったとき、また聖書を説き明してくださったとき、お互の心が内に燃えたではないか」。

弟子達は、イエス様と話しをしているうちに心が燃えてきたのです。
おお!そうだ!そうだ!・・御言は私達の心を燃やします。なぜなら、それは単なる言葉ではないからです。
イエス様の命、生ける御言です。弟子達は御言を通してイエス様の臨在に触れたのです。
燃えること、そして輝くこと・・・それはとても重要なことです。

燃やされるなら、それは力です。
焚き火が燃やされているところは、暖を取ることができますから、人が集まってきます。人を引き寄せる力があるのです。しかし、燃えていない木がそこにあっても、人は集まってきません。
燃やされている人とそうでない人の違いも同じように出てくるでしょう。

輝くなら、それは力です。
光り輝いている場所に人は集まります。虫も寄ってくるでしょう。
輝きに力があるのです。輝く人とそうでない人の違いもまたそのようでしょう。

燃える柴を見てモーセが近づいてきたように、燃えている輝いているあなたを見て人が近づいてくるかも知れません。
私達は、イエス様の御言を通して心を燃やしましょう。
どんな時もワクワクするような希望があなたを包むのです。
どんな時も、輝く炎のように輝いているのです。

そして、本当に主にあって燃やされているなら、燃え尽きないのです。
炎の中の柴が燃え尽きなかったように。。。
一時的な感情だけで燃やされているなら、燃え尽きてしまうでしょう。
それはまさに燃えているからです。明日のジョーのように、真っ白な灰になっちゃうかも。。

私達は、イエス様によって、生ける御言葉によって燃やされましょう。
その炎は燃え尽きない炎です。

結)イエス様は「あなた」の名前を呼ばれる。
神様はモーセの名前を呼ばれました。
それは、神様はすべてを知っているということです。
そして個人的にあなたと出会いたいと願っておられるのです。
そして友達どうしのような親密な関係をイエス様は持ちたいのです。
それはあなたを満たし、心を燃やし、輝かすためです。
イエス様の臨在に触れましょう。
イエス様の御言葉に触れましょう。