09.9.6「幸いな人として」
詩篇 1:1-:3
:1 幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人。
:2 まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。
:3 その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。
序)幸いな人とは・・
ご主人の給料が同じで、夫婦と子供二人という家族構成も同じである二つの家族がいました。
Aファミリーは、住宅ローンを組んで家を建てました。月々の支払いは10万円でした。
それでも、なんとか支払いをしながら、自分の持ち家を持って充実感の中で毎日を過ごしていました。
かたや、Bファミリーは、アパート暮らしで、月々の家賃は7万円でした。
狭いとはいえ、なんとか生活していますが、経済的には少し余裕のある生活を過ごしていました。
どちらの生活が幸いでしょう。
アンケートをとるならば、意見が分かれるところでしょう。
何が幸いかはその人が判断することでしょう。
そういう意味では、幸いというのは、人それぞれの感じ方によるともいえますね。
あなたにとっての「幸い」とはどうでしょう?
今日、お読みした箇所は、神様が「幸い」とおっしゃっている箇所です。
しかし、その前に大前提があります。
私たちにとって何が幸いであるか。
それは、私たちの魂が救われて永遠の命をいただいている事です。
私たちがイエス様の十字架によって、その救いを得ている事です。
これが私たちにとって、最も幸いなことです。
これを前提とし、これも含めて、神様が幸いとおっしゃることとはどんなことなのか、一緒に見て行きましょう。
1.幸いな人とは:1
「悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座につかなかった、その人。」
これは言葉通りのことをいえば、
悪者の計画に乗せられて共謀するようなことをしない、とか、
罪を犯す人生を歩まない、とか、
人の悪口を言ってばかにしたり笑ったりするようなことをしない、といったことです。
現実的には、銀行強盗を企む人に「一緒にやらないか」と誘われてその計画に乗るような人はいないでしょう。
また、自ら罪とわかっていて、その道を歩もうとする人もいないでしょう。
でも、罪人というのは、何も悪いことをするという意味だけではありません。
まことの神様から背を向けて歩むことが「罪」なのです。
ですから、神を信じない道に立つことをも意味しているといえるでしょう。
ですから、神様に心を向けて歩む人は幸いですね。
また、人をばかにして笑ったり、悪口を言ったりするような場に遭遇することもあると思いますが、そのようなところにも参加しないというのが幸いな人だと言っています。
ついつい腹が立つことがあったりすると、悪口を言ってしまったり、言っている人と一緒になって同調したりという弱さはありますが、そうしない人を幸いな人だと言っているのです。
私たちは、目に見える出来事や人に対しても、注意する必要はありますが、その背後に働く悪の力に対して目を見張って、悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かない人になりたいですね。
さて、そういう人は「幸いな人」だといわれているわけですが、
そうは言っても、自分の力でこれを実行することは困難を覚えることも多々あるでしょう。
実はそういう人には、そうなれる理由があるのです。
それが・・・
2.幸いな人となれるには:2
「まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。」
もし、先ほどのようなことを自分の力でやろうと思うなら、大変なことでしょう。
おそらく自分の弱さに失望することになるかもしれません。
しかし、幸いな人は、そうなれる理由があります。
それが、ここです。
その人は、主の教えを喜びとします。聖書の言葉を喜びとするのです。
それが自分にとって、受け入れがたいことであっても、喜びとする人は幸いな人です。
そして、昼も夜もその教えを口ずさむ、とあります。
聖書の言葉を喜びとして受け入れ、いつも思い巡らし、口ずさんでいるなら、それに反する思いが自分に来た時に、気付きが与えられて、祈ることができるでしょう。
このように、神の言葉、聖書の言葉が幸いな人にとって、力となるのです。
ヤコブ 1:21 ですから、すべての汚れやあふれる悪を捨て去り、心に植えつけられたみことばを、すなおに受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます。
口語訳>御言には、あなたがたのたましいを救う力がある。
心に植えつけられた御言葉には、魂を救う力があるのです。
御言葉を心に植えつけましょう。
そのためには、まず聖書を読みましょう。そして、ディボーションしましょう。
御言葉を心に植えつけるためです。
御言葉をいつも口ずさむためです。
主の教えを喜びとし、昼も夜もその教えを口ずさむものになりたいですね。
そして神様は聖霊として、私たちと共にいて助けて下さるのですから、ますますイエス様を求めて、聖書に親しむものとなりたいと思います。
では、そのような幸いな人はどうなるのでしょう。
3.幸いな人の道には:3
「その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。」
素晴らしい祝福です。
水路のそばに植わった木は、その水路から十分な水分をとり、栄養をとり、成長します。
そして、季節がくると実が自然となり、その葉は枯れることもありません。
そんな人生を歩むことができるという約束です。
私たちが主の教えを喜びとし、いつもその教えを思い、実践していく、
つまり、悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざけるものの座に着かないなら、
絶えず必要に満たされ、何か特別なことを何もしなくても、時が来ると自然と実を結びます。
そして、何をしても栄えるのです。
アブラハムは、神様の祝福がいつもありました。だから、何をしても栄えました。
そんな人生が私たちにも用意されています。
しかし、このことは、今の私たちにはなかなか理解できないかもしれません。
「今、なかなかうまくいかないことがある。これで本当に幸いな人生なんだろうか・・」
もし、そのように感じるなら、理由は2つのうちどちらかだと思います。
1つは、主の教えを喜びとせず、その教えを思わず、口ずさまず、実践していないから。。
私も含めて、多くの場合、これが一番の原因ではないかと感じています。
だから、今回、聖書を読むこと、ディボーションすること、祈ることに重点を置いて取り組もうとしています。
そうするならば、神様が見せてくださっているビジョンは神様が実現させてくださる、その実を結ばせてくださるに違いないのです。
私もチャレンジです。皆さんもチャレンジを受けて、プレッシャーに感じておられるかもしれません。でも、神様の前に取り組むべきことだと確信しています。
互いに励ましあって、取り組んでいきたいと願います。
もうひとつは、
そのようにしているが、今はまだわからないだけ。。
人生の終わりに、振り返ったときに、
「歩んでいる最中は気づかないことが多かったけど、
本当に幸いな人生だった。」とわかるに違いないと信じます。
そんな人生であるためにも、御言葉を心に植えつけるために、聖書を読み、祈り、イエス様と交わるものとなりましょう。
そのように、私たちが今、イエス様に目をむけ、イエス様を目指して、イエス様と共に歩む人となるなら、本当に幸いですね。
今日、幸いな人としての一歩を踏み出す人はすばらしい人生への一歩です。
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