09.8.9「たましいに安らぎを」
マタイ11:28-30
:28 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
:29 わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。
:30 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」
序)休みは必要
人には休みが必要です。
旅行に行ったり、スポーツをすることで、リフレッシュすることも休むことになる場合もあるでしょう。
ゆっくり寝て休むというのは一番身近な休み方かもしれません。
人それぞれ休み方も違うかもしれませんが、休みは必要なものです。
そのようにいろんな方法でみなさんは体を休めたり、心を休めたりすることをしておられると思います。
では、魂の休みはどこでどのように得るのでしょう。
魂の休みを与えられるイエス様を今日の聖書の箇所から見て行きましょう。
1.<誰が> すべて(:28)
例外はないのです。全ての人です。クリスチャンだからそうじゃないからという条件もなにもないのです。
イエス様は、全ての人に魂の休みを与えて下さる方なのです。
つまり、今日ここにおられるみなさんも一人残らずイエス様は対象として見てくださっているのです。
2.<どういう時に> 疲れた人、重荷を負っている人は(:28)
十分に休みをとって元気な人には必要ないかもしれません。
でも、そんな人はいるのでしょうか。
みなさんは、心が傷ついた経験はありますか。
友達とうまくいかなかったり、失恋したり、仕事がうまくいかなかったり、やろうと思っていた事ができなかったり、家族が出て行ってしまったり、亡くなったり、信用していた人から裏切られたり、、、。人はその傷の深さは違ったとしても、誰もが傷つく経験をしているのです。
心が傷つくと、魂は疲れます。重荷を負います。つまり誰もが疲れた人、重荷を負っている人となるのです。
イザヤ 61:1 神である主の霊が、わたしの上にある。主はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。・・
聖書は、心の傷ついた者がいることを前提に「心の傷ついた者をいやすために・・」と書いてあります。
イエス様は、心の傷ついた者を癒すお方なのです。
そして、疲れた人、重荷を負っている人に魂の休みを与えると約束してくださっているのです。
3.<どこで> わたしのところに来なさい(:28)
イエス様のところに行くことが魂の休みへの第一歩なのです。
私たちも、魂の休みが必要なときは、まずイエス様のもとへ行けばいいのです。
イエス様は心優しく、へりくだった方だから、この方のもとで休みが与えられるのです。
では、どのようにして休ませてくださるのでしょう。
4.<どのようにして>
①わたしのくびきを負って(:29)
くびきとは、牛を並べて歩かす為に用いたりする横板のことです。
農作業をするときに、今はトラクターがありますから、耕す時にはそれを使いますが、家畜に頼っていたときには、何頭かの牛を並べて、耕す鍬のようなものをひかせるわけですが、牛のスピードが一定になるために、使ったのがくびきというものです。
これは何を意味するのでしょうか。
イエス様と歩調を合わせて歩むことを意味するのです。
マラソンとかでは、最初からハイペースだと後から失速します。
かといって遅いと引き離されて後から追いつけなくなってしまいます。
また、ペースが乱れると余計な体力を消耗してしまったりします。
その人にとって一番いいペースで走ることが重要です。
24時間テレビでは、100kmマラソンが恒例になっていますが、練習段階でスペシャリストからアドバイスを受けたり、走るときはペースメーカーがついたりします。
私たちもイエス様と歩調を合わせることで、休みを得る事ができるのです。
イエス様のくびきとは、聖書の言葉です。
自分の勝手なペースで進むのではなく、聖書の言葉に聞き従うことです。
聖書を通して、イエス様が今、私に何を語っているのか。
その言葉に従う・・・これがイエス様のくびきを負うことだと思うのです。
②わたしから学びなさい(:29)
イエス様から学ぶ。イエス様ならこんな時、どうされるか。
その答えは聖書にある。
聖書は、神を愛し、自分を愛し、隣り人を愛することを命じています。そして、全ての律法がこれにかかっているとあります。
イエス様の愛を受け、愛に生きる。
イエス様は、弟子の一人であるイスカリオテのユダが自分を裏切る事をご存知でした。
それを知っていた上で、全ての弟子達を愛し、最後まで愛しとおされたのです。
そして、十字架の死に至るまで、自らの使命をまっとうされました。
イエス様の十字架は、罪の刑罰です。
死刑という刑罰です。イエス様は何か罪を犯されたのでしょうか。
聖書を見ると、イエス様は罪を犯されませんでした。
ヘブル 4:15 私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。
では、なぜ十字架で死刑になったのか、それは誰の罪のためか。。
それは、私の罪のためです。そして、あなたの罪のためなのです。
聖書は、全ての人は罪人だと言っています。
ローマ 3:23-24 すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。
全ての人が、心に癒しを必要としているように、全ての人には罪の許しが必要なのです。
そのために、神様が人類の歴史上ただ一度だけ、地上に生まれられ、その人類の罪を負われ、十字架でその刑罰を身代わりに受けてくださったのです。
あなたがイエス様を知る前にすでにイエス様はあなたのためにも命を捨ててくださったのです。
そして聖書は、ここに愛がある。と言っています。
イエス様から学ぶときに、本当の愛を知ります。この愛に生きることはすばらしいことです。
5.その時に、「魂にやすらぎ」が与えられる。
魂に休みを得たいなら、安らぎを得たいなら、
イエス様のもとにきて、御言葉に従い、イエス様の愛を受けて、愛に生きるものになりましょう。
イエス様があなたの罪の身代わりに十字架に架かって死なれました。
あなたが、イエス様を罪からの救い主として信じ、受け入れるなら、あなたの罪は神の前に許され、まるで罪のないもののように認められるのです。
そして、その時、本当の意味でイエス様の愛を受け止める事ができるでしょう。そして、この愛に生きる事ができるようになるのです。
あなたは、魂の安らぎを得ていますか。
求めるなら、今すぐ得る事ができます。イエス様のもとに踏み出しましょう。
あなたは、魂の救い、罪の許しを受けていますか。
求めるなら、今すぐ得る事ができます。イエス様は待っておられます。
そして、魂に休みを得たなら、さらにイエス様を求めましょう。
ヨハネ7:37-38
「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」
生ける水が川となって流れ出て、人々を潤すものとしてイエス様に用いていただきましょう。
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