09.7.5「言葉にある命」
ヨハネ1:1~14 創世記1:1~
: 1初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。
: 2この方は、初めに神とともにおられた。
: 3すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。
: 4この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。
: 5光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。
: 6神から遣わされたヨハネという人が現われた。
: 7この人はあかしのために来た。光についてあかしするためであり、すべての人が彼によって信じるためである。
: 8彼は光ではなかった。ただ光についてあかしするために来たのである。
: 9すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。
:10この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。
:11この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。
:12しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。
:13この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。
:14ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。
序)言葉には・・
言葉にはいろんな意味で、力があり、命がある。
先日、テレビで、ゲストにある女性タレントが出ていて、実は読書が趣味で・・・という話しをしていた。
彼女は、その本の中で感銘を受けた言葉に付箋をつけて、何かあると読み返して励みにしているということを言っていました。
人は、いろんな言葉や話しによって、心に何かを感じ、励まされたり、癒されたり、力を受けたりするものです。
そういう意味でも、言葉というのは、いろんな意味で力があり、ある時は命となることもあるのです。
なおさら、神の言葉(聖書)には命があります。
1.言葉は神であった(ヨハネ1:1,2)
神の言葉が受肉した(形として現れた)のが、イエス様。(ヨハネ1:14)
そしてこの言葉は「初めにあったもの」そして、神である。(創世記1:1)
聖書の言葉を扱う時は十分に気をつける必要がある。
講壇から語られるメッセージは、あくまでもメッセンジャーが聖書を通して受けた悟りである。
このことは注意が必要です。
だからといって、何か警戒しなければならないというわけではありません。それなら、私が今語っているこのメッセージも本当に警戒して聞く必要があることになってしまいますね。
「牧師の言ってることは、おかしなことじゃないだろうか?」と。
メッセージを通して励まされ、慰められ、教えられることは素晴らしいことだが、神の言葉そのものではない。
みなさんが、メッセージを聞いて、励まされたなら、それはそれで受け止めればいいし、恵みです。
ただ、その言葉が神の言葉ではなく、神の言葉を通して○○さんが悟った悟りを通して励まされた、慰められた。
○○さんが体験した神様の話しを聞いて、励まされた、慰められた、力が湧いてきた。。。
単純に言えば、
私がメッセージで「言葉は神であった」と聖書に書いてあります。ですから、神様の正体は言葉なのです。
と言った場合。
「神様の正体は言葉だ」というのは、私の悟りであって、神の言葉ではない。
しかし、「言葉は神であった」というのは聖書の言葉そのものですから、神の言葉である。ということなのです。
神の言葉は「聖書そのもの」であることを忘れてはいけない。
だが、近年、この聖書そのもの・・・というものも注意が必要な時代になりつつある。
欧米の英語圏における評判の良い聖書翻訳といえば、何といっても
KJV (King James Version)と言われていますが、この訳とくらべて、
近年のアメリカにおいて発行される聖書翻訳は、大きく改ざんされている。
例えば、ある訳は、KJV訳と比べて何と、6万語以上もの単語が削除されているそうです。
黙示録1:5節をKJV訳で読むと;
「また、忠実な証人、死者の中から最初によみがえられた方、地上の王たちの支配者であるイエス・キリストから、恵みと平安が、あなたがたにあるように。イエス・キリストは私たちを愛して、その血によって私たちを罪から清め」
とあるが、
「その血によって私たちを罪から清め」の「清め」の部分について
他の英訳聖書のほぼ全てが「罪から解き放ち」「罪から自由にした」と訳されている。
罪から清められる血が、清めではなく、解放になってしまっている。
神の神性の示す「神が・・・」というところが、「彼が・・・」となってしまっていたり。。
今は聖書であっても、その言葉が全く完全に神の言葉であるといえるか怪しい時代であることも付け加えておきます。
どちらにせよ、聖書の(神の)言葉を扱うものも注意が必要だが、受け止める側も注意が必要であるということです。
しかし、神の言葉がすばらしいものであり、命を与えるものであることははっきりしています。
2.これ(言葉)によって全てのものはできた(ヨハネ1:3)
天地万物は神の言葉によってできました。
神の創造の方法は、「言葉」によったのです。
神様は、私たちに、神の言葉(聖書の言葉)を与えて、わたしたちの内側に良きものを創造して下さるのです。
そして、私達もまた言葉によって、いろんなものを作り出しています。
先ほどのタレントもそうであったように、ある言葉によって、自分を励まし、自分の目標やビジョンを言葉にして行動していくことによって、それを実現していたりします。
これは、私達人間が元々神に似せて造られたものであるからなのでしょうか。
よく、実現したい目標やビジョン、夢をはっきりと紙に書くと実現するだとか、それを口に出して告白すると実現するだとか言いますが、ある意味では、その通りです。
それは、良いことにつけ、悪い事につけ、です。
しかし、神がその言葉によって造られたものは、全て良いものでした。
創世記1:31 そのようにして神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常によかった。
私達は、神様の言葉によって、今もよき物を作っていただく事ができるのです。
世の成功のために、自己中心な欲求のために、神の法則を利用するものではなく、神様の言葉によって、神の御心にかなうものへと自分自身を作っていただくなら幸いです。
そして、それは神様がされることです。私達の中に届けられる神の言葉によって。。
また、神様は私達に良い思い、願いを起させて、それを実現してくださる方でもあります。
ピリピ2:13 あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである。
私達の中に、神の言葉によって、創造の業をなしてくださる神様にもっともっと委ねるものになりたいですね。
3.この言葉に命があった(ヨハネ1:4)
私たちはこの言葉をいただいた時、内側に命が芽生える。
これは神が無から有を生み出されるということです。
この命は光となり、闇に勝つのです。
もし、内側に悪い思いがあるとするならば、神の言葉を受け取りましょう。
神の言葉は命であり、あなたの内で光となります。
その光は、闇に、悪い思いに打ち勝つのです。
だから、もっともっと神様の言葉に満たされるものとなりたいですね。
神の言葉には命があります。命があるから、神の御心の中で実現していくのです。
神の言葉にもっともっと満たされるなら、幸いです。
結)神の言葉をいただき、内側に命あるものとなるために。
「イエス・キリストを心にお迎えする」(ヨハネ1:9-14)
これは、恵みによるのです。
心の戸の外に立って戸をたたいているイエス様に気付いたら、すぐにお迎えしましょう。黙示録3:10
何か難しい行いをすることではないのです。イエス様をいつも心にお迎えするのです。
もし外に追い出してしまっていたら、イエス様は戸をたたいて私たちが戸を開けるのを待っていて下さいます。
気付いたら、謙遜になって(その事実を認めて)、イエス様をお迎えしましょう。
クリスチャン生活とは、とてもシンプルなものです。
「イエスさまをお迎えする」これがスタートであり、永遠の課題かも知れません。
イエス様を心にお迎えし、神の言葉に益々満たされ、神様からの素晴らしい実を結ぶ人生を歩もうとされるなら、幸いです。
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