09.4.12復活祭「復活のイエス様にある平安」
ヨハネ20:19-23
:19その日、すなわち週の初めの日の夕方のことであった。弟子たちがいた所では、ユダヤ人を恐れて戸がしめてあったが、イエスが来られ、彼らの中に立って言われた。「平安があなたがたにあるように。」
:20こう言ってイエスは、その手とわき腹を彼らに示された。弟子たちは、主を見て喜んだ。
:21イエスはもう一度、彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」
:22そして、こう言われると、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。
:23あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたがだれかの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります。」
序)イエス様の復活
イエス様の復活を記念することはは、大変重要なことです。
四つの福音書全てに書かれてあることからもわかります。
クリスマスに比べると、一般的な知名度は低いですが、私達にとっては、クリスマスと同様に重要なことです。復活がなければ、私達の信仰も虚しくなります。
私達が今日、日曜に礼拝を持っているのも、この復活に関係があります。
イエス様が十字架に架かられたのは、金曜です。そして、土曜日が安息日で、翌日曜の早朝にイエス様は復活されました。ですから、イエス様の復活なさった日曜の朝に礼拝を持つようになったと言われています。
ある意味で、日曜の朝に礼拝を持っていることは、安息日を守るためというよりも、復活のイエス様を記念する為といえるのかも知れません。
それほど、イエス様の復活は重要なことであるのです。
今日はこのイエス様の復活の箇所から、ともに命のパンである神様の言葉をいただきたいと思います。
1.イエス様は平安を与えられる。
「平安があなたがたにあるように」
復活されたイエス様は、弟子達のところに入ってきて、「平安があなたがたにあるように」といわれました。
イエス様は、私達の中にやってきて、平安を与えてくださるのです。
いつの時代も、人々はいろんな不安や恐れを持っているものでしょう。
貧困の不安、戦争の恐怖、病気の心配、生活の不安、社会への不安、教育への不信、経済の不安等、時代や地域や環境や状況によって、いろんな不安や恐れの中で人々は生きています。
特に今は、大変な経済状況の中で多くの人が不安のなかにいます。
製造業の会社は、仕事が少なくて大変な状況であることをよく聞きます。私の仕事の業界も大変な状況です。
今までのような生活を全ての人々が望めるような状況ではなくなるのかも知れません。
そういう意味では、不安を持っている人は相当な数でしょう。
しかし、イエス様が私たちに平安を与えてくださるのです。
平安を与えてくださるのは、イエス様だということを是非覚えてください。
その平安は、どのような平安でしょうか。
あなたの会社に仕事が増えて、給料も増えてくれば平安でしょうか。
病気が治り、健康に生活できるようになれば平安でしょうか。
それらは、素晴らしいことです。当然平安も来るでしょう。
でも、いつまた景気が悪くなって、経済的な不安がやってくるかもしれないと思うと、その平安はいつまで続くのでしょう。
いつまた病気が再発するとか、違う病気になるかもしれないと思うとどうでしょう。
外出して、事故にあって怪我するかもしれない、もしかしたら、死んでしまうかも知れない。
戦争が起こって、殺されてしまうかも知れない。
究極の恐怖は死の恐怖でしょう。
そのように考え出せば、お金や癒しによって得られる平安はいつ亡くなってしまうかもしれないものです。
イエス様が与えられる平安は、そのようなものとは違います。
あるときは、経済を支えて平安を与えられるときもあるでしょう。
あるときは、病気を癒して平安を、あるときは事故などから守って平安を、、。
しかし、イエス様から来る平安は、それらを超越したものです。
それが、イエス様の復活によって示されました。
私たちは、お金がないと不安でしょう。病気になると不安でしょう。戦争が起こったら不安でしょう。そして、それが継続していくと最終的な不安は、「死」です。
お金がなくて、食べるものがなくて、死んでしまうんじゃないか。
病気が治らず、死んでしまうんじゃないか。
戦争で殺されてしまうんじゃないか。事故で、事件で、、、。
その「死」を打ち破って、復活されたのがイエス様です。
私たちがイエス様からいただく平安は、たとえ私たちの肉体が滅ぼされても、決して滅ぼされるこのない魂の平安なのです。
エペソ書で、パウロは、自らの願いは肉体を去ってキリストと共にいることだといいました。しかし、あなた方のために肉体にとどまる事が必要だから、肉体にとどまっていると言っています。
パウロは、イエス様からのこの「平安」をいただいていたのでしょう。
だから、死ぬ事によって主のもとにいけるという喜びと平安に満たされていたのだと思います。
私たちが、イエス様に「平安」をいただき、これに満たされるなら、どんな状況や境遇にあっても、たとえ死ぬ事になったとしても、その平安は奪われる事はないのです。
もし、お金が満たされたり、いろんな地上の不安がなくならないと平安が来ないというなら、それは、イエス様の平安に満たされていないからです。
イエス様は、そんなあなたに今日、復活から来る平安を、サタンに奪われる事のない平安を与えて、満たしたいと願っておられるのではないでしょうか。
この平安をいただき、満たしていただくなら、素晴らしい主の復活を体験することでしょう。
2.イエス様は遣わされる。
「あなたがたを遣わします」「聖霊を受けなさい」
この世の中で今、多くの不安を抱えている人々はたくさんいます。
その人々に、それらを超越した平安があること、魂の救いによって得られる平安があることが伝えられなければならないのです。
ですから、イエス様は、「平安があるように」と言われた後、
イエスはもう一度、彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」
そして、こう言われると、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。
あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたがだれかの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります。」
「あなた方を遣わす」と言われ、息を吹きかけて「聖霊を受けなさい」といわれました。
聖霊を受けて、その力を受けるとき、私たちはイエス様によって遣わされるものとなるのです。
エマオへの途上で復活のイエス様に出会った弟子達も、イエス様と話しているとき、心が燃えたと告白しています。
復活のイエス様の出会うとき、心がうちに燃やされるのです。
霊が復活し、生かされるのです。だから、遣わされることができるようになるのです。
地上の問題がイエス様によって解決されることも素晴らしいことです。
しかし、地上のことを求めるのではなく、私たちの目は、天に、イエス様に向けられていなくてはならないのではないでしょうか。
イエス様は私たちをそのように遣わしたいと願っておられるのです。
結)イエス様の復活に預かるのは・・
イエス様の復活に預かる私たちは、イエス様の平安をいただき、満たされましょう。
この平安は、変わる事がなく、奪われる事もなく、滅ぼされる事もない、究極の平安です。
いつ変化するかもしれない、いつ滅ぼされるかも知れないような地上の平安を求めている人々に、この復活のイエス様からの平安が届けられるなら、それはなんと素晴らしい事でしょう。
私たちがその一人となれないでしょうか。
もう一度、イエス様の平安を受けて、聖霊を受けて、命と力に溢れ、遣わされるものとなるなら幸いです。
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