09.5.3「使命に目覚める」
ヨハネ21:1-7
:1この後、イエスはテベリヤの湖畔で、もう一度ご自分を弟子たちに現わされた。その現わされた次第はこうであった。
:2シモン・ペテロ、デドモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナのナタナエル、ゼベダイの子たち、ほかにふたりの弟子がいっしょにいた。
:3シモン・ペテロが彼らに言った。「私は漁に行く。」彼らは言った。「私たちもいっしょに行きましょう。」彼らは出かけて、小舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。
:4夜が明けそめたとき、イエスは岸べに立たれた。けれども弟子たちには、それがイエスであることがわからなかった。
:5イエスは彼らに言われた。「子どもたちよ。食べる物がありませんね。」彼らは答えた。「はい。ありません。」
:6イエスは彼らに言われた。「舟の右側に網をおろしなさい。そうすれば、とれます。」そこで、彼らは網をおろした。すると、おびただしい魚のために、網を引き上げることができなかった。
:7そこで、イエスの愛されたあの弟子がペテロに言った。「主です。」すると、シモン・ペテロは、主であると聞いて、裸だったので、上着をまとって、湖に飛び込んだ。
序)テベリヤ湖畔で、弟子達に現されたイエス様
イエス様が復活された後、弟子達にご自身を現されました。
そして、ここでも、ペテロや他の弟子達に現された出来事が書いてあります。
1.「私は漁に行く。」
イエス様が復活されて、ペテロ達は既に復活のイエス様に出会っていました。
でも、以前のようにいつも一緒におられたわけではなかったようです。
そこで、ペテロは漁に行くと言い出したのです。ペテロは、もともと漁師でしたから、いわば本職です。
しかし、その夜は何も取れませんでした。
ペテロは、もともと漁師だったのですが、イエス様の弟子となったときに、何もかも捨ててイエス様に従っていったのです。
つまり、漁師を辞めて、イエス様の弟子となったのです。
ところが、イエス様が十字架で死なれ、葬られてしまいました。その後、イエス様が復活され、そのイエス様に出会っていたのですが、先ほども話したように、以前のようにいつも一緒にいるというわけではなく、このテベリヤの湖畔にいるときも、イエス様が今どこにおられるのかわからない状態だったのでしょう。
ペテロは、イエス様がおられないから、自分の力でできることとして漁に出ようと思ったのでしょうか。あるいは何もすることがわからず、以前の仕事である漁師をやろうと思ったのでしょうか。
「私は漁に行く」と言い出したのです。すると、他の弟子達も「私達も一緒に行きましょう」と一緒に漁に出かけました。
ペテロは自分が一番得意とすること、イエス様に頼らなくても、漁師なら自分の力でやっていけると思っていたことをやろうとしましたが、結果は収穫ゼロでした。
しばらくやってなかったから、腕が鈍ったかなぁとか、思ったかも知れませんね。
私達は、イエス様がわからなくなったり、見えなくなったりすると、自分の力で何とかしようとしてしまったりすることはないでしょうか。
また、自分の方法で何とかをしようとすることはないでしょうか。
実際にそのように自分の力に頼ったり、自分の方法に頼っても、何の結果も得られなかったり、何もできなかったりする事もあるでしょう。ペテロのように・・・。
信仰生活を送っていると、そのようにイエス様がわからなくなったり、見えなくなったように感じることがあるかもしれません。
でも、だからこそ、イエス様に自分自身を向けるべきなのに、目に見える自分であったり、周りの人に目を向けてしまって、そこに拠り所を見つけようとしてしまうことがあるんじゃないでしょうか。
でも、その結果は、いつも期待通りだとは限らないのです。
聖書は、たとえとして捕らえる必要がありますから、ここでは、自分の持っている能力が発揮できる仕事をしてはいけないというメッセージではありません。
これは、イエス様を身近に感じられないと思ってしまったときでも、自分の力や方法に頼ってしまってもそこに解決はないということを教えているのではないでしょうか。
イエス様の弟子としてイエス様と共に生活していたようなペテロだったのに、イエス様が目の前におられないと、自分の力や方法に頼ってしまいました。
でも、イエス様はそれを望んではおられなかったのです。
では、どうすればいいのでしょう。
2.「舟の右側に網をおろしなさい。そうすれば、とれます。」
夜明け頃、収穫ゼロで意気消沈していたペテロ達の前で、イエス様は岸べに立たれました。
でも、弟子達はそれがイエス様であることがわかりませんでした。
遠くだったから、誰なのかわからなかったのでしょうか。
聖書はたとえとして私達に教えてくれますから、それだけではないと思います。
イエス様に目を向けず、自分の力や方法に頼ってしまった弟子達は、イエス様を見る事ができなかったのです。
心の目が閉ざされた私達は、イエス様がたとえ目の前に立っておられたとしても、それに気付く事ができなくなってしまう事もあるのです。
そして、「食べるものがありませんね」と言われ、
「舟の右側に網をおろしなさい。そうすれば、とれます。」と言われました。
そして、網を下ろしてみると、おびただしい魚が取れ、網を引き上げる事ができないほどでした。
ペテロ達は、自分達の力や方法に頼ったとき、何の収穫もありませんでした。
ところが、イエス様の言うとおりにしたら、大収穫があったのです。
イエス様の力、イエス様の方法で行動するなら、そこには収穫という結果があります。
そのことが教えられます。
私達がイエス様を感じられない、どこにおられるかわからない、と思って、イエス様に目を向けようとせず、自分の力や方法に頼ってしまいたくなるとき、本当すべき事は、イエス様を求めることではないでしょうか。
今、未曾有の不況だといわれています。だから経済の必要がある。仕事の必要がある。
こんなひどい状況で、イエス様がどこにおられるかわからない。イエス様に頼っていても生活できない、と言って、自分の力や方法だけで何とかしようとするでしょうか。そこには、結果はないかもしれません。
「イエス様、経済を祝福してください。仕事を与えてください。」と祈るでしょうか。
それもそれで必要です。
しかし、一番大切なことは、本当の解決を持っておられるイエス様ご自身を求めることではないでしょうか。
そこにイエス様がおられ、そのイエス様を見出すなら、そして、そのイエス様の力や方法で行動するなら、解決へと導かれるのです。
結)使命に気付く
イエス様の方法は、「舟の右側に網をおろしなさい。」でした。
当時、漁というのは、夜するものでした。ですから、夜明けになると魚が取れなくなるので、仕事は終了です。
ところが、夜明け頃にイエス様は、網を下ろすように言われたのです。
人間的には、今頃網を下ろしても取れるわけがない。漁に適した時間帯に一晩中やってたのにだめだったというのに・・・と思うでしょう。
でも、イエス様の言うとおりにしたら、大収穫だったのです。
はて、このシーン、見たことがあるような・・・
ルカ5:4-6
話が終わると、シモンに、「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい」と言われた。
するとシモンが答えて言った。「先生。私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。でもおことばどおり、網をおろしてみましょう。」
そして、そのとおりにすると、たくさんの魚が入り、網は破れそうになった。
ペテロがイエス様に出会い、この出来事の後に、弟子となったのです。
その時と同じです。
だからだったのでしょうか。ある弟子がペテロに言ったのです。
「主です。」
この出来事から、岸べに立っておられる方がイエス様であることがわかったのかもしれません。
ペテロは、自分がイエス様の弟子となったときと重ね合わせたかもしれません。
そして、自分がするべきこと、その使命をもう一度確認できたのではないかと思うのです。
それは、イエス様の弟子となるときに、イエス様に言われた言葉です。
「これから後、あなたは人間をとるようになるのです。」(新改訳)
「今から、あなたは人間をとる漁師になるのだ。」(口語訳)
ペテロは、自分はもう一度、魚を取る漁師に戻る事が自分の道ではなく、人々に神の国を述べ伝え、神の国に人々を導くことが自分の使命であることに気付いたのではないでしょうか。
イエス様は、ペテロにそのことを気付かせる為に、この出来事の中で、ご自身を現されたのではないかと思うのです。
私達もまた、神様から与えられた使命があるのです。その使命に生きているでしょうか。
忘れているなら、神様が気付かせてくださることがあるでしょう。
そのためにも、ここから私達は学ぶ必要があると思うのです。
自分の力や方法で行動するのではなく、イエス様ご自身を求めて、イエス様の力や方法に頼り行動するのです。
その時に、本来の私達の使命に目覚めさせてくださると信じます。
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