09.8.30「 新しい戒め 」
1ヨハネ 3:16-:24
:16キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。
:17世の富を持ちながら、兄弟が困っているのを見ても、あわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょう。
:18子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行ないと真実をもって愛そうではありませんか。
:19それによって、私たちは、自分が真理に属するものであることを知り、そして、神の御前に心を安らかにされるのです。
:20たとい自分の心が責めてもです。なぜなら、神は私たちの心よりも大きく、そして何もかもご存じだからです。
:21愛する者たち。もし自分の心に責められなければ、大胆に神の御前に出ることができ、
:22また求めるものは何でも神からいただくことができます。なぜなら、私たちが神の命令を守り、神に喜ばれることを行なっているからです。
:23神の命令とは、私たちが御子イエス・キリストの御名を信じ、キリストが命じられたとおりに、私たちが互いに愛し合うことです。
:24神の命令を守る者は神のうちにおり、神もまたその人のうちにおられます。神が私たちのうちにおられるということは、神が私たちに与えてくださった御霊によって知るのです。
ヨハネ13:34-35
:34あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。
:35もしあなたがたの互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。
序)
先週、「一番大切な戒め」というお話を分かち合いました。
オアシスチャーチの理念ともいえるメッセージだとお話ししました。
さらに今日のメッセージはその続きのようなもので、先週と今週とでセットになっています。
さて、聖書をみていきましょう。
旧約に多くの戒めを与えられたにも関わらず、新約の時代にイエス様が来られて、私達に新しい戒めを与えられました。
ですから、これは新約に生きる私達にはかなり重要な戒めに違いないと思うのです。
その戒めというのが、
「わたし(イエス様)があなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」
です。
今日はこの戒めについて再度見ていきましょう。
1.イエス様の愛を知る。
「わたしがあなたがたを愛したように・・・」ヨハネ13:34
「キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。」1ヨハネ3:16
今年、私は免許の更新の年です。
今は誕生日の前後1ヶ月、2ヶ月間が更新期間で、直前にハガキで通知がきます。
3年とか5年とかの有効期間がありますから、5年もたつと、この通知がこないと忘れてしまいそうですね。でも、事前に通知が来るので、忘れていても思い出すことができて、期限が切れて無効になることを防ぐ事ができます。
また、免許を取得した日がいつであっても、期限が切れるのは基本的に誕生日になっているのも、誕生日のたびに思い出すことができるようにするためなのでしょうね。
このように、事前に通知したり、理由を聞いておいたりすれば理解できますし、受け入れやすいわけです。
新しい戒めを与える前には、その理由、動機付けが必要だと思うのです。
イエス様も私達に新しい戒めを与えるにあたって、その理由、動機付けを与えられました。
「私があなたがたを愛したように・・・」
「主は、わたしたちのためにいのちを捨てて下さった。それによって、わたしたちは愛ということを知った。」
ヨハネも、
1ヨハネ 3:1 わたしたちが神の子と呼ばれるためには、どんなに大きな愛を父から賜わったことか、よく考えてみなさい。
と言っています。
私達もまず、この神の愛を知りましょう。深く味わいましょう。ここがスタートであり、絶えずここからスタートすべきです。
まず神が愛して下さった、その愛を知った、その愛を受けた、その愛が今も注がれている。
これがスタートであり、帰って来るところです。
そして、その愛を知り、受け止めて、初めて「互いに愛し合う」ことができるのです。
2.互いに愛し合う。
「あなたがたも互いに愛し合いなさい。」ヨハネ13:34
「私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行ないと真実をもって愛そうではありませんか。」1ヨハネ3:18
聖書をとおして、祈りをとおして、またサマカンのメッセージを通して、私たちは神様から御言葉をいただき、夢をいただき、一歩ずつ、遅くてもいいから、前進することを学んだと思います。
しかし、前に進むとき、そこには苦難もあるでしょう。エネルギーが必要です。
でも、同時にそれは、言葉や口先だけではなく、行いを伴うから体験することなのです。
私達が愛し合うという時、行いと真実とを持って愛し合うということが必要なのではないでしょうか。
失敗することもあるかも知れません。愛せない時もあるかも知れません。
いいんです。その時はもう一度、神の愛を知りましょう。味わいましょう。溢れるばかりに受け止めましょう。
そうしたら、きっと、神はまた、愛し合う愛の力を注いで下さると信じます。聖霊を通して。。。
以前も話しましたが、よく、「祈ってますよ」という言葉をクリスチャンは使いがちです。
勿論、いいことです。
ぼくも、以前はよく使っていました。でも、ここ何年かは違うんです。
時々、メールや電話で、みなさんから「祈って下さい」とリクエストを受けることがありますが、その時、私は、
あまり「祈ってますよ」とは返事せずに、「祈ります」と返事することが多いのです。
私の中では、祈ってます。は絶えず祈っている、毎日祈っている、というイメージが定着していました。
ですから、「祈ってますよ。」と言うと、自分で自分を追込んでしまうし、忘れていたりしたら、罪悪感さえ感じてしまうんです。
ですから、リクエストを受けたら、すぐに祈ります。そして、「祈りますね」と返事するのです。
そして、時々思い出したときには祈るようにしています。
サマカン後に、聖書通読と祈りの課題のシートを毎週お配りするようになって、毎日ではないかわらぶきも知れませんが、時々課題を見て祈るようにしていますし、「祈ってますよ」でもいいのかもしれませんが、以前はそのようにかなり意識したときもありました。
ですから、みなさん、リクエストして下さることはうれしいことですが、ぼくも含めてみんなが、毎日祈り続けているわけではないかも知れないということです。
でも、人ぞれぞれその人のスタイルで祈ってくださっていると思いますし、何より、イエス様が聞いていて下さるので、大丈夫です。
話しが少しそれましたが、つまり、祈っていますよ。と返事して、毎日の朝の祈りで、夕の祈りで・・・と決められた時にと思って、祈れないよりは、その時だけでも、思い出したときだけでもいいから、祈る。ということの方を私は優先しているんです。
これは、少なくとも私に実践できることだからです。
先週午後、A教会の子ども夏祭りに行ってきました。
クレープ、お菓子すくい、氷、ジュース、ヨーヨーすくい、スーパーボールすくい、射的、ストラックアウト、ハテナボックス等、盛りだくさんでした。スタッフの人がお世話してくださってい
したが、合間を見て、スタッフもそれぞれに参加して一緒に楽しんでおられました。
氷は、じゃんけんして勝てばカキ氷、負ければチューペットでした。
その中で、ポコポコじゃんけんというのがありました。
スタッフとじゃんけんして、ピコピコハンマーとヘルメットで戦うやつです。
そのスタッフが牧師先生だったのです。頭をたたかれる役を牧師先生??とびっくりしましたが、子供達は容赦なくクリーンヒットを連発していました。
牧師先生の仕える愛、言葉だけじゃない愛を感じたひとコマでした。
また、近所の子供達もこられていたようで、地域に仕えておられるんだなと思いました。
そして、自分達ができることで仕えておられる姿に言葉や口先だけでなく行いと真実とをもって愛しておられるということを感じました。
私達も、実践できることから、「愛し合う」実践をしましょう。
そして、その時に、私達は神様の中におり、神様も私達の中におられることを見るでしょう。
3.神と共にいる。
「それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」
ヨハネ13:35
「神の命令を守る者は神のうちにおり、神もまたその人のうちにおられます。」1ヨハネ3:24
先週、一番大切な戒めというお話の中で、神を愛し、隣り人を愛することについてお話しました。
この戒めを守る時、聖書の全ての律法は全うされるとまでいいました。
確かに、そのとおりです。あなたが隣り人を愛する時、その律法は全うされます。
でも、その隣り人はあなたの愛をどう思うかはわかりません。またあなたを愛してくれないかも知れません。
でも律法は全うされているのです。「愛しなさい」ということを守り実践したわけですから。。。
しかし、今日お話した「互いに愛し合いなさい」という戒めは、あなた一人が相手を愛したからとて、全うされるものではないのです。
あなたも愛し、相手もあなたを愛する時に、全うされるのです。
だから、聖書は、「あなたがた」と言っています。
私達クリスチャン同士が愛し合う時に、この戒めは全うされるのです。
この戒めは、個人に言われたというよりも、むしろ、主の名によって集う人々へ言われた戒めと受け止める方が自然です。
そういう意味で、教会に属するということは大切であると言えるのかも知れません。
お客さんとして、礼拝だけ守りに教会に行く、、、これもありですが、そのような信仰生活だけでは、この戒めはなかなか実践できないと思うのです。
先週、礼拝の中でペアになって互いのために祈りあいました。
これは、この戒めの実践ですね。互いに愛し合ったのです。礼拝に参加するだけでも、この戒めが実践できるというのもすばらしいことだと思います。
さらに、それ以外の時にも実践するなら、もっとすばらしいことです。
ですから、教会というイエス様によって集められた人々の中で、互いに愛し合い、仕え合い、祈りあい、、、という中で、この戒めを実践することができるのです。
その中で、愛し合うことに困難を感じることもあるでしょう。礼拝だけの人はその困難はあまり体験しないかも知れません。
でも、困難を感じるからこそ、また、神様の愛を知ることも深く味わうことも、体験することもできるのだと思います。
そして、わたしたちが愛し合い、それを人が見る時に、人々は私達を主の弟子であると認めるのです。
その結果、全ての人に対して、証しとなり、宣教となるのです。
神を愛し、自分を愛するように隣人を愛し、そして、、
互いに愛し合いましょう。
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