2009/10/18

09.10.18「できることは何か」

使徒 3:1-10
:1 ペテロとヨハネは午後三時の祈りの時間に宮に上って行った。
:2 すると、生まれつき足のなえた人が運ばれて来た。この男は、宮にはいる人たちから施しを求めるために、毎日「美しの門」という名の宮の門に置いてもらっていた。
:3 彼は、ペテロとヨハネが宮にはいろうとするのを見て、施しを求めた。
:4 ペテロは、ヨハネとともに、その男を見つめて、「私たちを見なさい。」と言った。
:5 男は何かもらえると思って、ふたりに目を注いだ。
:6 すると、ペテロは、「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい。」と言って、
:7 彼の右手を取って立たせた。するとたちまち、彼の足とくるぶしが強くなり、
:8 おどり上がってまっすぐに立ち、歩きだした。そして歩いたり、はねたりしながら、神を賛美しつつ、ふたりといっしょに宮にはいって行った。
:9 人々はみな、彼が歩きながら、神を賛美しているのを見た。
:10 そして、これが、施しを求めるために宮の「美しの門」にすわっていた男だとわかると、この人の身に起こったことに驚き、あきれた。

序)できることは何か。
あなたができることは何ですか。
できることは限られてたりします。でも、できることもあります。
また、年齢によってできるようになってくることもあるでしょう。
あなたができることは何か、、、


1.人々ができること

生まれつきの足のなえた人は、宮に入る人たちから施しを受ける事しかできなかったので、毎日「美しの門」に運んでもらっていました。

生まれつきの足のなえた人ができることは、門のところで、施しをこうことでした。そのことでここまで生きてきたのです。自分ができることをしていたのでしょう。
また、歩けないので、その門のところまで運んでもらっていました。その運ぶ役をしていた人々もいたようです。
この男の年齢は、40代前半だったようですから、それなりの体重もあったでしょう。運ぶ事も大変だったかもしれませんが、協力者がいたようです。
その協力者もまた、自分のできることをしたのでしょう。

人はそれぞれ自分にできることは限られていますし、人によって様々です。
でも、そのできることを精一杯することで生きていけるのでしょう。

自分にできることすらしない人は、その権利を放棄しているとも言えます。
できないことまでする必要はないでしょう。勿論、努力してできないことを克服することは素晴らしい事です。でも、できなくても仕方ないことです。
ところが、できることすらしないならば、それはやることによって得られることも得られないのです。

生まれつきの足のなえた人は、歩けないので、働く事ができなかったのでしょう。だから、せめて自分の食べる分だけでも、得ようと思い、プライドを捨てて、宮の門に運んできてもらって物乞いをしていたのだと思うのです。自分のできることを見つけて、それを精一杯やったのです。
また、運ぶ事に協力した人たちは、この男に自分ができることといったら、本人が運んでほしいと言う場所まで連れて行くことくらいだったのでしょう。
そのことを精一杯やったのです。

人々ができることを精一杯するときに、また、お互いにできることを協力し合うときに、そこに何かが生まれてきます。

この男もそれによって、40年以上生きてこれたのです。

私たちも自分にできることを精一杯するものになりたいですね。
また、お互いに協力できることを支えあっていくものとなれるなら素晴らしいですね。



2.ペテロたちにしかできないこと

生まれつき足のなえた男は、立つことも歩く事もできないので、人の協力をえて、門まで運んできてもらって、物乞いをしていました。
ところが、ある日、劇的な出会いがあったのです。

ある日、ペテロとヨハネが宮に入ろうとして、その男の前を通りました。
その時、この男は二人に施しを求めたのです。
ペテロとヨハネは、その男を見つめて「私たちを見なさい」といいました。
男は何かもらえると期待して見ていましたが、ペテロは
「金銀は私にはない。・・」と言ったのです。
男はがっかりしたでしょう。
しかし続けて言いました。
「しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい。」
そう言って、彼の右手を取って立たせると、たちまち、彼の足とくるぶしが強くなり、おどり上がってまっすぐに立ち、歩きだしたのです。そして歩いたり、はねたりしながら、神を賛美しつつ、ふたりといっしょに宮にはいって行ったとあります。

ペテロとヨハネとの出会いは、この男にとって、人生が劇的に変化する出来事となりました。
自分にできることをやってきた男とその周りの協力者たちでしたが、これ以上を望む事は難しい状況でした。もし、足が癒されて、立つことができたら、歩く事ができたら・・・と考える事もあったでしょう。
でも、ペテロたちの信仰によって、それが現実のものとなったのです。

ペテロが癒したのでしょうか。ペテロが治療したのでしょうか。
そうではありません。12節以降にペテロが言っています。

「イエスの御名が、その御名を信じる信仰のゆえに、あなたがたがいま見ており知っているこの人を強くしたのです。イエスによって与えられる信仰が、この人を皆さんの目の前で完全なからだにしたのです。」

ペテロの信仰は、イエス様によって与えられる、御名を信じる信仰でした。
イエス様から与えられる信仰とは何でしょう。
イエス様の御名は、唯一私たちを救う名です。その御名を信じる信仰によって、ペテロはイエス様ご自身を内の持っていたのです。
これをあなたにあげようと告白したのです。
「あげよう」という言葉は、原語では「引き渡す」という意味です。
引き渡すというのは、言葉の通り、所有しているものを相手に渡すと言う意味です。
ペテロが持っていたのは、イエス様の御名により与えられていた救いであり、信仰であり、命であるのです。それをこの男に引き渡したのです。

男は何を言っているのかと疑ったでしょう。
でも、ペテロは大胆にも男の手をとって立たせました。
すると、たちまち足とくるぶしが強くなり、飛び上がりながら立ち、歩き出したのです。

生まれつきの足のなえた人の中に、ペテロが持っていたものが引き渡されたときに、この奇跡は起こりました。

これは、この男やその周りの人たちは持っていなかったものだったのでしょう。
しかし、ペテロたちは持っていたのです。

私たちは、どうでしょう。私たちしか持っていないものがあるのではないでしょうか。
イエス様の御名による救いを受けたでしょう。命を持っているでしょう。信仰を持っているでしょう。人生を導く光を持っているでしょう。
イエス様によって、あらゆるものを持っているのです。
ペテロはこれを引き渡したのです。
私たちも自分の持っている、いや、自分たちしか持っていないものを与える事ができるものになれるのです。
自分たちにしかできないことがあるのです。
そのことをするものとなるなら、なんと幸いでしょう。



結)根本的な答えを与えてくださるイエス様
生まれつき足のなえた男は、立つことも歩く事もできないので、人の協力をえて、門まで運んできてもらって、物乞いをしていました。それで何とか生きてこれたのでしょう。
しかし、根本的な解決にはなっていませんでした。それでも仕方ない状況でした。人ができることは限界があるからです。
ところが、ペテロとヨハネに出会い、劇的な奇跡を体験した男は、立つことも歩く事も飛び跳ねる事も走り回る事もできるようになったのです。
この男はどうしたでしょう。
翌日からは、運んできてもらう必要がないので、自分の足で門までやってきて物乞いをしたのでしょうか。
聖書にはその後のことは書いていませんが、おそらく仕事についたでしょう。働いて生計を立てることができるようになった事でしょう。
あるいは、以前の自分のように、同じように苦しんでいる人々のところへ行って、イエス様からいただいたものを与えるものとなったかもしれません。

人としてできる事をすることは素晴らしい事です。
でも、イエス様からいただいているあらゆる良いものをもってのみ、できる事をすることはさらに素晴らしい事です。
その時に、イエス様がその人の人生の根本的な答えや解決を与えてくださるのです。

私にできることをする。私にしかできないことをする。
その一歩を踏み出すなら、幸いです。神様の祝福がますます増し加わることでしょう。