2009/09/13

09.9.13「偶像礼拝と戦う」

出エジプト 20:3-6
:3 あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。
:4 あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。
:5 それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、
:6 わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。

1コリント 10:14-32
:14 ですから、私の愛する者たちよ。偶像礼拝を避けなさい。
:15 私は賢い人たちに話すように話します。ですから私の言うことを判断してください。
:16 私たちが祝福する祝福の杯は、キリストの血にあずかることではありませんか。私たちの裂くパンは、キリストのからだにあずかることではありませんか。
:17 パンは一つですから、私たちは、多数であっても、一つのからだです。それは、みなの者がともに一つのパンを食べるからです。
:18 肉によるイスラエルのことを考えてみなさい。供え物を食べる者は、祭壇にあずかるではありませんか。
:19 私は何を言おうとしているのでしょう。偶像の神にささげた肉に、何か意味があるとか、偶像の神に真実な意味があるとか、言おうとしているのでしょうか。
:20 いや、彼らのささげる物は、神にではなくて悪霊にささげられている、と言っているのです。私は、あなたがたに悪霊と交わる者になってもらいたくありません。
:21 あなたがたが主の杯を飲んだうえ、さらに悪霊の杯を飲むことは、できないことです。主の食卓にあずかったうえ、さらに悪霊の食卓にあずかることはできないことです。
:22 それとも、私たちは主のねたみを引き起こそうとするのですか。まさか、私たちが主よりも強いことはないでしょう。
:23 すべてのことは、してもよいのです。しかし、すべてのことが有益とはかぎりません。すべてのことは、してもよいのです。しかし、すべてのことが徳を高めるとはかぎりません。
:24 だれでも、自分の利益を求めないで、他人の利益を心がけなさい。
:25 市場に売っている肉は、良心の問題として調べ上げることはしないで、どれでも食べなさい。
:26 地とそれに満ちているものは、主のものだからです。
:27 もし、あなたがたが信仰のない者に招待されて、行きたいと思うときは、良心の問題として調べ上げることはしないで、自分の前に置かれる物はどれでも食べなさい。
:28 しかし、もしだれかが、「これは偶像にささげた肉です。」とあなたがたに言うなら、そう知らせた人のために、また良心のために、食べてはいけません。
:29 私が良心と言うのは、あなたの良心ではなく、ほかの人の良心です。私の自由が、他の人の良心によってさばかれるわけがあるでしょうか。
:30 もし、私が神に感謝をささげて食べるなら、私が感謝する物のために、そしられるわけがあるでしょうか。
:31 こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい。
:32 ユダヤ人にも、ギリシヤ人にも、神の教会にも、つまずきを与えないようにしなさい。


序)偶像礼拝をさけること
私たちが、生活していくうえで、偶像礼拝との関わりは、たくさんあります。
仏式や神式等での冠婚葬祭、法事、地蔵盆、仏壇、神棚、、、等々
聖書には、まことの神様以外になにものをも神としてはならない。また、偶像礼拝を避けなさい。
とあります。
私たちと偶像礼拝について、今日は見ていきたいと思います。


1.自分のために、偶像礼拝しない。

偶像礼拝をしないことの理由のひとつは、「自分のために」です。
出エジプトでは、神様はねたむ神だから・・と書いてあります。
偶像を拝んではならない。それらに仕えてはならない。とあります。
そして、偶像礼拝をするものを、主を憎む者扱いされています。
そのようなものには、父の咎を子に報いて、三代、四代にまで及ぼすと。。。
あなたが偶像礼拝するなら、それは、あなただけではなく、孫やひ孫にまで影響してくるのです。
だから、偶像礼拝をしてはならないのです。

また、これは、実際に偶像を作って、それを拝んだり、仕えたりすることだけではなく、目に見えない偶像を私たちが作らない事をも意味しています。

この出エジプトの20章で、モーセを通して神様がイスラエルの民にこのような戒めを与えられたにも関わらず、32章では、十戒の石板をいただきに山に登ったモーセの帰りが遅いからというので、民たちは、金の仔牛の像を作って、拝み、仕え、偶像礼拝の罪を犯してしまいました。

私たちは、あからさまに何か像を作ったり、それをどこかに置いて拝んだりする事はないかもしれません。
しかし、毎週礼拝にきて、聖書を読み、祈っても、何もいいことがない。
だから、礼拝には行くけど、実際には、神様は信頼せずに、自分の貯金に信頼しよう。
クリスチャンが少ないから、なかなか頼れる人が少ないから、クリスチャンじゃないけど、会社の上司を信頼しよう。あるいは、友達を信頼しよう。神様に祈っても、すぐに応えれくれるわけじゃないし・・・。
と、これらは、まことの神様以外を神としていることではないでしょうか。

私たちは、自分の心の中に、他の神々を作って、それを拝み、それに仕えてしまう危険性を持っているのです。
しかし、それは、偶像礼拝であり、神が憎まれる罪なのです。

また、1コリントには、
偶像の神にささげたものは、つまり、悪霊にささげられていると書いています。
そして、それを食べることで、悪霊と交わる者になってもらいたくないとあります。

そのように、聖書は、「自分のために」偶像礼拝をしないことを命じているのです。


2.ほかの人のために、偶像礼拝を避ける。

そして、もう一つの理由が、「ほかの人のために」です。
出エジプトでは、偶像礼拝する者には、その報いを三代、四代にまで及ぼすとありました。
あなたのためでもありますが、あなたの子供、孫、ひ孫のためにも偶像礼拝をしてはいけないのです。
それは、あなた以外の人のためでもあるという意味です。

1コリントには、(10:23-30)とあります。
偶像にささげたものを食したからといって、悪霊と交わる事になるかもしれませんが、実際に悪霊に支配されるということがあるわけではありません。
なぜなら、地とそれに満ちているものは、主のものだからです。
でも、「これは、偶像にささげられたものです」と教えてもらったなら、自分のためではなく、その教えてくれた人のために、それを知っている人々のために、その良心のために、食べないほうがいいのです。

実際的な話をします。
法事というものがあります。これは、仏教行事です。
法要といいますが、故人があの世でよい報いを受けられるようにと、残ったものが供養するというものです。
四十九日法要というものは、7の7倍です。その時に、死んだ人の行き場所が決まる重要な日だからというので、法要をするというものです。
これは、告別式とは違い、完全に仏教の行事です。
仏教徒以外には、全く意味のないもので、出席することはかえって失礼にあたります。
でも、なかなか避けられるものでもないのが現実です。
法事に出ても、拝まなければ、偶像礼拝にはならない。
たとえ、合掌したとしても、心がこもってなければ大丈夫。
でしょうか?
あなたは、大丈夫でしょう。でも、これがキリスト教には全く関係のないもので、偶像礼拝であるということが他の人に知れたら、どうでしょう。
あの人は、クリスチャンだからといっても、他の宗教も受け入れて、なんと寛大な宗教なんだろうと思ってくれるかもしれません。今は・・・
でも、その人が救われて聖書を読んだとき、あの人は、クリスチャンで、偶像礼拝は罪であるのに、あの時、偶像礼拝をしていた。
命のないクリスチャンなんだと思わないでしょうか。

偶像礼拝に関わることは、大変難しいものがあることも理解しています。ですから、具体的には一つ一つ取り組んでいくほかありませんが、一つだけ、お薦めしておきます。

自分達が偶像礼拝の罪を犯さないために、何ができて何ができないのかの基準をはっきりとしておくことです。
それをあやふやにして、受け入れていくなら、その人々が救われたときに、あなた自身がその人たちの信仰のつまずきになってしまうのです。
結果的に、その人々の救いを遠ざけてしまう事にもなってしまうのです。
だから、「ほかの人のために」あなたが偶像礼拝を避けなくてはならないのです。


結)偶像礼拝と戦う者は

先ほど、悪霊にささげたものを食べることは悪霊と交わる事だといいました。
しかし、だからといって悪霊に支配されるわけではない。イエス様の御名によって清められるなら、全ては許されているのです。
でも、あなたの霊が弱っているなら、悪霊と交わってしまうときに、悪霊に影響を受けないでしょうか。だから、注意が必要なのです。

具体的には、自分はクリスチャンとして、聖書の神様を第一とし、聖書を土台として生涯を歩んでいくことをはっきりさせることが必要です。

これは、神様を愛する事です。でも、戦いも始まります。
しかし、神様はご自身を愛する者を見捨てられるでしょうか。
偶像礼拝するものには、三代、四代まで報いを及ぼされる神は、同時に、偶像礼拝をさけ、神を愛し、その命令を守るものには、恵みを千代にまで施すと言われています。
千代とは、2万年以上です。永遠といっているようなものです。素晴らしい恵みです。

今日のメッセージを実生活に適用して行こうとするなら、戦いがあるでしょう。
でも、それは、あなたのためでもあるし、あなたのまわり人々のためでもあるのです。
そして、その戦いには、全面的に神様が戦ってくださるのです。

1コリント 10:13 あなたがたの会った試練で、世の常でないものはない。神は真実である。あなたがたを耐えられないような試練に会わせることはないばかりか、試練と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである。 (口語訳)

イエス様と共に戦い、多くの人がまことの神様に立ち返る為に、祈り取り組んでいくなら、幸いです。
きっと、神様の素晴らしい御業を見るでしょう。