2009/11/29

09.11.29「 心はどこにあるのか 」

マタイ15:1-9
:1 そのころ、パリサイ人や律法学者たちが、エルサレムからイエスのところに来て、言った。
:2 「あなたのお弟子たちは、なぜ長老たちの言い伝えを犯すのですか。パンを食べるときに手を洗っていないではありませんか。」
:3 そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「なぜ、あなたがたも、自分たちの言い伝えのために神の戒めを犯すのですか。
:4 神は『あなたの父と母を敬え』、また『父や母をののしる者は死刑に処せられる』と言われたのです。
:5 それなのに、あなたがたは、『だれでも、父や母に向かって、私からあなたのために差し上げられる物は、供え物になりましたと言う者は、
:6 その物をもって父や母を尊んではならない。』と言っています。こうしてあなたがたは、自分たちの言い伝えのために、神のことばを無にしてしまいました。
:7 偽善者たち。イザヤはあなたがたについて預言しているが、まさにそのとおりです。
:8 『この民は、口先ではわたしを敬うが、その心は、わたしから遠く離れている。
:9 彼らが、わたしを拝んでも、むだなことである。人間の教えを、教えとして教えるだけだから。』」



序)人間のいましめと神様のいましめ
この時代には、人間のいましめ、人間の教え、人々の言い伝えがあったようですし、それによって神のいましめが破られるということもあったようです。
さて、私達の今の時代はどうでしょうか?

人を殺してはいけないと書いてあるのに、なんで戦争なんてするの?
人を殺してはいけないと書いてあるのですから、戦争はだめです。
正義の戦争なんてありません。理由はともあれ人殺しです。
これは人間の教えが神の戒めを破っているといえるでしょうね。

イエス様は人間のいましめと神様のいましめについてどのようにメッセージされているのかを見て行く時に、答えがみえてくるんじゃないでしょうか。


1.心はどこにあるのか。

『この民は、口先ではわたしを敬うが、その心は、わたしから遠く離れている。
彼らが、わたしを拝んでも、むだなことである。人間の教えを、教えとして教えるだけだから。』

人間のいましめと神様のいましめを見る時、神様が偽善者といわれるケースでは、はっきりとひとつのことがわかります。
「心がどこにあるのか?」という事です。

口では立派な祈りをして、神様を告白しているかも知れませんが、その心が遠く離れているならそこには神様はおられません。

1サムエル16:7 しかし主はサムエルに仰せられた。「彼の容貌や、背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。」

神様は私達の心がどこにあるのか…その心に目をむけておられるようです。

私達の心は神様の近くにあるでしょうか?


2.心が神の近くにある時。

心が神の近くにある時、私達はどうなるでしょう。

(1)神を身近に意識した生活をするようになる。

神様と親しく交わり、神様を意識する生活ができるようになってきます。

神様の近くに心がある時「イエス様、これでいいと思いますか?」ってすぐにきけるでしょうね。
悪い思いがやってきた時に「イエス様、だめですよね?」と神様を意識して、罪からは遠ざかる事もできるでしょう。
神を意識した生活ができるようになるでしょう。

心が神様の近くにあるとき、わたしたちは神様を身近に意識した生活をするようになるのです。


(2)神の愛が私たちのうちに全うされる。

1ヨハネ 4:12 もし私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにおられ、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。

神様の近くに心があるなら、神の愛が心に注がれ、神の愛で、神と人を愛する事ができるでしょう。
その時、互いに愛し合うことができ、神の愛が私達のうちに全うされるでしょう。

神の近くに心があるなら、神の愛が注がれ、神の愛で、神と自分と人とを愛することができるでしょう。



結)神に近づく
私達は、神様の近くに心あるためにはどうすればいいんでしょうか?
神に近づく。それだけです。
神様を想う。神様に心を向ける。
それは、個人的な時間でもできるでしょう。朝起きた時、トイレで、台所で、洗面所で、お風呂で、食事の時、寝る前、・・・。
また、このような礼拝の時間もそうですね。神様に心を向ける時を持つことです。

イエス様から私達に近づいて下さいました。
地上にお生まれになり、人々に仕え、十字架の死に至るまで従順であられ、私達に愛を示し、命を与えて下さったイエス様。
私達はそのイエス様を心に迎え入れ、イエス様を思うなら、既に私達のうちに御子を持っています。命を持っています。信じましょう。
そして、これからも心が神の近くに歩む人は幸いです。