2009/09/27

09.9.27「悪魔に立ち向かうために」

マタイ4:1-11
:1 さて、イエスは、悪魔の試みを受けるため、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。
:2 そして、四十日四十夜断食したあとで、空腹を覚えられた。
:3 すると、試みる者が近づいて来て言った。「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」
:4 イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』と書いてある。」
:5 すると、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の頂に立たせて、
:6 言った。「あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい。『神は御使いたちに命じて、その手にあなたをささえさせ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにされる。』と書いてありますから。」
:7 イエスは言われた。「『あなたの神である主を試みてはならない。』とも書いてある。」
:8 今度は悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華を見せて、
:9 言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」
:10 イエスは言われた。「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ。』と書いてある。」
:11 すると悪魔はイエスを離れて行き、見よ、御使いたちが近づいて来て仕えた。

ヤコブ 4:7
ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。


序)常にある誘惑
私たちの今生きている世の中には常に悪魔の誘惑があります。

振り込め詐欺なんかもそうでしょう。
投資話で、私に預ければ、毎月配当を確実に渡しますと言われ、出資して、結局持ち逃げされてしまうといような事件等うまい話に誘われて、だまされてしまうということはたくさんあります。

いろんな悪魔の誘惑があるのが、私たちの生きる現実社会です。
でも、その中でその悪魔に立ち向かって勝利していく人生を歩みたいですね。

マタイ4:1からの箇所はまさにイエス様が悪魔の誘惑に遭われたが、悪魔を退けられ勝利された箇所です。

ここから、私たちがこの時代において、いやいつの時代においても、悪魔に負けない人生を歩む秘訣を見ていきましょう。


1.悪魔に立ち向かう前に

イエス様は悪魔の誘惑に対して、いきなり立ち向かわれたのではありませんでした。
神の言葉を発せられました。

創世記では、神は言葉によってこの世界を創られたことがわかります。
神の言葉は力があり、その言葉によってあらゆるものが創造されていきます。

悪魔からの誘惑も言葉によってでした。
言葉は善にも悪にも力あるのです。
ですから、世の誘惑も言葉によるものが多いですね。

しかし、イエス様は、悪魔からの誘惑であっても、神の言葉によって立ち向かわれたのです。
つまり、神の言葉は悪魔の誘惑にも勝利する力あるものなのです。

そして、これは、神に従うことを意味します。

私たちは、悪魔に立ち向かう前に、神に従うことが先決です。
神に従った上で、悪魔に立ち向かわなければなりません。

それは、ヤコブ 4:7 にもあるとおりです。

悪魔に立ち向かっていく前に、神に従っていなければなりません。

使徒19では
:13 ところが、諸国を巡回しているユダヤ人の魔よけ祈祷師の中のある者たちも、ためしに、悪霊につかれている者に向かって主イエスの御名をとなえ、「パウロの宣べ伝えているイエスによって、おまえたちに命じる。」と言ってみた。
:14 そういうことをしたのは、ユダヤの祭司長スケワという人の七人の息子たちであった。
:15 すると悪霊が答えて、「自分はイエスを知っているし、パウロもよく知っている。けれどおまえたちは何者だ。」と言った。
:16 そして悪霊につかれている人は、彼らに飛びかかり、ふたりの者を押えつけて、みなを打ち負かしたので、彼らは裸にされ、傷を負ってその家を逃げ出した。

神に従っていないものが悪魔に立ち向かうと痛い目にあう事がわかります。
「お前たちは何者だ」と言っています。
「私たちは、神に従うものだ」と言えるとき、悪魔に立ち向かえるのではないでしょうか。

イエス様もまさに、そうでした。
神に従われました。そして、悪魔に立ち向かわれたのです。


悪魔に立ち向かう前に、まず神に従うものになりましょう。


2.神に従うとは

神の側に立つ、ということ。

いろんな表現もあるでしょうし、いろんな内容を含んでいると思いますが、あえて一言で言えば、
「神の側に立つ」ことだと思います。

イエス様が悪魔の誘惑に対しても、「聖書には、こう書いてある」と神様の側に立っているがゆえに言うことができる言葉を発せられました。

ここで、先ほどの箇所から、一箇所興味深い箇所を見てみましょう。
:8 今度は悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華を見せて、
:9 言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」
:10 イエスは言われた。「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ。』と書いてある。」

サタンははっきりと、「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あげよう」と誘惑してきました。世の中での繁栄が全てサタンのものであるとはいいませんが、少なくともサタンが与える繁栄、栄華があることがわかります。
ですから、世界的に繁栄している人は、サタンを拝んでいる可能性は否定できません。
では、私たちは経済的な必要の為には、サタンを拝むのでしょうか。
違います。イエス様もまたはっきりと言われています。
「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ。』と書いてある。」
神様は私たちの必要を全てご存知です。そしてその必要を満たす事ができるお方です。

ピリピ 4:19 また、私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。

ですから、不必要な繁栄を求め、サタンの側、罪の側に立つものとなってはならないのです。
サタンは繁栄を約束するかもしれません。実際に繁栄するかもしれません。
しかし、私たちを守ってくれるでしょうか。とんでもない。守どころが、永遠の地獄へと道連れにしようとしているのです。
私たちは、必要を満たしてくださる神様の側に立つのです。
その時に、神様が私たちを守ってくださいます。
永遠の救いに入れてくださるのです。


私たちが神の側に立ち、神の御言葉に生きるなら、神の御言葉によって守られるのです。

まず神に従うことがあって、そして、悪魔に立ち向かうものになりましょう。


結)その時、悪魔は逃げさる

私たちが神に従い、神の側に立って、神の御言葉に生きて、
悪魔に立ち向かうとき、悪魔は逃げ去ります。

イエス様を誘惑した時の悪魔も、イエス様を離れていきました。
また、ヤコブ 4:7にも
ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。
とあります。

悪魔に立ち向かうために、そして悪魔が逃げ去っていくためには、
神に従い、神の側に立って、神の御言葉に生きる人生を歩むことです。
そのための、礼拝や賛美、日々の祈り、聖書を読むことやディボーション、伝道、奉仕等々なのです。
その一歩を今日も踏み出せるなら幸いです。

2009/09/20

09.9.20「主を羊飼いとする幸い」

詩篇23:1-6
:1 主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。
:2 主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。
:3 主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。
:4 たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。
:5 私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。
:6 まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。

序)幸いな人
前々回、詩篇1篇から幸いな人がどんな人なのかをみました。
今回は、詩篇23篇にも書いてある幸いな人をみていきましょう。

6節に「まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。」とあります。
生きている限り、いつくしみと恵みが追ってくるというのです。自分が追い求めるのではなく、追っかけてくるというのです。
幸いな人といえますよね。こんな人生を歩みたいですね。
ですから、23篇にも幸いな人についての内容が書かれてあるとわかります。

さて、こんな幸いな人、幸いな人生を歩むためのポイントを二つ見ていきましょう。


1.主を私の羊飼いとする。

1節に「主は私の羊飼い」とあります。
<主が>わたしの羊飼いというのとはちょっと違います。
<主は>わたしの羊飼い・・・です。

例えば、先生とか師と呼ばれるような人がいますが、これらは、周りの人が一般的にそう呼んでいる場合や、自分から言っている場合、ある特定の人が呼んでいる場合等があります。

小中学校の先生(教師)などは、新学期になると、
「今日から、みなさんの担任の先生になりました、○○です」というように、
自分から生徒に対して先生であることを言います。
別にこれが悪いとかいう意味ではないので、誤解のないように(^^)
ところが、大学等になると、
「あの先生・教授の授業が受けたいから」といって、授業を受けに行ったり、、、
あのお医者さんに診てもらいたいからということで、その医者を指名して診察を受けに行ったり、
板前、シェフなど料理の世界でも弟子入りして自らその人を「師匠」と呼んだり、、、
落語や芸術の世界などでは、弟子入りして、自らその人を「師(師匠)」と呼んだりします。

先生とか師と呼ぶ場合、自発的に「先生」と呼ぶ場合と、そうでない場合があることがわかりますが、わたしたちはイエス様に対してどうでしょうか。

ここでの「主は私の羊飼い」という表現は、
イエス様の方から「わたしがあなたの羊飼いですよ」と言われているのではなく、
自分から「イエス様は私の羊飼いです」と告白し、弟子入りするような感覚です。

さて、みなさんはイエス様に飼われている羊だと思ってませんか?
イエス様はそんなことはなさいません。
私たちが「イエス様こそ、私の羊飼いです」と告白する時に、
イエス様は私たちの羊飼いとなって下さるのです。

では、イエス様を私たちの羊飼いとした人は、どうなるのでしょう。

:1私は、乏しいことがありません。
①乏しいことがない。
リビングバイブルでは、「必要なものはみな与えて下さいます」とあります。
イエス様は私たちの必要を全てご存知です。
その上で私たちに必要なものは全て与えて下さいます。
ですから、マタイ6:33では、まず神の国とその義とを求めなさい。
そうすればこれらのものは全てそえて与えられるであろう。といわれています。


:2主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。
②安息と養いが与えられる。
家畜のようにエサを食べさせ、肥え太らせるために養われるのではなく、
「緑の牧場に伏させ」とあるように牧草の豊かな牧場でゆっくりと寝転がって、そこで憩い、安息を得させて下さり、また流れの緩やかな水のほとりに連れていって、そこで水を飲んだり、あるいは水浴びをしてきれいにして下さるのかも知れません。
本当にゆっくりと休んでリラックスさせて下さることがわかります。


:3主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。
③回復させ、導かれる。
このようにゆっくりと休ませて下さり、さらにはその魂を生き返らせて下さる。
つまり、死んでいた魂をも もう一度生きかえらせてくださるのです。
そして、御名のために・・・イエス様のための働きができるように導き助けて下さるのです。
イエス様のための働きとは、別に牧師になるとか宣教師になって海外に行くとかいうことだけじゃなくて、普段の生活の中でイエス様と共に歩むときに、その人にイエス様が計画されている最高の働きができるようにして下さるということです。
その導きをイエス様が与えて下さるのです。


:4たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。
あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。
④わざわいを恐れず、慰めが与えられる。
たとえ、死の暗い谷間を歩くことがあっても、恐れない。
それは、イエスさまが共にいて守って下さるからです。
なんと素晴らしい守りでしょう。
危険な道を歩む時に、イエス様のむちと杖で導いて下さるから、そのむちと杖に私にとっては危険から守ってくれる慰めとなるんです。


:5私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。
私の杯は、あふれています。
⑤完全な勝利の中で祝福に満たされる。
敵の前で食事と整えるというのは、なんという余裕。完全な勝利です。
そして、頭に油を、つまり祝福を注いで下さるのです。
そしてその杯はあふれている。素晴らしい満ち溢れた祝福が私たちに注がれるのです。
なんという圧倒的な勝利であり、祝福でしょうか。


:6まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。
⑥生涯いつくしみと恵みに追われる人生となります。
そして、私たちの生涯、死ぬまで、いつくしみと恵みが追ってくる人生。
追い続ける人生ではなく、恵みが追ってくるのです。
なんという幸いでしょう。


主を自分の羊飼いとする人に
こんなに素晴らしい人生が用意されているのです。
主を私の羊飼いとしたいと願われますか。それは本当に幸いな人です。



2.いつまでも主の家に住まう。

最後に「私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。」とあります。
イエス様を私の羊飼いとする時に、イエス様のそばでイエス様と共に歩む人生を送るときにこんなに素晴らしい人生となるなら、わたしたちはどうしたいと思うでしょう。
素直に、「いつまでもそうしていたい」と思うのは自然なことでしょう。
ですから、このダビデの歌も最後にその言葉でしめられているのかも知れません。


主を羊飼いとし、その家に生涯住み続ける。そんな人生を歩みたいですね。

今日、主を私の羊飼いと告白する人は幸いです。
そして、いつまでも主の家に住まう人は幸いです。

2009/09/13

09.9.13「偶像礼拝と戦う」

出エジプト 20:3-6
:3 あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。
:4 あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。
:5 それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、
:6 わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。

1コリント 10:14-32
:14 ですから、私の愛する者たちよ。偶像礼拝を避けなさい。
:15 私は賢い人たちに話すように話します。ですから私の言うことを判断してください。
:16 私たちが祝福する祝福の杯は、キリストの血にあずかることではありませんか。私たちの裂くパンは、キリストのからだにあずかることではありませんか。
:17 パンは一つですから、私たちは、多数であっても、一つのからだです。それは、みなの者がともに一つのパンを食べるからです。
:18 肉によるイスラエルのことを考えてみなさい。供え物を食べる者は、祭壇にあずかるではありませんか。
:19 私は何を言おうとしているのでしょう。偶像の神にささげた肉に、何か意味があるとか、偶像の神に真実な意味があるとか、言おうとしているのでしょうか。
:20 いや、彼らのささげる物は、神にではなくて悪霊にささげられている、と言っているのです。私は、あなたがたに悪霊と交わる者になってもらいたくありません。
:21 あなたがたが主の杯を飲んだうえ、さらに悪霊の杯を飲むことは、できないことです。主の食卓にあずかったうえ、さらに悪霊の食卓にあずかることはできないことです。
:22 それとも、私たちは主のねたみを引き起こそうとするのですか。まさか、私たちが主よりも強いことはないでしょう。
:23 すべてのことは、してもよいのです。しかし、すべてのことが有益とはかぎりません。すべてのことは、してもよいのです。しかし、すべてのことが徳を高めるとはかぎりません。
:24 だれでも、自分の利益を求めないで、他人の利益を心がけなさい。
:25 市場に売っている肉は、良心の問題として調べ上げることはしないで、どれでも食べなさい。
:26 地とそれに満ちているものは、主のものだからです。
:27 もし、あなたがたが信仰のない者に招待されて、行きたいと思うときは、良心の問題として調べ上げることはしないで、自分の前に置かれる物はどれでも食べなさい。
:28 しかし、もしだれかが、「これは偶像にささげた肉です。」とあなたがたに言うなら、そう知らせた人のために、また良心のために、食べてはいけません。
:29 私が良心と言うのは、あなたの良心ではなく、ほかの人の良心です。私の自由が、他の人の良心によってさばかれるわけがあるでしょうか。
:30 もし、私が神に感謝をささげて食べるなら、私が感謝する物のために、そしられるわけがあるでしょうか。
:31 こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい。
:32 ユダヤ人にも、ギリシヤ人にも、神の教会にも、つまずきを与えないようにしなさい。


序)偶像礼拝をさけること
私たちが、生活していくうえで、偶像礼拝との関わりは、たくさんあります。
仏式や神式等での冠婚葬祭、法事、地蔵盆、仏壇、神棚、、、等々
聖書には、まことの神様以外になにものをも神としてはならない。また、偶像礼拝を避けなさい。
とあります。
私たちと偶像礼拝について、今日は見ていきたいと思います。


1.自分のために、偶像礼拝しない。

偶像礼拝をしないことの理由のひとつは、「自分のために」です。
出エジプトでは、神様はねたむ神だから・・と書いてあります。
偶像を拝んではならない。それらに仕えてはならない。とあります。
そして、偶像礼拝をするものを、主を憎む者扱いされています。
そのようなものには、父の咎を子に報いて、三代、四代にまで及ぼすと。。。
あなたが偶像礼拝するなら、それは、あなただけではなく、孫やひ孫にまで影響してくるのです。
だから、偶像礼拝をしてはならないのです。

また、これは、実際に偶像を作って、それを拝んだり、仕えたりすることだけではなく、目に見えない偶像を私たちが作らない事をも意味しています。

この出エジプトの20章で、モーセを通して神様がイスラエルの民にこのような戒めを与えられたにも関わらず、32章では、十戒の石板をいただきに山に登ったモーセの帰りが遅いからというので、民たちは、金の仔牛の像を作って、拝み、仕え、偶像礼拝の罪を犯してしまいました。

私たちは、あからさまに何か像を作ったり、それをどこかに置いて拝んだりする事はないかもしれません。
しかし、毎週礼拝にきて、聖書を読み、祈っても、何もいいことがない。
だから、礼拝には行くけど、実際には、神様は信頼せずに、自分の貯金に信頼しよう。
クリスチャンが少ないから、なかなか頼れる人が少ないから、クリスチャンじゃないけど、会社の上司を信頼しよう。あるいは、友達を信頼しよう。神様に祈っても、すぐに応えれくれるわけじゃないし・・・。
と、これらは、まことの神様以外を神としていることではないでしょうか。

私たちは、自分の心の中に、他の神々を作って、それを拝み、それに仕えてしまう危険性を持っているのです。
しかし、それは、偶像礼拝であり、神が憎まれる罪なのです。

また、1コリントには、
偶像の神にささげたものは、つまり、悪霊にささげられていると書いています。
そして、それを食べることで、悪霊と交わる者になってもらいたくないとあります。

そのように、聖書は、「自分のために」偶像礼拝をしないことを命じているのです。


2.ほかの人のために、偶像礼拝を避ける。

そして、もう一つの理由が、「ほかの人のために」です。
出エジプトでは、偶像礼拝する者には、その報いを三代、四代にまで及ぼすとありました。
あなたのためでもありますが、あなたの子供、孫、ひ孫のためにも偶像礼拝をしてはいけないのです。
それは、あなた以外の人のためでもあるという意味です。

1コリントには、(10:23-30)とあります。
偶像にささげたものを食したからといって、悪霊と交わる事になるかもしれませんが、実際に悪霊に支配されるということがあるわけではありません。
なぜなら、地とそれに満ちているものは、主のものだからです。
でも、「これは、偶像にささげられたものです」と教えてもらったなら、自分のためではなく、その教えてくれた人のために、それを知っている人々のために、その良心のために、食べないほうがいいのです。

実際的な話をします。
法事というものがあります。これは、仏教行事です。
法要といいますが、故人があの世でよい報いを受けられるようにと、残ったものが供養するというものです。
四十九日法要というものは、7の7倍です。その時に、死んだ人の行き場所が決まる重要な日だからというので、法要をするというものです。
これは、告別式とは違い、完全に仏教の行事です。
仏教徒以外には、全く意味のないもので、出席することはかえって失礼にあたります。
でも、なかなか避けられるものでもないのが現実です。
法事に出ても、拝まなければ、偶像礼拝にはならない。
たとえ、合掌したとしても、心がこもってなければ大丈夫。
でしょうか?
あなたは、大丈夫でしょう。でも、これがキリスト教には全く関係のないもので、偶像礼拝であるということが他の人に知れたら、どうでしょう。
あの人は、クリスチャンだからといっても、他の宗教も受け入れて、なんと寛大な宗教なんだろうと思ってくれるかもしれません。今は・・・
でも、その人が救われて聖書を読んだとき、あの人は、クリスチャンで、偶像礼拝は罪であるのに、あの時、偶像礼拝をしていた。
命のないクリスチャンなんだと思わないでしょうか。

偶像礼拝に関わることは、大変難しいものがあることも理解しています。ですから、具体的には一つ一つ取り組んでいくほかありませんが、一つだけ、お薦めしておきます。

自分達が偶像礼拝の罪を犯さないために、何ができて何ができないのかの基準をはっきりとしておくことです。
それをあやふやにして、受け入れていくなら、その人々が救われたときに、あなた自身がその人たちの信仰のつまずきになってしまうのです。
結果的に、その人々の救いを遠ざけてしまう事にもなってしまうのです。
だから、「ほかの人のために」あなたが偶像礼拝を避けなくてはならないのです。


結)偶像礼拝と戦う者は

先ほど、悪霊にささげたものを食べることは悪霊と交わる事だといいました。
しかし、だからといって悪霊に支配されるわけではない。イエス様の御名によって清められるなら、全ては許されているのです。
でも、あなたの霊が弱っているなら、悪霊と交わってしまうときに、悪霊に影響を受けないでしょうか。だから、注意が必要なのです。

具体的には、自分はクリスチャンとして、聖書の神様を第一とし、聖書を土台として生涯を歩んでいくことをはっきりさせることが必要です。

これは、神様を愛する事です。でも、戦いも始まります。
しかし、神様はご自身を愛する者を見捨てられるでしょうか。
偶像礼拝するものには、三代、四代まで報いを及ぼされる神は、同時に、偶像礼拝をさけ、神を愛し、その命令を守るものには、恵みを千代にまで施すと言われています。
千代とは、2万年以上です。永遠といっているようなものです。素晴らしい恵みです。

今日のメッセージを実生活に適用して行こうとするなら、戦いがあるでしょう。
でも、それは、あなたのためでもあるし、あなたのまわり人々のためでもあるのです。
そして、その戦いには、全面的に神様が戦ってくださるのです。

1コリント 10:13 あなたがたの会った試練で、世の常でないものはない。神は真実である。あなたがたを耐えられないような試練に会わせることはないばかりか、試練と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである。 (口語訳)

イエス様と共に戦い、多くの人がまことの神様に立ち返る為に、祈り取り組んでいくなら、幸いです。
きっと、神様の素晴らしい御業を見るでしょう。

2009/09/06

09.9.6「幸いな人として」

詩篇 1:1-:3
:1 幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人。
:2 まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。
:3 その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。


序)幸いな人とは・・

ご主人の給料が同じで、夫婦と子供二人という家族構成も同じである二つの家族がいました。
Aファミリーは、住宅ローンを組んで家を建てました。月々の支払いは10万円でした。
それでも、なんとか支払いをしながら、自分の持ち家を持って充実感の中で毎日を過ごしていました。
かたや、Bファミリーは、アパート暮らしで、月々の家賃は7万円でした。
狭いとはいえ、なんとか生活していますが、経済的には少し余裕のある生活を過ごしていました。

どちらの生活が幸いでしょう。
アンケートをとるならば、意見が分かれるところでしょう。

何が幸いかはその人が判断することでしょう。
そういう意味では、幸いというのは、人それぞれの感じ方によるともいえますね。

あなたにとっての「幸い」とはどうでしょう?

今日、お読みした箇所は、神様が「幸い」とおっしゃっている箇所です。
しかし、その前に大前提があります。
私たちにとって何が幸いであるか。
それは、私たちの魂が救われて永遠の命をいただいている事です。
私たちがイエス様の十字架によって、その救いを得ている事です。
これが私たちにとって、最も幸いなことです。

これを前提とし、これも含めて、神様が幸いとおっしゃることとはどんなことなのか、一緒に見て行きましょう。


1.幸いな人とは:1

「悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座につかなかった、その人。」

これは言葉通りのことをいえば、
悪者の計画に乗せられて共謀するようなことをしない、とか、
罪を犯す人生を歩まない、とか、
人の悪口を言ってばかにしたり笑ったりするようなことをしない、といったことです。

現実的には、銀行強盗を企む人に「一緒にやらないか」と誘われてその計画に乗るような人はいないでしょう。
また、自ら罪とわかっていて、その道を歩もうとする人もいないでしょう。

でも、罪人というのは、何も悪いことをするという意味だけではありません。
まことの神様から背を向けて歩むことが「罪」なのです。
ですから、神を信じない道に立つことをも意味しているといえるでしょう。
ですから、神様に心を向けて歩む人は幸いですね。

また、人をばかにして笑ったり、悪口を言ったりするような場に遭遇することもあると思いますが、そのようなところにも参加しないというのが幸いな人だと言っています。
ついつい腹が立つことがあったりすると、悪口を言ってしまったり、言っている人と一緒になって同調したりという弱さはありますが、そうしない人を幸いな人だと言っているのです。

私たちは、目に見える出来事や人に対しても、注意する必要はありますが、その背後に働く悪の力に対して目を見張って、悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かない人になりたいですね。

さて、そういう人は「幸いな人」だといわれているわけですが、
そうは言っても、自分の力でこれを実行することは困難を覚えることも多々あるでしょう。
実はそういう人には、そうなれる理由があるのです。
それが・・・


2.幸いな人となれるには:2

「まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。」

もし、先ほどのようなことを自分の力でやろうと思うなら、大変なことでしょう。
おそらく自分の弱さに失望することになるかもしれません。
しかし、幸いな人は、そうなれる理由があります。
それが、ここです。

その人は、主の教えを喜びとします。聖書の言葉を喜びとするのです。
それが自分にとって、受け入れがたいことであっても、喜びとする人は幸いな人です。
そして、昼も夜もその教えを口ずさむ、とあります。
聖書の言葉を喜びとして受け入れ、いつも思い巡らし、口ずさんでいるなら、それに反する思いが自分に来た時に、気付きが与えられて、祈ることができるでしょう。

このように、神の言葉、聖書の言葉が幸いな人にとって、力となるのです。

ヤコブ 1:21 ですから、すべての汚れやあふれる悪を捨て去り、心に植えつけられたみことばを、すなおに受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます。
口語訳>御言には、あなたがたのたましいを救う力がある。

心に植えつけられた御言葉には、魂を救う力があるのです。
御言葉を心に植えつけましょう。
そのためには、まず聖書を読みましょう。そして、ディボーションしましょう。
御言葉を心に植えつけるためです。
御言葉をいつも口ずさむためです。

主の教えを喜びとし、昼も夜もその教えを口ずさむものになりたいですね。
そして神様は聖霊として、私たちと共にいて助けて下さるのですから、ますますイエス様を求めて、聖書に親しむものとなりたいと思います。

では、そのような幸いな人はどうなるのでしょう。


3.幸いな人の道には:3

「その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。」

素晴らしい祝福です。
水路のそばに植わった木は、その水路から十分な水分をとり、栄養をとり、成長します。
そして、季節がくると実が自然となり、その葉は枯れることもありません。
そんな人生を歩むことができるという約束です。

私たちが主の教えを喜びとし、いつもその教えを思い、実践していく、
つまり、悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざけるものの座に着かないなら、
絶えず必要に満たされ、何か特別なことを何もしなくても、時が来ると自然と実を結びます。
そして、何をしても栄えるのです。

アブラハムは、神様の祝福がいつもありました。だから、何をしても栄えました。
そんな人生が私たちにも用意されています。

しかし、このことは、今の私たちにはなかなか理解できないかもしれません。
「今、なかなかうまくいかないことがある。これで本当に幸いな人生なんだろうか・・」
もし、そのように感じるなら、理由は2つのうちどちらかだと思います。


1つは、主の教えを喜びとせず、その教えを思わず、口ずさまず、実践していないから。。
私も含めて、多くの場合、これが一番の原因ではないかと感じています。
だから、今回、聖書を読むこと、ディボーションすること、祈ることに重点を置いて取り組もうとしています。
そうするならば、神様が見せてくださっているビジョンは神様が実現させてくださる、その実を結ばせてくださるに違いないのです。
私もチャレンジです。皆さんもチャレンジを受けて、プレッシャーに感じておられるかもしれません。でも、神様の前に取り組むべきことだと確信しています。
互いに励ましあって、取り組んでいきたいと願います。


もうひとつは、
そのようにしているが、今はまだわからないだけ。。

人生の終わりに、振り返ったときに、
「歩んでいる最中は気づかないことが多かったけど、
本当に幸いな人生だった。」とわかるに違いないと信じます。
そんな人生であるためにも、御言葉を心に植えつけるために、聖書を読み、祈り、イエス様と交わるものとなりましょう。

そのように、私たちが今、イエス様に目をむけ、イエス様を目指して、イエス様と共に歩む人となるなら、本当に幸いですね。

今日、幸いな人としての一歩を踏み出す人はすばらしい人生への一歩です。