2007/12/23

07.12.23「クリスマスの本当の意味」

ルカ 2:1-20
:1 そのころ、全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストから出た。
:2 これは、クレニオがシリヤの総督であったときの最初の住民登録であった。
:3 それで、人々はみな、登録のために、それぞれ自分の町に向かって行った。
:4 ヨセフもガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。彼は、ダビデの家系であり血筋でもあったので、
:5 身重になっているいいなずけの妻マリヤもいっしょに登録するためであった。
:6 ところが、彼らがそこにいる間に、マリヤは月が満ちて、
:7 男子の初子を産んだ。それで、布にくるんで、飼葉おけに寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。
:8 さて、この土地に、羊飼いたちが、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた。
:9 すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が回りを照らしたので、彼らはひどく恐れた。
:10 御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。
:11 きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。
:12 あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。」
:13 すると、たちまち、その御使いといっしょに、多くの天の軍勢が現われて、神を賛美して言った。
:14 「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」
:15 御使いたちが彼らを離れて天に帰ったとき、羊飼いたちは互いに話し合った。「さあ、ベツレヘムに行って、主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見て来よう。」
:16 そして急いで行って、マリヤとヨセフと、飼葉おけに寝ておられるみどりごとを捜し当てた。
:17 それを見たとき、羊飼いたちは、この幼子について告げられたことを知らせた。
:18 それを聞いた人たちはみな、羊飼いの話したことに驚いた。
:19 しかしマリヤは、これらのことをすべて心に納めて、思いを巡らしていた。
:20 羊飼いたちは、見聞きしたことが、全部御使いの話のとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。

序)本当の意味を知ること
本当の意味を知ることは、その出来事やお話しのもっとも伝えたいことを知ることであり、そうしないとわからないこともあるのです。

本当の意味を知ることはとても大切なことです。
今日は、クリスマスの本当に意味を知って、
あなたにとって、今までと一味違ったクリスマスとなれば嬉しく思います。


1.クリスマスの本当の意味とは

:11 きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。

①あなたがたのために・・・
クリスマスは、だれの為のものでしょうか。
それは、みなさん一人一人のためなのです。

子供達だけの為にサンタさんがきてくれるから、子供達だけのため?
それとも、イスラエルという遠い国の出来事で、その国の人だけのため?
キリスト教のお祭りだから、クリスチャンだけのため?

そうじゃないんです。
あなたがたのため、全ての人のためのものなんです。


じゃあなぜ、私たちのためなのでしょう。
それは、神様が私たちを愛しておられるからです。

ヨハネ 3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。:17 神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。

神はあなたを愛しておられ、素晴らしい人生を送ってほしいと願っておられます。

私たちであっても、愛する人には、喜んでもらえるものを本当に大切なものを用意するでしょう。

例えば、今ここにいる人達で、船で旅をしているとします。
タイ○ニックじゃありませんが、ある時、船が氷山に激突して、沈没してしまうような状況になりました。
ボートが5艘ありました。ところが、定員があります。
どうしても、1人だけ乗れないとします。その時、自分の命を捨てる覚悟で、誰かがその席を譲ってくれたら、あなたはその人の愛をどう思いますか。
素晴らしい愛だと思うでしょう。

神様はそれ以上の愛で、私たちを愛して下さっているのです。
だから、私たちのためにクリスマスがあるのです。


そして、もう一つ・・・

②救い主がお生まれになりました。

クリスマスは、救い主がお生まれになった出来事です。

クリスマスはイエスキリストの誕生日だというと聞いたことがあると思います。
でもそれは、歴史上のある人の誕生日というよりも、
救い主が地上に生まれた出来事そのものであるといった方が正しいでしょう。


先ほど、神様が私たちを愛しておられるので、私たちの為にクリスマスがあることを見ました。
では、そもそも私たちに救い主は必要なのでしょうか。

ローマ 3:23 すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができない。

全ての人は罪人であることを聖書は言っています。

刑務所に入ったことはないかもしれません。
法を犯すようなことをした覚えがないとおっしゃるかもしれません。
素晴らしいことです。

人は罪を犯して、神から離れてしまったので、神の愛も計画も知ることができなくなってしまっています。
本来、神様と交わることができるものとして神様によって創られたのに・・・です。
エデンの園で、アダムとエバが神の命令に背いて神から離れたから、人間はそうなってしまったのです。
神様に対する反発であっても、神様なんて関係ないという無関心であっても、
神様を認めず、神様に背を向ける自己中心が、聖書のいう罪なのです。
的外れというギリシャ語が使われています。
神様中心で、神様に向かっていなければならない私たちの心がその的から外れた方向に向いている状態をさしているのでしょう。

そのため、私たちは神様と離れてしまい、神様の存在もその愛も知ることができないのです。
この間を橋渡ししてくれるのが、「救い主」です。

そうです。私達には「救い主」が必要なんですね。


クリスマスの本当の意味とは、

「あなたを愛しておられる神様が、
 救いを必要をしているあなたのために、
 救い主として地上にお生まれになった。」



結)あなたも救われて、神の愛を知る

実際にイエスキリストは、その生涯の最後に十字架で死なれました。
これは、私たち人類の罪の身代わりとして死なれたのです。

ローマ 5:8 しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。

先程の船の沈没の話しをたとえにしますと、
その時に席を譲ってくれた人が身代わりとなったのです。
その身代わりがあったから、あなたが救われるのです。

全ての人が罪人であることをお話ししました。
罪人が罪人の罪の身代わりになることはできません。
罪のない人じゃないと身代わりにはなれないのです。

イエスキリストは、クリスマスに生まれられ、罪を犯すことなくその生涯を送られ、
その生涯の最後に罪のない人として、罪の身代わりとしてその罰を受けられたのです。

クリスマスの本当の意味を知りました。
それは素晴らしいことです。でも、もっと素晴らしいことは、その救い主の救いを自分のものにすることです。

ボートに乗って救われるのに、その席を空けてくれた身代わりになってくれた人がいるのに、
自分もボートに乗らなかったら、せっかくあけてくれた席は空席のままで、あなたも救われません。
身代わりになってくれた人の好意を愛を受け入れて、その救いを助けを受け入れる時、あなたは救われるのです。

イエスキリストがあなたの罪の身代わりとして死んで下さったのに、それを受け入れないでいるなら、せっかく救いが用意されているのに、救われません。
イエスキリストを受け入れ、その愛を受け入れる時に、あなたは救われ、あなたはその愛を知ることができるのです。

今日、このキリストを受け入れる時に、あなたにとって、本当の意味でのクリスマスを体験することでしょう。

2007/12/09

07.12.9「開かれた神の国」

マルコ 10:13
:13 さて、イエスにさわっていただこうとして、人々が子どもたちを、みもとに連れて来た。ところが、弟子たちは彼らをしかった。
:14 イエスはそれをご覧になり、憤って、彼らに言われた。「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。
:15 まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、はいることはできません。」
:16 そしてイエスは子どもたちを抱き、彼らの上に手を置いて祝福された。

序)
親は、子供を祝福してほしい、守られてほしい、、と願うものです。
先ほど、献児式がもたれましたが、お子さんがイエス様の祝福を受け、イエス様の守りの中で、健やかに成長し、神と人とに愛される人となってほしい、、とご両親が願われたから、実現したものですね。
お宮参りというものがありますが、それらは、親が自分の子供に対して、神様の守りの中で成長してほしいと願ってするものです。
親は自分の子供に対して、そのように願うものです。

ここでも人々は、子供たちがイエス様の恵みを受けてほしい、その祝福に預からせたい、、と願ってみもとに連れてきたのでしょう。

ところがそれを見た弟子たちは彼らをしかった、とあります。
なぜでしょう。
子供は騒がしいから?礼儀を知らないから?
あるいは、イエス様の祝福を受けるのに、大人を差し置いて受けるなんて、ありえない?
弟子たちがどのような理由でしかったのかは書いてありませんが、いろんな理由があるのでしょう。

子供に本物のクラシック音楽を聞かせたい、、と思い、クラシックコンサートの会場に子供を連れた親が何人も入ってきたらどうでしょうね。おそらくは、母子室のような防音室での鑑賞となるでしょう。子供が泣いたり、騒いだり、しゃべったりしては、他のお客さんの迷惑になるからという理由でしょう。

天皇陛下が出席するような大会に、天皇陛下に子供を見てほしいから、、といって、連れてきたらどうでしょう。入口で警備員に止められてしまうでしょう。
天皇陛下に失礼があってはならないから・・という理由なのかもしれません。

イエス様のものと子供たちを連れてきたときに弟子たちがそれを止め、しかった理由も同じような理由かもしれません。


1.子どもたちに開かれている

でも、イエス様はそれをご覧になって、憤ってこのように言われました。
「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、はいることはできません。」

弟子たちは子供たちが来るのを止めていました。
しかし、イエス様は逆に、このような者たちこそ、神の国に入れるのだといわれたのです。
いや、このような者たちでなければ、入れないと言われたのです。

先ほどの例のように、クラシックコンサートで子供が断られる理由であったり、重要人物がいるような会合で断られる理由を考えてみてもわかるように、大人は、いろんなことを考えます。
よくいえば配慮しているといえます。
確かにそのような配慮によって、秩序が保たれる場合もありますから、これを否定するものではありませんし、イエス様もそれを否定するためにこのようなことを言われたわけでもありません。

しかし、大人はいろんなことを考える余り、いろんなことを複雑に考えてしまって、受け入れるべきものを素直に受け入れられなかったり、純粋に受け止められない場合があるのです。

神の国に入る為にはどうすればいいのだろうか。
イエス様に気に入ってもらわなければ、、とか思っていたのでしょうか。

実は、この記事の前後では、人々がイエス様と議論している箇所が出てきます。
離婚について、聖書になんて書いてあるか、イスラエルの先人の偉大な預言者モーセによるとこうだけど、その辺はどう解釈するのか、、等、複雑に物事を考え、あるいは理屈をこねて、あーでもないこーでもない、、といって聖書に書いてあることを素直に受け入れようとしなかったり、、。
永遠の命を自分のものとして受ける為にはどうすればいいのか・・とイエス様に聞いて、聖書にはこう書いてあるが私はそれを小さいときからしています、といい、でもそれ以外のことを言われたときにそれが彼にとって困難に思えることだと素直を聞くことができず、何も答えられずに帰ってしまうという記事も出てきます。

大人はこのようにいろんな経験を積んだり、知識を得ることによって、かえって神様の言葉を素直に受け入れられなくなっていたりすることをイエス様はご存知で、素直に受けいれ、純粋に神様のもとに来て、神様を慕うことを「子供のように」という表現で私たちに教えてくださっているのだと思うのです。

弟子たちもまた、神の国に入るために、どうすればいいのかを複雑に考えすぎていたのかも知れません。

人前では、秩序や配慮も必要でしょう。
いつまでも子供のようであっては社会では通用しないでしょう。
しかし、神の国の法則は違うのです。

神の国は、ここではありません。あなたの心にあります。
誰も入ることができない場所です。
そこで、イエス様は、私たちに大きく手を広げて、その救いの手を広げて、
「おいで~」と呼ばれているのです。
子供のようにそのイエス様のもとに飛び込んでいくなら、子供のように神の国を受け入れる者となるなら、神様の救いを得て、その恵みと祝福に預かることができ、神の国に入ることができるのです。

あなたは、そのイエス様の呼びかけに、子供のように応えますか。

応えるならば、、、


2.一人一人に神の平安を

イエス様は私たちを抱き、手を置いて祝福してくださるのです。

:16 そしてイエスは子どもたちを抱き、彼らの上に手を置いて祝福された。

イエス様は子供たちを抱き、、とあります。
CMで、子供にどう接していいのか、どう話しかければいいのかわからない、、でも、抱きしめるだけで伝わる・・というような内容ものがありました。
小さな赤ちゃんも左に顔が来るように抱っこすると心臓の音で安心すると聞いたこともあります。
抱かれるというのは、子供にとって、人にとって、すごく安心感を得るものです。

イエス様もここで、子供たちに神の国の平安、最高の安心感を与えられたのだと思います。
そして、手を置いて祝福されたのです。

ここでもうひとつ気付くことがあります。
子供たちを抱き、彼らの上に手を置いて祝福されたとあります。
抱こうと思うと、5人も10人も同時にはできません。
両膝に乗せて、2人なら抱っこできるかもしれません。
でも、抱き、手を置いて祝福、とあります。
これは、一人ずつじゃないとできないと思うのです。
片方の手で抱っこして、もう片方の手を上において祝福する・・・。

つまり、イエス様はやってきた子供たちを一人ずつ抱き、手を置いて祝福されたのです。

私たちがイエス様のもとに行くとき、十把一絡げで扱われるのではなく、一人一人に丁寧に個人的に関わってくださるのです。


結)イエス様の救いの中に
イエス様は二千年前にこの地上を人として歩まれ、その生涯の最後に十字架にかかられました。
罪のないお方がなぜ十字架にかかられたのか、それは全ての罪人、つまり私たちのために身代わりとなってくださったのです。その死によって、私たちの罪は清算されるのです。
その救いを受け入れるならば、自分のものとできるのです。
神の国は開かれています。
救い主イエス様は今も大きく手を広げて、私たちを迎えてくださるのです。
子供のようにイエス様の救いの手の中に入るでしょうか。
そうされるなら、イエス様はあなたを個人的に抱き、祝福し、かかわってくださるのです。
今日、勇気を出して、子供のように素直になって、開かれている神の国、イエス様のもとに飛び込むなら、幸いです。