2010/01/10

10.1.10「見よ。私は新しい事をなす」

イザヤ 43:18-21
:18 先の事どもを思い出すな。昔の事どもを考えるな。
:19 見よ。わたしは新しい事をする。今、もうそれが起ころうとしている。あなたがたは、それを知らないのか。確かに、わたしは荒野に道を、荒地に川を設ける。
:20 野の獣、ジャッカルや、だちょうも、わたしをあがめる。わたしが荒野に水をわき出させ、荒地に川を流し、わたしの民、わたしの選んだ者に飲ませるからだ。
:21 わたしのために造ったこの民はわたしの栄誉を宣べ伝えよう。


序)新しい事を・・・
何か新しいスタートだったり、新しい事というのは、ワクワクします。
先週、イエス様によって、希望と土台を創っていただき、スタートしましょうというお話をしました。そして、そのスタートは、まさに新しいことそのものです。ワクワクしますね。
今日この箇所を通して、神様がなされる新しいことにワクワクしたいと思います。

1.見よ。わたしは新しい事をする。

「見よ。わたしは新しい事をする。今、もうそれが起ころうとしている。あなたがたは、それを知らないのか。確かに、わたしは荒野に道を、荒地に川を設ける。」

神様は、新しい事をされます。それは、出来事にもよるでしょうが、毎年、あるいは日々、新しい事をしてくださいます。まだ起こっていないこともあるでしょうが、もうそれが起ころうとしていると言われます。

でも、私たちがそれを知らないでいる事もあるのではないでしょうか。

神様は私たちが知らなくても、新しい事をなされるお方です。
私たちには理解できないような方法をとられる事もあります。
荒野に道を、荒地に川を設けるようなことをされるお方なのですから。。

わたしたちは、神様がされる新しい事を知ろうとする必要があるのではないでしょうか。
では、何を知ればいいのでしょう。

①イエス様を知る。
まず、わたしたちはイエス様を知らなければなりません。
聖書を通して、イエス様を知る事ができます。
祈りを通してイエス様を知る事ができます。
普段の生活の中でイエス様を体験して、イエス様を知る事ができます。
イエス様を知っていくときに、その御心であったり、主がなそうとされる新しい事を知る事もあるのではないでしょうか。

ホセア 6:3 私たちは、知ろう。主を知ることを切に追い求めよう。主は暁の光のように、確かに現われ、大雨のように、私たちのところに来、後の雨のように、地を潤される。

主を知る事を切に追い求めるものとなりましょう。


②自分の価値を知る。
先ほどの私の話で、自分の置かれた立場、その責任のようなものを感じました。
私に伝えられた福音によって、私は救われた。でも、この福音を伝えるものとしてその立場に置かれているんだという重さを感じました。
それと同時に、神様から愛されて救われているという素晴らしい立場にあるということも感じました。
わたしたちは、神様に愛されているという素晴らしい価値あるものなのです。

イザヤ 43:4 わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。

神様が私たちを愛しておられます。そしてその価値を「私の目には、高価で尊い。あなたを愛している」と言われているのです。

誰があなたをどのような評価をしたとしても、神様の目には、高価で尊い存在なのです。
あなたが誰からも愛されなかったとしても、神様はあなたを愛しておられるのです。


私たちが、イエス様を知る事を追い求め、自分の価値を知り、自覚していくなら、神様がなそうとされる新しい事を知る事ができるのではないでしょうか。
もし前もって知る事ができなかったとしても、それが起ころうとしていくときに、神様の御業であることを知る事ができるのではないでしょうか。

逆を言えば、私たちがイエス様を知ろうとせず、自分の価値を正しく認識していないなら、主が新しい事をされていても気付かずに過ぎていってしまうのだと思うのです。

イエス様を知る事を追い求め、自分の価値を知り、神様がなされる新しい事を知るものとなりましょう。


主がなされる新しい事とはどんなことでしょう。


2.わたしは荒野に道を、荒地に川を設ける。

「確かに、わたしは荒野に道を、荒地に川を設ける。野の獣、ジャッカルや、だちょうも、わたしをあがめる。わたしが荒野に水をわき出させ、荒地に川を流し、わたしの民、わたしの選んだ者に飲ませるからだ。」

荒野に道を、荒地に川を設ける、というのは、簡単なことではありません。
人間的には不可能と思えるようなことを神様はされるのです。
それだけではありません。
神様がされる新しい事は素晴らしい恵みに満ちた出来事です。

アマゾンの熱帯雨林を荒野にして、ナイル川を砂漠にする、とは言われていません。
荒野という道もなく何もないようなところに道を設け、荒地、砂漠のような、川どころか草も生えないようなところに川を設けるという素晴らしい創造です。
さらに、荒野に水をわき出させ、荒地に川を流し、私の選んだ者に飲ませる、とあります。

神様がされる新しい事は、私たちが想像することも難しいくらいの大きな恵みに満ちた出来事ではないでしょうか。

教会として常時使える場所が与えられるように祈り始めています。
現実的な金銭面等を考えるととても難しく感じます。
でも、それこそ、荒野に道を、荒地に川を設けられる神様に期待したいと思うのです。

他にも、人間的には難しく思う事もあるでしょう。
それは、教会としてもですし、みなさんそれぞれ個人的にもあるでしょう。
でも、荒野に道を、荒地に川を設けられる創造主なる神様に期待しましょう。


結)新しい事に期待しましょう。
神様は新しい事をされます。今、もうそれが起ころうとしています。わたしたちはそれを知るものとなりたいですね。
神様がなされる新しい事は、荒野に道を、荒地に川を設けるような恵みに満ちた素晴らしい創造です。
そして、神の民、選ばれた者はその恵みに預かるのです。それは誰でしょう。それが私たちでありたいですね。
そのために、イエス様をもっと知りましょう。自分の価値を正しく知りましょう。
そして、その恵みに預かり、もっともっと神様の素晴らしさを宣べ伝えるものとなりたいですね。
神様がなされる新しい事に期待して、ワクワクした信仰生活を送りたいですね。

2010/01/03

10.1.3「すべてのはじまり」

新年あけましておめでとうございます
今年もよろしくお願いします


創世記1:1-5
:1 初めに、神が天と地を創造した。
:2 地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。
:3 神は仰せられた。「光があれ。」すると光があった。
:4 神は光を見て良しとされた。神は光とやみとを区別された。
:5 神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。夕があり、朝があった。第一日。

口語訳
:1 はじめに神は天と地とを創造された。
:2 地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。
:3 神は「光あれ」と言われた。すると光があった。
:4 神はその光を見て、良しとされた。神はその光とやみとを分けられた。
:5 神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。夕となり、また朝となった。第一日である。


序)はじまりはとても大切です。始まりがなければ、プロセスもないし、終りもない。
やはり始まりはとても大切です。
今日は2010年最初の礼拝です。とても大切です。でも来週も再来週も大切です。そう、プロセスも大切ですから、そして12月26日の2010年最後の礼拝も大切です。終りも大切ですから(笑)
でも始まりがあっての全てです。

というわけで、今日は聖書の一番最初、わたしたちの歴史の始まりである、創世記1章1節を見て行きましょう。

神様ははじめに何をされたでしょう?

1.天と地を創造した。

①天を創られた。
天は、希望を意味するのではないでしょうか。天国への望み、天へ向かう永遠の思い、天・目標や目的に向かう希望。。。
私達は希望なしには生きていくことはとても虚しく困難かも知れません。
神はまず天を創られました。希望を私達に創って下さいます。
聖書を通して私達に希望を与えて下さいます。
また、私達のうちに神様が働きかけて、希望を与えて下さいます。

ピリピ 2:13 あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせる のは神であって、それは神のよしとされるところだからである。

神様は聖書という神の言葉によって、また私達のうちに働きかけることを通して、希望を与えて下さるのです。
私達もイエス様に希望を創っていただきましょう。


②地を創られました。
地は土台を意味するのではないでしょうか。
砂の上に家を建てた人と岩の上に家を建てた人の譬が聖書にでてきますが、まさにそこは「地」です。
私達は岩の上に家を建てたいですね。
神様が創られた土台を私達の土台としたいです。
まさに「聖書=イエスキリスト」がその土台です。
土台がなくして「希望」の実現もありませんし、希望をなくして土台が活きることはありません。
土台をどんなにしっかりと作っても上に家をたてなければそれは何の意味があるのか?と疑問に思います。また、土台をしっかりと据えずに家を建てるならば、その家は長くは持たないでしょう。
欠陥住宅とは、土台が問題であるときに最初からやり直すしか直す方法はりません。土台が本当にいい加減だと傾いてしまったりもします。

Ⅰコリント3:10-11
:10 神から賜わった恵みによって、わたしは熟練した建築師のように、土台をすえた。そして他の人がその上に家を建てるのである。しかし、どういうふうに建てるか、それぞれ気をつけるがよい。:11 なぜなら、すでにすえられている土台以外のものをすえることは、だれにもできない。そして、この土台はイエス・キリストである。


私達も揺るぎ無い土台を作りたい。私たちがイエス様を土台とするならば、その土台は揺るぎ無い土台です。

イエス様を賛美し、イエス様を礼拝し、イエス様に祈り、イエス様と交わり、イエス様に聞き、イエス様に満たされて行く時に、土台であるイエスキリストを据える作業をしているのです。
土台は大きければ大きいほど、しっかりしていればしっかりしているほど、大きな高い建物を建てることができます。
そのために時間をかけることもあるかもしれません。でも時間が短くてもイエスキリストが土台であるなら、それはパーフェクトです。
そして、その上に家を建てていくのです。希望に向かって。。。

私達は神様が最初に創造された天と地、希望と土台を正しく健全に持ちたいと思います。聖書によって、イエス様によって、、、


さて、ここでひとつ気を付けておきましょう。


2.神の霊が水の上を動いていた。

:2 地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。

口語:2 地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。

私達が希望を持ち、土台を据え、スタートするとき、中には明るい状態じゃない場合もあるでしょう。そのプロセスの中にはそのようなことも待っているかもしれません。
創世記の最初もそうだったようです。しかしその中でも神の霊がおおっていたと書いてあります。そう、わたしたちがどんな状態の時も神の霊がおおっているのです。
ですから、神がおられないと感じるような時も神の覆いのなかにいることを覚えましょう。
そうじゃないと、希望と土台だ!といってスタートしてもつまづいてしまうような時があるかも知れません。でも、そんな時にも神がおおいとなって下さっていることを知っているならば、その希望を捨てることはしません。もし土台が不十分だと思うなら、まずはしっかりと土台作りをすればいいんです。

神が全てを支配しておられることを覚えましょう。そうするならば、神様はその後に「光あれ!」と言われることでしょう。
そして、神はその光を見てよしとされるのです。


結)私達は希望と土台をイエス様によって創っていただきましょう。
でも、それらは、喜ばしいものばかりではないかも知れません。その時も神の霊がおおってくださっているのです。
そのことを忘れずにいましょう。いずれ神は光あれと宣言し、わたしたちに素晴らしいものを見せて下さるに違いないのです。
年の最初の礼拝に、イエス様を礼拝し、スタートできるこの恵みを感謝します。
そして、今年も聖書を土台に、イエス様を土台に歩んで行きましょう。