2008/07/28

08.7.27「愛からの行動」

ピレモンへの手紙
:1 キリスト・イエスの囚人であるパウロ、および兄弟テモテから、私たちの愛する同労者ピレモンへ。また、
:2 また、姉妹アピヤ、私たちの戦友アルキポ、ならびにあなたの家にある教会へ。
:3 私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたの上にありますように。
:4 私は、祈りのうちにあなたのことを覚え、いつも私の神に感謝しています。
:5 それは、主イエスに対してあなたが抱いている信仰と、すべての聖徒に対するあなたの愛とについて聞いているからです。
:6 私たちの間でキリストのためになされているすべての良い行ないをよく知ることによって、あなたの信仰の交わりが生きて働くものとなりますように。
:7 私はあなたの愛から多くの喜びと慰めとを受けました。それは、聖徒たちの心が、兄弟よ、あなたによって力づけられたからです。
:8 私は、あなたのなすべきことを、キリストにあって少しもはばからず命じることができるのですが、こういうわけですから、
:9 むしろ愛によって、あなたにお願いしたいと思います。年老いて、今はまたキリスト・イエスの囚人となっている私パウロが、
:10 獄中で生んだわが子オネシモのことを、あなたにお願いしたいのです。
:11 彼は、前にはあなたにとって役に立たない者でしたが、今は、あなたにとっても私にとっても、役に立つ者となっています。
:12 そのオネシモを、あなたのもとに送り返します。彼は私の心そのものです。
:13 私は、彼を私のところにとどめておき、福音のために獄中にいる間、あなたに代わって私のために仕えてもらいたいとも考えましたが、
:14 あなたの同意なしには何一つすまいと思いました。それは、あなたがしてくれる親切は強制されてではなく、自発的でなければいけないからです。
:15 彼がしばらくの間あなたから離されたのは、たぶん、あなたが彼を永久に取り戻すためであったのでしょう。
:16 もはや奴隷としてではなく、奴隷以上の者、すなわち、愛する兄弟としてです。特に私にとってそうですが、あなたにとってはなおさらのこと、肉においても主にあっても、そうではありませんか。
:17 ですから、もしあなたが私を親しい友と思うなら、私を迎えるように彼を迎えてやってください。
:18 もし彼があなたに対して損害をかけたか、負債を負っているのでしたら、その請求は私にしてください。
:19 この手紙は私パウロの自筆です。私がそれを支払います――あなたが今のようになれたのもまた、私によるのですが、そのことについては何も言いません。――【句点の位置】
:20 そうです。兄弟よ。私は、主にあって、あなたから益を受けたいのです。私の心をキリストにあって、元気づけてください。
:21 私はあなたの従順を確信して、あなたにこの手紙を書きました。私の言う以上のことをしてくださるあなたであると、知っているからです。
:22 それにまた、私の宿の用意もしておいてください。あなたがたの祈りによって、私もあなたがたのところに行けることと思っています。
:23 キリスト・イエスにあって私とともに囚人となっているエパフラスが、あなたによろしくと言っています。
:24 私の同労者たちであるマルコ、アリスタルコ、デマス、ルカからもよろしくと言っています。
:25 主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊とともにありますように。



これは獄中のパウロからピレモンへ宛てた手紙といわれている箇所です。
順をおって少し見ていきましょう。
パウロは「キリストの囚人」と自分を表現しています。
ピレモンを同労者と言っています。家にある教会・・・家庭集会から教会としての形になっていったのかもしれませんね。
ピレモンの信仰と愛についてパウロは喜び、神に感謝しています。
そのピレモンの愛によって多くの喜びや慰めを受けたといっています。
パウロはピレモンに命じることのできる立場にいたようですが、あえて命じることをせず愛によってお願いしています。
オネシモについてです。獄中でキリストを受け入れクリスチャンになったのでしょう。
オネシモとは有益な者(役に立つ者)という意味だそうです。ですから、名前にひっかけて以前は役に立たない者だったが、今は名前の通り役に立つ者になった、と表現したのかもしれません。
このオネシモは獄中でパウロによって改心して仕えていたのですが、もともとピレモンのしもべ(奴隷)だったようですね。
だから、ピレモンのもとへ返すといっています。
ピレモンが再度パウロのもとへオネシモを送るかどうかはピレモン次第ですが、パウロはピレモンが自発的にこのことをしてくれるならそれを受け入れるつもりだったのでしょう。
パウロにとっては今やオネシモは自分の思いを思いとしてくれる霊的な子だったのでしょうね。彼は私の心だとまで表現していますから。
さて、このオネシモを、パウロを迎えるように迎えてほしいというパウロのお願いでした。
その上、もしオネシモがピレモンに対して何か負債や損害があれば、パウロが支払うとまで言っています。
よいサマリヤ人のたとえを思い出しませんか。
実際は、ピレモンはパウロによって今の状態があるようですが、パウロはそのことは言わないといっています。これがパウロがピレモンに対して命じることができるといった根拠なのかもしれませんね。
また、パウロはピレモンに対して、「あなたは私の言うこと以上のことをしてくれると知っているから・・・」と書いています。
ピレモンとしては「せなしゃあないやん・・・」状態かも知れません(笑)
しかし、パウロもわざわざそんなことを言わなくてもいいのに・・・と思ったのは私だけでしょうか(笑)
でも、ここに書いてあるから、今私達はパウロとピレモンのそのような関係を見ることができるし、その中でパウロの心を見ることもできるのですから、これも神様の御業なのでしょうね。
獄にいる他の同労者からの挨拶とキリストにある挨拶でしめられています。

今朝はここから「愛からの行動」について少し学んでイエス様に心を向けていきたいと思います。

愛からの行動とは・・・

1.自発的な心 :14

あなたがしてくれる親切は強制されてではなく、自発的でなければいけないからです。

愛が発信源である行動は、自発的な行動です。
自発的な心は愛がなければ起こらないでしょうか?

実は、他にもいっぱいあります。
人は自発的に仕事をします。それも仕事をいただける場所に自発的に行きます。
お中元やお歳暮の時期になると、買って贈ります。これも自発的です。
これは、愛が発信源なのでしょうか?
いいえ。ほとんどはお金という見返りのためです。
仕事を貰うために、お金を稼ぐために、自発的な行動をするんです。
そこには愛があるからというわけでもないのに自発的な行動があります。
人は自分のためになること、つまり見返りを期待する時、自発的に行動するのです。

でも、イエス様はどうだったでしょうか。
見返りなど何もない、全くどうしようもない罪人のために十字架にかかって命を捨てて下さった。
この行動も自発的でした。

もし、ピレモンが自発的にオネシモをパウロのもとに遣わしたとしても、ピレモンの中に「これでパウロ先生によく思われて、大きな教会の牧師にしてもらえるかもしれない・・・」なんて思っていたらどうでしょう。
この場合の自発的な行動は、愛から来ているといえるでしょうか。

オアシスチャーチは幸いです。今現在奉仕に携わって下さっている全ての人は自発的です。何の見返りもありません。
会場準備してくれる人、賛美の奉仕をしてくれる人、CSをしてくれる人、週報を配ってくれる人、午後の行事の準備などをしてくれる人、・・・いろんな働きをみんなでしています。
これは愛からくる自発的な行動ですね。本当に感謝です。

先ほど、私は、仕事は「お金」の見返り目当てだと言いましたが、実はそうばかりでもありません。困っておられるとお金にならなくても相談に乗ったりしてしまうということもあるでしょう。
そこには、小さいかも知れませんが、「愛からの自発的な心」が働いているのかもしれません。

先週、出て行くことについてお話しました。
キリストの香りをはなつために、出て行く。福音を伝える為に出て行く。
これらもまた、自発的な愛の心からでありたいですね。

私達は見返りを期待しない「愛からの自発的な心」を大切にしたいですね。
でも、実はそこに見返りがあるのです。。。神様からの見返りです。
神様に見返りを期待する時、わたしたちは神様に仕えるように、人々やいろんな場面で仕えることができるようになるのではないでしょうか。



2.負債を負う覚悟 :18-:19

もし彼があなたに対して損害をかけたか、負債を負っているのでしたら、その請求は私にしてください。
この手紙は私パウロの自筆です。私がそれを支払います

普通、人の負債まで負おうとする人はいませんよね。
パウロはオネシモの負債を負う、損害をかけたら払うと言いました。

サマリヤ人のたとえを思い出します。
強盗に襲われて倒れている人を介抱し宿に連れて行き、そこの主人に頼んで、しかもその支払いを全てするといい、余分にかかったらそれも支払うとまで言った、あのサマリヤ人と似ています。
また、親子であればあるかもしれませんね。
子供の負債を親が支払おうとする。私ももし子供がどこかで何かをして損害を与えたりしたら、当然叱りますが(笑)、それに対して支払いを代わってするでしょう。
これを悪用したのが「振り込め詐欺」ですが。。。

そして何よりも大きな負債を負って下さった方を私達は知っています。
イエス様です。

イエス様は罪がないにもかかわらず、わたしたちの罪をかわりに負ってその支払いを全てして下さいました。
それが十字架です。

これらの話しの共通点は何ですか?
負債を負った人の「愛」が共通しています。
まさに愛がなければ負うことができないものです。
その覚悟ができるというのは、その人に対する「愛」があるといえるのではないでしょうか。
それはある時は命懸けかも知れません。
私達は、自分の子供や妻のためならできても、他人の負債まで負うことはできないかもしれません。
でも、パウロは肉においては他人のオネシモの負債を負うといった。パウロの中にあるキリストの愛がここに現れているのではないでしょうか。私達はそれを見ることはできます。

結)
さて、パウロの持っていた愛はどこからくるのでしょう。
それは、パウロ自身からではなく、イエスキリストからです。
キリスト・イエスの囚人であるパウロ:1
そうです。キリストの囚人、キリストにとらわれた人にはキリストが宿り、キリストの愛が現れるのだということだと思います。
私もキリストの囚人になりたいです。

キリストにとらわれるためにはどうすればいいでしょうか。簡単に3つだけ。
・イエス様を知る。
・イエス様を受け入れる。
・イエス様と交わる。
その時に、イエス様にとらわれていき、イエス様御自身で、そしてその愛で満たされることでしょう。

今イエス様が自分に語られていることに耳を向け、目をむける人は幸いです。

2008/07/20

08.7.20「出て行くこと」

マタイ 28:18-20
:18 イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。
:19 それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、
:20 また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」


マルコ 16:15-20
:15 それから、イエスは彼らにこう言われた。「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。
:16 信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。
:17 信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、
:18 蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病人はいやされます。」
:19 主イエスは、彼らにこう話されて後、天に上げられて神の右の座に着かれた。
:20 そこで、彼らは出て行って、至る所で福音を宣べ伝えた。主は彼らとともに働き、みことばに伴うしるしをもって、みことばを確かなものとされた。〕



序)最後の言葉。
地上での最後の言葉というのはとても大切なことを普通いいますよね。

ある婦人がご主人に聞きました。
「ねえ、あなたがもし死ぬ時を迎えるとしたら最後の言葉は何て言う?」
婦人は自分に対して「今までありがとう」とか「お前のお陰で楽しい人生だった」とかを期待していたのかも知れません。
しかしご主人は「おれが死ぬ時は「う”、う”ぅぅ~~・・・」かな」

まあ、これは実話なのですが、笑い話ですが、普通最後というのは大事なことを話します。
ここはイエス様が天に帰って行かれる直前に語られた箇所ですので、とても重要な箇所であることはみなさんもご理解いただけると思います。
ですから、今日は少し見て行きましょう。


1.出て行くことは主の願い

マタイ あなたがたは行って:19
マルコ 全世界に出て行き:15

出かけて行くことをイエス様は命じておられる。

これは、何も言葉通り世界一周宣教旅行に行くことを言っているわけではない。勿論それができればそれも素晴らしいことではあるが。。。
私達に適用するなら、これは私達が遣わされているあらゆるところへ出かけていくことではないだろうか。
山にこもって俗世界から隔離されて過ごすことをイエス様は望んでおられず、その俗世界の中に出て行って福音を伝え、証しすることをイエス様は望んでおられるということだと信じます。

では、出て行って福音を伝えるとは、訪問したり、路傍で大きな声で福音を語ったり、キャッチセールスみたいに声をかけて福音を語ったりすることなのでしょうか。
それもしても構いませんし、ひとつひとつはイエス様を伝える方法ですから、尊い働きと言えるでしょう。
訪問しても普通平日の昼間は留守が多かったり、路傍で伝道しても余程でないと聞いてもらえなかったり、
刈り取り伝道みたいなことをしても、今は胡散臭く思われてなかなか難しいかもしれません。

でも、福音を伝えるというのはそれだけではありません。

私達は仕事をしてます。職場に出て行きます。そこで私達が仕える時、それはキリストの香りを放っているひとつの伝道であると思います。
近所付き合いの中でもそうでしょう。
家庭でもそうでしょう。特に家族がクリスチャンでない場合はそういう面は大きいのではないでしょうか。
キリストの香りを放っているのに気付かない人もいるかも知れません。
でも気にしないでいいです。目には見えないので自分がキリストの香りを放っているかどうかは分からないかもしれないからです。
あなたを通して放たれたキリストの香りを感じていても何も言わないだけかもしれません。

最近は電話で断ることが多いのであまりきませんが、以前はよく事務所にセールスマンが来ました。
ある時、えらいいい話しだと思ったので聞くだけ聞いたのですが、結局帰ってもらいましたが。。
その人がどうも香水を付けていたみたいで、二日くらい事務所の中が香っていました。

私達もキリストの香りを放っているならきっとそれに気付く人や反応する人が起こってくると信じます。

ですから、私達が行くところ行くところがイエス様が言われた「出て行くべき全世界」だと信じます。
イエス様は何も難しいことを言われたのではありません。あなたも既にしていることなのです。

私はこの意味はどちらかというと、クリスチャン界(キリスト教界)に留まっているのではなく、まだイエス様を知らない人や信じていない人のところへ出て行くことをイエス様が望んでおられるということだと感じています。

ヤコブ 2にはこのようにあります。
:14 私の兄弟たち。だれかが自分には信仰があると言っても、その人に行ないがないなら、何の役に立ちましょう。そのような信仰がその人を救うことができるでしょうか。:15 もし、兄弟また姉妹のだれかが、着る物がなく、また、毎日の食べ物にもこと欠いているようなときに、:16 あなたがたのうちだれかが、その人たちに、「安心して行きなさい。暖かになり、十分に食べなさい。」と言っても、もしからだに必要な物を与えないなら、何の役に立つでしょう。:17 それと同じように、信仰も、もし行ないがなかったなら、それだけでは、死んだものです。

出て行くことはイエス様の願いであり、御旨にかなったことであると信じます。
既に遣わされているところがあり、出て行っていることを感謝します。

では出て行くといっても、なかなか勇気がいる場合もありますし、覚悟が必要な時もありますね。
それでもイエス様は、「とにかく出て行きなさい」と私達をほっぽり出されるのでしょうか。


2.イエス様は共におられる

マタイ 見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。 :20
マルコ 主は彼らとともに働き、:20
私達が出ていくとき、イエス様は共におられ、共に働かれるのです。

マルコで、 信じる者には、このようなしるしが伴う。・・・と書かれてありますが、これは私達が持っているものでしょうか。
これはイエス様が持っておられる権威ですね。
マタイでは、イエス様は「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。それゆえに・・・」といわれています。
イエス様が一切の権威をお持ちであり、そのイエス様が共におられるので、弟子達が出かけて行って福音を語り行動していったところでしるしも伴ったということです。
私達は出て行って伝える、証しする、キリストの香りを放つというのは困難に思える時もあるかもしれません。
でも、イエス様が共におられるのです。しるしが伴うかどうかは主に委ねて、わたしたちができることをすることが大切です。

出て行くからイエス様が共におられるのではない。
イエス様が共におられるから出て行くのです。


ですから、イエス様はルカ伝では、
「見よ、わたしの父が約束されたものを、あなたがたに贈る。だから、上から力を授けられるまでは、あなたがたは都にとどまっていなさい」。
といわれています。イエス様を迎えて共におられることを確信するまでは留まっていてもいいのです。

だからといって、「まだまだ・・」とサウナで耐えるように、主が共におられるのに、留まり続けるのもどうかと思いますが^^;
別に無理をする必要はありませんが、イエス様を受け入れ、イエス様に祈っているなら、イエス様は共におられます。
信仰によって受け止めましょう。

そうです。イエス様が共におられるのです。
その確信とイエス様が命となり力となり慰めとなり励ましとなったなら、イエス様と共に出て行きましょう。
そこにイエス様も共に働いて下さり、キリストの香りが放たれ、人々にイエス様を伝える働きをすることでしょう。



結)
もう4年くらい前になるでしょうか、映画パッションを見て、かなり泣きました。
確かにすごい凄惨なシーンもありました。私が映画を見て感じたことをひとつだけ分かち合うとしたら次のことです。
イエス様が十字架で救いを完成されるために、こんなにも痛く苦しいところを通られたということを映画というものを通してみたような気がします。
私達が苦しむこと痛むことも人生のなかであるでしょう。
でも、イエス様の苦しみを思ったら、なんてことない、たいしたことないと思えます。
映画を見てそれを感じました。

イエス様の愛はものすごいです。
1ヨハネ 3:1 わたしたちが神の子と呼ばれるためには、どんなに大きな愛を父から賜わったことか、よく考えてみなさい。
映画を見て、この大きな愛を少しは感じられたように思いました。

そんなお方、イエス様が共にいて下さるのです。
共に出て行くものになりたいです。

2008/07/13

08.7.13「イエス様とわたしの関係」

ヨハネ21:15-23
:15 彼らが食事を済ませたとき、イエスはシモン・ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか。」ペテロはイエスに言った。「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの小羊を飼いなさい。」
:16 イエスは再び彼に言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」ペテロはイエスに言った。「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を牧しなさい。」
:17 イエスは三度ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」ペテロは、イエスが三度「あなたはわたしを愛しますか。」と言われたので、心を痛めてイエスに言った。「主よ。あなたはいっさいのことをご存じです。あなたは、私があなたを愛することを知っておいでになります。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を飼いなさい。
:18 まことに、まことに、あなたに告げます。あなたは若かった時には、自分で帯を締めて、自分の歩きたい所を歩きました。しかし年をとると、あなたは自分の手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をさせて、あなたの行きたくない所に連れて行きます。」
:19 これは、ペテロがどのような死に方をして、神の栄光を現わすかを示して、言われたことであった。こうお話しになってから、ペテロに言われた。「わたしに従いなさい。」
:20 ペテロは振り向いて、イエスが愛された弟子があとについて来るのを見た。この弟子はあの晩餐のとき、イエスの右側にいて、「主よ。あなたを裏切る者はだれですか。」と言った者である。
:21 ペテロは彼を見て、イエスに言った。「主よ。この人はどうですか。」
:22 イエスはペテロに言われた。「わたしの来るまで彼が生きながらえるのをわたしが望むとしても、それがあなたに何のかかわりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい。」
:23 そこで、その弟子は死なないという話が兄弟たちの間に行き渡った。しかし、イエスはペテロに、その弟子が死なないと言われたのでなく、「わたしの来るまで彼が生きながらえるのをわたしが望むとしても、それがあなたに何のかかわりがありますか。」と言われたのである。




1.主よ。あなたはいっさいのことをご存じです。:17

「イエス様は全てをご存知な方」


:17を見ると、ペテロがイエス様に対して「主よ。あなたはいっさいのことをご存じです。」と言っています。
イエス様は全てをご存知の上で「あなたは私を愛しますか」とペテロに聞かれたということです。

すべてを知っているというのは実際神様以外ないですよね。
すべてを知るというのは、人間は無理ですよね。
でも、神様はすべてお見通しです。
そして、これは神様があなたの苦しみや悲しみも全てご存知であるということでもあります。
今、苦しみの中にあるなら、その苦しみも知ってくださっていて、わかってくださるのです。
悲しみの中にあるなら、その悲しみも知ってくださいっているし、わかってくださるのです。
そのように、神様はどんなことも、あなたでさえ気付いていないことでさえも全てご存知である方なのです。
だから、この方に拠り頼むことは、素晴らしいことなのです。

そんな中で、イエス様は「あなたは私を愛しますか」と聞かれるのです。
これには、わたしたちが告白することに意味があることを教えられているように感じます。
神様がすべてご存知なら、わたしたちが求めていることもご存知なのですから、祈る必要ないんじゃない?
いや、だからこそ祈るんですね。神様はご存知ですが、そのことを祈る、告白することを神様は願っておられるのだと思います。

イエス様は全てのことをご存知です。
その上で、私達はイエス様に祈り、告白することを継続していきたいものです。


2.わたしに従いなさい。:19

「全てをご存知の上で、イエス様は私達を招かれる方」


こう話してから、「私に従いなさい」といわれました。
イエス様は私達の全てをご存知です。ですから、ペテロがイエス様を愛していることも知っているように、イエス様に従って行くことも知っておられたに違いないのです。
なのに、「従いなさい」といわれました。
イエス様は私達のことを知っている上で、選択させられます。
私達の自発的な行動を待っておられたり、促されたり、尋ねられたりするのです。

イエス様は全てを備えられました。
十字架で救いを完成し、復活して永遠のいのちを備え、天に住いを備え、聖霊として私達と共におることによって上からの力もそなえられました。
その上で私達はどうしますか。
イエス様は、「私を愛しますか」と聞かれます。その上で、
イエス様は、「私に従いなさい」と促されます。

私はイエスさまに「主よ、あなたを愛します。あなたに従います」と告白するものでありたい。
賛美もその告白のひとつですね。個人的な祈りもそうです。
日々の主との交わりの中でも告白できます。


3.あなたは、わたしに従いなさい。:22

「イエス様に従うことは、イエス様と自分との一対一の関係の中のこと」


「主よ。この人はどうですか。」とペテロが聞きましたが、「”あなたは”私に・・・」と言われました。
他の人は関係ないのです。私がイエス様に従うのかどうかです。
誰かがこうするから、「あの人がこうするので、わたしもこうしたほうがいいですか?」と神様に祈ったら、
「あなたは私に・・・」といわれると思うのです。
あの人の信仰はあの人のものです。あなたの信仰はあなたのものです。
それはそれぞれ神様からきているものであってほしいと願います。

信仰は、あなたと神様との一対一の関係なんですね。


結)イエス様とあなたの関係
あなたの全てをご存知のイエス様があなたに告白を願っておられます。
そしてそれは、自発的な告白であるべきです。
自発的な行動であるべきです。
ほかの人は関係ないのです。
イエス様とあなたの関係の中でなされるべきことです。
あなたとイエス様との一対一の関係を築いていく人は幸いです。