2009/01/25

09.1.25「イエス様のとりなし」

ルカ 22:31-34
:31 シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。
:32 しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」
:33 シモンはイエスに言った。「主よ。ごいっしょになら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。」
:34 しかし、イエスは言われた。「ペテロ。あなたに言いますが、きょう鶏が鳴くまでに、あなたは三度、わたしを知らないと言います。」

序)私たちはつまづいたり、倒れることもある者
子供はよくこけます。ぼくもそうでした。
幼稚園が小学校の低学年のころ、市内のちょっとした山に遠足かなにかで行ったのですが、
その時、下り坂から上り坂になるようなところがあり、そこを一気に下り、そのいきおいで上るという感じでみんなやり始めたので、ぼくも調子に乗って、走って下りはじめました。
ところが、思った以上に下りがながく、足がついていかずに、のぼりになるまでの前のめりに転んでしまいました。
いまだに下り坂は走りません。。

私たちは、そうやってつまずいたり、転んだり、倒れたりしますが、
これは人生、生活においてもそうですね。
クリスチャンになる前に、タバコを吸っていたのですが、もうやめようと思い、禁煙にチャレンジしました。でも、途中で挫折してしまいました。
そんなことが何度もありました。
また、学生のころ、1年以上つきあっていた彼女に振られた時は、人生につまずきました。
というと大袈裟ですが、そのころのぼくにとってはそれくらいの打撃でした。
毎晩飲み歩いて、つけをため込んだ時期でもあります。

みなさんはこんなつまずきや挫折を経験されてないかもしれませんが、
少なくとも何らかのことで、つまずいたりした経験をしたことはあるのではないでしょうか。

やってはいけないと思いつつも、やってしまって、罪を犯してしまったこと。
今年こそ○○するぞ。と新年に決めたのに、もう既にできていない・・・とか。
人生には、つまずいてしまったり、思ったようにできなかったりして、倒れてしまうような経験が大なり小なりあると思います。
でも、私たちはそういう者なのです。

だからといって、何やってもいいというわけではないですよ。
努力しても、思うようにできないこともある、人はそういう弱さを持っていたり、
サタンがそのように誘惑してきて、それに耐えられない時もある、そういう者であるということなのです。

:31 シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。

どちらにしても、まず自分自身をそのままの自分を受け止めましょう。
スポーツ選手でも、自分の弱点を知らずして、成長はないんですね。
その弱点を克服するように訓練することによって、成長していくのです。

高ぶることなく、まずは、自分はそういうものである事実をしっかり受け止めましょう。

さて、それだけでは、私たちは、自己嫌悪に陥ったり、凹んじゃいますよね。
自分ってなんて情けない、弱い、愚かなやつなんだ・・・って。

でも、イエス様は私たちをどう見ておられるのでしょう。


1.あなたのために祈って下さる。

:32 しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。

イザヤ 43:4 わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。

イエス様は私たちのために祈って下さるお方です。
そんな弱さを持ち、つまずいたり、倒れたりすることをご存知の上で、私たちの為に祈って下さるお方なのです。

ヘブル 7:24-25
しかし、キリストは永遠に存在されるのであって、変わることのない祭司の務めを持っておられます。したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。

私たちの為に日々執り成し、祈ってくださっているのです。

ペテロをはじめ弟子達を愛して、祈られたイエス様。
今、イエス様は私たちがどんなに弱く、倒れるものであっても、私たちを愛して、尊いものとしてみて下さり、私たちの為に執り成して祈って下さるのです。

ここでも、ペテロがつまずき、散らされてしまうことをご存知で、ペテロの為に祈ったと言われています。

もし、過去の罪やイエス様に応えられなかったことや失敗やつまずきをそのまま引きずらないと生きていけないなら、なんという苦しい人生でしょう。
ぼくは、とてもここに立てませんし、教会へのいけないと思います。

でも、イエス様はそうは言われてない。
ペテロに対して、麦のように振るわれるでしょう。でも、信仰がなくならないように祈ったよ。と言われた。

たとえ、失敗しても、つまずいても、倒れても、見捨てないよ。という神様のメッセージを見ることができますね。

見よ、私は世の終りまであなたがたと共にいる。と言われた主が見捨てない、共にいる、愛している、祈っている、、、と言われるのです。

ですから、もし、こんな失敗をした、倒れてしまった、、、
神様に申し訳ない、と思っても、大丈夫です。
イエス様は、既に、そして今もあなたの為に祈って下さっていますから。

だから、私たちは、もう一度立ち上がれるのです。


2.あなたは立ち直れる。

:32・・・・・だからあなたは、立ち直ったら、・・・

イエス様が祈って下さったから、ペテロは立ち直れたのです。
イエス様がここでペテロに言われました。

「あなたの信仰がなくならないように祈ったから、立ち直るのです。」と。

私たちはつまずいたり、失敗したり、倒れたりするけれども、
イエス様が祈って下さっているから、立ち直れるのです。感謝ですね。

私自身、何度もそうやって立ち直ってきました。
それはイエス様が祈って下さっていたから。
また、イエス様によって、私のまわりのたくさんの人が祈ってくれていたからだと思います。

そうやってこれからも立ち直ることができるのです。

これはイエス様によるのです。自分によるのではないのですね。
へりくだって主に感謝しましょう。

このように素晴らしいイエス様だから、まず神の国と神の義を求めましょう。

イエス様が弱い私たちの為に今も祈っていて下さるから。
このお方によって、立ち直ることができるから。

このことを経験するなら、ますますイエス様を信頼し、心を向けるものとなるでしょう。


結)立ち直ったら・・・

ペテロがイエス様の祈りによって、立ち直ったあとに、するべきこととして言われたことは、
「兄弟たちを力づけてやりなさい」でした。

イエス様の祈りによって、信仰がなくならず、自分の弱さに打ちひしがれ、倒れてしまったペテロが立ち直った時に、兄弟達を力づけるということを命じられました。

これは、イエス様によって立ち直った人は、自分だけでなく、周りの人にまでその愛を、恵みを流し出す人になれるということではないでしょうか。


私たちは、同じような苦しみを味わった人の気持ちがわかるでしょう。
その時、その人の気持ちを理解して、執り成して祈ることもできるでしょう。

イエス様は十字架に至るまでの地上の生涯の中で、あらゆる苦しみや痛みを経験されました。
だから、私たちの苦しみを理解して、祈って下さるのです。

そして、このイエス様によって、立ち直ることができた人は、今度は他の人を力づけることまでもできるようになるのです。

私たちの人生に無駄なことなど何一つありません。
失敗したことも、倒れてしまっていた時間も、罪を犯してしまったことも、
イエス様はすべてを益にして下さるお方です。
そして、このお方が「信仰がなくならないように」祈って下さるのです。
イエス様を知った私たちは、どんなに回り道をしたとしても、
立ち直れるのです。そして、兄弟達を力づけることができるのです。

今、自分が倒れているという人は、主に心を向け続けてましょう。
必ず、立ち直れます。なぜならイエス様が祈って下さっているから。

今、自分が立ち直ったという人は、さらに主に心を向け続けてましょう。
弱っている人を力づけることができます。
これは、直接声をかけることばかりでなく、
主が私たちにして下さっているように、執り成して祈ることによってもできます。

本当に感謝です。
この素晴らしいイエス様のとりなしを感謝して、今日もイエス様に心を向けましょう。

2009/01/18

09.1.18「イエス様の祈り」

マタイ 26:36-46
:36 それからイエスは弟子たちといっしょにゲツセマネという所に来て、彼らに言われた。「わたしがあそこに行って祈っている間、ここにすわっていなさい。」
:37 それから、ペテロとゼベダイの子ふたりとをいっしょに連れて行かれたが、イエスは悲しみもだえ始められた。
:38 そのとき、イエスは彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、わたしといっしょに目をさましていなさい。」
:39 それから、イエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈って言われた。「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」
:40 それから、イエスは弟子たちのところに戻って来て、彼らの眠っているのを見つけ、ペテロに言われた。「あなたがたは、そんなに、一時間でも、わたしといっしょに目をさましていることができなかったのか。
:41 誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。」
:42 イエスは二度目に離れて行き、祈って言われた。「わが父よ。どうしても飲まずには済まされぬ杯でしたら、どうぞみこころのとおりをなさってください。」
:43 イエスが戻って来て、ご覧になると、彼らはまたも眠っていた。目をあけていることができなかったのである。
:44 イエスは、またも彼らを置いて行かれ、もう一度同じことをくり返して三度目の祈りをされた。
:45 それから、イエスは弟子たちのところに来て言われた。「まだ眠って休んでいるのですか。見なさい。時が来ました。人の子は罪人たちの手に渡されるのです。
:46 立ちなさい。さあ、行くのです。見なさい。わたしを裏切る者が近づきました。」


序)イエス様の祈り
祈りというと、私たちはいろんな祈りを想像します。
食前の祈り、感謝の祈り、お願いする祈り、はじめる前の祈り、終りの祈り、朝の祈り、就寝前の祈り、みんなで心合わせる祈り、一人でひっそりの祈り、執り成しの祈り、按手の祈り・・・
それらは方法であったり、時と場合によって違ったり、いろんな形があります。

今日は、私たちにとって、とても個人的な、神様と一対一の祈りとでも言いましょうか、、、
そのような祈りについて、ゲッセマネのイエス様の祈りから一緒に見てきましょう。


1.本音の祈り

:39『わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。
しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。』

私たちはイエス様に祈る時、ついカッコつけて祈ったりすることはありませんか。

「来月から、仕事で大変な事業に関わらなくちゃいけなくなった。いやだなぁ。。」
「今度、部署が変わって、本当はいやなあの上司のもとで仕事しなければならなくなった。やだなぁ」等。。。

そんな時、どう祈りますか?

「神様、今度、大変な事業に関わることになりました。私のできる能力を超えているかもしれませんが、どうぞ全うできるようにして下さい。私も喜んでこれに臨みます・・・」

「神様、今度、部署が変わりました。どうかそこでの人間関係を祝福して下さい。ぼくも精一杯喜んで仕えていきます・・・」

素晴らしい祈りですね。
でも、あなたにとってこの祈りは無理をしているのではないでしょうか。

イエス様は、この後、十字架へ架かっていかなければならないことをご存知でした。
そのイエス様は、
「父よ、今から十字架に架かりに行きます。喜んでこのことをします。」とは祈られなかった。

「我が父よ。できますならば、この杯を私から過ぎ去らせて下さい・・・」でした。

イエス様でさえ、弱音を吐くような言葉で祈られたのです。

これは、私たちが、本当の気持ちを神様にぶつける祈りをしてもいいということをイエス様が地上の生涯の中で示された出来事だったのではないのでしょうか。

ですから、先程のたとえで言うならば、
「神様。来月から大変な事業に関わらなくちゃいけません。できることなら、やりたくない・・」
「神様、今度、部署が変わりました。その部署の上司は正直、苦手です。できることなら、再度、部署を変えてほしい・・・」と祈っていいのです。

私たちは、神様の前に祈る時に、ついつい形式ばったり、カッコつけたり、マイナス的なことは言ってはいけないと思って、そのような祈りを”最初から”しようとします。
でも、イエス様はそうされなかった。

私たちが祈る時、まずはありのままの自分の本音を神様にぶつける祈りをしてもいいのです。

でも、これは神様と自分という一対一の祈りの中での話しです。


2.委ねる祈り

イエス様は、本音をぶつける祈りだけをされたでしょうか。
今一度、イエス様の祈りを見てみましょう。

:39『わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。
しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。』

本当は十字架に架かるというような苦い杯は受けたくない。>ここまでは本音の祈りです。
でも、私の願うようにではなく、神様のみこころのようにして下さい。>ここが委ねる祈りです。

イエス様は、本音を、ありのままの自分の気持ちを、ぶつける祈りをされました。
でも、その後に、それでも、あなたのみこころがなるように祈られたのです。

自分の気持ちをぶつけても構いません。でも、決定権は神様に委ねるのです。

「今度の大変な事業には本当は関わりたくない。でも、神様のみこころのようにして下さい。それがたとえ責任者として関わるようなことになったとしても、それが神様のみこころなら、そのようになさって下さい。そこに神様の御心があるなら、それに従います。そこで仕えます」
「本当はあの上司のもとでは働きたくない。でも、神様のみこころがそこにあり、そこで仕えることをさせようとされているなら、そのようにして下さい。あなたのみこころのようにして下さい・・」と。

ここを間違うことがあるのです。
イエス様はありのままを受け入れて下さる。本音のぶつけてもいいのだ。

でも、それは自分の思いを優先させることではないのです。
ここでも、自分が神様を優先順位第一位においているかが重要です。

ありのままの自分をイエス様は受け入れて下さるし、本音をぶつけてもかまわないし、
そのあなたをイエス様は受け入れて、受け止めて下さるけども、
神様のみこころが自分の中になることを私たちもまた受け入れることが必要なのです。

子供が、道を歩く時に、車道の真ん中を歩いていたとします。
親は当然、端を歩きなさい、と言うでしょう。
でも、子供は、なぜ?こんなに道は広いのに、そんなに端を歩かなくてもいいじゃない、と思うかもしれません。

どちらが正しいでしょう。
親の方が正しいのです。
確かに車が来なかったら、真ん中を歩いていても問題ないかもしれない。
でも、車が来た時に危険だということを親は知っているから、子供に注意します。

小さい子供には理解できないかもしれませんが、親の言うことを聞いておく方が正しいのです。

あなたにとって、これは受け入れたくないと思うことがあるかもしれません。
でも、神様はそれをさせようとされるかもしれません。
この時、自分で判断してしまうことと、神様がさせようとされてることのどちらが正しいでしょうか。
自分の判断は不確かなものです。少なくとも私は。。。
しかし、神様は最善なる方で、いつもパーフェクトはことをされる方です。
この方に委ねることは、最善を選択することなのです。

私たちは、ありのままの本音をぶつけても構いません。
でも、その決定権は神様に委ねる、そんな祈りをささげたいですね。


結)神様は介入される。
そんな祈りを神様にささげ続ける時、どんなことが起こるのでしょう。

イエス様の祈りを見てみましょう。
:38 「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。」
:39 「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」
:42 「わが父よ。どうしても飲まずには済まされぬ杯でしたら、どうぞみこころのとおりをなさってください。」
:45 「見なさい。時が来ました。人の子は罪人たちの手に渡されるのです。:46 立ちなさい。さあ、行くのです。見なさい。わたしを裏切る者が近づきました。」
変化しているのがわかります。

最初は、十字架のことを思うと、悲しみのあまり死ぬほどの思いになられています。
そして、本音をぶつけ、委ねる祈りをし、その祈りを続けられた時、
「どうしても飲まずには済まされぬ杯でしたら、どうぞみこころの通りになさって下さい」と父の思いを受け入れ始められる様子が伺えます。
更に同じ言葉で祈り続けられた後、
「さあ、行くのです。見なさい。わたしを裏切るものが近づいてきました」とその苦い杯を飲む覚悟ができて、そこに自ら向かっていこうとする勇ましい姿をうかがうことができます。

すごい変化です。

これは、神様に本音をぶつけ、ありのままの自分をそのまま神様の前にさらけだし、
神様に委ねる祈りをし続けることによって、神様が介入されて、
神様のみこころを受け入れるだけではなく、
そのことに向かっていく、力を受けるということが示されているのではないでしょうか。

私たちがこのような祈り・・本音の祈り、神に委ねる祈り、をし続けることにより、
神様の介入を見ることができるのです。

イエス様はここでは、3時間ほどの祈りだったかもしれません。
いや、イエス様でも3時間はかかったといった方がいいかもしれませんね。

私たちは、3時間くらいじゃ足りないかもしれません。
でも、何日でも、何ヵ月でも、何年でも祈り続けるなら、そこに確実に神様の介入があるのです。

ぶっ通しで、何時間も何日も祈ることは困難かもしれない。
でも、構いません。そう本音を祈りましょう。
そして、少しずつでもいいから、祈り続けることが重要です。
その時に、神様の介入があるのです。

イエス様の祈りを模範とし、私たちも祈り続けるものになりたいですね。
そう願い応答する人は幸いです。

2009/01/11

09.1.11「この時代にあっても優先すべきもの」

創世記6-9章

創世 6:5-10
:5 主は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。
:6 それで主は、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。
:7 そして主は仰せられた。「わたしが創造した人を地の面から消し去ろう。人をはじめ、家畜やはうもの、空の鳥に至るまで。わたしは、これらを造ったことを残念に思うからだ。」
:8 しかし、ノアは、主の心にかなっていた。
:9 これはノアの歴史である。ノアは、正しい人であって、その時代にあっても、全き人であった。ノアは神とともに歩んだ。
:10 ノアは三人の息子、セム、ハム、ヤペテを生んだ。

創世 8:13-22
:13 ノアの生涯の第六百一年の第一の月の一日になって、水は地上からかわき始めた。ノアが、箱舟のおおいを取り去って、ながめると、見よ、地の面は、かわいていた。
:14 第二の月の二十七日、地はかわききった。
:15 そこで、神はノアに告げて仰せられた。
:16 「あなたは、あなたの妻と、あなたの息子たちと、息子たちの妻といっしょに箱舟から出なさい。
:17 あなたといっしょにいるすべての肉なるものの生き物、すなわち鳥や家畜や地をはうすべてのものを、あなたといっしょに連れ出しなさい。それらが地に群がり、地の上で生み、そしてふえるようにしなさい。」
:18 そこで、ノアは、息子たちや彼の妻や、息子たちの妻といっしょに外に出た。
:19 すべての獣、すべてのはうもの、すべての鳥、すべて地の上を動くものは、おのおのその種類にしたがって、箱舟から出て来た。
:20 ノアは、主のために祭壇を築き、すべてのきよい家畜と、すべてのきよい鳥のうちから幾つかを選び取って、祭壇の上で全焼のいけにえをささげた。
:21 主は、そのなだめのかおりをかがれ、主は心の中でこう仰せられた。「わたしは、決して再び人のゆえに、この地をのろうことはすまい。人の心の思い計ることは、初めから悪であるからだ。わたしは、決して再び、わたしがしたように、すべての生き物を打ち滅ぼすことはすまい。
:22 地の続くかぎり、種蒔きと刈り入れ、寒さと暑さ、夏と冬、昼と夜とは、やむことはない。」


序)優先順位は正しいか。
先週、神の国と神の義をまず第一に求め、求め続けること。
その優先順位について、ともに見ていきました。
仕事始めや始業式等、今年をスタートしたこの一週間は、いかがでしたでしょうか。
神様を第一優先することができたでしょうか。
あるいは、困難に感じることがあったかもしれませんね。
今日は、創世記のノアのお話から、神様を優先することについて、見ていきたいと思います。


1.神を第一としたノア

ノアは、神を第一とし、優先していた人であったことをうかがいしることができます。

:5 主は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。

神様がノアの家族以外の人々を全て消し去ってしまう決意をされるほど、地の人々の悪が増大していたことが6章に書かれてあります。

その中にあって、ノアは正しい人で、全き人で、神と共に歩んだ人であったのです。
そのことを知るノアの一つの行動が8:20です。
箱舟から出たノア達が最初にしたことが、「主のために祭壇を築き、全焼のいけにえをささげた」のです。

箱舟から出たとき、つまり、神様がもう一度この地上の新しい歴史をスタートさせられたとき、その最初の人として選ばれたノアは、最初に神様に祭壇を築き、ささげたのです。

まず、神の国と神の義を求めた姿であると思います。

ノアが最初に神様から地上の全てのものを滅ぼす事を聞き、箱舟を作るように言われて、実際に作成していくときには、多くの人から馬鹿にされたりしたことでしょう。
しかし、神と共に歩んで、全き正しい人であったノアは、神様を第一とし、神の国と神の義を求める人であったので、神の命令を守り通しました。

普段の小さな決断の中にも神様を優先していたノアは、このような大きな決断の時にも神様を第一とし、周りに流される事なく行動できたのではないでしょうか。

ノアは神様を第一とし、まず祭壇を築いたのです。
まず最初に神様を優先するということは、全てにおいて素晴らしい祝福なのです。
ノアは、箱舟から出て、最初にしたことが、神の前に祭壇を築き、ささげものをしたのです。

私達もまず最初に祭壇を築き、ささげるものとなりたいですね。
それは、週の最初の礼拝であったり、一日の最初の祈りであったり、何かの前の祈りであったり、いろいろな形があると思いますが、形ではなく、神様を優先することを神の前に現すことが素晴らしいのです。

神を第一優先としたノアのようになりたいですね。


2.祝福を約束された神

ノアが箱舟を出て、最初にささげた全焼のいけにえの香りをかがれた神様は、
「わたしは、決して再び人のゆえに、この地をのろうことはすまい。・・」と思われました。
そして、約束されたのです。

9:1 それで、神はノアと、その息子たちを祝福して、彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地に満ちよ。:2 野の獣、空の鳥、・・地の上を動くすべてのもの・・それに海の魚、これらすべてはあなたがたを恐れておののこう。わたしはこれらをあなたがたにゆだねている。

これは、天地創造の時に、アダムに言われた神様の言葉と同じです。

神様は、悪に満ちた地を滅ぼし、最初の人としてノアとその家族を選ばれて、もう一度、祝福してくださいました。
ノアはそれに相応しい人であったのです。
それは、ノアが神様を第一優先する人であったこともその要因の一つなのだと思います。

私達が、神様を第一優先するとき、神様はノアを祝福されたように、私達を祝福してくださいます。神の国と神の義を与えて、それに加えて必要の全てを与えられることもわかります。

その約束を受け取るものになりたいですね。


結)どこで神様を第一優先するのか
私達は、神様を第一とするということを言葉で言う事はたやすいかもしれません。
でも、実際に行動することは、困難を覚える事があるかもしれません。
教会の中で、兄弟姉妹との交わりの中で、神様を第一優先にしようといって、いろんな活動をすることはあるいは、しやすいかもしれません。だから、まずは教会の中で実践することや、自分の心の中で実践したり、小さなことから神様第一優先を実践することからスタートすることはいいことです。
でも、ノアはそうではなかったようです。

6:9 ノアは、正しい人であって、その時代にあっても、全き人であった。ノアは神とともに歩んだ。

ノアは、「その時代にあっても」全き人であった。とかかれてあります。
その時代とは、悪に満ちた時代です。
ノアとその家族以外は神様が滅ぼされたのですから、相当悪い状態であったのでしょう。
自分の家族以外は、全て悪に満ちていたのかもしれません。

もし、皆さんの周りの人が全員悪魔崇拝者だったら、どうでしょう。
その中で、神様だけを信じていくことはとても苦しく困難なことではないでしょうか。
悪魔崇拝者でなかったにしても、神様を優先していない、信じていない人々の中で神様を優先していくことは、困難に感じる事は少なからずあると思います。
しかし、それでも、ノアのように私達が神様を第一とし、優先していくなら、神様の素晴らしい祝福が約束されているのです。

私達は、多くの悪に流されて滅びてしまうものでなく、唯一の神様、私達を愛して十字架で死んで救い道を完成してくださったイエス様を第一とし、優先する歩みを送りたいと願います。

この時代にあっても、神様第一、神様にまず祭壇を築き捧げるものになる人は幸いです。

2009/01/04

09.1.4「神の国と神の義を求め続ける」

あけましておめでとうございます
本年もよろしくお願いします


・・というわけで、本年最初のメッセージです(^^)

マタイ6:25-34
:25 だから、わたしはあなたがたに言います。自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、からだのことで、何を着ようかと心配したりしてはいけません。いのちは食べ物よりたいせつなもの、からだは着物よりたいせつなものではありませんか。
:26 空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。
:27 あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。
:28 なぜ着物のことで心配するのですか。野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。
:29 しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。
:30 きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち。
:31 そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。
:32 こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。
:33 だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。
:34 だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。

序)年始にあたって
私たちがまず第一に何を求め、求め続けていくべきなのかを見ていきます。
実は、12月の中頃から、この御言葉が2009年に示されているように感じていました。
そのようなこともあり、2009年に最初、ここから、教えられている事を共に見ていきたいと思います。


1.まず神の国と神の義を求めよ。

まず第一に、求めるもの、、それは、「神の国と神の義」です。

お読みいただいた箇所に書いてありますが、
空の鳥は、自分で種まきもせず、刈入れもしない、特に働くわけではないけれども、神様が養っておられる。
野のゆりはどうでしょう。働きもせず、紡ぎもしないが、育ち、綺麗に着飾っている。これも神様の業。
ましてや、私たちはそれよりもはるかに優れたものとして神に愛された存在として造られ、存在しているのなら、それ以上によくしてくださらないはずがないのです。
だから、飲食の事、着るものの事で、思い煩い、心配するなと言われているのです。

これは、私たちは働かなくてもいいと言っているわけではありません。
ここでは、優先順位を言っているのです。
飲み食いのことや着物の事を優先順位の一番にしていてはいけないのです。

日本は戦後すさまじい経済成長を遂げました。
これはすばらしい事のようにも思います。
でも、国が豊かになること、お金を稼ぐ事が優先されてきた結果、豊かな心が失われていったのではないかと言われています。
だからなのか、昭和30年代とかを扱った映画が流行ったりしました。
お金も大切だけれど、それよりも大切なものがある。それは、豊かな心であったり、家族愛であったり、人間関係だったり、、と目には見えにくいものとして表現されたりします。
どちらも大切だけれども、優先順位を間違えてはいけないということが言われているのです。

では、私たちは、お金儲けよりも豊かな心を優先すれば、それでいいのでしょうか。
優先順位は確かに、お金よりも心が高いでしょう。
でも、優先順位の最上位は、「神の国と神の義」であるべきです。

お金よりも、豊かな心や人々の愛情が優先されることで、そこには暖かいものが溢れて、何かそれが一番のように思ってしまうというのは、多くの人々の感覚かもしれません。
でも、それでは足りないのです。
今、日本人にどうしても足りないものがあるのです。
それが、「神の国と神の義」を第一とすることです。

私たちは、神の国と神の義を第一優先としていく必要があるのです。
毎週、礼拝をささげるのは、私たちが神の国と神の義を優先しているからです。
聖書を読むのは、私たちが神の国と神の義を優先しているからです。
祈るのは、私たちが神の国と神の義を優先しているからです。
互いに愛し合うのは、私たちが神の国と神の義を優先しているからです

神の国と神の義を優先したからといって、家族をないがしろにしたり、人間関係がどうでもいいというわけではありません。また、仕事をしなくていいとか、お金が不要だといっているわけではありません。それらは大切なものですが、優先順位を間違えてはいけないということです。

ストラップやリストバンド等にありますが、
英語の大文字4文字で、「WWJD」と書いてあるものがあります。
これは、英語の頭文字をとったもので、

What would Jesus do?
『イエス様ならどうされるか?』

という意味なのです。
「イエス様ならどうされるか」といつも意識できるように、リストバンドや携帯ストラップにつけておくようです。
私たちが生活しているいろんな場面で、「こんなときなら、イエス様ならどうされるだろうか。」と考えるきっかけになるようにとの願いが込められているのでしょう。
これも使い方によっては「神の国と神の義」を第一優先しようとしていることになるでしょう。

私たちは、神の国と神の義をまず第一に求め、求め続けるものでありたいと願います。

そのように、神の国と神の義を求め続けるときに、どうなるのでしょう。


2.それに加えて、全てのものは与えられる。

「そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」

神の国と神の義に加えて、全てのものは与えられます。

すばらしい約束です。
神様は、私たちに食べるもの、飲むもの、着るもの等が必要であることはご存知です。
今で言うなら、豊かな心や人との関わり、また、現実的には、お金が必要である事もご存知です。
だから、神の国と神の義を第一優先にして求めてくる人に対して、神の国と神の義を与え、それに加えて、ちゃんとそれらの必要なもの全てを与えてくださるのです。

神様は、私たちに必要なものをご存知です。
でも、その必要なものを求めるのではなく、まず第一に神の国と神の義を求めるときに、それらの必要なもの全てが神の国と神の義に加えて、与えられるのです。

結)神の国と神の義を求め続け、受け取り続ける
イエス様は、私たちにまず神の国と神の義を求める者、求め続ける者になることを願っておられます。それは、私たちのためです。
その時に、私たちが必要としている全てのことをご存知の神様は、私たちが求めて神の国と神の義を与え、それに加えて、全ての必要を満たしてくださるのです。

間違ってはいけないのは、神の国と神の義を求めるのは、その他の必要としているものを得るためではないのです。
そこを間違う人は、神の国と神の義を求めた結果、神の国と義が与えられて、それに加えて必要が与えられたときに、神の国と義を受け取らず、他のものだけを受け取ろうとします。
しかし、神を侮ってはいけません。神様はそれら全てをお見通しです。
その与えられたもの全ては、また取り上げられてしまうでしょう。
私たちは、神の国と神の義を求めたのです。そして、それが与えられたなら、感謝して受け取りましょう。なぜなら、それが何よりも素晴らしい優れたものだからです。それ以上のものはありません。
でも、それ以外も必要である事をご存知の神様は、それに加えてそのほかの必要も全て備えられるのです。

だから、「神の国と神の義を求める」ではなく、
「神の国と神の義を求め続ける」なのです。
これは同時に、神の国と神の義を受け取り続けることでもあるのです。

神の国と神の義を求め続ける者になり、受け取り続ける者は、幸いです。