2008/11/30

08.11.30「主を信頼する心を備える」

創世22:1-14
:1 これらの出来事の後、神はアブラハムを試練に会わせられた。神は彼に、「アブラハムよ。」と呼びかけられると、彼は、「はい。ここにおります。」と答えた。
:2 神は仰せられた。「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。」
:3 翌朝早く、アブラハムはろばに鞍をつけ、ふたりの若い者と息子イサクとをいっしょに連れて行った。彼は全焼のいけにえのためのたきぎを割った。こうして彼は、神がお告げになった場所へ出かけて行った。
:4 三日目に、アブラハムが目を上げると、その場所がはるかかなたに見えた。
:5 それでアブラハムは若い者たちに、「あなたがたは、ろばといっしょに、ここに残っていなさい。私と子どもとはあそこに行き、礼拝をして、あなたがたのところに戻って来る。」と言った。
:6 アブラハムは全焼のいけにえのためのたきぎを取り、それをその子イサクに負わせ、火と刀とを自分の手に取り、ふたりはいっしょに進んで行った。
:7 イサクは父アブラハムに話しかけて言った。「お父さん。」すると彼は、「何だ。イサク。」と答えた。イサクは尋ねた。「火とたきぎはありますが、全焼のいけにえのための羊は、どこにあるのですか。」
:8 アブラハムは答えた。「イサク。神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださるのだ。」こうしてふたりはいっしょに歩き続けた。
:9 ふたりは神がアブラハムに告げられた場所に着き、アブラハムはその所に祭壇を築いた。そうしてたきぎを並べ、自分の子イサクを縛り、祭壇の上のたきぎの上に置いた。
:10 アブラハムは手を伸ばし、刀を取って自分の子をほふろうとした。
:11 そのとき、主の使いが天から彼を呼び、「アブラハム。アブラハム。」と仰せられた。彼は答えた。「はい。ここにおります。」
:12 御使いは仰せられた。「あなたの手を、その子に下してはならない。その子に何もしてはならない。今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。」
:13 アブラハムが目を上げて見ると、見よ、角をやぶに引っかけている一頭の雄羊がいた。アブラハムは行って、その雄羊を取り、それを自分の子の代わりに、全焼のいけにえとしてささげた。
:14 そうしてアブラハムは、その場所を、アドナイ・イルエと名づけた。今日でも、「主の山の上には備えがある。」と言い伝えられている。

ヘブル11:17-19
:17 信仰によって、アブラハムは、試みられたときイサクをささげました。彼は約束を与えられていましたが、自分のただひとりの子をささげたのです。
:18 神はアブラハムに対して、「イサクから出る者があなたの子孫と呼ばれる。」と言われたのですが、
:19 彼は、神には人を死者の中からよみがえらせることもできる、と考えました。それで彼は、死者の中からイサクを取り戻したのです。これは型です。


序)アドベント(待降節)ですね。
ツリーやリースなど、クリスマスの準備をされたお家もあるんじゃないでしょうか。
お店にいっても、クリスマス一色になっています。

アドベントは本来、イエス様をお迎えする備えです。
クリスマスまでの3回の日曜日をクリスマスを迎えるにあたって、
私たちの心を備えていきましょう。
クリスマス、イエス様を地上にお迎えした、その時を祝うときです。
私たちも救い主としてきて下さったイエス様をお迎えする備えとして(実際はお迎えしているのですが)、御言葉を通して、私たちの心を備え、イエス様をお迎えするにふさわしいものに成長させていただきたいと思います。

イエス様を迎えるために三つの心を備えさせていただきましょう。
今日はそのひとつめです。


1.主を信頼する心を備える。

アブラハムとイサクのこの物語から、
「主を信頼する心」を学び、備えていきましょう。

主を信頼するとは、主により頼む、主を信用する、主に従う、といったような意味が含まれていると思います。
一言で言えば、「信仰」といえるかもしれません。

この信仰をアブラハムはもっていました。

アブラハムにとって、イサクはひとり子でした。
また、ただ単に一人っ子だったというだけではありません。
神の約束があったのです。
「イサクから出るものがあなたの子孫と呼ばれる」と。
そしてまた、この子孫は夜空の星のように、海辺の砂のように増え広がるという約束もされていたのです。
この約束の子をささげよ、といわれたのです。

本当に感情だけで考えるなら、神を敵にまわしても、このかけがえのない我が子を守ろうと考えるでしょう。
そんな感情が働くのは正常だと思います。

でも、アブラハムは、イサクが与えられたことそのものも神からのもので、人間的には不可能だったことが起こったこと。
神がこのイサクから多くの子孫を増やすといわれていること。
そのことを考えると、この子をささげたとしても、神は死者からも生き返らせて下さる方。
死人を生かし、無から有を生み出される方であることを信じ、
神を信頼して、このことに向かったのです。

神を信頼する時、神により頼む時、それは時には感情的に無理と思われるようなことにも従わなくてはならないこともある、ということをも示されているのだと思います。

こうして、アブラハムは、示された山へ、モリヤの山へと向っていったのです。
アブラハムの中では、その覚悟ができた時でした。
その時点で彼の中ではもうイサクは死んだも同然だったでしょう。
そして、3日目にようやくその場所に到着しました。

ふたりは神が告げられた場所に着き、アブラハムはその所に祭壇を築きました。
そうしてたきぎを並べ、自分の子イサクを縛り、祭壇の上のたきぎの上に置いたのです。
イサクはこの時点では、何が起ころうとしているのかわかっていたのでしょう。
老年だったアブラハムを突き飛ばして逃げることもできたかもしれません。
しかし、そのようなことは書かれていません。
そして、アブラハムは手を伸ばし、刀を取って自分の子をほふろうとしたのです。

ここで、アブラハムの信仰だけでなく、イサクの信仰をも見ることができます。
イサクもまた、神が自分の父に何を語られたのかを悟ったのでしょう。
しかし、イサクはそれが神の前にするべきことであるなら、それに従おう。
神に信頼しよう。神にささげようと決心してのではないでしょうか。
イサクの神様に対する信仰、神を信頼する心、神に従う心があらわされています。

アブラハム、イサクともに神に対する信仰、信頼はすごいものだったのですね。

ひとつ感じたことがあります。
アブラハムは素晴らしい信仰者です。信仰の父とも呼ばれています。
しかし、イサクもまた同じように素晴らしい信仰者です。
これは、信仰の継承、信仰を子に受け継ぐことの素晴らしさ、大切さを教えていると思います。
アブラハムがどんなに素晴らしい信仰者であったとしても、イサクに信仰がなければ、ここで逃げ出していたかも知れません。
イサクもまた、神に対する素晴らしい信仰の持ち主だったのです。

さて、アブラハムがイサクをほふろうとした時、
主の使いが天から彼を呼びました。
「アブラハム。アブラハム。」
彼は答えた。「はい。ここにおります。」
御使いは「あなたの手を、その子に下してはならない。その子に何もしてはならない。
今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。
あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。」
アブラハムが目を上げて見ると、見よ、角をやぶに引っかけている一頭の雄羊がいた。
アブラハムは行って、その雄羊を取り、それを自分の子の代わりに、全焼のいけにえとしてささげた。

そうです。
イサクは実際に生きた状態でアブラハムのもとに返ってきたのです。
神はその信仰を見て、喜ばれました。


さて、もうひとつ、気付くことがあります。
アブラハムは決心し、モリヤの山へ出発して、イサクをささげようとした時は3日目でした。
出発した時点で既にアブラハムの中ではイサクは死んだも同然でした。
そして、3日目にイサクが生きて返ってきたのです。
そして、ヘブル書では、「これは型です」とあります。
そう、イエス様が十字架で死なれ、3日目によみがえられたことと重なって見えてきます。

アブラハムもまた、ひとり子をささげ、3日目に生きて返ってきました。
神がひとり子イエスを与えた、この気持ちがアブラハムにはわかるかもしれませんね。
ここにも、アブラハムが信仰の父と呼ばれる所以があるのかもしれません。

クリスマスはイエス様の誕生をお祝いする日。
でも父なる神はイエス様を地上に誕生させられた時、とても苦しい気持ちだったかも知れません。
その三十数年後には、十字架で死ぬことになるのですから。


主を信頼する心とは、このように時には神に従い、感情的には苦しい思いをしいられることもありうるかも知れないのです。
それでも、神を信頼することは素晴らしいことなのです。


なぜなら・・・

結)神は常によい方。
神は常によい方で、私たちに最善をして下さる方なのです。
だから、信頼してもいい。信用していい。従っていいのです。いや、そうすべきなのだと言えるのです。

アブラハムはイサクをささげました。でも生きて返してもらえましたし、アブラハムとイサクの神に対する信仰はますます強いものになったでしょう。
クリスマス、イエス様がお生まれになったことは素晴らしいことです。
でも、その生涯の最後に十字架で死なれたことは、それ以上に私たちにとって素晴らしいことです。
なぜなら、私たちの罪の為に十字架で死なれたから、今私たちは救われて神の前にいることができるからです。

神は最善をされる方なのです。
だから、この神様を信頼するものになりましょう。

神を信頼する心を、クリスマスに向けて備えていきましょう。

2008/11/16

08.11.16「心を守り、主を信頼する」

詩篇 37:1-11
:1 悪を行なう者に対して腹を立てるな。不正を行なう者に対してねたみを起こすな。
:2 彼らは草のようにたちまちしおれ、青草のように枯れるのだ。
:3 主に信頼して善を行なえ。地に住み、誠実を養え。
:4 主をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる。
:5 あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。
:6 主は、あなたの義を光のように、あなたのさばきを真昼のように輝かされる。
:7 主の前に静まり、耐え忍んで主を待て。おのれの道の栄える者に対して、悪意を遂げようとする人に対して、腹を立てるな。
:8 怒ることをやめ、憤りを捨てよ。腹を立てるな。それはただ悪への道だ。
:9 悪を行なう者は断ち切られる。しかし主を待ち望む者、彼らは地を受け継ごう。
:10 ただしばらくの間だけで、悪者はいなくなる。あなたが彼の居所を調べても、彼はそこにはいないだろう。
:11 しかし、貧しい人は地を受け継ごう。また、豊かな繁栄をおのれの喜びとしよう。

序)いつも神様の前に立つ
これは、ダビデの歌です。
ダビデはいつも神の前に立つ人でした。
神様に心を向けて歩む人でした。
そうじゃない時もあり、罪を犯したこともありましたが、その後、正直にその罪を神の前に告白し、神様に心を向け続けた人でした。
このダビデの歌が聖書に記されている。
つまり、神の言葉として私たちは受け取ることができるのです。

いつも心を神様に向けましょう。とお話ししています。
今日、この箇所から、神様の前に立つ人ダビデとその神の御言葉から、私たちもまた神の前にいつも立つものであるために教えられたいと思います。

この箇所で私たちが教えられることを二つみます。


1.心を守る。

腹を立てるな。
ねたみを起こすな。
怒ることをやめ、憤りを捨てよ。

これらを実行することは一見難しく思います。
これは何をいわんとしているのでしょうか。

エペソ 4:26-27
怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。
悪魔に機会を与えないようにしなさい。

とあります。
腹が立ったり、怒ったり、憤ったりすることはあるでしょう。
でも、そのままでその日を終わらせてはいけないと新約で語られています。

ダビデも、怒ることも憤ることもあったでしょう。
でも、それらは何にもよいものを生み出さないことを知っていたのでしょう。
そのようなものに、自分の心を任せてはいけないことを教えられているのではないでしょうか。

:1 悪を行なう者に対して腹を立てるな。不正を行なう者に対してねたみを起こすな。
とあるように、悪を行うもの、不正を行うものに対して、そのような感情が引き出されることがあると思うのです。

みなさんも腹が立つこと、怒ること、憤ること、妬んでしまうことはあるんじゃないでしょうか。
だいたい、そういうことは、不正なことをされたり、悪いことに遭遇したりしたときだと思うのです。
つまり、私たちの中の正義な部分が触発されるのかもしれません。
だまされたり、悪いことをされたり、、、

これは、自分に腹を立てる時にも言えることだと思います。
よくないと思っていることをする自分に対して、怒ったり、憤ったりするわけです。

でも、そのままで日を終わらせてはいけない。そのままでいてはいけない。と聖書は言っています。
そのままでいると、「それはただ悪への道だ。」というのです。

だから、私たちは、イエス様によって、心に平安をいただき、心を癒していただき、心を守っていただく必要があるのです。


怒ったり、憤ったり、腹が立ったり、妬んだりしやすいことがあるでしょうが、
そのままで日が暮れることのないよう、イエス様に心を守っていただきましょう。


2.主に信頼する。

怒ってはいけない、妬んではいけない、憤ってはいけない、腹を立ててはいけない、、、
と、マイナス向きの面を話しましたが、プラス向きの面も見ていきましょう。

主に信頼するもの、主にゆだねるもの、主を待ち望む者、になりたいですね。

主に信頼するものは善を行うでしょう。
これは、善業によって救われるということではありません。
主に信頼するならば、悪を行うものに対して腹を立てたり、不正を行うものに対してねたみをもつのではなく、主に信頼して善を行うものになれ、という意味です。

また、世のいろんなことを喜びとしないで、主を自分の喜びとする時に主は私たちの心の願いをかなえて下さるのです。

私たちの歩むその道を主に委ね、主に信頼する時、主が正しい道を歩む人生を成し遂げて下さるのです。
そして、その道が正しいことを明らかにして、真昼のように明らかにして下さるのです。

主は悪を行うものに祝福を与えず、断ち切られ、しばらくの間だけいるだけで、いずれいなくなるとおっしゃいます。
しかし、主を待ち望むものは、地を受け継ぐといわれます。


ですから、私たちは主を信頼し、主にゆだね、主の道を歩み、主を待ち望むものでありたいと願います。


結)悪は滅び、義は輝く。

怒ったり、憤ったり、腹を立てたりするなと言われても、理不尽に感じて、そういう感情がくることもあることも話しましたが、聖書は言っていますね。
その原因である、悪を行うもの、不正を行うものは、しばらくはいるけどもいなくなるというのです。

人は全世界を得たとしても自分の命を失ったら何の得があるでしょう。
それならば、永遠の命をいただいているものは、なんと幸いでしょう。

私たちは、いずれ滅びいなくなってしまう悪や不正を行うものの為に心を乱されて、悪の道へ行くのではなく、
主によって心を守っていただき、主を信頼して、主の道、義の道を歩み、主を待ち望み続けるものでありたい。

そして、そのような道をイエス様が十字架で命を捨てて用意して下さったのです。
その救いの道、義の道を更に歩み続けるものとなりたい。

2008/11/02

08.11.2「本物を得るために」

黙示録 3:14-22
:14 また、ラオデキヤにある教会の御使いに書き送れ。『アーメンである方、忠実で、真実な証人、神に造られたものの根源である方がこう言われる。
:15 「わたしは、あなたの行ないを知っている。あなたは、冷たくもなく、熱くもない。わたしはむしろ、あなたが冷たいか、熱いかであってほしい。
:16 このように、あなたはなまぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしの口からあなたを吐き出そう。
:17 あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。
:18 わたしはあなたに忠告する。豊かな者となるために、火で精練された金をわたしから買いなさい。また、あなたの裸の恥を現わさないために着る白い衣を買いなさい。また、目が見えるようになるため、目に塗る目薬を買いなさい。
:19 わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。
:20 見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。
:21 勝利を得る者を、わたしとともにわたしの座に着かせよう。それは、わたしが勝利を得て、わたしの父とともに父の御座に着いたのと同じである。
:22 耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。」』」


序)ラオデキヤの教会へ
7つの教会へシリーズ最終章、第7弾です
真実で、忠実で、全ての根源であるイエス様がここでも語られています。
21節では、勝利を得る者を、わたしとともにわたしの座に着かせよう。それは、わたしが勝利を得て、わたしの父とともに父の御座に着いたのと同じである。とまで言われています。
そのようなものとなるために私たちに語られている言葉を共に見て、勝利を得る者に預かれるようになりたいですね。
見て行きましょう。


1.中途半端にならない :15-16

:15 「わたしは、あなたの行ないを知っている。あなたは、冷たくもなく、熱くもない。わたしはむしろ、あなたが冷たいか、熱いかであってほしい。
:16 このように、あなたはなまぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしの口からあなたを吐き出そう。

冷たくもなく、熱くもない、なまぬるいから、主は口から吐き出すといわれる。

神様の前に中度半端な態度や行動等を戒められているのではないかと思います。
冷たくもなく、熱くもないというのは、どうしようか決めずに、どちらも中途半端な気持ちでやることということなのだと思うのです。

あなたの置かれた環境がどうであっても、その中で、精一杯行動することを神様は求めておられるのではないでしょうか。
それを中途半端に、どちらにもつかないような理由をつけて、何に対しても中途半端に手を出しながらも責任はとらないような行動をとっていないでしょうか。
そうであっても、私は責めるつもりもないですし、責められることでもないかもしれませんが、イエス様はそんなあなたを口から吐き出すと言われるのです。

熱いか冷たいかである者となることを主は願っておられるのです。
中途半端な信仰ではなく、中途半端な行動ではなく、神様の前にはっきりとした信仰を持ち、行動をしていきたいですね。



2.神から買う :17-18

:17 あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。
:18 わたしはあなたに忠告する。豊かな者となるために、火で精練された金をわたしから買いなさい。また、あなたの裸の恥を現わさないために着る白い衣を買いなさい。また、目が見えるようになるため、目に塗る目薬を買いなさい。

本当に必要なものは、神様からしか得ることができない。

最近、テレビ番組では、「誰も知らない泣ける歌」とか、「エチカの鏡」とか、何か心に感動を得ることができるような内容を提供する番組が少しずつ増えてきたように感じます。
これも時代なのか、経済大国である日本も、金融危機だとか言いながらも、食べるものも食べられないという人がそんなにたくさんいる国であるわけでもなく、裕福になったと思っていても、心に何か空白を感じる人が増えてきているのではないか、その表れがこの流れなんじゃないかと思ったりしたのですが、私の考えすぎでしょうか。

実際に、私は富んでいる、豊かになったと思っている人が、実は、その内側には、満足もなく、何か虚しさが残っているように感じている人はたくさんいるようです。

しかし、神様は言われるのです。
実はあなたは、みじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者だ・・と。
そして、それを解決する方法も言われています。
「わたしはあなたに忠告する。豊かな者となるために、火で精練された金をわたしから買いなさい。また、あなたの裸の恥を現わさないために着る白い衣を買いなさい。また、目が見えるようになるため、目に塗る目薬を買いなさい。」

私たちが本当に必要なもの、心の内側に必要なものは、神様から買わなければならないのです。
買うといっても、別にお金が必要なんじゃありません。
買うとは、何か代価を支払って得ることです。
火で精錬された金を、白い衣を、目薬を、代価を支払って得るのです。
それを買うことができる場所は、感動する話の中ではなく、ましてやテレビ番組でもなく、神様なのです。

私たちの心が本当に必要としているものは、神様から代価を払って買うのです。神様のところにしかないのです。
そして、その代価をイエス様はすでに支払ってくださっています。
だから、私たちは「救い」を得ることができます。素晴らしいことです。
さらに私たちがあらゆる良いもので満たされたいなら、世の中に求めるのではなく、神様から買う必要があります。世の中に求めて得ることができる豊かさは偽ものです。それに惑わされている人がなんと多いことでしょうか。
神様から買うために、私たちは信仰の苦難を通ることがあります。でも、それによって、神様から本当の豊かさを買うことができます。

私たちは、神様から本物を買うものとなりたいですね。


結)用意して待ってくださっている神様
:19 わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。
:20 見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。

そして、これらのことをイエス様は無理矢理押し付けたり、押し売りされる方ではありません。
私たちがそれを求めてくることを待っておられるのです。
そして、私たちがそうするならば、神様は入ってきてくださり、深く交わってくださるのです。


先週予告しましたように、「誰も知らない泣ける歌」に小坂忠先生が紹介され、出演され、「勝利者」を歌われました。
忠先生は、ミュージシャンでありましたが、クリスチャンとなって、日曜は礼拝を守るために、仕事を断るようにされました。
ところが、それによって、一般の音楽界、芸能界では活動する場を失っていかれたのです。
中途半端に神様を信じる信仰を持つのではなく、神様を第一とした生活をするためにそうされたのです。
忠先生自ら、そのようにして、前に向かって進んでこられたのです。そこには、信仰の戦いが多くあったことでしょう。しかし、中途半端にせず、本当の豊かさ、本当の癒し、本当の感動は、神様にあるという信仰を持ってこられた結果、今現在の忠先生があると思います。

私たちもまた、本物を得るために、中途半端にならないようにして、熱くイエス様に従い、イエス様から本物を買うものとなりましょう。