2009/04/26

09.4.26「そこには愛がある」

ルカ 14:1-6
:1 ある安息日に、食事をしようとして、パリサイ派のある指導者の家にはいられたとき、みんながじっとイエスを見つめていた。
:2 そこには、イエスの真正面に、水腫をわずらっている人がいた。
:3 イエスは、律法の専門家、パリサイ人たちに、「安息日に病気を直すことは正しいことですか、それともよくないことですか。」と言われた。
:4 しかし、彼らは黙っていた。それで、イエスはその人を抱いていやし、帰された。
:5 それから、彼らに言われた。「自分の息子や牛が井戸に落ちたのに、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者があなたがたのうちにいるでしょうか。」
:6 彼らは答えることができなかった。

序)イエス様がされたこと。
先月最後の礼拝で同じような状況の箇所からのメッセージをしました。
安息日に何のわざもしてはいけないのに、癒しをするだろうか・・と見ていた律法学者やパリサイ人等がいた会堂での一人の人の癒しと、
平地で、多くの人がいろんなところから集まってきて、多くの人が癒されていったお話でした。
同じように、大いなる力を持ったイエス様がそこにおられても、私たちの側の違いでその表される力は違ってくることを見ました。
イエス様は変わらないのですが、私たちの側が違うということです。

さて、今日の箇所もその時の会堂での状況と同じようです。
そして、またしても、安息日であるにもかかわらず、イエス様は、水腫をわずらっている人を癒されました。

イエス様がされたことは同じですね。
以前は、私たちの側の心に注目してみましたが、今日はイエス様の心に注目してみましょう。


1.愛ゆえに・・・

イエス様が水腫をわずらった人を癒されたのは、律法学者やパリサイ人達にあてつけるためにされたのでしょうか?
そうではないですね。
これは、イエス様の愛ゆえに・・です。

イエス様は、水腫をわずらっている人を哀れみ、愛するがゆえに癒されたのです。
私たちが救われたのはどうでしょうか。
私たちが癒されたのはどうでしょうか。
それがイエス様の仕事だから、そのようにされたのでしょうか。

否、それは、イエス様が私たちを愛しておられるから、救われたのであり、癒されたのです。

レストランに行きます。
お店の人は、笑顔で迎えてくれます。
「ご注文はいかがなさいますか?」
とやさしく聞いてくれます。
呼べば、きてくれて、追加注文まで聞いてくれます。
店員さんがあなたを愛しているからでしょうか?
いや、これは仕事だからですね。

でも、たとえば、子供がお腹がすいたと言えば、何か準備するでしょう。
また、そんなことを言わなくても、朝昼晩と食事の準備を家族のためにするでしょう。
それは、仕事だからでしょうか?
まあ、時にはそうやって割り切らないとできないときもあるかもしれませんが(笑)、
でも、それで時給いくらとか、
今晩のカレーライスは、一人600円ね、とか言いませんよね。
これは、家族を愛しているから、するのです。

イエス様も私たちを愛するゆえに、救いを備え、あらゆるよき物を備えてくださっているのです。


2.イエス様からあふれているもの

①イエス様の律法は愛から

律法は誰が作ったものですか。
誰から与えられたものですか。
モーセの十戒から始まり、律法は神様から与えれらたものです。
つまり、神様から出たものです。
その律法は私たちを裁くために、私たちを苦しめるために、憎しみから作られてものでしょうか。
この律法は、神様の愛があふれたものです。
神様が私たちを愛するゆえに、私たちを愛し、私たちを守るために作ったものです。

小学校の登下校では、通学路を守るように言われます。
もし、違う道を通って、事故や事件にあったら、危険だからです。
それは、子供たちを愛して、子供たちをなんとか守るために人間が考えたものです。

神様もまた、私たちを愛して、守るために律法を与えられました。

水腫をわずらっている人をイエス様は愛するがゆえに癒されたように。。

イエス様の律法は愛なのです。
イエス様の愛があふれたものが、律法とも言えるでしょう。


②イエス様の行動は愛から

イエス様の行動はいつも愛にあふれています。
5000人を給食されたときも、群集を見て哀れに思われ、教えられ、給食されました。
姦淫の場で捉えられた女に対しても、私もあなたを罰しない、と言われ、裁くためではなく、救うために行動されました。

イエス様の行動は、そのうちにある愛があふれたものなのです。

何年か前の小学校の運動会で、台風がやってくる直前になってしまった時がありました。
運動会当日も小雨の中スタートしました。
翌日以降は台風の影響で雨予報でしたから、なんとか小雨の中、やってしまおうということだったのでしょう。
万が一、雨がひどくなって途中から中止になることも想定されたため、
プログラムが変更になりました。
最初にあった徒競走を後半にまわし、団体演技や競技を前半にもってきて、PTA競技は中止。
子供たちのプログラム、それも団体のものを優先したのです。
幸い、最後まで天候がもって、全てのプログラムはできたのですが、
これらは、先生たちの子供たちへの愛からの発想(行動)なのではないかと思いました。
なんとか団体演技を保護者の前でさせてあげたい、という思いだったのでしょう。
私はこの対処に感心しました。

イエス様のその行動を聖書から見るとき、いつも愛からです。
癒しの必要な人を哀れみ、息子を亡くした人をかわいそうに思い、、、

イエス様の愛があふれて、その行動となって表れているのでしょう。


結)十字架は究極の愛のしるし

イエス様は私たちを愛し、律法を与え、行動してくださるお方です。
その究極の表れが、十字架の御業です。

十字架の死に至るまで、忠実に仕え、私たちを愛してくださった。
そして今も愛してくださっている。

私たちはこの愛を受けることができるのです。

ローマ 5:5
この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。

この大きな愛を受けて、癒された水腫をわずらっていた人は、きっとこの後の人生をさらに神を愛し、仕える人生を歩んだと信じます。
私たちもイエス様から流れあふれている愛を受けて、神を愛し、自分を愛し、人を愛する歩みをしていきたいですね。
その一歩を踏み出す人は幸いです。

2009/04/19

09.4.19「見ずに信じる幸い」

ヨハネ20:24-29
:24十二弟子のひとりで、デドモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたときに、彼らといっしょにいなかった。
:25それで、ほかの弟子たちが彼に「私たちは主を見た」と言った。しかし、トマスは彼らに「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません」と言った。
:26八日後に、弟子たちはまた室内におり、トマスも彼らといっしょにいた。戸が閉じられていたが、イエスが来て、彼らの中に立って「平安があなたがたにあるように」と言われた。
:27それからトマスに言われた。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」
:28トマスは答えてイエスに言った。「私の主。私の神。」
:29イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」


1.見るまで信じなかったトマス

トマスは、弟子達のところに復活のイエス様が来られたとき、その場に居合わせませんでした。
それで、他の弟子達が「私は主を見た」と言っても、信じませんでした。
トマスは、自分以外の弟子達がイエス様に出会って、悔しかったのかも知れません。
そんなの信じない。もし本当なら、なんでイエス様はオレがいないときに来るんだよ。だいたい、イエス様は十字架で確かに死なれたんだ。生きてるはずがない・・。といろんな思いがあったのかもしれません。
どのような気持ちで信じなかったのかわかりませんが、見ていないから信じないといいました。

「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れて見なければ、決して信じません。」と言ったのです。

気持ちはわからなくもないのではないでしょうか。
しかし、見るものしか信じないとどうでしょう。
逆に、見るものに振り回されるのではないでしょうか。

スポーツ観戦が好きな方もいらっしゃるでしょう。
スポーツというのは、最後まで結果はわかりません。
自分がひいきにしているチームが勝っていると、嬉しくなるでしょう。
でも同時に、接戦だといつ逆転されてしまわないかとハラハラするでしょう。
そして、逆転されると不安になります。再逆転すると喜びます。
野球のWBCの決勝戦もそうでした。1点差で日本が勝っていましたが、最終回に同点に追いつかれてしまいました。おそらく優勝だろうと思っていても、一発出れば、逆転負けするかもということで、ハラハラドキドキするのです。
その結果次第で、最後に平安がくるか、あるいは落胆になるか、自分ではどうしようもないことなのに、その見えるものに、振り回されている自分がいるのです。

実際、多くの人がそうです。今は情報がものすごい勢いで発信されています。
マスメディアを通して発信されている情報は、ある意味で見えるものです。
その見えるものによって一喜一憂するわけです。

見えるものしか信じないなら、その見ているものに振り回されてしまうこともあるのです。

キリスト教の集会だからといって、そこで行われているいろんなしるしを見て、それに振り回されてしまう事もあるのです。
しるしをもとめ、奇跡をもとめて、あっちこっちの集会に参加して、振り回されて、何が正しいのかわからなくなってしまうこともあるんじゃないでしょうか。

神様は癒す事のできるお方です。でも、病気がいやされたなら、それは神様の業かということそうじゃない場合もあるのです。サタンも奇跡をしますから。他の宗教でも癒しの奇跡は報告されています。

見えるものを信じるなら、真実がわからなくなることもあるし、間違ったものを信じてしまうこともありえるのです。

だから、イエス様は、見てないから信じないと言ったトマスに言われました。
「信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」



2.見ずに信じる幸い

見てないけど、何でも聞いた事は信じなければならないということをイエス様は言われたのでしょうか。何でもかんでも信じろといわれたのでしょうか。

ある意味で、今はちゃんと確認するまでは信じられない時代であるかもしれません。
振り込め詐欺では、本当に自分の家族なのか確認しないと振り込んではいけません。
これは、見るなり、確認するなりしないと信じてはいけないと言えますね。

先ほどお話したように、見えるものしか信じないなら、見えるものに振り回されてしまう事もあります。たとえ見てなくても、見えなくても、それが正しい事であるなら、真実であるなら、信じるに値するものであるなら、信じない者にならないで、信じる者になることが重要なのではないでしょうか。

そして、イエス様は、たとえ見てなくても、聞いたなら、何でもかんでも信じろ、ということをおっしゃりたかったのではないのです。

トマスが聞いた事柄はなんだったでしょうか。
十字架で死んで葬られたはずのイエス様を他の弟子達が見た、という内容でした。
これは、イエス様が十字架に架かられる前に、弟子達に語られていた内容でした。

イエス様は、
マルコ8:31それから、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日の後によみがえらなければならないと、弟子たちに教え始められた。

イエス様の復活後、御使いが、
ルカ24:6-7ここにはおられません。よみがえられたのです。まだガリラヤにおられたころ、お話になったことを思い出しなさい。人の子は必ず罪人らの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえらなければならない、と言われたでしょう。


そうです。つまり、トマスはイエス様の言葉、神の言葉を信じなかったのです。


イエス様から、直接、聞いていた言葉・・殺されて、三日目によみがえること・・が成就したことを同じように聞いていた他の弟子たちから聞いたのですが、それを信じなかった。
それは、神の言葉を信じなかったということなのです。

イエス様は、トマスが神の言葉を聞いていても、それを信じず、見るまでは信じないと言ったトマスに対して、「信じない者にならないで、信じる者になりなさい」といわれたのです。

言い換えるなら、
「肉の目で見てないからといって信じない者にならないで、神の言葉を聞いたなら、信じる者になりなさい」ということではないでしょうか。


先週、復活祭で、神様からの平安をいただきましょう。この平安は奪われる事も滅ぼされる事もないとお話しました。しかし、この平安も目に見えるものではないのです。
経済的な不安なら、現実のお金があれば平安がくるでしょうか。
病気なら、影が消えたレントゲン写真でも見れば平安が来るでしょうか。

私たちが神様から求められているのは、そのように見えるものによる信仰ではなくて、見ていなくても、神様からの言葉によって与えられる信仰なのではないでしょうか。


トマスは、他の弟子達が経験できなかった素晴らしい経験をしたと思います。
イエス様を見てしまった弟子には経験できないのです。
見ずに信じるという信仰をイエス様から直接教えてもらったのです。

私たちも見えるものによらず、見えなくても、神の言葉によって信じる者、信仰を持つ者として成長したいですね。

神様を見ずとも、神の言葉を信じる人は幸いです。

2009/04/12

09.4.12復活祭「復活のイエス様にある平安」

ヨハネ20:19-23
:19その日、すなわち週の初めの日の夕方のことであった。弟子たちがいた所では、ユダヤ人を恐れて戸がしめてあったが、イエスが来られ、彼らの中に立って言われた。「平安があなたがたにあるように。」
:20こう言ってイエスは、その手とわき腹を彼らに示された。弟子たちは、主を見て喜んだ。
:21イエスはもう一度、彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」
:22そして、こう言われると、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。
:23あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたがだれかの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります。」

序)イエス様の復活
イエス様の復活を記念することはは、大変重要なことです。
四つの福音書全てに書かれてあることからもわかります。
クリスマスに比べると、一般的な知名度は低いですが、私達にとっては、クリスマスと同様に重要なことです。復活がなければ、私達の信仰も虚しくなります。
私達が今日、日曜に礼拝を持っているのも、この復活に関係があります。
イエス様が十字架に架かられたのは、金曜です。そして、土曜日が安息日で、翌日曜の早朝にイエス様は復活されました。ですから、イエス様の復活なさった日曜の朝に礼拝を持つようになったと言われています。
ある意味で、日曜の朝に礼拝を持っていることは、安息日を守るためというよりも、復活のイエス様を記念する為といえるのかも知れません。
それほど、イエス様の復活は重要なことであるのです。

今日はこのイエス様の復活の箇所から、ともに命のパンである神様の言葉をいただきたいと思います。


1.イエス様は平安を与えられる。

「平安があなたがたにあるように」

復活されたイエス様は、弟子達のところに入ってきて、「平安があなたがたにあるように」といわれました。
イエス様は、私達の中にやってきて、平安を与えてくださるのです。

いつの時代も、人々はいろんな不安や恐れを持っているものでしょう。
貧困の不安、戦争の恐怖、病気の心配、生活の不安、社会への不安、教育への不信、経済の不安等、時代や地域や環境や状況によって、いろんな不安や恐れの中で人々は生きています。
特に今は、大変な経済状況の中で多くの人が不安のなかにいます。
製造業の会社は、仕事が少なくて大変な状況であることをよく聞きます。私の仕事の業界も大変な状況です。
今までのような生活を全ての人々が望めるような状況ではなくなるのかも知れません。
そういう意味では、不安を持っている人は相当な数でしょう。

しかし、イエス様が私たちに平安を与えてくださるのです。
平安を与えてくださるのは、イエス様だということを是非覚えてください。

その平安は、どのような平安でしょうか。

あなたの会社に仕事が増えて、給料も増えてくれば平安でしょうか。
病気が治り、健康に生活できるようになれば平安でしょうか。
それらは、素晴らしいことです。当然平安も来るでしょう。
でも、いつまた景気が悪くなって、経済的な不安がやってくるかもしれないと思うと、その平安はいつまで続くのでしょう。
いつまた病気が再発するとか、違う病気になるかもしれないと思うとどうでしょう。
外出して、事故にあって怪我するかもしれない、もしかしたら、死んでしまうかも知れない。
戦争が起こって、殺されてしまうかも知れない。
究極の恐怖は死の恐怖でしょう。
そのように考え出せば、お金や癒しによって得られる平安はいつ亡くなってしまうかもしれないものです。

イエス様が与えられる平安は、そのようなものとは違います。
あるときは、経済を支えて平安を与えられるときもあるでしょう。
あるときは、病気を癒して平安を、あるときは事故などから守って平安を、、。

しかし、イエス様から来る平安は、それらを超越したものです。
それが、イエス様の復活によって示されました。

私たちは、お金がないと不安でしょう。病気になると不安でしょう。戦争が起こったら不安でしょう。そして、それが継続していくと最終的な不安は、「死」です。
お金がなくて、食べるものがなくて、死んでしまうんじゃないか。
病気が治らず、死んでしまうんじゃないか。
戦争で殺されてしまうんじゃないか。事故で、事件で、、、。
その「死」を打ち破って、復活されたのがイエス様です。

私たちがイエス様からいただく平安は、たとえ私たちの肉体が滅ぼされても、決して滅ぼされるこのない魂の平安なのです。

エペソ書で、パウロは、自らの願いは肉体を去ってキリストと共にいることだといいました。しかし、あなた方のために肉体にとどまる事が必要だから、肉体にとどまっていると言っています。
パウロは、イエス様からのこの「平安」をいただいていたのでしょう。
だから、死ぬ事によって主のもとにいけるという喜びと平安に満たされていたのだと思います。

私たちが、イエス様に「平安」をいただき、これに満たされるなら、どんな状況や境遇にあっても、たとえ死ぬ事になったとしても、その平安は奪われる事はないのです。

もし、お金が満たされたり、いろんな地上の不安がなくならないと平安が来ないというなら、それは、イエス様の平安に満たされていないからです。
イエス様は、そんなあなたに今日、復活から来る平安を、サタンに奪われる事のない平安を与えて、満たしたいと願っておられるのではないでしょうか。

この平安をいただき、満たしていただくなら、素晴らしい主の復活を体験することでしょう。


2.イエス様は遣わされる。

「あなたがたを遣わします」「聖霊を受けなさい」

この世の中で今、多くの不安を抱えている人々はたくさんいます。
その人々に、それらを超越した平安があること、魂の救いによって得られる平安があることが伝えられなければならないのです。
ですから、イエス様は、「平安があるように」と言われた後、

イエスはもう一度、彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」
そして、こう言われると、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。
あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたがだれかの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります。」

「あなた方を遣わす」と言われ、息を吹きかけて「聖霊を受けなさい」といわれました。

聖霊を受けて、その力を受けるとき、私たちはイエス様によって遣わされるものとなるのです。
エマオへの途上で復活のイエス様に出会った弟子達も、イエス様と話しているとき、心が燃えたと告白しています。
復活のイエス様の出会うとき、心がうちに燃やされるのです。
霊が復活し、生かされるのです。だから、遣わされることができるようになるのです。

地上の問題がイエス様によって解決されることも素晴らしいことです。
しかし、地上のことを求めるのではなく、私たちの目は、天に、イエス様に向けられていなくてはならないのではないでしょうか。

イエス様は私たちをそのように遣わしたいと願っておられるのです。


結)イエス様の復活に預かるのは・・
イエス様の復活に預かる私たちは、イエス様の平安をいただき、満たされましょう。
この平安は、変わる事がなく、奪われる事もなく、滅ぼされる事もない、究極の平安です。
いつ変化するかもしれない、いつ滅ぼされるかも知れないような地上の平安を求めている人々に、この復活のイエス様からの平安が届けられるなら、それはなんと素晴らしい事でしょう。
私たちがその一人となれないでしょうか。
もう一度、イエス様の平安を受けて、聖霊を受けて、命と力に溢れ、遣わされるものとなるなら幸いです。