2007/05/27

07.5.27「今日、主を信頼する」

出エジプト16:9-31
:1 ついで、イスラエル人の全会衆は、エリムから旅立ち、エジプトの地を出て、第二の月の十五日に、エリムとシナイとの間にあるシンの荒野にはいった。
:2 そのとき、イスラエル人の全会衆は、この荒野でモーセとアロンにつぶやいた。
:3 イスラエル人は彼らに言った。「エジプトの地で、肉なべのそばにすわり、パンを満ち足りるまで食べていたときに、私たちは主の手にかかって死んでいたらよかったのに。事実、あなたがたは、私たちをこの荒野に連れ出して、この全集団を飢え死にさせようとしているのです。」
:4 主はモーセに仰せられた。「見よ。わたしはあなたがたのために、パンが天から降るようにする。民は外に出て、毎日、一日分を集めなければならない。これは、彼らがわたしのおしえに従って歩むかどうかを、試みるためである。
:5 六日目に、彼らが持って来た物を整える場合、日ごとに集める分の二倍とする。」
:6 それでモーセとアロンは、すべてのイスラエル人に言った。「夕方には、あなたがたは、主がエジプトの地からあなたがたを連れ出されたことを知り、
:7 朝には、主の栄光を見る。主に対するあなたがたのつぶやきを主が聞かれたのです。あなたがたが、この私たちにつぶやくとは、いったい私たちは何なのだろう。」
:8 モーセはまた言った。「夕方には、主があなたがたに食べる肉を与え、朝には満ち足りるほどパンを与えてくださるのは、あなたがたが主に対してつぶやく、そのつぶやきを主が聞かれたからです。いったい私たちは何なのだろうか。あなたがたのつぶやきは、この私たちに対してではなく、主に対してなのです。」
:9 モーセはアロンに言った。「イスラエル人の全会衆に、『主の前に近づきなさい。主があなたがたのつぶやきを聞かれたから。』と言いなさい。」
:10 アロンがイスラエル人の全会衆に告げたとき、彼らは荒野のほうに振り向いた。見よ。主の栄光が雲の中に現われた。
:11 主はモーセに告げて仰せられた。
:12 「わたしはイスラエル人のつぶやきを聞いた。彼らに告げて言え。『あなたがたは夕暮れには肉を食べ、朝にはパンで満ち足りるであろう。あなたがたはわたしがあなたがたの神、主であることを知るようになる。』」
:13 それから、夕方になるとうずらが飛んで来て、宿営をおおい、朝になると、宿営の回りに露が一面に降りた。
:14 その一面の露が上がると、見よ、荒野の面には、地に降りた白い霜のような細かいもの、うろこのような細かいものがあった。
:15 イスラエル人はこれを見て、「これは何だろう。」と互いに言った。彼らはそれが何か知らなかったからである。モーセは彼らに言った。「これは主があなたがたに食物として与えてくださったパンです。
:16 主が命じられたことはこうです。『各自、自分の食べる分だけ、ひとり当たり一オメルずつ、あなたがたの人数に応じてそれを集めよ。各自、自分の天幕にいる者のために、それを取れ。』」
:17 そこで、イスラエル人はそのとおりにした。ある者は多く、ある者は少なく集めた。
:18 しかし、彼らがオメルでそれを計ってみると、多く集めた者も余ることはなく、少なく集めた者も足りないことはなかった。各自は自分の食べる分だけ集めたのである。
:19 モーセは彼らに言った。「だれも、それを、朝まで残しておいてはいけません。」
:20 彼らはモーセの言うことを聞かず、ある者は朝まで、それを残しておいた。すると、それに虫がわき、悪臭を放った。そこでモーセは彼らに向かって怒った。
:21 彼らは、朝ごとに、各自が食べる分だけ、それを集めた。日が熱くなると、それは溶けた。
:22 六日目には、彼らは二倍のパン、すなわち、ひとり当たり二オメルずつ集めた。会衆の上に立つ者たちがみな、モーセのところに来て、告げたとき、
:23 モーセは彼らに言った。「主の語られたことはこうです。『あすは全き休みの日、主の聖なる安息である。あなたがたは、焼きたいものは焼き、煮たいものは煮よ。残ったものは、すべて朝まで保存するため、取っておけ。』」
:24 それで彼らはモーセの命じたとおりに、それを朝まで取っておいたが、それは臭くもならず、うじもわかなかった。
:25 それでモーセは言った。「きょうは、それを食べなさい。きょうは主の安息であるから。きょうはそれを野で見つけることはできません。
:26 六日の間はそれを集めることができます。しかし安息の七日目には、それは、ありません。」
:27 それなのに、民の中のある者は七日目に集めに出た。しかし、何も見つからなかった。
:28 そのとき、主はモーセに仰せられた。「あなたがたは、いつまでわたしの命令とおしえを守ろうとしないのか。
:29 主があなたがたに安息を与えられたことに、心せよ。それゆえ、六日目には、二日分のパンをあなたがたに与えている。七日目には、あなたがたはそれぞれ自分の場所にとどまれ。その所からだれも出てはならない。」
:30 それで、民は七日目に休んだ。
:31 イスラエルの家は、それをマナと名づけた。それはコエンドロの種のようで、白く、その味は蜜を入れたせんべいのようであった。



マタイ6:33-34
:33 だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。
:34 だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。


序)
イスラエルの人々は、エジプトから解放され、主の導きによって守られ、進んでいったのですが、シンの荒野に入った時に、主に対してつぶやきました。
こんな荒野で飢え死にするくらいなら、エジプトにいて、肉なべを食い、パンをたくさん食べているときに死んだ方がよかった・・・と。
海が分かれて、そこを通って、エジプト軍からも守られて、主のすばらしい御業を見て、主の偉大さ、素晴らしさ、主が導いておられること、主に信頼することを学んだはずの人々が早くもこんなことを言っているのです。
エジプトを出て、2ヶ月目の15日ですから、正月に出て、2月中ごろでしょうか。
私たちも弱さを持っていますから、年の初めに、「今年は○○をするぞ!」とか、「今年はこんな年にするぞ!」とかいろいろと希望を持ったり、目標を立てたりしても、2月半ばくらいになると、忘れていたり、既にあきらめたり、することもあるかも知れません。
主は人間がそのような弱さを持っていることもご存知で、何度でも主に信頼すること、主に目を向けることを教えておられるのかもしれませんね。
この聖書の箇所から、イスラエルの人々が学んだと思われること、わたしたちが学ぶことができることを教えていただき、神様からの生けるパンとして受け止めいただきたいと思います。


1.神様の満たしは完全

神様は、人々のつぶやきを聞いて、マナを与えました。
この「マナ」は、毎朝、収穫できるように与えられ、6日目だけは二日分が与えられました。
それぞれが家族の人数分づつ取って、その日の内に食べたのですが、次の日の為に残しておくと、虫がわき悪臭を放ったとあります。
しかし、6日目に二日分取って、次の日に残した時は大丈夫でした。
また、7日目の朝にはマナは降りませんでした。
神様はその日その日の必要を完全に満たされるお方です。
それは余ることもなく、不足することもなかったのです。(:18)
神様は毎朝、マナを与えられる、日ごとにその日その日に必要な糧を与えられるのです。
そして、それは日が熱くなると溶けてなくなるのです。

私たちがどうであっても、神様の用意されている満たしはいつも完全なのです。
これは、150%ということではなく、必要を100%満たされるということなのです。


2.神様を信頼する

主はこのようにして、主に信頼することを再度、教えられました。
しかし、イスラエルの人の中には、今日はあっても、明日の朝はないかもしれないと思ったからでしょうか。
次の日まで残しておこうとした人がいたのです。
でも、虫がわき悪臭がしたのです。

これは、主を信頼していないが故の行動ではないでしょうか。
主が毎日与える、毎日一日分を集めよ、といわれているのに、次の日まで残そうとしたり、
6日目には2日分とって残せばいいから、7日目は取りに出るなといわれているのに、取りに行ったり、主を信頼しないから、こんな行動になるのでしょう。

私たちはどうするのでしょう。

主を信頼しましょう。
自分の知識や経験だけに頼ってしまってはいけません。
箴言 3:5-6
心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。
あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。

心を尽くして主に信頼し、より頼むのです。
自分の常識だけで判断するなら、それは主の介入する余地はなくなるのではないでしょうか。
どんな時も主を認めて、主により頼むならば、主があなたの道をまっすぐにされ、導かれていくのです。

心から主に信頼するものになりたいですね。


でも、それもなかなか難しく感じることも感じる時もあるでしょう。

では、主を信頼するものとして私たちはどうすればいいのでしょうか。


結)今、できること、すべきこと

今できること、今すべきことを今すればいいのです。
マタイ6:33-34
:33 だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。
:34 だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。

イスラエルの人々は、毎朝、マナを1日分だけ集めること、6日目だけ2日分集めることをすれば良かったのです。
そのことをすることによって、イスラエルは、荒野にいた40年間、主の満たしを受け、養われていったのです。
私たちも、今日すべきことをできることを今日やりましょう。
労苦はその日その日に十分ある、とイエス様も語られました。
それなら、できるのではないでしょうか。
明日、明後日、来週、来月のことばかり心配していても、今日の労苦は解決しません。
今日やるべきことをやりましょう。

これは、別に先のことを考えるな、先のことをみるなという意味ではありません。
今日やるべきことがあるのに、先のことを心配して、今日やるべきことをやらないということのないように、という意味や、
今日やるべきことがあるのに、主を信頼していないが故に先のことを心配するのではなく、
主を信頼して、先のことは見ながら考えながらも、主に委ねて、今日やるべきことをしましょう、という意味です。

私たちは、主を信頼し、今日やるべきこと、できることをやっていくなら、幸いです。
毎日はその繰り返しです。

その時に、主は変わらない約束で私たちを養い、導き、その行く道をまっすぐにして、全てを満たして下さいます。
主に信頼し、祈りましょう。

2007/05/20

07.5.20「 愛すること、確かめること 」-霊を識別する必要-

1ヨハネ 4:1-6
:1 愛する者たち。霊だからといって、みな信じてはいけません。それらの霊が神からのものかどうかを、ためしなさい。なぜなら、にせ預言者がたくさん世に出て来たからです。
:2 人となって来たイエス・キリストを告白する霊はみな、神からのものです。それによって神からの霊を知りなさい。
:3 イエスを告白しない霊はどれ一つとして神から出たものではありません。それは反キリストの霊です。あなたがたはそれが来ることを聞いていたのですが、今それが世に来ているのです。
:4 子どもたちよ。あなたがたは神から出た者です。そして彼らに勝ったのです。あなたがたのうちにおられる方が、この世のうちにいる、あの者よりも力があるからです。
:5 彼らはこの世の者です。ですから、この世のことばを語り、この世もまた彼らの言うことに耳を傾けます。
:6 私たちは神から出た者です。神を知っている者は、私たちの言うことに耳を傾け、神から出ていない者は、私たちの言うことに耳を貸しません。私たちはこれで真理の霊と偽りの霊とを見分けます。


1ヨハネは、「愛」について多く書かれている。
特に、3~5章のこの箇所以外はほとんど「愛」についてかかれている。
なのに、この4章の前半1/3くらいだけが、「霊」について書かれています。
これは何を意味し、神様は何をメッセージされているのでしょうか。

1.霊は、受け入れる前に確かめる

愛する、ということは何でも受け入れたりしてしまいやすく、排除しなくなりがちであると思います。
ですから、受け入れてはならないものをちゃんと識別し、確かめることが必要であるとメッセージされていると思います。

愛するとは、「何もかも全てを受け入れる」ことではないのです。

クリスチャンでない人を愛します。受け入れます。
しかし、その霊を受け入れることは十分に吟味しなくてはなりません。
偶像礼拝をする人から、その霊を受け入れることはさけるべきですが、その人を避けるのではありません。
その人は愛しうけ入れてもその霊は避けるべきです。

ハリー○ッターは魔術のことがたくさん書かれた本らしいです。
だからその霊(悪霊)を受け入れることはしてはいけませんが、ハリー○ッターを読んだ人、見に行った人は受け入れます。
その人を愛します。主もその人を愛しておられます。
しかし、その霊は受け入れません。主もまたその霊は拒まれます。

しかしもし、相手がクリスチャンだったら、どうでしょう。
クリスチャンだからといって、その霊を全て受け入れてもいいでしょうか。
クリスチャンだからといって、その人がやっていることを全て肯定していいでしょうか。
クリスチャンとは、罪赦された罪人です。
クリスチャンじゃない人は、まだ罪の赦しを受け入れていない罪人です。
どちらも罪人にかわりないのです。
クリスチャンが言っていることだから間違いない、などと思ってはいけません。
思っていなければ、大丈夫ですが(^^;

ハーベストタイムなんかで、クリスチャンが証しされています。
牧師や宣教師をはじめ、普通の主婦から実業家や会社の社長、芸能関係や音楽関係、スポーツ選手など様々な人がクリスチャンとして証ししています。
これは素晴らしいことですし、その証しは人を励ましますが、だからといってその人が言っていることは全て正しく受け入れてもいいとは限りません。同じ罪人なのです。

だから、私がクリスチャンだからといって、ここで語っている言葉は全てそのまま受け入れていいとは限りませんよ(笑)

だから、よくお話するように、御言葉そのものはそのまま受け入れてもいいが、人の話しはたとえ聖書からであっても、鵜呑みにするには、十分注意が必要であるのです。
吟味することが必要です。
でも、吟味するのは、難しい時代ですよね。

出エジプト5章以降に書かれてありますが、
主の命令によってモーセとアロンがエジプトに奴隷として寄留しているイスラエル人を導く為に、エジプトの王、パロのところへ行って交渉します。
しかし、パロはさらせません。
7章以降では、そのためにモーセはパロの前で次々としるしを行います。
まずは、杖をパロの前に投げ出すと、ヘビになります。
しかし、パロが呪術師を呼び寄せ、秘術によって同じことをしたのです。
呪術師の杖もヘビになったのです。しかし、モーセの杖のヘビにそのヘビたちは飲み込まれてしまいましたが。
その後、ナイル川の水を血に変えました。
その時も呪術師は同じことをしたと書いてあります。
またその後、かえるを地にのぼらせましたが、その時も呪術師は同じことをしました。
その次は、地のちりをぶよにかえましたが、その時は呪術師はできませんでした。
その後、あぶの群れ、疫病、うみの出る腫れ物、火の雹、いなごの大群、そして、初子をうった過越です。

ここでは、多くのことがメッセージで語られてきましたし、語られるでしょう。
今日はひとつのことだけ注目します。
モーセが神のしるしとして行ったしるし、奇跡を呪術師も行ったのです。
勿論、全てではありませんが。。。
しかし、目に見えるしるしとしては、同じことが神の業としてなされることもあり、
悪魔の業としてなされることもあるということがわかります。
だから吟味の必要があるのです。

2コリント11:13-14
:13こういう者たちは、にせ使徒であり、人を欺く働き人であって、キリストの使徒に変装しているのです。
:14しかし、驚くには及びません。サタンさえ光の御使いに変装するのです。

この11章を読むとわかりますが、
別のイエスを・・・
異なった霊を・・・
異なった福音を・・・
とあります。同じクリスチャンであると思っていても、ニセモノがいることがこの時代からあったのです。

また、2テサロニケ2章も是非読んでいただければと思います。
:9-10には、
不法の人の到来は、サタンの働きによるのであって、あらゆる偽りの力、しるし、不思議がそれに伴い、また、滅びる人たちに対するあらゆる悪の欺きが行なわれます。

はっきりとサタンの働きによる、力、しるし、不思議が伴うことがかかれてあります。


実は、ベ○ーヒン、ロ○ニーHブラウン、トロントやペンサコーラの働きも、その霊は怪しいという人たちもいます。
金歯になったとか、手の平に金粉が出てきたとか、同じことが魔術の中の錬金術でできるらしいです。だからといって、それを吟味し、「悪霊だ!」とはなかなかいえませんが、神からの霊であるかという確信は得られません。
ですから、私は、否定もしないが肯定もしないという立場にいます。
私は、否定も肯定もしませんが、確信がないから受け入れないのです。


今は吟味するのは難しい時代なのです。
しかし、吟味できなかったとしても、わたしたちはそれを受け入れなくても、聖書があります。イエス様がおられます。
聖書からイエス様に直接教えていただき、導いていただけばいいのです。
外から、何かを受け入れる時に注意が必要なんです。


では、ここではどうやって見分けるよう書かれているのでしょうか。


2.イエスを告白する霊

:2 人となって来たイエス・キリストを告白する霊はみな、神からのものです。それによって神からの霊を知りなさい。
:3 イエスを告白しない霊はどれ一つとして神から出たものではありません。それは反キリストの霊です。

少なくとも、イエス様を告白するかどうかでまず判断できます。
しかし、先ほども言いましたように、クリスチャンだからといって全てを受け入れていいかというとそれも怪しい。
「別のイエス」がのべつたえられたりすることもあるのですから、
イエスの名を使っているからといって信じきってもいいとは言いきれないようです。

今は、難しい時代なのかも知れませんね。


よく、「聖霊様・・・」と言葉を聞きますが、父、御子、御霊の中で「御霊(聖霊)」だけが注目されているように感じます。

それが悪いのではありません。
しかし、ここではイエスを告白する霊と書かれてあるのですから、イエスを告白しているかどうかという点でも「聖霊さま」を強調しているのは、吟味するにこしたことはないと思うのです。

ベ○ーヒンの著書は、「聖霊様」が中心のようです。(読んでないので聞いた話しです。)
だめかどうかはわかりませんが、どうも焦点が「イエス」ではなく「聖霊」に向けられているように感じるのです。
そうすると、先ほどの御言葉のように、「イエスを告白する霊」ではなくなっていくように思えてしまいます。
確証はできませんが、そう感じる。という話しです。

聖霊・・と「霊」にばかり目をむけてしまうと、
そこで油注ぎの為に・・・と祈られている「霊」が悪霊であっても、
気付かずに受け入れてしまうかも知れません。

吟味する必要があるということを、心に留めていただければ幸いです。

私達は、まず「イエスを告白する霊」であるかを持って判断しますが、それ以上は、十分に注意しましょうとしか言いようがありません。

結論になってないですね。すいません。

でも、吟味しないよりは十分自分の霊を守ることはできると信じます。
そう、イエス様が守って下さるから。


結)
とにかくわたしたちは、神を愛し、自分を愛し、隣り人を愛するという神の戒めを守り、愛を実践しますが、その霊については、十分に注意が必要であると思います。
吟味は難しくても、注意することはできると思います。

でも、恐れることはありません。愛には恐れはない、完全な愛は恐れを取り除くとあります。
私達は、聖書そのものを受け入れ、イエス様から直接教えられ導かれて行く時に、完全な愛であるイエス様によって、恐れることなく、愛を実践できると信じます。

私たちのために十字架で命を捨ててくださったのは、イエス様です。
このお方を罪からの救い主として受け入れることが、最大の恵みです。
これには、聖書があればいいのです。
あなたは、聖書に書かれてある、イエス様の十字架の救いを受け入れておられますか。
幸いです。

その上で、前向きに愛する面と、注意すべき確かめる面とがありますが、聖書とイエス様を頼りに更に歩むものになりたいですね。
祈りましょう。

2007/05/13

07.5.13「痛みを伴う愛」

創世記24:15-21
:15 こうして彼がまだ言い終わらないうちに、見よ、リベカが水がめを肩に載せて出て来た。リベカはアブラハムの兄弟ナホルの妻ミルカの子ベトエルの娘であった。
:16 この娘は非常に美しく、処女で、男が触れたことがなかった。彼女は泉に降りて行き、水がめに水を満たし、そして上がって来た。
:17 しもべは彼女に会いに走って行き、そして言った。「どうか、あなたの水がめから、少し水を飲ませてください。」
:18 すると彼女は、「どうぞ、お飲みください。だんなさま。」と言って、すばやく、その手に水がめを取り降ろし、彼に飲ませた。
:19 彼に水を飲ませ終わると、彼女は、「あなたのらくだのためにも、それが飲み終わるまで、水を汲んで差し上げましょう。」と言った。
:20 彼女は急いで水がめの水を水ぶねにあけ、水を汲むためにまた井戸のところまで走って行き、その全部のらくだのために水を汲んだ。
:21 この人は、主が自分の旅を成功させてくださったかどうかを知ろうと、黙って彼女を見つめていた。

序)
今日は母の日です。
聖書にも、たくさんのお母さんが出てきます。
今日は、ヤコブすなわちイスラエルの母となったリベカの話から、共に教えられたいと思います。

聖書のこの箇所で初めてリベカが登場しますが、
創世記の27章では、リベカの夫であるイサクからその息子エサウが祝福を受けようとした時に、リベカはヤコブにその祝福を受けさせようとして、ヤコブをエサウになりすますようにして、祝福を奪い取ります。
その時に、ヤコブがお父さんにばれてしまってかえって呪いを受けてしまうかも知れない・・・
と懸念するのですが、リベカは、「その呪いはわたしが受けます」とまで言いました。
母親というのは、なんと強いのでしょう。
しかし、よく考えてみると、このヤコブが祝福を受け、そして後にイスラエルとなり、12部族が生まれ、それがイスラエル民族になっていったことを思うと、リベカのこの行動は大きな意味を持っているといえるでしょうね。

そんなリベカが聖書に最初に登場したこの箇所から、リベカがどんな女性だったのか、
また、そのことから私たちが学ぶべきことをも受け止めていきたいと思います。


1.旅人をもてなした。

リベカは、見ず知らずの旅人から、水を飲ませて下さいと頼まれました。

みなさんなら、どうするでしょうか?
わたしだったら、おそらく水くらいは飲ませてあげるかも知れませんが、らくだにまで飲ませることはできないと思います。
らくだって、すっごい飲むらしいですからね(^^;
1分間に一升瓶3本くらい飲むそうです。
今回、10頭のらくだと一緒でしたから、かなりの量でしょうね。

でも、リベカは、「どうぞ、お飲みください。だんなさま。」と言って、その後、
「あなたのらくだのためにも、それが飲み終わるまで、水を汲んで差し上げましょう。」
と自ら言い出し、急いで水を汲みに行ったのです。

ここから教えられることはなんでしょう?
即従順すること?主人には従順して仕えること?
わたしはそうは思いませんでした。

聖書には、
ローマ 12:13 聖徒の入用に協力し、旅人をもてなしなさい。
ヘブル 13:2 旅人をもてなすことを忘れてはいけません。こうして、ある人々は御使いたちを、それとは知らずにもてなしました。
と旅人をもてなすことが書かれています。
旅人をもてなすことは神の前に正しいことなんですね。
これは、「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛しなさい」という律法をも全うすることです。

リベカは、「旅人をもてなし、隣り人を愛する人」だったんです。

これはここには書いていませんので、わたしの想像ですが、
リベカが旅人に対してこのようにしたのは、初めてではなかったと思うのです。
今までも、このようなことがあったときに、旅人をもてなし、また隣り人を愛するように、水を与えたりしてきたのだと思うのです。

:16に「この娘は非常に美しく・・」とありますが、
この美しさはそのような内側からにじみ出る美しさであったと思います。
よく、顔が輝くと言ったりしますが、別におでこが広くなったとか、化粧で顔じゅうにラメをつけたとか、そういうわけじゃないですよね。
何かいいことがあったり、気分がよかったり、内側に喜びなんかが溢れていると、外側にも見えるものです。
リベカは、隣り人を愛することができる人で内側からあふれ出るものがあったんだと思うのです。
だから、美しかったのだと思います。

さて、水を汲むといっても、日本によくあるツルベ式の井戸のような井戸ではありません。
らせん状に階段を降りて行って一番底にある水を汲んでまた階段を昇って汲んでくるのです。
大変な労力です。
リベカは筋肉隆々だったかも知れませんね。


2.痛みを伴う愛

リベカは、肩に水がめを乗せて、何度も何度も往復したのです。
どう考えても楽な作業ではありません。
隣り人を愛するというのは、麗しいような響きがありますが、実際には痛みを伴うものです。
肩にかかる痛みは、回数が増えるに伴って、増していったことでしょう。

隣り人を愛するというのは、痛みの伴うものなのです。

もし、今みなさんが、誰かに対して、痛みを感じているなら、それはその人を愛しているからといえると思います。
あなたは隣り人として、その人を愛しているのでしょう。
どうでもよければ、そんな痛みはやってきません。

また、逆に誰かを愛するということは、痛みを伴うことであることを知りましょう。


ここで、ひとつだけ、具体的に隣り人を愛するとはどのようなことなのかをみます。

リベカは、肩に水がめを負ったのです。
その旅人の必要を負ったのです。
ここから私たちは、
「重荷を負いあう」ということが隣り人を愛することのひとつであることが伺えます。
もちろん、他にもいろんな愛の行動があるでしょう。

何か、悩みがある、重荷がある・・・そんな時、
マタイ11:28には、
すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。
わたしがあなたがたを休ませてあげます。
とありますから、
「クリスチャンなら、そんなことは、牧師や兄弟姉妹に相談するんじゃなくて、イエス様に相談して解決しなさい。」と言いますか?
そうじゃないですね。

同じ聖書にこうあります。
ガラテヤ6:2 互いの重荷を負い合い、そのようにしてキリストの律法を全うしなさい。
ヨハネ15:17 あなたがたが互いに愛し合うこと、これが、わたしのあなたがたに与える戒めです。
ローマ 13:8 だれに対しても、何の借りもあってはいけません。ただし、互いに愛し合うことについては別です。他の人を愛する者は、律法を完全に守っているのです。
ガラテヤ 5:13 兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい。

互いに重荷を負い合うこと、互いに仕えること、互いに愛し合うこと、これらは聖書の教えです。

人の重荷を負うことは時には痛みを感じることもあるでしょう。
でも、互いに祈ることは、十分耐えられる痛みではないでしょうか。

勿論、相手の重荷を負って祈ることすら、その痛みに耐えられない時もあるかもしれません。
そんな時は、正直にそのことをイエス様のもとに持っていきましょう。
主が既にその重荷を負って下さっています。

そうです。
互いに重荷を負い合うことは愛し合うことですが、
その時、主もまたその重荷を負って下さるのです。
重荷を負ってもらった人は、イエス様のもとへもいって重荷を負っていただきましょう。


結)リベカは痛みを伴う愛を持った人
リベカは、たとえそこに痛みが伴ったとして隣り人を愛する人でした。
私たちはリベカに今、会うことはできませんが、
リベカ以上の愛をもって、私たちを愛して下さっている、イエス様に出会うことができます。
イエス様は、十字架で命を捨てて、想像を絶する痛みをも受けて、わたしたちを愛して下さったのです。
このお方が私たちを愛して下さっている。

私たちもまた互いに重荷を負い合い、愛し合う者になりたいですね。
その時に伴う痛みは私たちにとっては痛いかもしれませんが、
イエス様はそれ以上の痛みを受けて下さった。(心臓が破裂するほどの痛み)
だから、痛みを伴うような愛を実践する時、イエス様はその痛みを知って下さっているし、その愛を全うして下さるに違いないと信じるのです。

今日、その一歩を踏み出す人は幸いです。
祈りましょう。

2007/05/06

07.5.6「赦された者」

マタイ18:21-35
:21 そのとき、ペテロがみもとに来て言った。「主よ。兄弟が私に対して罪を犯したばあい、何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか。」
:22 イエスは言われた。「七度まで、などとはわたしは言いません。七度を七十倍するまでと言います。
:23 このことから、天の御国は、地上の王にたとえることができます。王はそのしもべたちと清算をしたいと思った。
:24 清算が始まると、まず一万タラントの借りのあるしもべが、王のところに連れて来られた。
:25 しかし、彼は返済することができなかったので、その主人は彼に、自分も妻子も持ち物全部も売って返済するように命じた。
:26 それで、このしもべは、主人の前にひれ伏して、『どうかご猶予ください。そうすれば全部お払いいたします。』と言った。
:27 しもべの主人は、かわいそうに思って、彼を赦し、借金を免除してやった。
:28 ところが、そのしもべは、出て行くと、同じしもべ仲間で、彼から百デナリの借りのある者に出会った。彼はその人をつかまえ、首を絞めて、『借金を返せ。』と言った。
:29 彼の仲間は、ひれ伏して、『もう少し待ってくれ。そうしたら返すから。』と言って頼んだ。
:30 しかし彼は承知せず、連れて行って、借金を返すまで牢に投げ入れた。
:31 彼の仲間たちは事の成り行きを見て、非常に悲しみ、行って、その一部始終を主人に話した。
:32 そこで、主人は彼を呼びつけて言った。『悪いやつだ。おまえがあんなに頼んだからこそ借金全部を赦してやったのだ。
:33 私がおまえをあわれんでやったように、おまえも仲間をあわれんでやるべきではないか。』
:34 こうして、主人は怒って、借金を全部返すまで、彼を獄吏に引き渡した。
:35 あなたがたもそれぞれ、心から兄弟を赦さないなら、天のわたしの父も、あなたがたに、このようになさるのです。」


序)何度まで赦す?
「もう、何度言ったらわかるのっ」
と子供を叱るときによく耳にする言葉ですね。
子供を叱る場合は、躾ということもありますので、当てはまらないかもしれませんが、
人との関係で、何度も同じことをされた時、何度までなら赦せますか?
人によるかもしれないし、内容によるかもしれませんね。

ペテロが、イエス様に尋ねました。
「兄弟が私に対して罪を犯した場合、何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか。」
それに対して、イエス様は、7度を70倍するまで・・と言われました。

最初に注意していただきたいのですが、これはあくまでも赦す側からのものです。
みなさんはご自分をペテロの立場に置いて聞いてください。
罪を犯した兄弟の立場に自分を当てはめて、
「何度罪を犯しても、赦してもらえるから、罪を犯しても大丈夫だ」などと思ってはいけません。

では、順に見ていきましょう。


1.赦しを与えられる

かわいそうに思って、赦された。

しもべは主人に対して、1万タラントもの借金がありました。
今の金額で言えば、いくらくらいでしょうか。
1万タラントは、6000デナリに相当するということですから、
6000万デナリですね。
1デナリは、当時の1日の労賃に相当するということですから、
日当1万円なら、6000万デナリは、6000億円、
日当5千円なら、3000万デナリで、3000億円、
ということになります。
恐ろしい額の借金ですね。どうやったらそんな借金できるのでしょうね。
というか、この主人はすごい金持ちなんですね(笑)

まあ、これはたとえ話ですから、それほど大きな借金であることを心に留めてその先の話を見ていきましょう。

このしもべは、「どうか猶予を・・・」といって懇願したようです。
すると主人はかわいそうに思って、しもべを赦し、借金を免除したのです。

普通なら、かわいそうに思っても「仕方ない。もう少し待ってやろう・・」というところです。
しかし、待つのではなく、免除してしまったのです。

なんという赦しでしょうか。
こんなにも大きな借りであっても、哀れみをかけ、赦し、帳消しにしてくださるというこがここでのメッセージです。

この例話は、ペテロの質問からはじまっていることを思い出しましょう。
ペテロの質問は借金のことでしたか。
そうじゃないですね。「罪」についてでした。
「罪」を犯したときにどれだけ赦せばいいのか、というものです。
それに対するイエス様の言葉の一部なのです。

そのことを踏まえてここを読むと、この莫大な借金は、大きな罪を意味するものと思われます。
私たちは、神様の前に自分では支払いきれないほどの大きな罪を持っています。
あなたは人を殺しことはないかも知れない。
盗んだこともないかもしれない。
・・・あ、ちなみにぼくは万引きをして捕まったことがあるし、キセル乗車をしたこともあり、罪を持っていることは自覚していますが。。。
しかし、イエス様は心の中で犯したことも罪であると言われました。
また、偽証してはならないとありますから、嘘をついたことがあるなら、それもまた罪です。
そして聖書には、
「義人はいない。ひとりもいない。」ローマ 3:10
とあるように、全ての人は罪人であると書かれてあります。

そして、その罪がどれほど大きなものであっても、赦してくださる方は、この主人であり、
つまり神様なのです。
その神様は、何もしないのに赦してくださるのでしょうか。
その赦しの根拠として、ひとり子キリストを遣わし、十字架によって、私たち人類の身代わりとなって罰を受けてくださったのです。
このイエスキリストを自分の救い主をして受け入れるときに、私たちは罪が赦されるのです。
イエス様を罪からの救い主として受け入れられているなら、あなたは罪人であっても、
「罪赦された罪人」となっているのです。

ここで、しもべは、借金を背負っているもの、つまり債務者でした。
しかし、主人のあわれみによって、「借金を免除してもらった債務者」となったのです。

あなたは、借金の免除、つまり罪の赦しを受けた罪人でしょうか。
それともまた、借金の返済がある、罪の赦しを受けていない罪人のままでしょうか。

さて、この借金を免除してもらったしもべのその後を見ましょう。


2.赦された者は

赦されたしもべは赦さなかった。

このしもべに100デナリの借金しているしもべ仲間がいました。
今で言うと、100万円とか50万円とかですね。
さっき、6000億円もの借金を免除してもらったしもべは、自分に対して100万円の借金をしているしもべ仲間の借金を免除せず、赦さず、牢に投げ込んだのです。

私たちは、イエス様によって罪が赦されました。
その罪の支払いを免除されました。
さて、その私たちに罪を犯すものを私たちはどうするのでしょうか。
それを赦さないで罰するのでしょうか。仕返しするのでしょうか。
7度までなら、赦すけど、8度目には赦さないのでしょうか。

ここで、赦さなかったしもべに対して、先ほど借金を免除した主人は、どうしたでしょうか。

「『悪いやつだ。おまえがあんなに頼んだからこそ借金全部を赦してやったのだ。
私がおまえをあわれんでやったように、おまえも仲間をあわれんでやるべきではないか。』
こうして、主人は怒って、借金を全部返すまで、彼を獄吏に引き渡した。」

しもべは、借金をもう一度背負うことになったのです。

そして、イエス様はこう言われました。
「あなたがたもそれぞれ、心から兄弟を赦さないなら、
天のわたしの父も、あなたがたに、このようになさるのです。」

私たちは、イエス様の十字架によって、罪が赦される道が用意され、罪の赦しを受けることができました。
罪が赦された者である私たちはまた、私たちに対して罪を犯すものを赦すように言われているのです。

主の祈りの中にもありますね。
マタイ6:12
わたしたちに負債のある者をゆるしましたように、わたしたちの負債をもおゆるしください。

神様から罪の赦しを与えられたなら、私たちに罪を犯すものをも赦すべきだということです。

イエス様がペテロの「私に罪を犯すものを7度ゆるせばいいですか」という質問に
「7を70倍・・」といわれたその真意は、
「あなたは、神様からどれだけ赦してもらっているのか、よく考えるべきでしょう。どれだけ大きな赦しをいただいているのかがわかったなら、あなたもまたどれだけ赦してあげるべきかわかるはずだからです・・」ということではないでしょうか。

赦された者は、赦すことができるのです。


結)イエス様は全ての人に赦しを与えられる
私たちはイエス様の十字架の死によって、赦しを受けることができます。
では、私たちに罪を犯す人はどうでしょうか。
その人たちも、イエス様の十字架の死によって、赦しを受ける権利を持っているのです。
私たちだけが赦されるものではないのです。全ての人にその権利があるのです。
その赦しを受け入れているか、まだ受け入れていないかの違いだけです。

感情的には赦せない思いがあることは多いかも知れません。
しかし、その人々をもイエス様は愛し、赦しを受けて欲しい、救われて欲しい、と願っておられるのです。
イエス様がその人をも赦されているのに、なぜ私たちが赦せないと言えるでしょう。

信仰によって、全ての人に赦しを宣言しましょう。
そして、イエス様が赦し愛しておられるのですから、私たちもイエス様に近づくためにも赦し愛することができるように祈りましょう。
聖霊によって、私たちを助け、その信仰に歩ませてくださると信じます。

今日、あなたは、イエス様からの罪の赦しを受け入れておられますか。
まだなら、是非、この素晴らしい恵みを受け入れていただきたいと思います。
既に罪赦された罪人ですか。
それならば、あなたに罪を犯す人を赦しておられますか。
今日、信仰によって赦しを宣言し、聖霊によって助けていただきましょう。
それぞれその一歩を踏み出す人は幸いです。
祈りましょう。