2007/08/26

07.8.26「 新しい戒め 」

1ヨハネ 3:16-:24
:16キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。
:17世の富を持ちながら、兄弟が困っているのを見ても、あわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょう。
:18子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行ないと真実をもって愛そうではありませんか。
:19それによって、私たちは、自分が真理に属するものであることを知り、そして、神の御前に心を安らかにされるのです。
:20たとい自分の心が責めてもです。なぜなら、神は私たちの心よりも大きく、そして何もかもご存じだからです。
:21愛する者たち。もし自分の心に責められなければ、大胆に神の御前に出ることができ、
:22また求めるものは何でも神からいただくことができます。なぜなら、私たちが神の命令を守り、神に喜ばれることを行なっているからです。
:23神の命令とは、私たちが御子イエス・キリストの御名を信じ、キリストが命じられたとおりに、私たちが互いに愛し合うことです。
:24神の命令を守る者は神のうちにおり、神もまたその人のうちにおられます。神が私たちのうちにおられるということは、神が私たちに与えてくださった御霊によって知るのです。


ヨハネ13:34-35
:34あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。
:35もしあなたがたの互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。



序)
先週、「一番大切な戒め」というお話を分かち合いました。
今日のメッセージはその続きのようなもので、先週と今週とでセットになっています。

旧約に多くの戒めを与えられたにも関わらず、新約の時代にイエス様が来られて、私達に新しい戒めを与えられた。
ですから、これは新約に生きる私達にはかなり重要な戒めに違いないと思うのです。
その戒めというのが、
「わたし(イエス様)があなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」
です。


1.イエス様の愛を知る。
「わたしがあなたがたを愛したように・・・」
「キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。」

新しい戒めを与える前には、その理由、動機付けが必要だと思うのです。

イエス様も私達に新しい戒めを与えるにあたって、その理由、動機付けを与えられました。
「私があなたがたを愛したように・・・」
「主は、わたしたちのためにいのちを捨てて下さった。それによって、わたしたちは愛ということを知った。」

ヨハネも、
1ヨハネ 3:1 わたしたちが神の子と呼ばれるためには、どんなに大きな愛を父から賜わったことか、よく考えてみなさい。
と言っています。

私達もまず、この神の愛を知りましょう。深く味わいましょう。ここがスタートであり、絶えずここからスタートすべきです。
まず神が愛して下さった、その愛を知った、その愛を受けた、その愛が今も注がれている。
これがスタートであり、帰って来るところです。

そして、その愛を知り、受け止めて、初めて「互いに愛し合う」ことができるのです。


2.互いに愛し合う。
「あなたがたも互いに愛し合いなさい。」
「私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行ないと真実をもって愛そうではありませんか。」

私達が愛し合うという時、行いと真実とを持って愛し合うということが必要なのではないでしょうか。
失敗することもあるかも知れません。愛せない時もあるかも知れません。
いいんです。その時はもう一度、神の愛を知りましょう。味わいましょう。溢れるばかりに受け止めましょう。
そうしたら、きっと、神はまた、愛し合う愛の力を注いで下さると信じます。聖霊を通して。。。

実践できることから、「愛し合う」実践をしましょう。
そして、その時に、私達は神様の中におり、神様も私達の中におられることを見るでしょう。


3.神と共にいる。
「それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」
「神の命令を守る者は神のうちにおり、神もまたその人のうちにおられます。」

先週、一番大切な戒めというお話の中で、神を愛し、隣り人を愛することについてお話しました。
この戒めを守る時、聖書の全ての律法は全うされるとまでいいました。
確かに、そのとおりです。あなたが隣り人を愛する時、その律法は全うされます。
でも、その隣り人はあなたの愛をどう思うかはわかりません。またあなたを愛してくれないかも知れません。
でも律法は全うされているのです。「愛しなさい」ということを守り実践したわけですから。。。
しかし、今日お話した「互いに愛し合いなさい」という戒めは、あなた一人が相手を愛したからとて、全うされるものではないのです。
あなたも愛し、相手もあなたを愛する時に、全うされるのです。
だから、聖書は、「あなたがた」と言っています。
私達クリスチャン同士が愛し合う時に、この戒めは全うされるのです。

この戒めは、個人に言われたというよりも、むしろ、主の名によって集う人々へ言われた戒めと受け止める方が自然です。

そういう意味で、教会に属するということは大切であると言えるのかも知れませんね。
お客さんとして、礼拝だけ守りに教会に行く、、、これもありですが、そのような信仰生活だけでは、この戒めはなかなか実践できないと思うのです。
しかし、教会というイエス様によって集められた人々の中で、互いに愛し合い、仕え合い、祈りあい、、、という中で、この戒めを実践することができる。
その中で、愛し合うことに困難を感じることもあるでしょう。礼拝だけの人はその困難は体験しないかも知れません。
でも、困難を感じるからこそ、また、神様の愛を知ることも深く味わうことも、体験することもできるのだと思います。
そして、わたしたちが愛し合い、それを人が見る時に、人々は私達を主の弟子であると認めるのです。
その結果、全ての人に対して、証しとなり、宣教となる。

互いに愛し合いましょう。

2007/08/19

07.8.19「一番大切ないましめ (全ての土台)(愛が全て)」

マタイ 22:34-40
:34 しかし、パリサイ人たちは、イエスがサドカイ人たちを黙らせたと聞いて、いっしょに集まった。
:35 そして、彼らのうちのひとりの律法の専門家が、イエスをためそうとして、尋ねた。
:36 「先生。律法の中で、たいせつな戒めはどれですか。」
:37 そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』
:38 これがたいせつな第一の戒めです。
:39 『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。
:40 律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」

マルコ12:28-31
:28 律法学者がひとり来て、その議論を聞いていたが、イエスがみごとに答えられたのを知って、イエスに尋ねた。「すべての命令の中で、どれが一番たいせつですか。」
:29 イエスは答えられた。「一番たいせつなのはこれです。『イスラエルよ。聞け。われらの神である主は、唯一の主である。
:30 心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』
:31 次にはこれです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』この二つより大事な命令は、ほかにありません。」

申命記 6:5 心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。

レビ記 19:18 復讐してはならない。あなたの国の人々を恨んではならない。あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。わたしは主である。



序)聖書にはたくさんの戒め、約束、教え、勧め・・・などありますが、モーセの十戒でもわかるように、戒めはとても大切です。約束や教え、勧めなどは、そうしなければならない、というほどの強い拘束力もありません。
でも、戒めは、「・・・しなければならない。・・・しなさい。」といったような強い拘束力をも持ったものであると思います。
では、一番大切な戒めは・・・それが今日の御言葉です。

しかし、そのことを学ぶ前に、ひとつ確認しておきましょう。
Ⅰヨハネ4:7-11--
私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛して下さって・・・

「まず神が私たちを愛して下さった。愛して下さっている。」ということを確認しましょう。
・十字架の死 ・罪からの救い、解放 ・永遠の命 ・今も共にいて下さる etcによってもわかります。
勿論、聖書に書いていますしね。

そして、今日このことだけは、心に留めて下さいね。
頭に覚えるだけではなく、心に留めるんですよ。
マリヤがイエス様の言動を心に留めたように・・・
頭でっかちのクリスチャンになる必要はありません。
心豊かなクリスチャンになりたいですね。

「まず神が私たちを愛して下さった。下さっている」

では、見ていきましょう。

1.「神を愛する」

2.「自分を愛するように、あなたの隣り人を愛する」

聖書でもっとも大切な命令は、神を愛し、人を愛すること(このメッセージの箇所)です。

人には私たちの心が伝わります。
本当にその人を愛して、その人のことを思っているのか?本心から?
例えば誘って教会に来てくれたら(素晴らしいことです)、でも、
私は宣教の義務を果した。信じるかどうかはこの人次第、血の責任はこれで私にはない。などという本心が奥底にあるなら、それは本当にその人を愛している行動といえるでしょうか?

本当に愛しているとわかるまで、何もできないかも知れません。
愛するから、救われてほしいと願うのであり、役に立ちたいと思う。
だから、宣教があるんです。教会が大きくなるためでも、教会が組織化するためでもありません。
神がその人(全ての人)を愛しておられる。わたしもその人を愛している。
だからその人に仕え、その人を助け、その人を救ってあげたいと願う。
そして、イエス様の救いに預かって欲しいと願う。。。

とにかく、全ての土台、全ての動機は、「愛」からであるということです。


モーセの十戒で見てみると、
出20:3--
●神を愛するなら、守れるはず。。
・あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。
・あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水のなかにあるものの、どんな形をも造ってはならない。 それにひれ伏してはならない。それに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神であるから、わたしを憎むものは、父の罪を子に報いて、三、四代に及ぼし、わたしを愛し、わたしの戒めを守るものには、恵みを施して、千代に至るであろう。
・あなたは、あなたの神、主の名を、みだりに唱えてはならない。
・安息日を覚えて、これを聖とせよ。

●自分を愛するように隣り人を愛するなら、守っているはず。。
・あなたの父と母を敬え。これは、あなたの神、主が賜わる地で、あなたが長く生きるためである。
・あなたは殺してはならない。
・あなたは姦淫してはならない。
・あなたは盗んではならない。
・あなたは隣人について、偽証してはならない。
・あなたは隣人の家をむさぼってはならない。隣人の妻、しもべ、はしため、牛、ろば、またすべて隣人のものをむさぼってはならない

他にも、聖書のあらゆることは、「神を愛し、自分を愛するように隣り人を愛する」時に、全うされるのです。

3.これらふたつのいましめに、律法全体と預言者とがかかっている。
聖書に書いてあることを実践しようとする。つまり、戒めを守り、教えに従い、約束のために行動し、勧めを受けていく・・・言い換えれば御言葉に生きようとすることは、全てこのふたつの戒めに集約できるのです。
全ての土台なのです。

賛美し、礼拝するのは、神を愛しているから。
聖書を読むのは・・・
祈るのは・・・
交わるのは・・・
助けるのは・・・
話しを聞くのは・・・
福音を伝えるのは・・・
仕えるのは・・・
教えるのは・・・
  全て、神を愛し、自分を愛するように隣り人を愛するから、することであり、できること。

救われる為には何をすればいいのですか?>>悔改めて、イエスの名によるバプテスマを受ける。
救われた後は何をすればいいのですか?>>>神を愛し、自分を愛するように隣り人を愛する。

難しい神学や教えを理解しないとクリスチャン生活はできないのでしょうか?
学びたい人は学べばいいと思います。否定はしませんが、多くの人は、もっとシンプルな生活をしたいと願っていると思います。
神もまたいわれています。
「神を愛し、自分を愛するように隣り人を愛しなさい」と。
そうする時に、御言葉に生きることが御言葉を知らない人にも成就していくのです。

そして、神を愛し、自分を愛するように隣り人を愛するのは、
まず、神が私たちを愛し、今も愛し続けて下さっているからなのです。ここに動機があり、根拠があります。

オアシスチャーチの基本理念は、このメッセージです。

「神を愛し、自分を愛するように隣り人を愛する人、教会を目指す」

この朝、わたしたちを愛してやまないイエス様が一番大切な戒めとして言われている
「神を愛し、自分を愛するように隣り人を愛する」ことに一歩踏み出せる人は幸いです。
祈りましょう。

2007/08/17

恵みいっぱいのサマーカンファレンス

8月14日、15日の二日間、サマーカンファレンスを持ちました。

実はこのカンファレンスに向けて、いろんなことが起こりました。
当初会場として予定して、宿泊もする予定でいたところが、3週間前になって、
「楽器は原則使用禁止・・」ということがわかり、全てキャンセルし、
いつも礼拝を持っている会場を急遽確保しました。
宿泊はなくなり、食事の手配も最初からやり直しということになりました。
講師の先生にも、事情を話し、変更になった旨を了解をいただき、来ていただくことが出来ました。
(本当にありがとうございました)

いろんな妨げやトラブルが起こっても、守られるように、7月初旬からみんなで祈り始めていたので、今回のトラブルに対処したあとは、カンファレンスの中にある神さまの恵みの大きさに期待が大きくなりました。

3回の聖会、子供たちの為の集会を1回、持ちました。
本当に素晴らしい恵みの中で、「今」私たちに必要な御言葉が語られ、導きが与えられ、慰められ、励まされ、戒められ、燃やされました。
祈りつつ臨んだこのカンファレンスでしたが、私の想像をはるかに超えた恵みと祝福を体験させていただきました。
このカンファレンスから、新しいスタートとなることを確信しています。

「神のなされることは皆その時にかなって美しい。神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。それでもなお、人は神のなされるわざを初めから終りまで見きわめることはできない。」

栄光がただ神さまにあるように。。。