2009/02/22

09.2.22「神の祝福」

ルカ9:10-17
:10 さて、使徒たちは帰って来て、自分たちのして来たことを報告した。それからイエスは彼らを連れてベツサイダという町へひそかに退かれた。
:11ところが、多くの群衆がこれを知って、ついて来た。それで、イエスは喜んで彼らを迎え、神の国のことを話し、また、いやしの必要な人たちをおいやしになった。
:12そのうち、日も暮れ始めたので、十二人はみもとに来て、「この群衆を解散させてください。そして回りの村や部落にやって、宿をとらせ、何か食べることができるようにさせてください。私たちは、こんな人里離れた所にいるのですから。」と言った。
:13しかしイエスは、彼らに言われた。「あなたがたで、何か食べる物を上げなさい。」彼らは言った。「私たちには五つのパンと二匹の魚のほか何もありません。私たちが出かけて行って、この民全体のために食物を買うのでしょうか。」
:14それは、男だけでおよそ五千人もいたからである。しかしイエスは、弟子たちに言われた。「人々を、五十人ぐらいずつ組にしてすわらせなさい。」
:15弟子たちは、そのようにして、全部をすわらせた。
:16するとイエスは、五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げて、それらを祝福して裂き、群衆に配るように弟子たちに与えられた。
:17人々はみな、食べて満腹した。そして、余ったパン切れを取り集めると、十二かごあった。


序)神の祝福は全てを満たす
男だけで5000人。
女子供を入れたらいったい何人の人がいたのでしょう。
10000人以上だったかも知れません。
その全ての人が満腹になったのです。
5つのパンだけで考えてみると面白いですよ。
5枚切の食パン一斤で10000人が満腹したようなものですね。
一人が食パン1枚分食べたとしたら、
一斤150円、一枚30円だとしたら、
10000人で30万円分ですね。
150円のパンが30万円分の食費になったというようなものですね。
2000倍です。すごい祝福です。
神様の祝福というのは何と素晴らしいのでしょう。
この祝福をもたらしたのは何によってでしょうか。
イエス様が祝福したパンと魚を弟子達に配らせた時にこの祝福は起こりました。
今日はこの出来事を通して、神様から教えられたいと思います。


1.5つのパンと2匹の魚

この5つのパンと2匹の魚は、だれのものだったのでしょう。
ここでははっきりとは書かれていませんが、ここだけみると
「私たちには5つのパンと2匹の魚のほか何もありません」
と弟子達が言っていますので、
おそらく弟子達が自分達で持っていたものだったのかも知れません。
だとすると、
12人の弟子とイエス様とで食べるつもりだったものをここでささげたことになりますね。
こんなに多くの人を食べさせるのに、これだけのものでは何の役に立つのかと思うでしょう。
でも、この5つのパンと2匹の魚がなければ、群衆は満腹にはならなかったのです。
持っているものをイエス様に委ねる、ささげる
というのは何と素晴らしいことにつながるのでしょうか。

私たちが持っているものは、小さいかも知れません。
こんなのささげても何の役に立つだろうか、と思うかもしれない。
ここでも、5つのパンと2匹の魚が男だけで5000人もの群衆の前で何の役に立つでしょうか?
だれもそれで全ての人が満腹になるとは思いません。
しかし、神の祝福によってそれは起こりました。
私たちが持っているものを私たちの基準で判断する必要はありません。
それはイエス様にささげられるとイエス様の祝福によって私たちの想像をはるかに超えたものになるのです。
勿論、ささげるものというのは、何も「物」だけではありません。
こういうメッセージを聞くと、あんまりお金ないけど、ささげなきゃいけないかな?とか、
持ってるもの少ないけど、それでも献品でもしないとだめかな?とか
思う人が時々おられるようですが、そういう意味ではありません。
勿論ささげたら神様は祝福して用いて下さいますが。。。

あなたのもっているものは、
実際に所有しているものである場合も確かにあるかもしれませんが、
あなた自身である場合もあるでしょう。

次のポイントはそのようなことです。


2.イエス様に従った弟子達

弟子達はイエス様が言われる通りに従いました。
50人ずつくらいの組に分けて座らせたり、
イエス様が祝福された食べ物を群衆に配ったりしました。
弟子達は自分達が持っていた食べ物をささげたばかりか、
自分自身がイエス様の言われる通りに従って行動した。
つまり、自分自身をささげたといえると思います。

実際、男だけで5000人を50組づつに分かて座らせるだけでも大変な作業だったと思います。
先日、学習発表会がありました。
体育館に全校生徒約1000人をクラス(35人位)ごとに座らせるのは大変だと思いますが、
5000人を50人づつというと少なくとも100クラスです。
女子供を入れるとその倍だったかも知れません。
そう思うと、大変な働きだったのではないでしょうか。
そして、その後、イエス様が祝福された食物を分けていったのですが、
これもまた大変だったでしょうね。
でも、弟子達はイエス様に従い、その通りに動きました。
その時に、そこにいた全ての人が満腹するという奇跡が起こったのです。

私たちは、イエス様に委ねてイエス様に従って行動するなら、
その素晴らしい奇跡のただなかにいて目の当たりにすることができるのではないでしょうか。

群衆のほとんどは、パンが5つしかないとかは知らなかったのではないかと思います。
こんなにたくさんの人がいる中で弟子達とイエス様との会話が全ての人に聞こえたとは思えませんしね。
ですから、パンが分けられて配れられてきた時には驚いたかも知れませんが、
何が起こったのかを知る人は少なかったでしょう。
でも弟子達はそれを目の当たりにしたのです。
主を崇めたに違いないと思います。

私たちもまた、弟子達のように、イエス様のそばでイエス様に従うものとなりたいです。
そして、主の祝福の証し人となりたいと願います。


結)余ったパンを集めると12かごあった。
自分達が持っていた食物も全てささげ、
自分達自身もイエス様にささげ奉仕し、
大変な思いをした弟子達に残ったのは、
その奇跡を目の当たりにするというあまりお腹は満たされない祝福だけだったのでしょうか?

そうではありませんでした。
12かごのパンが残ったのです。弟子達もまた満たされたのです。
この12かごまでに既に弟子達も食べて満腹していたのかも知れませんが、
そうであったなら、なおのことさらに12かごが残ったのですから、素晴らしい祝福です。
イエス様の祝福は、わたしたちの想像をはるかに超え、
全ての人を満たすだけでなく、そこで仕えた人々も全て満たされるという全く祝福に満ちたものでした。

実際、イエス様の十字架の救いは全ての人を救います。
その愛は全ての人を満たします。
先着何名様!とかいって何人かで終わってしまうようなものではありません。
全ての人に開かれているこの恵みを祝福をあなたは受け止めたいと願われますか。

このイエス様の祝福を恵みを受け止める人は幸いです。
また、イエス様と共にその祝福の全てを目の当たりにする人は幸いです。

イエス様を見上げつつ、イエス様を信頼する歩みをさらに進みたいですね。
祈りましょう。

2009/02/08

09.2.8「イエス様の前に」

ヨハネ8:1-11
:1 イエスはオリーブ山に行かれた。
:2 そして、朝早く、イエスはもう一度宮にはいられた。民衆はみな、みもとに寄って来た。イエスはすわって、彼らに教え始められた。
:3 すると、律法学者とパリサイ人が、姦淫の場で捕えられたひとりの女を連れて来て、真中に置いてから、
:4 イエスに言った。「先生。この女は姦淫の現場でつかまえられたのです。
:5 モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするように命じています。ところで、あなたは何と言われますか。」
:6 彼らはイエスをためしてこう言ったのである。それは、イエスを告発する理由を得るためであった。
しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に書いておられた。
:7 けれども、彼らが問い続けてやめなかったので、イエスは身を起こして言われた。
「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」
:8 そしてイエスは、もう一度身をかがめて、地面に書かれた。
:9 彼らはそれを聞くと、年長者たちから始めて、ひとりひとり出て行き、イエスがひとり残された。女はそのままそこにいた。
:10 イエスは身を起こして、その女に言われた。
「婦人よ。あの人たちは今どこにいますか。あなたを罪に定める者はなかったのですか。」
:11 彼女は言った。「だれもいません。」そこで、イエスは言われた。
「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」

序)映画パッションのワンシーンにこの箇所がありました。

地面に指で何かを書いておられるイエス様
姦淫の罪を犯したという女
そしてその女を連れてきた人達
人々の手から落ちていく石
そして去っていく人々・・・

今日はそんな聖書の箇所から、そのそれぞれの立場から教えられていきましょう。


1.裁こうとする人

律法学者とパリサイ人は、姦淫の場で捕えられた女を連れてきて、イエス様を試すために裁こうとした。

私たちは、つい人を裁いてしまったり、裁こうとしてしまったりすることはありませんか。

学校の授業参観なんかで、学校に行く事がありますが、
その際、学校には駐車スペースがないので、自転車等で来るようにと事前に言われています。
ところが、当日は、車がどんどん入ってくるのです。
近くの市役所やお店の駐車場に停めてくる人もいますが、学校に乗ってきて、運動場に停める人がかなりいるのです。
通知がされているにも関わらず、このような状態です。
うちは、近くの知り合いのところに車を停めさせてもらうか、自転車で行くようにしていますが、このような光景を見るとなんとも気分が悪くなるものです。

そんな時、ついつい、腹が立って、
「親の言う事を聞けとか、先生の言う事を聞けとか子供に言う前に、自分が学校から言われてることをちゃんと聞けよ。自分が言う事きかへんのに、子供が言う事きくわけないやろ。」とか、
心の中で、裁いている自分がいるのです。

でも、そんな時はいつも、何とも言えない後悔にも似た気持ちになって、
「あー、神様、これらの人を哀れんで下さい。神様の救いに預かることができますように。って祈るべきなんですよね」って思うのです。

いかに自分が人を裁こうとしやすいものかを自覚しています。


ここでも、多くの人がいましたが、イエス様に
「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」 と言われて、
年長者からはじめて、全員が裁くことができずに去っていきました。

私も先程のような時、他にもいろんな時にその人を裁こうとしている自分を見つけますが、
その時はいつも、
「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」
を思い出し、自分も罪人でイエス様によって許されてるから今があるということを思い出して、悔改めるのです。
まあ、しょっちゅうです^^;


私たちは裁こうとする人になりたいですか?

できれば、なりたくないですよね。
「人のふりみて、我がふりなおせ」とはよくいったものです。
自分の罪は見えずに、人のアラや悪いところばかりに目が行ってしまいやすい私たちをイエス様はそうはならないように、このような出来事を聖書に残して下さっているのだと信じます。


マタイ7には、
「さばいてはいけません。さばかれないためです。
あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。
また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。
兄弟に向かって、『あなたの目のちりを取らせてください。』などとどうして言うのですか。見なさい、自分の目には梁があるではありませんか。
偽善者よ。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます。」

私たちは裁くものにはならず、そのようなことを思った時は、自分を見直す時として用いるならば、主は更に成長させて下さるでしょう。


2.罪を犯した人

姦淫の場で捕えられた女は、確かに罪を犯した人でした。
でも、最後は許されました。

私たちは罪を犯していないのでしょうか。
いえ、先程も話しましたが、同じ罪を犯してはいないとしても、罪を犯していない人ではないはずです。
義人は一人もいません。
私たちは皆、神様の前には罪人の一人に過ぎません。
罪人はどうすべきでしょうか。

ここで、この女は無理矢理ではありましたが、イエス様の前に出てくることになりました。
ここにヒントがありますね。

罪人は、イエス様の前に出るのです。

私たちもイエス様の前に出て、罪を告白し、悔改めた時にイエス様に赦されました。
罪人は、イエス様の前に出るのです。

私たちは既に罪赦された罪人ですが、それでも、罪を犯してしまうこともあるかも知れません。
そんな時はどうするのでしょう。
イエス様の前に出るのです。そして悔改めるのです。

女も自らではなかったですが、結果的にイエス様の前に出ました。

もし、この女が捕えられずに罪を犯してもそのままでいたなら、また罪を犯してしまったかも知れません。
あるいは、罪を犯し続けたかも知れません。

でも、イエス様の前に出ることによって、その罪の赦しを得ることができました。
そして、きっとその後は罪を犯さないような人生を歩む努力をしたと信じます。


私たちにとっては罪を犯していない時の方がイエス様の前に出やすいですよね。
でも、罪を犯してしまった時、イエス様の前に出ることを困難に感じることもあるでしょう。
だからこそ、そんなときであるからこそ、イエス様の前に出なくてはならないのです。
罪を赦してもらうために。。。
勿論、その為には、イエス様に罪を告白し言い表し、悔改めなければなりません。
でも、そうするなら、

1ヨハネ 1:9
もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。

罪を犯してしまった時、そうでない時もですが、イエス様の前に出るものになりましょう。



3.罪を裁かれない方

イエス様は、裁くことができない方ではありませんでした。
でも、裁かれなかった。
「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」

女はきっとイエス様の愛に触れたことでしょう。
もし、イエス様の前に出ることがなかったら、罪を犯し続けていたかも知れない女でしたが、
無理矢理ではあったけれども、イエス様の前にでることによって、
罪が赦され、イエス様の愛に触れ、この後の人生で同じ罪を二度と犯さないようになったと信じます。

罪を裁かれない方、イエス様は、罪を赦すことができるお方です。
なぜなら、イエス様は私たちの罪の為に、その命を代償としてささげて、
罪の代価を支払って下さった方だからです。

私たちがイエス様の前に出て、悔改める時、許されるのはなぜでしょうか。
それは、イエス様が命を捨てて下さったから、
イエス様が私たちを愛して、私たちの為に、罪を負って下さり、その罰を受けて下さったから、
そのことを知る時に、同じ罪を二度と犯さないようにその人生を歩もうとするのではないでしょうか。

でも、確かに人間には弱さがあります。
それでもまた同じ罪を犯すこともあるかもしれない。
それはまだまだ自分の力で歩もうとしているからです。

そんな時こそ、更にイエス様の前に出て、イエス様により頼んで、
イエス様を自分の力として、歩むように導いておられる時だと信じます。



結)イエス様の前に出て・・
罪を犯した女は、無理矢理ではあったが、イエス様の前に出た。
そのことによって、結果、罪の赦しを受ける事ができました。
また、その女を裁くために連れてきた人々も、そのことを通して、イエス様に前に出てきました。
その結果、自らの罪を自覚し、そこから去っていった。
それらの人々は、イエス様の前に出た事によって罪を自覚したのです。
イエス様の前に出るときに、イエス様に出会うのです。イエス様を経験するチャンスなのです。

私たちは、人を裁くことができるようなものではありません。罪人です。
でも、イエス様の前に出る時に、その罪は赦され、イエス様の愛に触れ、
イエス様と共に、歩む人生を送ることができるのです。

イエス様を第一とし、イエス様を今日も見上げて、イエス様の前に今日も出て、
歩み続ける人は幸いです。

2009/02/01

09.2.1「イエス様のまなざし」

ルカ 22:54-62
:54 彼らはイエスを捕え、引いて行って、大祭司の家に連れて来た。ペテロは、遠く離れてついて行った。
:55 彼らは中庭の真中に火をたいて、みなすわり込んだので、ペテロも中に混じって腰をおろした。
:56 すると、女中が、火あかりの中にペテロのすわっているのを見つけ、まじまじと見て言った。「この人も、イエスといっしょにいました。」
:57 ところが、ペテロはそれを打ち消して、「いいえ、私はあの人を知りません。」と言った。
:58 しばらくして、ほかの男が彼を見て、「あなたも、彼らの仲間だ。」と言った。しかし、ペテロは、「いや、違います。」と言った。
:59 それから一時間ほどたつと、また別の男が、「確かにこの人も彼といっしょだった。この人もガリラヤ人だから。」と言い張った。
:60 しかしペテロは、「あなたの言うことは私にはわかりません。」と言った。それといっしょに、彼がまだ言い終えないうちに、鶏が鳴いた。
:61 主が振り向いてペテロを見つめられた。ペテロは、「きょう、鶏が鳴くまでに、あなたは、三度わたしを知らないと言う。」と言われた主のおことばを思い出した。
:62 彼は、外に出て、激しく泣いた。

序)泣くという表現

みなさんは、激しく泣いたことってありますか?

私は、クリスチャンになってから、感情が回復したような経験があります。
お笑い番組を見て、面白いと思っても、声を出して笑うことはほとんどありませんでした。
感動するような映画やドラマを見ても、ジーンと来たとしても、涙が出るようなこともありませんでした。
ところが、クリスチャンになってから、お笑い番組を見ていて、面白いところで、つい声を出して笑っていたり、吹き出したりするようになりましたし、感動した時に、涙を流すようになったのです。
自分の中の感情が回復したのでしょうか。
素直に反応するようになったような感じでした。
そして、これは年を追う毎に顕著になっているようです。。。年のせい?^^;

今朝、この、ペテロが激しく泣いた箇所を共に見ていきたいと思います。

1.激しく泣いた。

ペテロは激しく泣きました。
激しく泣くというと、肉親を亡くしたり、友人を亡くしたり、あるいは失恋して恋人を失ったり、等、激しく泣くというとそれくらいのことを想像したりしますよね。
確かにそういう時もあるでしょう。

サムエルの母ハンナは、まだ子供がない時に、神様の前に激しく泣き、祈りました。
それは、ある種のうめきのような、叫びのようなものだったのでしょう。
また、出エジプトの時、過越の祭りの原点でもある、死の使いがエジプトを巡り、家の初子が次々と死んでいった時に、大きな悲しみと共に泣き叫ぶ声が聞こえました。
また、生まれてすぐのイエス様を殺そうとヘロデがベツレヘムとその近辺の男の子をみな殺した時にも、泣き、嘆き叫ぶ声が聞こえました。
子供を亡くすという時の激しさは本当に激しいものがあるのでしょうね。

みなさんはいかがですか。激しく泣いた経験はありますか。
そこまでの経験はなくとも、心で泣くような経験はあるんじゃないでしょうか。

イエス様の前に、罪を犯してしまって、申し訳ない・・・と泣く。
イエス様に応えられなくて、申し訳なくて・・・泣く。

「牢であろうと死であろうと、イエス様にご一緒します」と言ったペテロはここで、イエス様が言われたように、鶏が鳴く前に3度、イエス様を知らないと言いました。
そのことに気付いて、我に返ったペテロは、外に出て激しく泣いたのです。
自分が情けないと思ったのでしょうか。
イエス様に申し訳ないと思ったのでしょうか。
いろんな思いが交錯したから、激しく泣いたのでしょう。

余談ですが、激しく泣くときは、理由は単純ではないと思います。
自分の無力さ、亡くした悲しみ、同情、悔しさ、理不尽な思い・・・・・いろんな思いが交錯するから、激しく泣くのではないかと思うのです。

とにかく、ペテロは激しく泣きました。
でも、これは後のペテロにとっては大きな貴重な経験となったと思います。

先程、みなさんは激しく泣いたことはありますか、とお聞きしました。
激しくでなくても、泣いたことはあるんじゃないでしょうか。
その経験はあなたにとってどのようなものでしょうか。
泣くほどの出来事によって、私たちが経験するのは、とても貴重なことが多いと思います。
泣いたことによって、すっきりして立ち直ったという経験もあるかもしれません。
泣いたことによって、人の気持ちがわかるようになったかもしれません。
泣いたことによって、二度の同じ過ちを犯さないようになったかもしれません。
いろんな経験をし、いろんなことを学び、体得してきていることがあると思うのです。

ペテロはここで激しく泣きました。
しかし、この経験から、後にイエス様が祈って下さっていたように、信仰をなくすことなく、立ち直ったときに、兄弟たちを力づけることができたのだと思うのです。二度と主を拒むことをしなかった。
この経験はペテロしかできなかったのです。
なぜなら、他の弟子達は、逃げてしまって、こっそりでもついていったのはペテロだけだったからです。
ペテロの経験は、貴重なものでした。

もしあなたが、今でも、過去にでも泣いた経験があるなら、それは貴重な経験になっているのだと思います。
ましてや、イエス様に心を向けているからこそ、泣いていたなら、泣いているなら、それは信仰の上で、とても大きな貴重な経験となるでしょう。今は泣くほどに苦しい思いをしていたとしてもです。

さて、この時のイエス様は・・・

2.見つめられた。

イエス様は、ペテロが3度イエス様を知らないと言った時、振り向いてペテロを見つめられた、のです。

イエス様が見つめられた「目」はどんな視線だったのでしょうか。
「ほらみろ、ペテロ。さっき言った通りだろ?だからお前はだめなんだよ。いい加減なこと言って、結局裏切っちゃうんだから・・」とか
「ペテロ、やっぱり裏切ったな。結局誰もついてこないじゃないか。この恨みは・・・」とかでしょうか?

そうじゃないはずです。
イエス様はペテロを、睨まれたのでもなく、威嚇されたのでもない。。。
「見つめられた」のです。

ぼくには、この表現から、イエス様は、ペテロに対して、愛に満ちたまなざしで見つめられたのだと感じました。だから、ペテロは激しく泣いたんだし、その後、イエス様の為に命を惜しまず、立ち上がれたと思うのです。

「ペテロ、あなたはそういう弱さを持っていることを私は知っているよ。だから、前に言ったように、私を知らないと言ってしまっただろう。でも、大丈夫、その時に言ったように、私はあなたの信仰がなくならないように祈ったから。自分の力に頼って、信仰生活を歩むんじゃなくて、神に祈り、神に信頼し、神の霊によって信仰生活を送るんだよ。自分の弱さも自覚した上で、更に祈って歩みなさい。私はあなたを愛している。わかったかい?」
まるで、そんな声が聞こえてくるようでした。私には・・・。

私たちがイエス様の前に罪を犯してしまって、悔改めて泣いた時、
イエス様に応えられなくて、申し訳なくて泣いた時、
イエス様は責められず、愛のまなざしで私たちを見つめていて下さる。
そして、その愛に心打たれて、泣き、そして、立ち直るのです。

結)イエス様のまなざしがいつも注がれている。
私たちの信仰生活には、イエス様の愛のあたたかいまなざしがいつも注がれているのです。
私たちが失敗したり、罪を犯してしまったり、いろんな経験をする時、
イエス様は愛のまなざしで私たちを見つめて下さり、いつも見守って下さるのです。

私たちは、罪を犯してもいいのではありません。
イエス様のまなざしが向けられていることを体験し、そこから立ち直るものになりたい。
自分の力ではなくて、神の力によって。