2008/04/27

08.4.27「羊と山羊 -愛と無関心-」

マタイ 25:31-:46
:31 人の子が、その栄光を帯びて、すべての御使いたちを伴って来るとき、人の子はその栄光の位に着きます。
:32 そして、すべての国々の民が、その御前に集められます。彼は、羊飼いが羊と山羊とを分けるように、彼らをより分け、
:33 羊を自分の右に、山羊を左に置きます。
:34 そうして、王は、その右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。
:35 あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、
:36 わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。』
:37 すると、その正しい人たちは、答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹なのを見て、食べる物を差し上げ、渇いておられるのを見て、飲ませてあげましたか。
:38 いつ、あなたが旅をしておられるときに、泊まらせてあげ、裸なのを見て、着る物を差し上げましたか。
:39 また、いつ、私たちは、あなたのご病気やあなたが牢におられるのを見て、おたずねしましたか。』
:40 すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』
:41 それから、王はまた、その左にいる者たちに言います。『のろわれた者ども。わたしから離れて、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火にはいれ。
:42 おまえたちは、わたしが空腹であったとき、食べる物をくれず、渇いていたときにも飲ませず、
:43 わたしが旅人であったときにも泊まらせず、裸であったときにも着る物をくれず、病気のときや牢にいたときにもたずねてくれなかった。』
:44 そのとき、彼らも答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹であり、渇き、旅をし、裸であり、病気をし、牢におられるのを見て、お世話をしなかったのでしょうか。』
:45 すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、おまえたちに告げます。おまえたちが、この最も小さい者たちのひとりにしなかったのは、わたしにしなかったのです。』
:46 こうして、この人たちは永遠の刑罰にはいり、正しい人たちは永遠のいのちにはいるのです。」


序)まずは羊と山羊の違いを見てみましょう。
羊も山羊も偶蹄目・反すう亜目・ウシ科です。そういう意味では同類と言えるかも知れません。ということはもしかすると、この箇所でいう羊と山羊は、クリスチャンであっても、天国と地獄の違いがあるというふうにも解釈ですますね。

さて、毛は違います。羊は羊特有の毛は細く柔らかく、ひきつれてからみやすい。もともと羊には羊毛と獣毛が共生していたが、品種改良によって獣毛が減らされた。山羊は粗くてかたい真っ直ぐな獣毛。
また象徴としては、
 羊: 無垢・単純・誠実・愛情,キリスト・犠牲・清浄,群居性・指導者への追従
山羊: 敏捷・優雅・自由・社交性,サタン・魔女・罪人,気まぐれ・放浪癖
と明らかに違いますね。まるで天と地ほどの差です。

私達も山羊にもなりうると思って読んでみると、神の前に謙遜になれるのではないかと思うとそのように読んで教えられていきたいとも思います。

さて、早速見てみましょう。

1.羊・・・愛する心を持っていた。:34-40

羊は、このようにいわれました。
:34 そうして、王は、その右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。
:35 あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、
:36 わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。』
:37 すると、その正しい人たちは、答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹なのを見て、食べる物を差し上げ、渇いておられるのを見て、飲ませてあげましたか。
:38 いつ、あなたが旅をしておられるときに、泊まらせてあげ、裸なのを見て、着る物を差し上げましたか。
:39 また、いつ、私たちは、あなたのご病気やあなたが牢におられるのを見て、おたずねしましたか。』
:40 すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』

羊は「私はそんなことをした覚えはありませんよ。」
でも、「小さい者のひとりにしたのは私にしたのです。」といわれました。

よく、「これはあなたのために言ってるのよ。」という言葉を聞くことがありますが、果たしてホントにそうなのでしょうか?
以外と、自分が相手を思うように動かしたいがために言っていることが多いかも知れません。
本当にその人のためになってない場合もあるかも知れません。
しかし、私はまだまだだ・・・などと思っている人の方が意外と人のためになっていたりすることもあるようですね。

本当に相手のためになることは、相手が必要に思っていることに手を差し伸べてあげたりすることではないでしょうか。
実際には、恥ずかしかったり勇気がなくて、行動はできないこともあるかも知れません。
でも、「あ、何か困っておられるのかな?」「助けを必要をしているのかな?」と思うことはできると思います。
関心を示すということでしょうか。
そう思うことすら、関心を示すことすら、なくしてしまってはいけないと思います。

友人が入院したと聞けば、「大丈夫かな?」とお見舞いに行く。誰もその病気を治しに行く人はいません。
なんとかしてあげたい、よし、手術してあげようといってナイフを持っていたら捕まります。
心配して訪問するだけでいいのです。

神様のためにと思っていたことが実はそうなっていないこともあるんですね。
サマリヤ人の話しから・・・神様を礼拝しにいくのだから、困っている人をほっといて行くよりも困っている人を助けることを優先したサマリヤ人と同じようにすることが隣り人を愛することになるとイエス様は言われました。
自分を愛するように隣り人を愛することが神様を愛することにもなっているんですね。

愛する心、関心をもつ心は失わないように、聖霊によって守っていただきましょう。


2.山羊・・・無関心だった。:41-46

山羊は、このように言われました。
:41 それから、王はまた、その左にいる者たちに言います。『のろわれた者ども。わたしから離れて、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火にはいれ。
:42 おまえたちは、わたしが空腹であったとき、食べる物をくれず、渇いていたときにも飲ませず、
:43 わたしが旅人であったときにも泊まらせず、裸であったときにも着る物をくれず、病気のときや牢にいたときにもたずねてくれなかった。』
:44 そのとき、彼らも答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹であり、渇き、旅をし、裸であり、病気をし、牢におられるのを見て、お世話をしなかったのでしょうか。』
:45 すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、おまえたちに告げます。おまえたちが、この最も小さい者たちのひとりにしなかったのは、わたしにしなかったのです。』
:46 こうして、この人たちは永遠の刑罰にはいり、正しい人たちは永遠のいのちにはいるのです。」


これは私の解釈ですが、山羊はこう言いたかったのだと思います。
「いつあなたが空腹だったり、旅人だったり、裸であったり、病気であったり、獄におられたりしましたか?そんなことなかったでしょう」と。
そこで、主は「小さい者のひとりにしなかったのは、私にしなかったのだ」と言われました。

前回のタラントの話しで1タラントの人が何も減らさなかったのに、叱責されましたね。
今回も同じです。別にこの人達は、小さな者に暴力を振るったり、盗んだり、殺したりしたわけではなかったと思います。
しかし、永遠の刑罰を受けることになった。
神様の前では、何もしないことは罪のようです。


さて、愛の対極にあるのはなんでしょうか?憎しみ?
でも、これらの聖書を見ていくと、愛の対極にあるのは、「無関心」であるようです。
サマリヤ人のたとえ・・・パリサイ人や律法学者は強盗に襲われた人に更に追い討ちをかけたわけじゃない。悪いことは何もしてない。そう、何もしないことを主は悲しまれるのです。
それは無関心です。
ですから、羊の話しの時にお話したように、関心を示す心を守りましょうと言ったのです。
無関心の対極にあるのは、愛だからです。
愛をなくしてはいけません。


決)愛の心は関心を持つ心
世界各地で地震や津波や災害があったり、戦争でたくさんの人が命を失うことを聞きます。家族を家を失った人もいます。
私達には関係ないのでしょうか。行ってボランティアすることはできないけど、募金ならできる。でもそんなこと言い出したら、あっちにもこっちにも募金しなくちゃいけなくなってしまいます。それができるならそれも素晴らしいことですが、できないこともあります。
病気で入院している友人の病気を治すことはできなくても、見舞うことはできる。もし、見舞うこともできなくても、私達は祈ることができます。
私が車で見過ごしてしまった人も、その時なにもできなかったけど、運転しながらでもいいので、「あの人達がもし道に迷っているなら、無事目的地に到着しますように、主よ助けてあげて下さい」と祈ることはできるんですね。

私達は、困っている人がいたら、「関心」を持ちましょう。
それが愛のまず第一歩です。そしてできることをしてあげられたら、それはもうプラス以上の素晴らしい愛の実践です。
そのような人は、私達のまわりにたくさんいるんじゃないでしょうか。

2008/04/20

08.4.20「忠実であること」

マタイ25:14-30
:14 天の御国は、しもべたちを呼んで、自分の財産を預け、旅に出て行く人のようです。
:15 彼は、おのおのその能力に応じて、ひとりには五タラント、ひとりには二タラント、もうひとりには一タラントを渡し、それから旅に出かけた。
:16 五タラント預かった者は、すぐに行って、それで商売をして、さらに五タラントもうけた。
:17 同様に、二タラント預かった者も、さらに二タラントもうけた。
:18 ところが、一タラント預かった者は、出て行くと、地を掘って、その主人の金を隠した。
:19 さて、よほどたってから、しもべたちの主人が帰って来て、彼らと清算をした。
:20 すると、五タラント預かった者が来て、もう五タラント差し出して言った。『ご主人さま。私に五タラント預けてくださいましたが、ご覧ください。私はさらに五タラントもうけました。』
:21 その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』
:22 二タラントの者も来て言った。『ご主人さま。私は二タラント預かりましたが、ご覧ください。さらに二タラントもうけました。』
:23 その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』
:24 ところが、一タラント預かっていた者も来て、言った。『ご主人さま。あなたは、蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方だとわかっていました。
:25 私はこわくなり、出て行って、あなたの一タラントを地の中に隠しておきました。さあどうぞ、これがあなたの物です。』
:26 ところが、主人は彼に答えて言った。『悪いなまけ者のしもべだ。私が蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めることを知っていたというのか。
:27 だったら、おまえはその私の金を、銀行に預けておくべきだった。そうすれば私は帰って来たときに、利息がついて返してもらえたのだ。
:28 だから、そのタラントを彼から取り上げて、それを十タラント持っている者にやりなさい。』
:29 だれでも持っている者は、与えられて豊かになり、持たない者は、持っているものまでも取り上げられるのです。
:30 役に立たぬしもべは、外の暗やみに追い出しなさい。そこで泣いて歯ぎしりするのです。


序)
この箇所はそれぞれ5、2、1タラントを預かった者の話しですが、まずはこのタラントという通貨の価値を見てみましょう。
1タラントは6000デナリです。1デナリは当時の一日分の労働賃金であったようです。
例えば日当1万円だとすると、1タラントは6000万円ということですから、5タラント預かったものは、3億円ということになりますね。
じゃあ1デナリが1日の労賃なら、一年で約300日働いたとすれば、年収は300デナリです。
ということは1タラント(6000デナリ)は20年分の年収ということになりますね。
年収300万円なら6000万円
年収400万円なら8000万円
年収500万円なら1億円が1タラントということですから、
5タラントというのは、3億円から5億円ということになりますね。
2タラントは、1億2000万円から2億円。
どちらにせよすごい金額です。
こんな大金を預かった3人はそれぞれの行動に出ました。
なんと5タラント預かった人と2タラント預かった人はこの大金を使って商売をして倍にしたのです。
なんと大胆な人でしょう。商売がうまくいったからよかったようなものを失敗したときのことを考えると・・・。
ところが1タラントを渡されたものだけは、地を掘りこれを埋めたようです。この方が少なくとも減らすことをしないのでいいようにも見えます。
さて、その結果とその時の主人の言葉から、わたしたちは神様が私達に伝えたいと願っておられるメッセージを見ていきたいと思います。

1.預かった者の姿勢、態度を見られた。

『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』
この言葉は、5タラントで5タラント儲けた人も、2タラントで2タラント儲けた人にも全く同じ言葉をかけられています。
主人は儲けた額に対して評価されたのではなかったようですね。
「忠実」という言葉がこの短い言葉の中に2回も出てきます。主人はこのしもべの預かったものに対する忠実さを見られたのでしょう。
仮に商売に失敗して減らしてしまった時に、主人はどうしたでしょうか。
これは私の推測ですが、「そうか、失敗してしまったか。しかしよくがんばった。忠実に取組んだことを私は知っている。ではもう一度、5タラントを預けるから、やってみなさい。」といわれるような気がします。


神様は私達にいろいろなタラントを与えて下さっています。これは、自分のものではありません。神様から与えられているものです。ある人は1タラント、ある人は2タラント、ある人は5タラントかも知れません。しかし、その与えられているタラントに対して忠実な態度・姿勢で用いるならば、それは10タラントにも20タラントにもなる可能性があるのです。
与えられているものだということを忘れてはなりません。
まるで自分のものだと勘違いして、大事にもっているだけで使わないのでは、神様はその態度や姿勢を悲しまれるのではないかと思うのです。
私達が与えられているタラントを神様から預かっているものだと自覚できるならば、これを使って神様をお喜ばせしたいと願うのではないでしょうか。与えられているタラントに忠実であることはそれを用いることでもあります。
その時に、その実を結ぶことができるかも知れません。そして更に大きなタラントを神様から預かることになるでしょう。

さて、ここで1タラントを預かったが地に隠しておいた人に言われた主人の言葉を見てみましょう。
『悪いなまけ者のしもべだ。私が蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めることを知っていたというのか。
:27 だったら、おまえはその私の金を、銀行に預けておくべきだった。そうすれば私は帰って来たときに、利息がついて返してもらえたのだ。
:28 だから、そのタラントを彼から取り上げて、それを十タラント持っている者にやりなさい。』
:29 だれでも持っている者は、与えられて豊かになり、持たない者は、持っているものまでも取り上げられるのです。
:30 役に立たぬしもべは、外の暗やみに追い出しなさい。そこで泣いて歯ぎしりするのです。

ここからも神様のメッセージを見ましょう。
神様は私達に多い少ないの差はあっても、タラントを与えて預けて下さっています。そのタラントを用いないならば、その人に持たしても意味がなくなるのです。ですから、多くのタラントに対して忠実で管理できる人にもう1タラント任せても大丈夫だから・・・と委ねられるのです。

イエス様はその生涯を見る時、忠実でした。
両親や家族に仕え、自分に与えられていることに対して忠実でした。
罪深い私達の中で、弟子に仕え、人々に仕え、自分の使命に忠実でした。
そして、十字架の死に至るまで忠実であられたイエス様。
ピリピ 2:6-8
キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、
ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。
人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。

イエス様は本当に忠実な姿を私達に示して下さっています。
私達は、このお方を模範にこのお方を見上げ目指して歩むものでありたいと願います。

さあ、私達はどうでしょう。与えられているタラントを用いることに忠実でしょうか?
小さなタラントだから大したことはないから用いなくてもいいでしょうか。いいえ、そのタラントに忠実であることを神様は願っておられます。
大きなタラントすぎて用いることができないと思いますか。大丈夫です。そのタラントに忠実でいるなら、用いていくなら、神様は最善をして下さいます。たとえ失敗してもそのタラントを取り上げることはされません。
失敗というのは、成功するまでに辞めてしまう時に失敗となります。
そして、忠実である時にそこに必ず実が結ばれてくるでしょう。
すると更に大きなタラントを委ねられることになります。
その時には、あなたはその大きなタラントを管理できる人と成長しているからです。

ルカ 16:10
小さい事に忠実な人は、大きい事にも忠実であり、小さい事に不忠実な人は、大きい事にも不忠実です。


2.神様と喜びを共にできる。

その時、どんなことが待っているのでしょうか。
「主人の喜びをともに喜んでくれ。」主人と喜びを共にしてくれ、という意味です。
イエス様の喜びを共に喜びとできるのです。
素晴らしいことです。

この喜びを私達も体験したいですね。

2008/04/13

08.4.13「イエスキリストを土台とするなら」

1コリント 3:10-17
:10 与えられた神の恵みによって、私は賢い建築家のように、土台を据えました。そして、ほかの人がその上に家を建てています。しかし、どのように建てるかについてはそれぞれが注意しなければなりません。
:11 というのは、だれも、すでに据えられている土台のほかに、ほかの物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです。
:12 もし、だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、わらなどで建てるなら、
:13 各人の働きは明瞭になります。その日がそれを明らかにするのです。というのは、その日は火とともに現われ、この火がその力で各人の働きの真価をためすからです。
:14 もしだれかの建てた建物が残れば、その人は報いを受けます。
:15 もしだれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、自分自身は、火の中をくぐるようにして助かります。
:16 あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。
:17 もし、だれかが神の神殿をこわすなら、神がその人を滅ぼされます。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたがその神殿です。

序)いろいろな土台
私は仕事で建物の登記をしますが、その時、建物として認定するかどうかの基準のひとつに土地の定着性というのがあります。
簡易な建物で、基礎工事もされてないようなものは、永続性がないので、建物として登記できません。
プレハブの物置のようなものでも、その基礎によって判断はさまざまです。
ブロックを置いただけの基礎もあります。ブロックをコンクリートで固定したものもあります。
その上の建物もそこに置いただけのものから、アンカーボルト等で固定されたものまでさまざまです。
立派な土台だと、コンクリートのもの、石のもの等、これもまた様々です。
工事現場のプレハブなんかは、木杭が基礎であったりします。
建物を建てる上では、いろいろな土台があるものです。
私たちの信仰生活、あるいは人生においても、土台はとても大切です。

今日、お読みした、土台と建物についての箇所から、共に教えられたいと思います。


1.土台はキリスト :10-11

パウロは、与えられた神の恵みによって、賢い建築家のように土台を据えたと言っています。
その土台こそ、イエスキリストだというのです。

私たちの土台は、イエスキリストでしょうか。
そうであるなら幸いです。

先ほども話したように、建物の土台というのは様々なものがあります。
それは、その上に建てる建物に相応のものを据える事がほとんどです。
小さな物入程度のものを設置するのに、大きな石の土台を据える人はいないでしょう。
ブロックを二つほど置いて、その上に乗せれば十分です。
人が入れて、自転車等が置けるほどの物置でも、ブロックをコンクリートで固めて、その上に設置する程度で大丈夫でしょう。
でも、自分たちが住む家を建てるときに、ブロックを基礎にする人はいません。
コンクリートの基礎を据えるでしょう。
以前、測量にいった家は、大きな家で、立派な石を基礎にしてありました。
また、高層マンションの基礎は地面深くコンクリートを打ち込んで地盤を強固にして大きなコンクリートの基礎をすえて、上の建物を建てあげていきます。

その基礎によって、上に建てられる建物も変わってくるのです。
また、その基礎が傾いているようでは、建物は建てられません。
そこは、その基礎を据える建築家、工事の監督等の腕にかかってくるのでしょう。
パウロは「賢い建築家のように・・」と言ってます。
その土台は、上にどんな建物をも建てることができるものなのでしょう。

つまり、土台によって、その上に築き上げられる人生も変わってくるといえるのです。
あなたの土台は何でしょうか。
財産?仕事?家族?恋人?友人?自分の考え?
それらは、大切なものですが、土台として相応しいものといえるでしょうか。
財産は、なくなるかも知れません。世界情勢が変われば、お金は意味のないものになります。
仕事だって、会社がなくなるかもしれません。自営業していても、失敗するかもしれません。
家族や恋人や友人たちは大切です。でも、いつまでもいるとは限らないのです。
裏切られるかもしれないのです。永遠に生き続ける人もいません。
自分の考えを持つことは、いいことです。でも、それが絶対的なものとして土台に相応しいのでしょうか。

そこで、聖書は言います。
その土台こそ、イエスキリストです。

マンションを建てるほどの強固な基礎工事をした上に、物置をすえたとしたらどうでしょう。
そんな人はいませんが、物置は傾くことなくたてることができます。勿論、普通の家も建てられますし、マンションだって建てられるのです。

イエスキリストを土台として、正しく据えられているなら、どんな建物でも建てることができるのです。
この土台を据えておられるでしょうか。
イエスキリストを土台として据えておられるなら、これからの人生、信仰生活はどんなものでも建てあげていくことができるのです。

でも、聖書は、その建てる建物についても、注意するように促しています。



2.建物を建てる :12-15

『もし、だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、わらなどで建てるなら、各人の働きは明瞭になります。』

金、銀、宝石、木、草、わら・・大きく二つに分けられますね。
「金、銀、宝石」と「木、草、わら」です。

「三匹のこぶた」の話を思い浮かべるのは私だけでしょうか。
わらの家、木の家、レンガの家です。ここでは、狼のすごい息によって、その建物の強度が明らかになりました。
わらの家は、ひと吹き飛ばされてしまうのです。
木の家も、2,3回の息で吹き飛ばされます。
でも、レンガの家はどんなに吹いても大丈夫でした。
その仕事、働きが明瞭になったのです。

私たちの人生、信仰生活は、イエスキリストという最高の土台が据えられたのなら、あとはその上に建てるそれぞれの建物次第なのです。

木や草やわらで建てるのは、簡単でしょう。手に入れることも用意ですし、加工したり、することも簡単です。
簡単に手に入るような人生、信仰生活を送ることも可能です。でも、それは、木や草やわらで建てた建物のようなものかもしれません。

では、金、銀、宝石ならどうでしょう。高価ですし、なかなか手に入らないでしょう。木や草やわらなら、森へ行って切り出してくれば手に入れらそうですが、金、銀、宝石は、山を採掘して掘り出して、それを磨き上げなければなりません。とても、手間も必要ですし、手に入れるには大変苦労するし、それを加工するのも大変なことです。
簡単には手に入らない人生、信仰生活を送ることをたとえているのかも知れません。

私たちは、どのような家を建てたいと願いますか。

金、銀、宝石の家を建てたいと思うなら、人生はそんなに楽で簡単なものではないかも知れません。でも、そうであるからこそ建てあげたときに得るものも大きいのではないかと思うのです。

でも、聖書はそんな短い地上の人生のことだけを言っているのではありません。
聖書はその建物が試されるときが来ることを言っています。

『その日がそれを明らかにするのです。というのは、その日は火とともに現われ、この火がその力で各人の働きの真価をためすからです。』

「その日」とは、主の再臨の時なのかも知れません。患難の時なのかも知れません。
少なくとも、「火」と、たとえられるように、楽なイメージはありません。
試練を意味しているように思えます。
その時に、キリストを土台とした私たちの人生、信仰生活がどのようになるのか、これはとても重要なことに思えます。

『もしだれかの建てた建物が残れば、その人は報いを受けます。もしだれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、自分自身は、火の中をくぐるようにして助かります。』

その建物は、「火」によって、焼けてしまうか、残るか、、、

残れば報いを受けるのです。素晴らしいことです。人生を金、銀、宝石によって建て上げてきた人は、その日に火によっても残って報いを受けるのです。

焼けてしまえば、損害を受けます。残念なことです。木や草やわらによって建てあげた人生は、焼けてしまい損害を受けてしまうというのです。

私たちは、どちらを選択するでしょうか。それによって、「その日」に大きく違いが出てくるのです。


結)それでも、「救い」は変わらない
最後に、一つのことに注目しましょう。
『もしだれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、自分自身は、火の中をくぐるようにして助かります。』
とあります。
キリストを土台とした人生を送った人は、たとえその人生で建てあげたものが木や草やわらを用いていて、その日に火によって焼けてしまい、損害を受けたとしても、助かるのです。救われるのです。
口語訳では、
『しかし彼自身は、火の中をくぐってきた者のようにではあるが、救われるであろう。』
火の中をくぐってきた者のようにではあっても、救われるのです。

私たちは、残るような建物を建てたいと願いますが、たとえ焼けてしまったとしても、火の中をくぐってきたもののようであっても、救われるのです。
それは、「キリストを土台」としているからです。
もし、キリストを土台としていないなら、そこには、どんな建物を建てたとしても、火の中をくぐって、滅びに至るのです。
イエスキリストを土台とすることがいかに素晴らしいことであるのかを再認識されたでしょうか。

イエスキリストは、私のために、十字架に架かって罪の身代わりとなり、命を捨ててくださいました。そして、葬られ、三日目によみがえって天に昇り、今も聖霊として私たちと共にいてくださるお方です。
このお方を土台とし、信仰生活を、人生を歩むなら、本当に幸いです。

2008/04/06

08.4.6「救いへの道」

ルカ 23:39-43
:39 十字架にかけられていた犯罪人のひとりはイエスに悪口を言い、「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え。」と言った。
:40 ところが、もうひとりのほうが答えて、彼をたしなめて言った。「おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。
:41 われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。」
:42 そして言った。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」
:43 イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」


序)二種類の人。
同じ状況におかれていながら、違う選択、違う反応をする人がいます。その結果は当然変わってきます。

靴を売る営業マン二人がアフリカに行った話しを聞いたことがあります。
現地に到着した二人は、現地の人が靴を履いていないのを見てそれぞれ本社に報告しました。
一人は、「社長駄目です。ここでは靴は売れません。だって、誰一人靴を履いてないんです。靴が必要ない人ばかりですから、売れるわけがありません。。」と。
もう一人はこう報告しました。
「社長、今すぐあるだけの靴を送って下さい。これほど大きな市場はないです。他社が入って来る前に確保しましょう。なんせ、靴を履いている人が一人もいないのです。これほど必要のあるところはなかなかありませんよ!」と。
同じ状況を見た二人ですが、その反応は全く違いました。

人は同じ状況に置かれていても、違う反応、違う選択をします。
今日お読みした箇所でも同じようなことが書いてあります。

イエス様の十字架の両側に一緒に十字架につけられた二人の犯罪人はどうだったでしょう。
見ていきましょう。


1.イエス様をののしった男

>救うために待っておられる主。


一人の男は、イエス様をののしりました。
「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え。」と。

私達も人にイエス様の話しをしたりすると、
じゃあなんで神様は人間が罪を犯さないように作らなかったんだ。
そんなに愛なる方なんだったら、罪を犯している人間も救ってくれたらどうなんだ。
結局は信じて入信しないと救われないんだろ?なんて心の狭い排他的な神なんだ。
などといわれることもあります。

イエス様は全ての人が罪を犯さないように作ることもできたでしょう。でもされませんでした。
それは、私達を愛しておられるからです。

あなたは愛している人を自分の思う通りにしたいがために監禁したりするでしょうか?
もし、そうするなら、それは愛ではありません。
愛する人から、その人の意志で愛して欲しいでしょう。それが本当の愛です。
無理に愛して欲しいとは思わないでしょう。

神様も私達が不自由な拘束の中にいるよりも自由の中で生き、わたしたち自身の意志で人生を送ることを赦されるという大きな愛で接して下さっている。だから、ロボットのようには作られなかったのです。

神様は私達を愛して受け入れて下さっています。でも、罪を受け入れることはできません。
ですから、罪を持ったままだと受け入れられないのです。
排他的なのではないのです。人は受け入れても罪は受け入れられないからなのです。

よく読んでみると、イエス様はここでののしられましたが一言も呪われたりされませんでした。
そうです。この ののしった男にも救いが必要であることをご存知なのです。
そして、この男が心を開いてイエス様を信じるのを待っておられるから、何も言われなかったのではないでしょうか。

誰かにイエス様の福音を話した時、その人が受け入れたなら救われるでしょう。
しかし、受け入れなかったなら救われないのでしょうか。いいえ、まだ救われていないだけなのです。
イエス様はいつまでも待っておられるのです。
ですから、ののしった男でさえ、地獄行きを宣言されたりしなかったのだと信じます。

イエス様は一人の人が信じて救われることを願い、忍耐し、待っておられるのです。
救うために待っておられる主です。

さて、もう一人の男はどうだったでしょう。


2.ののしった男をたしなめ、イエス様に心を開いた男

>ただちに救いを宣言される主。


イエス様はすぐに答えられました。
「よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」と。
心を開き、受け入れ、信じるのをいつも待っておって下さって、告白する時にただちに救いを宣言して下さるのです。
まさに、救うために待っておられる姿が見えます。

子供を叱る時、親は待っています。
悪いことをした時にはしっかりとしつけなければと思い、叱ります。
しかし、子供が「ごめんなさい」といった時には抱きしめます。
その告白を待っているのです。
神様も同じように、わたしたちが告白することを待っておられます。
そして、告白したならすぐに救って下さるのです。

なんと素晴らしいことでしょうか。

「イエス様信じます」と告白した時に、
イエス様が「よし、じゃあまず、1週間断食の祈りを捧げて、その後1年間、毎朝6時から私の前に祈りの時間を持ちなさい。それから、日曜は休まず教会へ礼拝に出席し、献金をたくさんしなさい。えーっと、あなたの年収は○○円だから、○○円以上捧げなさい。その後、100人以上の人に伝道し、10人以上を教会に導きなさい。勿論、その中から私を信じる人を起こしなさい。あなたもそうやって、○○さんがリストにあげて誘ってここまできた人なんだからね。それから、まだあるよ。教会での奉仕は、まずはこれをやって、慣れてくる3ヶ月経った頃からこれもやりなさい。・・・」なんていわれたらどうでしょう。
いつになったら救われるのでしょうか(笑)

イエス様はそんなことを一言も言われませんでした。
イエス様が十字架に架かっておられるその横で一緒に十字架に架かっている男です。
何もできません。今まで悪いことをしてきて、十字架にかけられたのです。
イエス様を信じることはできても、伝道もできなければ礼拝出席もゼロです。献金もできませんし、奉仕もできません。
でも、イエス様は救いを宣言されました。
まさに、イエス様の救いには、条件・行いは不要です。
信じて告白するだけです。

こんなに素晴らしい救いを用意して下さっている主に心から感謝し、あがめましょう。


結)
私達は、イエス様を待たしていたかも知れない。今も待たしているかもしれない。
でも、イエス様はいつまでも待っていて下さる。
気付いた時に、イエス様に心を開いて告白しましょう。
そうです。イエス様だけが救い主なのです。

使徒 2:38には、どうしたら救われるのかがはっきりと書いてあります。

:37 人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、「兄弟たち。私たちはどうしたらよいでしょうか。」と言った。:38 そこでペテロは彼らに答えた。「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。

このイエス様を救い主として受け入れ告白する時、あなたの魂に救いがやってきます。

ののしっていた男のこの後のことは書かれていませんが、もしたしなめられて気付いて悔改めイエス様を信じ告白したのなら、その後、救いを宣言されたでしょう。
イエス様の救いは永遠です。一度拒んでも二度拒んでも何度拒んでも、最後に信じ受け入れるなら救って下さるのです。
分かれ道で選択を誤っても、変更可能なのがイエス様の救いです。
その時も何の条件もありません。信じ告白するだけです。
そしてイエス様は何も咎められません。優しく受け入れて下さるのです。

さあ、どうですか。イエス様の救いは排他的でホントの愛といえないでしょうか?
こんなに素晴らしい救いを用意し、寛容に待って下さっているお方で、完全な救いを与えて下さる方がイエス様なのです。
素晴らしいですね。

イエス様は今も待っておられます。
このことに気付き、心を開く人は幸いです。