2009/12/27

09.12.27「一年を振返って」

1テサロニケ5:12-22
:12 兄弟たちよ。あなたがたにお願いします。あなたがたの間で労苦し、主にあってあなたがたを指導し、訓戒している人々を認めなさい。
:13 その務めのゆえに、愛をもって深い尊敬を払いなさい。お互いの間に平和を保ちなさい。
:14 兄弟たち。あなたがたに勧告します。気ままな者を戒め、小心な者を励まし、弱い者を助け、すべての人に対して寛容でありなさい。
:15 だれも悪をもって悪に報いないように気をつけ、お互いの間で、またすべての人に対して、いつも善を行なうよう務めなさい。
:16 いつも喜んでいなさい。
:17 絶えず祈りなさい。
:18 すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。
:19 御霊を消してはなりません。
:20 預言をないがしろにしてはいけません。
:21 しかし、すべてのことを見分けて、ほんとうに良いものを堅く守りなさい。
:22 悪はどんな悪でも避けなさい。


詩篇103:1-2
: 1わがたましいよ。主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ。聖なる御名をほめたたえよ。
: 2わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。


序)今年最後の礼拝になりました。
みなさんはどんな年だったでしょうか?
一年を振返ることはとても大切なことです。それは感謝を数えることでもあります。
また、その中にある神様の恵みを数えることはもっとすばらしいことです。
今日は今年最後の礼拝ということで、一年を振返ってみると共に、感謝する時にしたいと思います。

感謝というのはどこかに向けられるべきですね。
辞書をひくと「ありがたいと思う気持ちを表すこと」とありますから、あらわすことは大切です。

全てのことに・・・

1.互いに感謝する。

まずは、人に、、、互いに感謝します。
よくクリスチャンは挨拶を交わす時に「感謝します」といいますが、これはこの御言葉「全てのことに感謝しなさい」から来ていると考えられます。
お互いにその存在を感謝し、また具体的に何かを感謝することもあるでしょう。
そういうことを思い巡らし、
「あぁ、あの人のあの時のあの言葉で励まされたなぁ。」
「あの時のあの笑顔にいやされたなぁ」
「あの時、祈ってもらって感謝だった」
「手伝ってもらって感謝だった」・・・といろいろと思い出せたら、
それを感謝することもまた素晴らしいことですし、神が望んでおられることでもあります。
それよりも何よりもお互いの存在が感謝であることを忘れてはいけませんね。

存在を感謝することはとても大切なことです。夫婦、親子、友人、、、

今年を思い巡らしてお互いに感謝できたら素晴らしいですね。


2.自分に感謝する。

次に自分に感謝しましょう。
みなさんは、人に感謝したり、神様に感謝することは多いかも知れませんが、
自分に感謝されてますか?
「自分を愛するように・・・」とありますが、
まさしく自分を愛する行為の一つが「自分に感謝する」ことだと思うのです。
自分を誉めてあげたり、自分を受け入れることもそうですが、自分に感謝する。

以前、ぎっくり腰になりました。
歩くのもままならない、車を運転するどころか、車に乗り込むことすら痛くて大変でした。
普段は特に気にもしてない「腰」。
健康に正常に動いて当たり前の時は、自分の体に対しての意識は無に等しいですが、
ひとたび、痛み出すと、その健康のありがたさがわかります。
自分の体に感謝しなきゃいけませんね。

勿論、その体を与え、支えて下さっているのは神様でしょう。
でも、その管理を任されているのは、一人一人なのです。
自分に感謝しましょう。

体だけではありません。
神様は私たちに自由意志を与えて下さいました。
自分が今年、よい選択をしたのであれば、その意志決定をした自分に感謝しましょう。
勿論そのように導いて下さったのは神様でしょう。
でも、それに反発することもできたわけですから、その点では自分に感謝し、神様に感謝すればいいのです。


3.神様に感謝する。

これは、本当に大切です。
詩篇103では、「主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな」とあります。
神様に感謝を数え、表すことは命じられています。
まあ、万が一忘れていることがあったとしてもそれを責められるお方ではありませんが、
私たちは、精一杯神様がして下さったよいことを数え、忘れず、感謝したいですね。

先ほどの二つのポイント、
「互いに感謝する」ことも、「自分に感謝する」ことも、
それらは、神様の支配の中であったことであると思うときに、それら全ての感謝は、同時に神様へも表すべきですね。

「○○さんを感謝します。そして、その○○さんを作られた主に感謝します。」
「○○さんのあの笑顔を感謝します。そして、その○○さんを笑顔にしてくださってる主に感謝します。」
「○○さんの祈りを感謝します。そして、その○○さんにそのような心を与えられた主に感謝します。」

「また自分を感謝します。そして私を作り、導いて下さっている主に感謝します」
と。。。

神様に感謝しましょう。それは、私たちを更に素晴らしい恵みの中に入れてくれます。
「ありがとう」という言葉を言う時に、気持ちがマイナスになる人はいないでしょう。
神様へのありがとうを言えば言うほど、神様の素晴らしさを深く味わい、神様が自分にとってどんなによい方であるかを更に知り、自分自身の神様への信仰と愛へとなっていくのです。


結)すべてのことに感謝しましょう。
お互いに感謝しましょう。神様が互いの関係を作って下さったから。
自分に感謝しましょう。神様が自分を作って下さり、うけ入れて下さったから。
神様に感謝しましょう。全てのことは神様の御手の中でのことだから。

そして、その感謝が溢れれば溢れるほど、わたしたちの内側も神様から来るよいもので溢れてきます。

神が人の形をとり、イエスキリストとして地上にきて下さり、十字架にかかって私たちの罪の身代わりとなって命を捨てて下さった。そして三日目によみがえり、天に昇り、今も聖霊として私たちを助けて下さる。
この素晴らしい救い主である神様を感謝しつつ、来年を迎えていきたいですね。
その時に、神様は、新しい年に新しいことをなしてくださると信じます。
感謝を数えつつ、祈りましょう。

2009/12/20

09.12.20「クリスマスの本当の意味」

ルカ2:8-14
:8 さて、この土地に、羊飼いたちが、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた。
:9 すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が回りを照らしたので、彼らはひどく恐れた。
:10 御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。
:11 きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。
:12 あなたがは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。」
:13 すると、たちまち、その御使いといっしょに、多くの天の軍勢が現われて、神を賛美して言った。
:14 「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」

序)本当の意味を知ること
本当の意味を知ることはとても大切なことです。
今日は、クリスマスの本当に意味を知って、あなたにとって、今までと一味違ったクリスマスとな

れば嬉しく思います。

1.クリスマスの本当の意味とは

:11 きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。

①あなたがたのために・・・

クリスマスは、だれの為のものでしょうか。
それは、みなさん一人一人のためなのです。

子供達だけの為にサンタさんがきてくれるから、子供達だけのため?
それとも、イスラエルという遠い国の出来事で、その国の人だけのため?
キリスト教のお祭りだから、クリスチャンだけのため?

そうじゃないんです。
あなたがたのため、全ての人のためのものなんです。


じゃあなぜ、私たちのためなのでしょう。
それは、神様が私たちを愛しておられるからです。

ヨハネ 3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。:17 神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。

神はあなたを愛しておられ、素晴らしい人生を送ってほしいと願っておられます。

また、マタイ 11:28 には、
「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」
とあります。

イエスキリストは、「全て、疲れた人・・」と全ての人に対して、招いておられます。
これもまた、イエスキリストが全ての人を愛しておられることを知る一つの言葉です。
聖書を読んでいくと、神様がいかに私たち一人一人を愛しておられるのかを知ることができます。

だから、クリスマスは、神様が愛しておられるあなたがたお一人お一人のため、全ての人のためのものなのです。
だから、私たちのためにクリスマスがあるのです。


そして、もう一つ・・・

②救い主がお生まれになりました。

クリスマスは、救い主がお生まれになった出来事です。

クリスマスはイエスキリストの誕生日、でもそれは、歴史上のある人の誕生日というよりも、
救い主が地上に生まれた出来事そのものであるといった方が正しいでしょう。

先ほど、神様が私たちを愛しておられるので、私たちの為にクリスマスがあることを見ました。
では、そもそも私たちに救い主は必要なのでしょうか。

イエスは、キリストとして、救い主として、生まれたというなら、何を救うために、何から誰を救うために生まれたのでしょう。

それは、罪から私たちを私たちを救うためです。

ローマ 3:10 ・・・義人はいない。ひとりもいない。
ローマ 3:23 すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができない。

全ての人は罪人であることを聖書は言っています。

刑務所に入ったことはないかもしれません。
法を犯すようなことをした覚えがないとおっしゃるかもしれません。
素晴らしいことです。

でも、わたしたちは、自分が中心、自分さえよければいいと考えてしまう事はないでしょうか。
自分さえよければ、という自己中心が私たちの心を支配するとき、そのために犯罪を犯してしまうのです。
殺人・・自分が死刑になりたいから、人を殺した犯罪者も、自分の事しか考えていない。
盗み・・自分が欲しいものを手に入れる為に、人に被害を与えてでも自分のものにしようとすることは、自分の事しか考えていない。

全て、自己中心のゆえに、犯してしまうことではないでしょうか。
神様は、この自己中心の心を罪であると言われています。
この自己中心の心、罪があるから、いろんな悪いことをしてしまうのです。

では、他者中心に生きるべきなのでしょうか。それも難しいですね。
私たちの心にある自己中心の心を神様におまかせして、神様を心の中心に置く時に、その悪から遠ざかる事ができます。

ですから、わたしたちは、神様に対する反発であっても、神様なんて関係ないという無関心であっても、神様を認めず、神様に背を向ける自己中心が、聖書のいう罪なのです。
罪という言葉には、「的外れ」というギリシャ語が使われています。
神様中心で、神様に向かっていなければならない私たちの心がその的から外れた方向に向いている状態をさしているのでしょう。

そのため、私たちは神様と離れてしまい、神様の存在もその愛も知ることができないのです。
この間を橋渡ししてくれるのが、「救い主」です。

でも、罪を持ったままでも死んでしまえば、それで終りなんじゃないの?
いいえ、聖書には、
「人は一度死ぬ事と、死後裁きを受ける事が定まっている」とあります。
人は、必ず死にます。しかし、それで終りではないのです。
その魂の行き先があるのです。それが天国と地獄です。
罪から救われていない人、罪の許しを受けていない人は、地獄です。
でも、罪から救われている人は、天国です。
これは、宗教的な話しではないのです。全ての人に向けた神様からのメッセージです。

そうです。私達には「救い主」が必要なんです。


クリスマスの本当の意味とは、

「あなたを愛しておられる神様が、
 救いを必要をしているあなたのために、
 救い主として地上にお生まれになった。」



結)あなたも救われて、神の愛を知る

実際にイエスキリストは、その生涯の最後に十字架で死なれました。
これは、私たち人類の罪の身代わりとして死なれたのです。

ローマ 5:8 しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。

全ての人が罪人であることをお話ししました。
罪人が罪人の罪の身代わりになることはできません。
罪のない人じゃないと身代わりにはなれないのです。

イエスキリストは、クリスマスに生まれられ、罪を犯すことなくその生涯を送られ、
その生涯の最後に罪のない人として、罪の身代わりとしてその罰を受けられたのです。

イエスは言われました。
「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。 」

イエスキリストを通してでなければ、神様との関係を回復することはできません。
私も罪人です。でも、イエスキリストを信じたときに、罪が許されるのです。
だから今は罪許された罪人なのです。

クリスマスの本当の意味を知りました。
それは素晴らしいことです。でも、もっと素晴らしいことは、自分にも救いが必要である事に気付き、救い主の救いを自分のものにすることです。

イエスキリストがあなたの罪の身代わりとして死んで下さったのに、それを受け入れないでいるなら、せっかく救いが用意されているのに、救われません。
イエスキリストを受け入れ、その愛を受け入れる時に、あなたは救われ、あなたはその愛を知ることができるのです。

今日、このキリストを受け入れる時に、あなたにとって、本当の意味でのクリスマスを体験することでしょう。
それは、天国への切符を手に入れることでもあります。

祈りましょう。
「イエス様、クリスマスの本当の意味を聞きました。聖書や、イエスキリストについてもっと知りたいです。悟ることができるようにしてください。
また私は、イエスキリストを罪からの救い主として必要としています。
イエスキリストが私の罪の為に十字架で死んで下さってありがとうございます。
私は今、イエスキリストを罪からの救い主として、お迎えいたします。
私の罪を許して下さい。私の心の中心で私の人生を導いて下さい。
イエスキリストのお名前によってお祈りします。アーメン」

09.12.13「 内側から来る神への信頼 」

ルカ 2:1-7
:1 そのころ、全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストから出た。
:2 これは、クレニオがシリヤの総督であったときの最初の住民登録であった。
:3 それで、人々はみな、登録のために、それぞれ自分の町に向かって行った。
:4 ヨセフもガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。
彼は、ダビデの家系であり血筋でもあったので、
:5 身重になっているいいなずけの妻マリヤもいっしょに登録するためであった。
:6 ところが、彼らがそこにいる間に、マリヤは月が満ちて、
:7 男子の初子を産んだ。それで、布にくるんで、飼葉おけに寝かせた。
宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。

序)クリスマスに備える
クリスマスに備える・・・これはキリストの来臨に備えることをも意味します。
つまり今の私達に言い換えれば、キリストの再臨に備える意味もありますね。
今はまさに終りの時代だと思えば、再臨に備えることはとても大切なことです。

今日も御言葉を通して、クリスマスに備えていきましょう。

イエス様が生まれる直前の数ヶ月の出来事を見て行きましょう。

1.イエス様が生まれる前にベツレヘムへ移動した。:1-5

ナザレからベツレヘムまで、直線にして110kmはある。
その直線上は山地なので少なくとも120~150kmはあったと思われます。
時速4kmで1日8時間歩いたとしても3,4日はかかる。
ここから、土岐までが100kmくらいで、香芝までが130kmくらいでしたから、その距離を身重な体で歩いていくわけですから、かなり過酷な旅であったと想像できますね。


しかし、

ミカ 5:2
しかしベツレヘム・エフラタよ、あなたはユダの氏族のうちで小さい者だが、
イスラエルを治める者があなたのうちからわたしのために出る。
その出るのは昔から、いにしえの日からである。

この預言がありましたから、イエス様はベツレヘムでお生まれになるはずでした。
そして、ヨセフとマリヤははからずも人口調査の為にベツレヘムへ移動することになったのです。
このことから、前回もお話したように、神様の言葉は必ず成就することを教えられます。

しつこいようですが、

●神様の御言葉は必ず成るんです。

世の中に絶対はないということがあると思いますが、神様の言葉は絶対なのです。


この意味を履き違えないで下さいね。
神様の言葉が絶対というのは、
神様の言葉だから絶対に従わなくてはならないという単純な意味ではありません。

神の言葉は、聖書です。
聖書を通して解釈された教理は、「教理」でしかありません。
聖書を通しての悟りは、「その人の悟り」でしかありません。
聖書を通して語られるメッセージは、「メッセージ」でしかありません。
預言者を通して語られる預言は、「預言」でしかありません。

どれも100%の神の言葉ではないのです。
混ざり物があるとでもいいましょうか。。


確かに「本当に」神様の言葉なら絶対に従うべきでしょう。。
でも、ここに人間に弱さに付け込んだ悪魔の罠が待っていることがあります。
いろんな教義があります。
しかし気を付けないと、教義を神の言葉としてしまうと危険です。
神の言葉は聖書そのものだけです。それも本当は原典が読めれば一番いいのですが・・・。
それ以外は人の解釈であり、そこから出てきた教義教理です。

とにかく、神の言葉は必ず成就します。
人の預言は外れても、神の預言は外れません。絶対なります。


私達はこの神の言葉を信頼し、より頼み、しっかりと受け止め握り続けたいですね。



2.イエス様は馬小屋で生まれた。:6-7

これは、ヨセフとマリヤが馬小屋に滞在していたことを意味します。
ヨセフとマリヤは、御使いから告げられて自分達の間に生まれてくる子は聖霊によるものであり、イスラエルを治める方であることを聞いていますから、自分達はその両親であるんだということですから、その自分達を馬小屋にしか泊めないなんて、なんて無礼な!という事もできたかも知れません。他の客を馬小屋に追いやってでも客間に入れろということもできたかも知れません。
でも、そんな事を言わずに空いている馬小屋でもいいから…とそこに滞在しました。

ここで、

●神の御名の権威をやたら振りかざさない。

ことを教えられます。

出エ20:7 あなたは、あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。 とあります。


私達が主の名を唱えるのは、どんな時でしょう。
祈りの時、悪魔に命じる時ですよね。
ましてや、未信者や信者に主の名を唱え、振りかざすことは神様が禁じておられます。
これは、ひとつめの話しとも関連してきますよね。

「聖書にこう書いてある。これはこういう意味(解釈)だから、あなたはこうしなくてはならない。これは主の御心であるし、主の命令だ。」なんて牧師や預言者などに言われたらどうでしょう。「主がそう言っておられるのなら・・・」と従うことになってしまうでしょう。
でも、本当にそうでしょうか。

預言についてはどうでしょう。
どう受け止めるべきか…みたいな。
「聖書が第一。預言は励ましや慰めといった意味で受け止めるべき」なのです。

どんな素晴らしい預言があっても、聖書を越えるものではないのです。
どんな素晴らしいメッセージを聞いても聖書を越えるものではないのです。

聖書の素晴らしさを再確認しましたね。イエス様はまさに御言葉が受肉したお方です。

私達は、主の名、その権威によって、悪魔に命じたり自分に告白したり、祈ったりはしても、
決して人にその権威をかざすような言動はしないように心掛けたいですね。


結)神様への信頼
私はここを読んで全体的に感じたんですが、
ヨセフとマリヤは決してその時の時代の流れに逆らっていないということです。
律法にも忠実で敬謙な神を信頼する人であったと思うのですが、
その時の流れに逆らうようなことはしていないですよね。

身重にもかかわらず、人口調査の為に100km以上の距離をも移動し、
身重にもかかわらず泊まるところがなくて馬小屋に滞在する事も拒否せずに。
ここに、目に見えてはあまり見えなくても、内側にある神様への信頼の大きさ強さをみるような気がします。
その信仰が、神の言葉の成就にもつながり、主の御名をみだりに唱えたり振りかざしたりしない行動へとつなげていったのだと感じました。

私達も、目に見える事に振り回されずに、御言葉をしっかり握り、神様だけを信頼する信仰を強くしていただいて、マリヤとヨセフのようにしっかりした歩みをすることによって、神様の御業を見て行きたいと願います。

2009/12/06

09.12.6「神の御言葉が成る」

ルカ1:26-38
:26ところで、その六か月目に、御使いガブリエルが、神から遣わされてガリラヤのナザレという町のひとりの処女のところに来た。
:27この処女は、ダビデの家系のヨセフという人のいいなずけで、名をマリヤといった。
:28御使いは、はいって来ると、マリヤに言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」
:29しかし、マリヤはこのことばに、ひどくとまどって、これはいったい何のあいさつかと考え込んだ。
:30すると御使いが言った。「こわがることはない。マリヤ。あなたは神から恵みを受けたのです。
:31ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。
:32その子はすぐれた者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また、神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになります。
:33彼はとこしえにヤコブの家を治め、その国は終わることがありません。」
:34そこで、マリヤは御使いに言った。「どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに。」
:35御使いは答えて言った。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。
:36ご覧なさい。あなたの親類のエリサベツも、あの年になって男の子を宿しています。不妊の女といわれていた人なのに、今はもう六か月です。
:37神にとって不可能なことは一つもありません。」
:38マリヤは言った。「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」こうして御使いは彼女から去って行った。


序)暦では、先週からアドベント(待降節)です。
イエス様のご降誕を待ち望む期間ですね。
イエス様のご降誕の物語から、イエス様を待ち望んでいきましょう。
さて、ここは有名な箇所ですね。マリアの受胎告知の箇所です。
:26の「六ヶ月目」というのは、ヨハネを身ごもっているエリサベツが6ヶ月目にあたる時のことです。
その時期に御使いガブリエルがマリヤのもとに訪れて、受胎を告げ知らせたところです。
マリヤは驚いたでしょうね。
子供の年は、生まれてから0才で数えますが、これは母体から出てからの時間ですね。
でも中には、胎内に宿った時からがその子の人生が始まっているというふうに考えられている場合もあるようですが、そう思うと、この箇所はまさにイエス様の地上での人生のスタートだったかも知れませんね。

この箇所から「神の御言葉が成る、成就する」ということを見ていきながら、クリスマスへの心の準備をしていきましょう。


1.ヨセフはダビデの家系だった。:27

「神は選ばれた人に御言葉(約束)を届けられる」

マリヤが地上でのイエス様の母となるわけですが、マリヤはヨセフの婚約者でした。
ヨセフはダビデの家系であると書かれてあります。
つまり、イエス様はダビデの家系にお生まれになるわけです。
これは、預言の成就でした。まさに選ばれた人であったわけです。
それによって神様は約束を実行される方であることがわかります。
「神の召しと賜物は変わることはない」と聖書にあります。
神様はいわれた事をなさる方です。

ヨセフとマリヤがなぜ選ばれたのか?
確かに神の前に敬謙な信仰者であったかもしれません。
選ばれて当然のような人であったのかも知れません。
しかし、それ以上に神様はダビデの家系からキリストが生まれることを預言者を通して語っておられた。
つまり、決めておられたからです。
だからダビデの家系に属するヨセフとマリヤを選ばれたのです。勿論ダビデの家系の人は他にもいたでしょう。
その中でこの二人が選ばれたのはその信仰を見られたのかも知れませんが。。。
神の召しは変わらないのです。

旧約において、ヤコブは次男でした。長子の権利はありませんでした。
でも神はヤコブを選ばれたので、その子孫をイスラエルとされたように、神様が決められた事は状況に左右されず、神様は必ず成就されるのです。
そう、神様は自ら決めた選びの約束を必ず成される方なのです。


2.御使がマリヤのところに来て言った。:28

「神は御言葉(約束)を必ず実行される」

マリヤに御使いを通して、御言葉が届けられました。
でも、マリヤはどういう意味かわからなかったようです。
処女なのに身ごもる。その子がダビデの王座につく。
そしてイスラエルを支配し、その支配は永遠に続く・・・。

「え???ホントに?」と驚いたでしょう。

このように理解しがたい言葉が届けられる事もあります。
また、本当に現実化するんだろうかと疑いたくなることもあります。
実際、ヨハネが身ごもるということを聞いたエリサベツの夫ザカリヤはその言葉を信じなかったために生まれてくるまで口がきけなくなりました。:18-19

私達も御言葉が与えられたり、神様からのインスピレーションなんかが示されたりしても、信じられないような時もあるかも知れません。
また、その言葉が神様から来ているのか、自分の思いなのか、分からない時もあるでしょう。
でも、神様から来ているなら、ただ信じて自分が今できることをしているなら、それは神様が成就して下さいます。

ここが重要です。

「神様が成就してくださる」のです。

思いが来たからといって、自分で成就させてしまっては神様の出番はありませんし、もしかしたら自分から出てきた思いを自分で成し遂げたにすぎなかったということにもなり兼ねません。
やってきた思いは大切に心に留め、今自分ができることをする時、神様が成就されるでしょう。

なぜなら、神様に不可能はないからです(:37)
詳訳聖書を見ると「神から出ることばで、実現の力のないものは一つもありません」とあります。神様の言葉は実現する力あるものなのです。

ピリピ 2:13
神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです。(新改訳)

あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせるのは神であって、
それは神のよしとされるところだからである。(口語訳)

とあります。

自分を信じるなら、信用できないかもしれませんが、神様を信じるのです。
これ以上信頼できる方はおられませんよね。神様からの言葉や思いを信じましょう。

イエス様に期待しましょう。
イエス様が成就してくださいますから。

自ら届けた御言葉を自ら実現して下さる神様を信じる人は幸いですね。



結)お言葉どおりこの身になりますように:38
マリヤは、言葉を受け入れ、この身になるようにと告白しました。
本当は不安もいっぱいあったと思います。
結婚していないのに、妊娠したなんて、このことをヨセフに話して信じてもらえるだろうか?
また、周りの人はなんていうだろう?
姦淫の罪を犯したといって、石打にならないだろうか?
たとえ無事出産したとしても、イスラエルの王になるという子供をちゃんと育てられるだろうか?

でも、マリヤは神様からの言葉通りにこの身になるように、と言いました。
これは神様を信頼し、神様に委ねた姿だと思います。
神に選ばれ、神から言葉を受けたマリヤは神を信じ一切を委ねました。
神に選ばれた私達も、神様からの御言葉が与えられています。
神様に信頼し、神様を信じましょう。その言葉を信じましょう。そして委ねましょう。
十字架で命をも与えて下さった主が私達の神様なのですから。。。

今日の御言葉を通して更にクリスマスの心の準備をしていきましょう。