2007/01/28

07.1.28「過越(すぎこし)からはじまる」

出エジプト 12:1-14
:1 主は、エジプトの国でモーセとアロンに仰せられた。
:2 「この月をあなたがたの月の始まりとし、これをあなたがたの年の最初の月とせよ。
:3 イスラエルの全会衆に告げて言え。この月の十日に、おのおのその父祖の家ごとに、羊一頭を、すなわち、家族ごとに羊一頭を用意しなさい。
:4 もし家族が羊一頭の分より少ないなら、その人はその家のすぐ隣の人と、人数に応じて一頭を取り、めいめいが食べる分量に応じて、その羊を分けなければならない。
:5 あなたがたの羊は傷のない一歳の雄でなければならない。それを子羊かやぎのうちから取らなければならない。
:6 あなたがたはこの月の十四日までそれをよく見守る。そしてイスラエルの民の全集会は集まって、夕暮れにそれをほふり、
:7 その血を取り、羊を食べる家々の二本の門柱と、かもいに、それをつける。
:8 その夜、その肉を食べる。すなわち、それを火に焼いて、種を入れないパンと苦菜を添えて食べなければならない。
:9 それを、生のままで、または、水で煮て食べてはならない。その頭も足も内臓も火で焼かなければならない。
:10 それを朝まで残してはならない。朝まで残ったものは、火で焼かなければならない。
:11 あなたがたは、このようにしてそれを食べなければならない。腰の帯を引き締め、足に、くつをはき、手に杖を持ち、急いで食べなさい。これは主への過越のいけにえである。
:12 その夜、わたしはエジプトの地を巡り、人をはじめ、家畜に至るまで、エジプトの地のすべての初子を打ち、また、エジプトのすべての神々にさばきを下そう。わたしは主である。
:13 あなたがたのいる家々の血は、あなたがたのためにしるしとなる。わたしはその血を見て、あなたがたの所を通り越そう。わたしがエジプトの地を打つとき、あなたがたには滅びのわざわいは起こらない。
:14 この日は、あなたがたにとって記念すべき日となる。あなたがたはこれを主への祭りとして祝い、代々守るべき永遠のおきてとしてこれを祝わなければならない。


口語訳
出エジプト 12:2 この月をあなたがたの初めの月とし、これを年の正月としなさい。

序)年の初めに
2007年も既に1ヶ月過ぎようとしています。
1月とは、正月といいますね。一年の最初の月です。

今日お読みいただいた箇所は過越の記事の箇所です。
これは、イスラエルがエジプトで奴隷であったときに、モーセをリーダーに主が導き出されたことの記事がこの箇所と前後に書かれてあります。
イスラエルの正月、つまり年のスタートというのは、この過越がスタートです。
この過越と日本の伝統的なこととの間にはとても不思議な共通点があったりしますが、今日はやめておきます(笑)

まあ、それはまた交わりの中でも話すとして、、、
聖書の正月、年の初めの月は過越からはじまるわけです。
私たちもこの1月、正月である年の最初の月に、この箇所からともに教えられたいと思います。


1.新しい始まり

イスラエルにとって、過越は世界が全く変わるような出来事でした。
それまでは、モーセがパロに対して、幾度となくイスラエルの民をこの国から去らせるようにいったのですが、パロは耳を貸しませんでした。
しかし、いくつものしるしの最後に、この過越の出来事で、エジプト人の初子がパロの息子も含めて、みな死んでしまい、さすがのパロもモーセの言うことを聞き入れました。

その時には、金や銀の飾りや着物もエジプト人からもらって出ていったのです。
過越の前は、奴隷であったイスラエル人は、過越を境に、自由となり、更に多くの祝福を得、主の導かれる場所へ向かって旅立ったのです。
なんという劇的な変化でしょうか。

よく書初めをしたり、年の最初に目標を立てたりします。
「今年こそ、○○するぞ!」ってやつです。
12月31日と1月1日、、、何が違うんでしょう。
年が違うっていえば、そうなんでしょうが、12月31日から見れば、1月1日は今日と明日という関係です。
1月1日から見れば、昨日と今日という関係です。
継続された時間の中の通過点に過ぎません。
別に1月1日に決めて一からスタートしなくても、思い立った12月30日でもいいわけです。
でも、正月というのは、一からスタートできたりしますよね。

イスラエルにとって、過越の出来事はまさに全てをリセットしたような全く新しいスタートだったのです。

過越というのは、全く新しい始まりのことを指しているということのようですね。


2.過越で行ったこと

過越は、新しい始まりとなるわけですが、では、過越で何を行ったのでしょうか。
そして、それは私たちにとって、何を意味するのでしょう。

・羊をほふる。
これは、私たちの身代わりのイエス様を意味するのではないでしょうか。

ヨハネ1:36 イエスが歩いて行かれるのを見て、「見よ、神の小羊。」と言った。

バブテスマのヨハネは、イエス様を見たときに「見よ、神の小羊」と言いました。
羊がほふられたのは、イエス様が十字架で死なれたことの型であったのだと思います。


・その血を門柱とかもいに塗る。
イエス様の流された血潮によって清められ許され、裁きから免れ守られることを意味するのではないでしょうか。

私たちは罪人です。そして、罪は裁かれなくてはなりません。
しかし、イエス様が十字架で流してくださった血潮によって、清められ、
罪許された罪人となって、小羊なるイエス様がほふられ、血を流してくださったがゆえに、その裁きから免れるのです。


・その羊を食べ尽くす。
イエス様の身代わりの死を自分のこととして、全てを受け入れることを意味するのではないでしょうか。
残しておいてはいけないのです。
全てを食べ尽くすように命じられています。
これは、私たちのためにほふられ、血を流し、身代わりとなられたイエス様の救いを余すことなく全てを受け入れ、完全な救いを受け取ることを意味するのでしょう。
部分的に受け入れ、部分的に救われるというのはありません。
神様の用意される救いは完全だからです。


・肉を火で焼いて種入れぬパンと苦菜と一緒に食べる。
聖霊(火)によって食べられる(受け入れられる)ようにして下さるので、
罪のない生活(種入れぬパン)、受け入れがたいと思われること(苦菜)も一緒に受け入れるのです。

私たちは自分の力ではなかなか受け入れられなかったり、罪のない生活が難しいものです。
しかし、聖霊の助けによって、それらを受け入れ、一見受け入れがたく思える中でも、受け入れることができるようになっていくのではないでしょうか。


このように見ていくとわかるように、
私たちはイエス様によって、新しいスタートができるのです。
それが過越なのです。

2コリ5:17
だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。

イエス様の十字架の身代わりの死と葬りと復活、
そして、今も聖霊としてともに居てくださるイエス様、
このイエス様によって、新しいスタートができるのです。


結)あなたの過越は・・・
年の初めに新たなスタートがきれるように、私たちはイエス様によって新しいスタートができます。
それは、今年を期待して、この正月(1月)にスタートすることもできるでしょう。
あるいは、何月でもイエス様によってスタートができます。

新しいスタートができるのが過越です。

あなたの人生の過越、新しいスタートはいつでしょうか。
それは、あなたが小羊であるイエス様をお迎えするときです。
イエス様をお迎えするときがあなたにとっての人生の過越のときです。
そして、全く新しい希望に満ちたスタートです。
それが聖書の言う「救い」の時です。

あなたにとっての過越はいつでしょう。
それはあなた次第です。

人生の過越も、毎年の過越も、この瞬間からの過越も、
イエス様を迎えるときにはじまります。

今日、あなたの過越を体験されるなら、すばらしい人生のスタート、週のスタート、となるでしょう。
祈りましょう。

2007/01/21

07.1.21「ピンチは、救いのチャンス」

出エジプト 1:8-2:10

序)ピンチは避けられない?
皆さんの人生では、ピンチに直面したことは今までに何度あったでしょうか?
ピンチなど、一度も経験したことのない方っておられますか?

ぼくは今までの人生の中で何度も「ピンチ!」と思ったことを経験してきました。

でも、よく考えてみると、ほとんどが、自分が悪いことをしていて、見つかったり捕まったりしたことですから、これは、ある意味自業自得ですよね(^^;;
悪いことをしていたから、ピンチがやってくるわけですから。。。
ということは、こういうピンチは避けられますね。(^^;


でも、実際の私たちの生活、人生の中では、避けられないようなピンチに遭うこともありえます。


今日読んでいただいた箇所は、モーセの誕生の時の話しです。
1:8から読んでいくとわかりますが、
エジプトに住んでいたイスラエルの民は、どんどん人数が増えて、エジプトにとって脅威となりつつありました。
そこで、ヘブル人の助産婦に命じて、男の子なら殺すように命じました。
しかし、助産婦は神を恐れて、それをしませんでした。
そこで、今度は、男の子はナイル川に流すように命じました。
そのときの出来事がお読みいただいた箇所で、この小が2:10でわかるように、
モーセです。

モーセは、ある意味、ピンチの連続の人生だったといえます。
でも、神様の恵みの中で、今日まで語り継がれるような信仰者として人生をまっとうしました。
ここから、教えられて、私たちの人生の糧となれば、幸いですね。


ここでの、モーセのピンチを二つ見ます。

1.ヘブルの男の子として生まれた。

ヘブルの男の子として生まれたということは、ナイル川に流される運命に生まれてきたということです。
先ほどの私のピンチとは大違いで、モーセは何も悪いことはしていません。
神様から命を受けて、この世に生まれてきたのです。
しかし、その生まれたのが、ヘブル人として、そして、男の子として生まれてきたというだけで、ナイル川に流されてしまうという運命でした。

私たちが生まれてきたときに、親を選ぶことはできません。

差別というのは、そこに生まれてきたからという出身だけで差別したり、
肌の色がどうだから、ということで差別したり、
その人の親がどうだからということで差別したり、
その人にとっては、どうしようもできなかったことが理由です。

ですから、差別は正しくないことだと言えますね。


モーセも自分ではどうしようもできない中、
ヘブル人の
男の子として
生まれました。

まさに、「ピンチ!」です。

でも、このとき、両親は、モーセを何とかしようと3ヶ月の間隠して育てていました。
ここに両親の愛があって、ピンチをまずは3ヶ月クリアすることができました。

しかし、3ヶ月にもなると隠し切れなくなってきました。
ここで、モーセにとって次のピンチがやってきます。

両親は祈るような思いで、パピルス製のかごを手に入れ、それに瀝青と樹脂とを塗って、その子を中に入れ、ナイルの岸の葦の茂みの中に置いたのです。
かごが沈んでしまわないように、水が浸入しないようにして、簡単に流されないように、岸の葦の茂みの中に置いたのです。
そして、モーセの姉がそれを遠くから見ていました。


それでも、次のピンチがやってきました。

2.パロの娘に見つかった。

パロの娘に見つかり、「これはきっとヘブルの子供だ」とばれてしまうのです。
パロが命令したのですから、そのままナイル川の流れの急なほうへ流すこともできたでしょう。
いや、そうされてしまっても仕方のない状況です。
いわば、敵に見つかったわけですから。。

まさに「ピンチ!」です。

しかし、神様の介入でしょう。
パロの娘は、モーセを見て、あわれに思ったのです。
そして、そこに絶妙のタイミングで、モーセの姉が登場して、
「あなたに代わって、その子に乳を飲ませるため、私が行って、ヘブル女のうばを呼んでまいりましょうか。」
といって、うばとして母親を連れてきたのです。

パロの娘は、
「この子を連れて行き、私に代わって乳を飲ませてください。私があなたの賃金を払いましょう。」といったのです。

モーセは実母に育てられて、その上、パロの娘から賃金まで払ってもらったのです。

ピンチでしたが、ここでも、敵の心さえ動かして、救われたのです。


結)神は救い出してくださる。

これらのピンチは、モーセにとっては、自分ではどうしようもできないことでした。
でも、その全てのピンチ、逆境から救われたのです。
ここには、両親の愛、家族の愛、もあったでしょう。
隠すために周囲の協力もあったことでしょう。
パロの娘のあわれに思う心もあったでしょう。

しかし、一番大きなことは、その全てのピンチの中から、神様が救い出してくださるということです。

両親は、モーセを隠した3ヶ月は本当に大変だったでしょう。
もし、見つかったら親子共々殺されてしまうかも知れません。
でも、神様が守り、愛を注ぎ、これをさせてくださいました。

また、パロの娘に見つかったときも、パロの娘にあわれに思う心を神様が与えられたのだと思うのです。
そこに、小さい子供をかわいく愛しく思う心があったからこそ、救われたのです。

そこに神の介入があったと思うのです。

私たちの人生の中で、自分ではどうしようもできないことでピンチに立っている状態になることもあるかもしれません。
しかし、神を信頼するとき、神様はどんなピンチや逆境の中でも、救い出してくださるお方なのです。

いじめ苦、生活苦、いろんな苦しみ、ピンチや逆境で苦しむ人々がおられます。
でも、その人々に伝えたい。

「神様は、どんなピンチや逆境でも、救い出す力のある方です。」

でも、その神様を知り、この神様に出会い、この神様とともに歩むことができないなら、
この「救い」も受け取ることができないのです。

是非、出会っていただきたいこの神様は、
2000年前にイエスキリストとして、地上にお生まれになり、
罪のない生活、つまり神様の言葉を守り、神の御心にかなった歩みをされ、
地上の生涯の最後に、十字架に架かられ、
私たちの罪の身代わりとなって命を捨ててくださったのです。
これは、私たちへの愛なくしては、決して成し遂げられなかったことです。

このイエスキリストを迎え入れるなら、あなたは「救い」を受け取れるのです。
そして、神とともに歩む新しい人生がスタートします。

このお方を心に迎えて、命がけで用意された「救い」を自分のものとして下さい。

2007/01/14

07.1.14「悪魔に立ち向かうために」

マタイ4:1-11
ヤコブ 4:7

序)常にある誘惑
私たちの今生きている世の中には常に悪魔の誘惑があります。
うまい話に誘われて、だまされてしまうということはたくさんあります。
また、言葉巧み、、ということなら、振り込め詐欺も同様でしょう。
いろんな悪魔の誘惑があるのが、私たちの生きる現実社会です。
でも、その中でその悪魔に立ち向かって勝利していく人生を歩みたいですね。

マタイ4:1からの箇所はまさにイエス様が悪魔の誘惑に遭われたが、悪魔を退けられ勝利された箇所です。
ここから、私たちがこの時代において、いやいつの時代においても、悪魔に負けない人生を歩む秘訣を見ていきましょう。


1.悪魔に立ち向かう前に

イエス様は悪魔の誘惑に対して、いきなり立ち向かわれたのではありませんでした。神の言葉を発せられました。
創世記では、神は言葉によってこの世界を創られたことがわかります。神の言葉は力があり、その言葉によってあらゆるものが創造されていきます。
悪魔からの誘惑も言葉によってでした。言葉は善にも悪にも力あるのです。ですから、世の誘惑も言葉によるものが多いですね。
私に届くメールの何割かは、スパムメールです。今は「未承認広告※」と書くようになっていますので、そのように書いてあるものはまだかわいいものです。悪質なのは、件名に「お久しぶりです」「こんにちわ」「その後いかがですか」「先日のメールの件で」や、「Re:○○○」といったこちらがおくったメールへの返信のように装っているものまであります。これらは、知り合いから送られてきたのかと思って開きそうになるようなものは、騙そうという意志がわかります。
中には、「逢っていただけませんか」「今日明日で会えますか」といったものもあります。これらは、そのような誘惑によって、本当に会えるのかも・・・という男の弱さにつけこもうとするものです。
私の場合、差出人も見て、判断し、ほぼ100%開くことなく、削除できていますが、もしかしたら、本当に知り合いから送られてきているものを削除している場合もあるかもしれません。迷惑な話です。

話しがそれましたが、これらのメールがこれだけ横行するのはそれだけクリックしてしまったり、返事してしまったり、騙されている人がいるからでしょう。それだけ言葉の誘惑というものにも力があるのです。

しかし、イエス様は、悪魔からの誘惑であっても、神の言葉によって立ち向かわれたのです。
つまり、神の言葉は悪魔の誘惑にも勝利する力あるものなのです。
そして、これは、神に従うことを意味します。

私たちは、悪魔に立ち向かう前に、神に従うことが先決です。
神に従った上で、悪魔に立ち向かわなければなりません。

それは、ヤコブ 4:7 にもあるとおりです。
悪魔に立ち向かっていく前に、神に従っていなければなりません。

使徒19では
:13 ところが、諸国を巡回しているユダヤ人の魔よけ祈祷師の中のある者たちも、ためしに、悪霊につかれている者に向かって主イエスの御名をとなえ、「パウロの宣べ伝えているイエスによって、おまえたちに命じる。」と言ってみた。 :14 そういうことをしたのは、ユダヤの祭司長スケワという人の七人の息子たちであった。 :15 すると悪霊が答えて、「自分はイエスを知っているし、パウロもよく知っている。けれどおまえたちは何者だ。」と言った。 :16 そして悪霊につかれている人は、彼らに飛びかかり、ふたりの者を押えつけて、みなを打ち負かしたので、彼らは裸にされ、傷を負ってその家を逃げ出した。

神に従っていないものが悪魔に立ち向かうと痛い目にあう事がわかります。
「お前たちは何者だ」と言っています。
「私たちは、神に従うものだ」と言えるとき、悪魔に立ち向かえるのではないでしょうか。

イエス様もまさに、そうでした。神に従われました。そして、悪魔に立ち向かわれたのです。
悪魔に立ち向かう前に、まず神に従うものになりましょう。


2.神に従うとは

神の側に立つ、ということ。

いろんな表現もあるでしょうし、いろんな内容を含んでいると思いますが、あえて一言で言えば、
「神の側に立つ」ことだと思います。

イエス様が悪魔の誘惑に対しても、「聖書には、こう書いてある」と神様の側に立っているがゆえに言うことができる言葉を発せられました。

日本の法律に従って生きようとするなら、その日本の側にたつことが必要でしょう。
財布を拾ったとします。届けなくても大丈夫、ネコババしちゃえ・・・。ネコババしたら法律違反で、捕まります。
でも、そのときに「いや、拾ったものは届けなければならない法律だ」ということで届けたなら、日本の法律を守る人は、日本の法律によってまた守られるのです。

私たちが神の側に立ち、神の御言葉に生きるなら、神の御言葉によって守られるのです。
神に従うことがまずあって、そして、悪魔に立ち向かうものになりましょう。


結)その時、悪魔は逃げさる

私たちが神に従い、神の側に立って、神の御言葉に生きて、悪魔に立ち向かうとき、悪魔は逃げ去ります。
イエス様を誘惑した時の悪魔も、イエス様を離れていきました。
また、ヤコブ 4:7にも
ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。とあります。

悪魔に立ち向かうために、そして悪魔が逃げ去っていくためには、神に従い、神の側に立って、神の御言葉に生きる人生を歩むことです。
その一歩を今日も踏み出せるなら幸いです。祈りましょう。

2007/01/07

07.1.7 「実りを見るために」

マルコ 4:26-29
:26 また言われた。「神の国は、人が地に種を蒔くようなもので、 :27 夜は寝て、朝は起き、そうこうしているうちに、種は芽を出して育ちます。どのようにしてか、人は知りません。 :28 地は人手によらず実をならせるもので、初めに苗、次に穂、次に穂の中に実がはいります。 :29 実が熟すると、人はすぐにかまを入れます。収穫の時が来たからです。」

ヨハネ 15:16
あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。

序)「実り」
今年に入って1週間たちました。
ぼくの中では、「実り」という言葉が心に響いているようです。
イエス様が今年どんな年にしてくださるのか、楽しみですが、
「実り」という言葉がぼくの中ではポイントになるようです。

昨年は「心をイエス様に向ける」ということが年の初めに響いて、一年を通してそのことを意識しましたが、まさに心をイエス様に向けることによって、救われたこと、癒されたこと、励まされたこと等があり、イエス様がそのことに注目させてくださったことが確認できました。

そして今年は「実り」という言葉。。

まだ、具体的にどうなっていくのかわかりませんが、「実り」を期待したいと思っています。
実りについて聖書を見てみましょう。

1.プロセスがある。
実りとは、実を結ぶことです。
実を結ぶと聞くと、何か行動を起こして、自ら実を結ぶようにしなきゃいけないと捉えがちですが、
今日お読みいただいた箇所を見るとそうとも限りません。
地に種をまくことから始まります。いきなり実を結ぶことはありえません。まずは、種をまくことです。
種をまいているから、実りがあるのです。
種はやがて芽を出します。芽はやがて苗となり、苗は成長し穂となり、その穂の中に実が入ります。そして、その実は成長し、熟していくと、収穫するのです。

種から実りまでには、このようなプロセスがあります。
私たちの信仰生活においても、プロセスがあるのです。

御言葉の種があなたの心にまかれます。その種から芽が出てきます。やがて苗となり、穂がつき、穂の中に実がなり、その実が熟すと収穫するのです。
種がまかれなければ、実はなりません。
実りには必ずプロセスがあるのです。
それ抜きには実りはありえないのです。
私たちの信仰生活においても、このプロセスを意識できるなら、幸いです。

2.人は知らない。
実りにはプロセスがあります。
しかし、そのプロセスの中でどのようにして実りとなるのかは、人は知らないのです。

農夫が種をまきます。
種は人手によらず地によって芽をだし、苗となり、穂となり、穂に実を、そして実は熟していくのです。
農夫はお世話はしますが、芽にすることはできませんし、穂にすることもできません。ましてや、穂に実を入れることもできません。
それは、地がなすのです。

私たちの信仰生活においても、種をまくことはできても、実をならすことはできません。
それは神様の業です。
福音を伝えることはできても、救うことはできないように。。
救うことができるのは神様ですから。

種がまかれてから、実が熟すまでにプロセスがありますが、その途中で私たちができることは何でしょうか。
それは、お世話することです。
具体的にはいろんなことが言えるでしょう。正解はひとつじゃありません。
自分にできることを精一杯やることがそれだと思います。

実が熟すことも私たちができることではなく、神様がしてくださることです。
私たちはその中で自分のできることをしていくときに、神様が熟させてくださることでしょう。
そして、実が熟したとき、収穫するのです。
収穫は私たちがするのです。神様がされるのではなく、私たちです。
そのためには、実が熟しているか、しっかりと見極めないといけないですね。
それは、私たちが精一杯できることをしているなら、わかると思うのです。

「実り」を見るために、私たちができることは何でしょう。

・種をまく。
・精一杯できることをする。
・収穫する。

これだけです。
これらはいろんなことに当てはめて考えられます。

結)実りのために選ばれた。
さて、この実を結ぶのは、誰でしょうか。
それは、私たちです。
ヨハネ15:16に「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、・・」とあります。

実を結ぶため、実りを収穫するために、私たちを神様が選んでくださって、任命してくださったのです。
ですから、私たちは信仰を持って、大胆に種をまき、精一杯のことをし、実りを期待しましょう。
今年、種をまいて、今年収穫できるものばかりではないかもしれません。
今年は種まきとお世話だけで一年たつものもあるでしょう。
また、既に何年も前に種をまいていて、今もお世話中で、今年もまだ収穫できないかもしれません。
そして、今年収穫できる実もあるかもしれません。

いずれにしても、神様は着実に成長させてくださっていると信じます。
そのためにも、今私たちができることを精一杯させていただきましょう。
今年の神様の御業に、神様がなされる実りに期待したいですね。

2007/01/01

あけましておめでとうございます

みなさん、あけましておめでとうございます

2007年より、こちらに過去メッセージを掲載し、残していこうと思います。
今後ともよろしくお願いします。

毎回、掲載できるといいのですが・・・(^^;