2009/05/17

09.5.17「祈りはきかれるのか。」

使徒 12:1-17
:1 そのころ、ヘロデ王は、教会の中のある人々を苦しめようとして、その手を伸ばし、
:2 ヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺した。
:3 それがユダヤ人の気に入ったのを見て、次にはペテロをも捕えにかかった。それは、種なしパンの祝いの時期であった。
:4 ヘロデはペテロを捕えて牢に入れ、四人一組の兵士四組に引き渡して監視させた。それは、過越の祭りの後に、民の前に引き出す考えであったからである。
:5 こうしてペテロは牢に閉じ込められていた。教会は彼のために、神に熱心に祈り続けていた。
:6 ところでヘロデが彼を引き出そうとしていた日の前夜、ペテロは二本の鎖につながれてふたりの兵士の間で寝ており、戸口には番兵たちが牢を監視していた。
:7 すると突然、主の御使いが現われ、光が牢を照らした。御使いはペテロのわき腹をたたいて彼を起こし、「急いで立ち上がりなさい。」と言った。すると、鎖が彼の手から落ちた。
:8 そして御使いが、「帯を締めて、くつをはきなさい。」と言うので、彼はそのとおりにした。すると、「上着を着て、私について来なさい。」と言った。
:9 そこで、外に出て、御使いについて行った。彼には御使いのしている事が現実の事だとはわからず、幻を見ているのだと思われた。
:10 彼らが、第一、第二の衛所を通り、町に通じる鉄の門まで来ると、門がひとりでに開いた。そこで、彼らは外に出て、ある通りを進んで行くと、御使いは、たちまち彼を離れた。
:11 そのとき、ペテロは我に返って言った。「今、確かにわかった。主は御使いを遣わして、ヘロデの手から、また、ユダヤ人たちが待ち構えていたすべての災いから、私を救い出してくださったのだ。」
:12 こうとわかったので、ペテロは、マルコと呼ばれているヨハネの母マリヤの家へ行った。そこには大ぜいの人が集まって、祈っていた。
:13 彼が入口の戸をたたくと、ロダという女中が応対に出て来た。
:14 ところが、ペテロの声だとわかると、喜びのあまり門を開けもしないで、奥へ駆け込み、ペテロが門の外に立っていることをみなに知らせた。
:15 彼らは、「あなたは気が狂っているのだ。」と言ったが、彼女は本当だと言い張った。そこで彼らは、「それは彼の御使いだ。」と言っていた。
:16 しかし、ペテロはたたき続けていた。彼らが門を開けると、そこにペテロがいたので、非常に驚いた。
:17 しかし彼は、手ぶりで彼らを静かにさせ、主がどのようにして牢から救い出してくださったかを、彼らに話して聞かせた。それから、「このことをヤコブと兄弟たちに知らせてください。」と言って、ほかの所へ出て行った。

序)祈りはきかれるのか。
今まで、どのようなことを祈ってきましたか?
そして、その祈りは聞かれてきましたか?
数え切れないほどの祈りの課題をイエス様につきつけてきたなぁと思います。
そして、それらは聞かれたものもあれば、今はまだのもの、聞かれなかったのかな?と思うもの、等さまざまです。

今日、お読みした箇所で、「祈っていた」という箇所が出てきます。
この祈りによって、何が起こったのか、そのことから教えられていきたいと思います。


1.大ぜいで祈っていた。

:5 教会は彼のために、神に熱心に祈り続けていた。
:12 そこには大ぜいの人が集まって、祈っていた。

ペテロが捕らえられてしまったわけですが、
教会では、熱心に神に祈り続けられてました。
また、ヨハネの母マリアの家でも大ぜいの人が集まって、祈っていたのです。

マタイ 18:19 まことに、あなたがたにもう一度、告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。
マタイ 18:20 ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」

少なくとも複数の人が集まり、祈られていたのです。
私たちも普段、一人で祈ることもあるでしょう。
それは素晴らしいことです。イエス様との交わりが深くされていくことです。

また、月1回ではありますが、祈り会を持っています。
これは、本当に素晴らしいことですね。
その中にイエス様がおられ、そこでの二人以上の心を合わせた祈りがささげられているのです。

ここでも、教会で、またヨハネの母マリアの家で、祈りがささげられていたのです。

教会の祈り会だけでなく、夫婦で祈ることも二人での祈りです。
子供と一緒に祈ることもできるでしょう。
友人と祈ることもできます。
リクエスト出すことができる祈りなら、是非、自分だけでなく、もう一人誰かに一緒に祈ってもらうことは本当に素晴らしいことです。

これからも、二人以上での祈りを続けていきたいですね。



2.わからない道も通る。

ペテロは結果的に、牢から助けられました。
すばらしい御業がなされたのです。
しかし、ペテロがそのことに気づいたのは、
:11 そのとき、ペテロは我に返って言った。「今、確かにわかった。・・
です。
それまで、7節から10節までに書かれているように、御使いが現れ、ペテロを起こし、脱出する準備をさせ、御使いの後をついてこさせ、門を次々と開けて、町に通じる門まで開けて、導いたのに、ようやくそこで、何が起こったのかがわかったのです。

私たちの人生の中で、今はわからないがあるときに、今までのことの意味がわかるときがくるということを経験されると思います。
これは、年齢の高い人ほど多いかも知れません。
・・・ってことは、ぼくはみなさんより多い可能性は高いですね(笑)

祈っていても、それが聞かれるまでの間、どこで何が起こって、それが祈りの応答なのかどうかもわからないこともあると思います。
しかし、あるときに、それが祈りの応答であることがわかることもあるのです。

ペテロは、途中まで幻をみているようで、現実のこととして受け止められなかったようですし、そのようなすばらしい御業がなされているのに、御使いがいなくなってから、ようやく気づいたようです。

また、祈っていた人たちも、ペテロが帰ってきたというのに、信じませんでした。
何が起こっているのかわからなかったのです。


私たちにもまだ聞かれていないと思っている祈りの課題があるかもしれません。
でも、実は私たちの理解できないところで、すでに動き始めているかもしれないのです。
祈り続けたいですね。


結)祈りはきかれる。
ここでは、祈りは聞かれました。
ペテロのための祈りは、ペテロが牢から解放されるという応答がなされました。
私たちが祈っている課題は、課題として祈りましょう。
でも、その応答、つまり答えは主にゆだねるのです。

もし、義務教育で、聖書が教えられる教育制度になりますように、、、と祈ったとしましょう。
でも、それが果たして神様の御心なのかどうかわかりません。
ローマの国教がキリスト教になってから、キリスト教は荒廃していきました。
同じとは思いませんが、神様の御心は神様の側にあるのです。
私たちが変えることはできません。
家族が救われてほしいと願います。
でも、その方法は私たちが願った方法になるかどうかはわからないのです。
神様は、祈りを聞いてくださっています。
そして、時にかなって答えてくださいます。

イエス様が地上にこられた時、弟子たちは
「この方こそ、メシア救い主だ。この方が王国を築いてくださるのだ。」と希望を持ちました。
しかし、十字架で死なれることを聞いて、ペテロはそんなことがあってはなりませんといいました。
その気持ちとして、その通りだと思います。
救い主として来られた方が王として王国も作ってないのに、死んでしまうなんて、、、。
人々の希望なのに、そんなことあってはならないという気持ちもあったと思うのです。
でも、イエス様はそんなペテロに対して、
「サタンよ、下がれ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」
と言われました。
神の御心は、イエス様が十字架にかかって命をささげることでした。
そして、神様は救い主を待ち望んでいた人々の希望を打ち砕いたのでしょうか?
そうではありません。
その十字架の死によって、救いは完成したのです。
祈りは答えられたのです。

私たちは、自分にできることをしますが、この結果(答え)は神様にゆだねましょう。

祈りは聞かれるのですから、希望をもって、祈り続けることをしていくものになりたいですね。

2009/05/03

09.5.3「使命に目覚める」

ヨハネ21:1-7
:1この後、イエスはテベリヤの湖畔で、もう一度ご自分を弟子たちに現わされた。その現わされた次第はこうであった。
:2シモン・ペテロ、デドモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナのナタナエル、ゼベダイの子たち、ほかにふたりの弟子がいっしょにいた。
:3シモン・ペテロが彼らに言った。「私は漁に行く。」彼らは言った。「私たちもいっしょに行きましょう。」彼らは出かけて、小舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。
:4夜が明けそめたとき、イエスは岸べに立たれた。けれども弟子たちには、それがイエスであることがわからなかった。
:5イエスは彼らに言われた。「子どもたちよ。食べる物がありませんね。」彼らは答えた。「はい。ありません。」
:6イエスは彼らに言われた。「舟の右側に網をおろしなさい。そうすれば、とれます。」そこで、彼らは網をおろした。すると、おびただしい魚のために、網を引き上げることができなかった。
:7そこで、イエスの愛されたあの弟子がペテロに言った。「主です。」すると、シモン・ペテロは、主であると聞いて、裸だったので、上着をまとって、湖に飛び込んだ。

序)テベリヤ湖畔で、弟子達に現されたイエス様
イエス様が復活された後、弟子達にご自身を現されました。
そして、ここでも、ペテロや他の弟子達に現された出来事が書いてあります。


1.「私は漁に行く。」

イエス様が復活されて、ペテロ達は既に復活のイエス様に出会っていました。
でも、以前のようにいつも一緒におられたわけではなかったようです。
そこで、ペテロは漁に行くと言い出したのです。ペテロは、もともと漁師でしたから、いわば本職です。
しかし、その夜は何も取れませんでした。

ペテロは、もともと漁師だったのですが、イエス様の弟子となったときに、何もかも捨ててイエス様に従っていったのです。
つまり、漁師を辞めて、イエス様の弟子となったのです。

ところが、イエス様が十字架で死なれ、葬られてしまいました。その後、イエス様が復活され、そのイエス様に出会っていたのですが、先ほども話したように、以前のようにいつも一緒にいるというわけではなく、このテベリヤの湖畔にいるときも、イエス様が今どこにおられるのかわからない状態だったのでしょう。

ペテロは、イエス様がおられないから、自分の力でできることとして漁に出ようと思ったのでしょうか。あるいは何もすることがわからず、以前の仕事である漁師をやろうと思ったのでしょうか。
「私は漁に行く」と言い出したのです。すると、他の弟子達も「私達も一緒に行きましょう」と一緒に漁に出かけました。

ペテロは自分が一番得意とすること、イエス様に頼らなくても、漁師なら自分の力でやっていけると思っていたことをやろうとしましたが、結果は収穫ゼロでした。
しばらくやってなかったから、腕が鈍ったかなぁとか、思ったかも知れませんね。


私達は、イエス様がわからなくなったり、見えなくなったりすると、自分の力で何とかしようとしてしまったりすることはないでしょうか。
また、自分の方法で何とかをしようとすることはないでしょうか。
実際にそのように自分の力に頼ったり、自分の方法に頼っても、何の結果も得られなかったり、何もできなかったりする事もあるでしょう。ペテロのように・・・。

信仰生活を送っていると、そのようにイエス様がわからなくなったり、見えなくなったように感じることがあるかもしれません。
でも、だからこそ、イエス様に自分自身を向けるべきなのに、目に見える自分であったり、周りの人に目を向けてしまって、そこに拠り所を見つけようとしてしまうことがあるんじゃないでしょうか。
でも、その結果は、いつも期待通りだとは限らないのです。

聖書は、たとえとして捕らえる必要がありますから、ここでは、自分の持っている能力が発揮できる仕事をしてはいけないというメッセージではありません。
これは、イエス様を身近に感じられないと思ってしまったときでも、自分の力や方法に頼ってしまってもそこに解決はないということを教えているのではないでしょうか。

イエス様の弟子としてイエス様と共に生活していたようなペテロだったのに、イエス様が目の前におられないと、自分の力や方法に頼ってしまいました。
でも、イエス様はそれを望んではおられなかったのです。

では、どうすればいいのでしょう。


2.「舟の右側に網をおろしなさい。そうすれば、とれます。」

夜明け頃、収穫ゼロで意気消沈していたペテロ達の前で、イエス様は岸べに立たれました。
でも、弟子達はそれがイエス様であることがわかりませんでした。
遠くだったから、誰なのかわからなかったのでしょうか。
聖書はたとえとして私達に教えてくれますから、それだけではないと思います。
イエス様に目を向けず、自分の力や方法に頼ってしまった弟子達は、イエス様を見る事ができなかったのです。
心の目が閉ざされた私達は、イエス様がたとえ目の前に立っておられたとしても、それに気付く事ができなくなってしまう事もあるのです。

そして、「食べるものがありませんね」と言われ、
「舟の右側に網をおろしなさい。そうすれば、とれます。」と言われました。
そして、網を下ろしてみると、おびただしい魚が取れ、網を引き上げる事ができないほどでした。

ペテロ達は、自分達の力や方法に頼ったとき、何の収穫もありませんでした。
ところが、イエス様の言うとおりにしたら、大収穫があったのです。
イエス様の力、イエス様の方法で行動するなら、そこには収穫という結果があります。
そのことが教えられます。

私達がイエス様を感じられない、どこにおられるかわからない、と思って、イエス様に目を向けようとせず、自分の力や方法に頼ってしまいたくなるとき、本当すべき事は、イエス様を求めることではないでしょうか。

今、未曾有の不況だといわれています。だから経済の必要がある。仕事の必要がある。
こんなひどい状況で、イエス様がどこにおられるかわからない。イエス様に頼っていても生活できない、と言って、自分の力や方法だけで何とかしようとするでしょうか。そこには、結果はないかもしれません。
「イエス様、経済を祝福してください。仕事を与えてください。」と祈るでしょうか。
それもそれで必要です。
しかし、一番大切なことは、本当の解決を持っておられるイエス様ご自身を求めることではないでしょうか。
そこにイエス様がおられ、そのイエス様を見出すなら、そして、そのイエス様の力や方法で行動するなら、解決へと導かれるのです。

結)使命に気付く

イエス様の方法は、「舟の右側に網をおろしなさい。」でした。
当時、漁というのは、夜するものでした。ですから、夜明けになると魚が取れなくなるので、仕事は終了です。
ところが、夜明け頃にイエス様は、網を下ろすように言われたのです。
人間的には、今頃網を下ろしても取れるわけがない。漁に適した時間帯に一晩中やってたのにだめだったというのに・・・と思うでしょう。
でも、イエス様の言うとおりにしたら、大収穫だったのです。

はて、このシーン、見たことがあるような・・・

ルカ5:4-6
話が終わると、シモンに、「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい」と言われた。
するとシモンが答えて言った。「先生。私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。でもおことばどおり、網をおろしてみましょう。」
そして、そのとおりにすると、たくさんの魚が入り、網は破れそうになった。

ペテロがイエス様に出会い、この出来事の後に、弟子となったのです。
その時と同じです。
だからだったのでしょうか。ある弟子がペテロに言ったのです。
「主です。」
この出来事から、岸べに立っておられる方がイエス様であることがわかったのかもしれません。

ペテロは、自分がイエス様の弟子となったときと重ね合わせたかもしれません。
そして、自分がするべきこと、その使命をもう一度確認できたのではないかと思うのです。
それは、イエス様の弟子となるときに、イエス様に言われた言葉です。

「これから後、あなたは人間をとるようになるのです。」(新改訳)
「今から、あなたは人間をとる漁師になるのだ。」(口語訳)

ペテロは、自分はもう一度、魚を取る漁師に戻る事が自分の道ではなく、人々に神の国を述べ伝え、神の国に人々を導くことが自分の使命であることに気付いたのではないでしょうか。
イエス様は、ペテロにそのことを気付かせる為に、この出来事の中で、ご自身を現されたのではないかと思うのです。

私達もまた、神様から与えられた使命があるのです。その使命に生きているでしょうか。
忘れているなら、神様が気付かせてくださることがあるでしょう。
そのためにも、ここから私達は学ぶ必要があると思うのです。

自分の力や方法で行動するのではなく、イエス様ご自身を求めて、イエス様の力や方法に頼り行動するのです。
その時に、本来の私達の使命に目覚めさせてくださると信じます。