2007/10/21

07.10.21「隠れた罪から守る」

黙示録 2:18-29
:18 また、テアテラにある教会の御使いに書き送れ。『燃える炎のような目を持ち、その足は光り輝くしんちゅうのような、神の子が言われる。
:19 「わたしは、あなたの行ないとあなたの愛と信仰と奉仕と忍耐を知っており、また、あなたの近ごろの行ないが初めの行ないにまさっていることも知っている。
:20 しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは、イゼベルという女をなすがままにさせている。この女は、預言者だと自称しているが、わたしのしもべたちを教えて誤りに導き、不品行を行なわせ、偶像の神にささげた物を食べさせている。
:21 わたしは悔い改める機会を与えたが、この女は不品行を悔い改めようとしない。
:22 見よ。わたしは、この女を病の床に投げ込もう。また、この女と姦淫を行なう者たちも、この女の行ないを離れて悔い改めなければ、大きな患難の中に投げ込もう。
:23 また、わたしは、この女の子どもたちをも死病によって殺す。こうして全教会は、わたしが人の思いと心を探る者であることを知るようになる。また、わたしは、あなたがたの行ないに応じてひとりひとりに報いよう。
:24 しかし、テアテラにいる人たちの中で、この教えを受け入れておらず、彼らの言うサタンの深いところをまだ知っていないあなたがたに言う。わたしはあなたがたに、ほかの重荷を負わせない。
:25 ただ、あなたがたの持っているものを、わたしが行くまで、しっかりと持っていなさい。
:26 勝利を得る者、また最後までわたしのわざを守る者には、諸国の民を支配する権威を与えよう。
:27 彼は、鉄の杖をもって土の器を打ち砕くようにして彼らを治める。わたし自身が父から支配の権威を受けているのと同じである。
:28 また、彼に明けの明星を与えよう。
:29 耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。」』

序)テアテラの教会へ
ここは、テアテラにある教会の御使いにあてた主の言葉です。
ここから、神様はとても大事なことをメッセージしておられると思います。
ご存知通り、黙示録は預言書ですから、その解釈はいろいろあるかもしれませんが、少なくとも私が個人的に教えられたことを今日も分ち合いたいと思います。
また、私の個人的な解釈も含まれていることを理解してください。

1.主は全てを知ってくださっている。

毎回、最初に主が全てを知ってくださっていることがわかります。
また、それを褒めてくださって、私たちに対する理解を十分に示してくださいます。
これは、私たちにとっては本当に大きな励ましであり喜びです。
人から理解されないことであったとしても、周囲の評価があまり高くなかったとしても、それどころか低い評価であったとしても、主は本当の理解者として全てを見ていてくださり、知っていてくださり、理解していてくださり、評価してくださるのです。

ここでも、行い、愛、信仰、奉仕、忍耐について理解と評価を下さっています。

そのお方が非難すべきことがあるとおっしゃっていることがこのあとに書いています。


2.隠れた罪

ここでは、最初に見たようにイゼベルという女によって、主のしもべが間違った方向へ導かれて、罪を犯していることがわかります。
私はここでいう罪というのは、「偶像礼拝」が大きなポイントではないと感じています。

イゼベルによって、不品行と偶像の神にささげたものを食べるという罪を犯していることがはっきりと書いてあります。

イゼベルとは、アハブの妻となった女で、アハブは主の前に悪を行ったものだとあります。そのアハブをそのようにそそのかした女がイゼベルです。

1列王記 16:30 オムリの子アハブは、彼以前のだれよりも主の目の前に悪を行なった。
:31 彼にとっては、ネバテの子ヤロブアムの罪のうちを歩むことは軽いことであった。それどころか彼は、シドン人の王エテバアルの娘イゼベルを妻にめとり、行ってバアルに仕え、それを拝んだ。

1列王記 18:4 イゼベルが主の預言者たちを殺したとき、オバデヤは百人の預言者を救い出し、五十人ずつほら穴の中にかくまい、パンと水で彼らを養った。・・

1列王記 21:25 アハブのように、裏切って主の目の前に悪を行なった者はだれもいなかった。彼の妻イゼベルが彼をそそのかしたからである。


不品行や偶像へささげたものを食べるというのは、いわば偶像礼拝であると思います。
このことは、テアテラの教会内で起こった出来事だと思われます。
この教会では、イゼベルは、教えによって誤りに導いたわけです。
神様のことが語られる教会で、誤りに導いたのです。

教会が神様に目を向け、神様だけを求めて、神様だけをしっかりと信仰の対象としているなら、それは素晴らしいことですし、神様の前に正しいことでしょう。
しかし、「こんなに素晴らしい神様に、そして何よりもイエス様の救いをたくさんの人に伝える為には、お金が必要です。だから、教会は事業を始めます。それでお金を十分儲けて、それによって伝道します。」と牧師が言ったら、どうでしょう。一見正しいようにも見えます。
そこまで言わなくても、「教会が伝道するためにはお金も必要です。ですから、まずは、献金が増えるように、祈りましょう。そして、実業家等が救われるように祈りましょう。そのクリスチャンになった実業家は献金もたくさんしてくれて、教会は更に前進するでしょう。また、影響力の大きな人ですから、多くの人も導かれるでしょう・・・」といえばどうでしょう。これも一見理にかなっているようにも見えるかもしれません。
しかし、教会が神様を求めずにお金儲けを求めては神様の祝福はどうなのでしょう。
実業家やお金持ちや有名人が先に救われなければ、伝道は進まないのでしょうか。

聖書は言います。

1コリント 1:22 ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシヤ人は知恵を追求します。 :23 しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、 :24 しかし、ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。 :25 なぜなら、神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。 :26 兄弟たち、あなたがたの召しのことを考えてごらんなさい。この世の知者は多くはなく、権力者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。 :27 しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。 :28 また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。 :29 これは、神の御前でだれをも誇らせないためです。 :30 しかしあなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました。 :31まさしく、「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりになるためです。

神様の言葉は逆です。

マルタとマリヤの話からもわかりますが、神様が求めておられるのは、「神様のため」に心を向けるのではなく、「神様ご自身」に心を向けること、求めることです。
神様は私たちがささげなければ、伝道できない方ではありません。私たちに養われる方ではありません。

私たちが神様を求め、神様に目を向け、与えられた御言葉、聖書の上にしっかりと立ち、人生を歩み、伝道していくなら、その結果して、事業が祝福され、ささげることのできる財産が与えれるかも知れません。

他にもいろんな教えによって、誤った方向へ導かれるケースはあるかもしれません。


1コリント 9:19 私はだれに対しても自由ですが、より多くの人を獲得するために、すべての人の奴隷となりました。 :20 ユダヤ人にはユダヤ人のようになりました。それはユダヤ人を獲得するためです。律法の下にある人々には、私自身は律法の下にはいませんが、律法の下にある者のようになりました。それは律法の下にある人々を獲得するためです。 :21 律法を持たない人々に対しては、・・私は神の律法の外にある者ではなく、キリストの律法を守る者ですが、・・律法を持たない者のようになりました。それは律法を持たない人々を獲得するためです。 :22 弱い人々には、弱い者になりました。弱い人々を獲得するためです。すべての人に、すべてのものとなりました。それは、何とかして、幾人かでも救うためです。 :23 私はすべてのことを、福音のためにしています。それは、私も福音の恵みをともに受ける者となるためなのです。
口語訳では、
1コリント 9:23 福音のために、わたしはどんな事でもする。わたしも共に福音にあずかるためである。

パウロは福音のためにはどんなことでもするとまでいいましたが、本当でしょうか。
ここでいう「どんなことでも」「すべてのこと」には、「罪」は入っていません。
それでも、罪以外のことはどんなことでも・・・というように受け取れます。
だから、ここから、福音のためならば、なんでもやっていいんだという解釈もされているのかもしれません。
しかし、それは、「罪」以外のことです。

「私は、仏教国日本で、仏教徒である人々を救いに導く為に、仏教を信仰します。」あるいは、
「仏教を認め、仏教にも救いはあるのです」と言うでしょうか。
これは、偶像礼拝であり、偶像礼拝に導いていることになるのではないでしょうか。


「神様のため」という都合のいい言葉で、神様以外のものにも目を向けさせるなら、それは立派な偶像礼拝になると思うのです。

イゼベルはまさにそのような偶像礼拝へと導いていったということを示していると思うのです。

そして、悔い改めないなら、そこには神様からの裁きがあるのです。
それは、イゼベルにもその子にも・・・。


3.その中にも救いは残っている。

しかし、そんなテアテラの教会にも救いは残っているのです。

:24 しかし、テアテラにいる人たちの中で、この教えを受け入れておらず、彼らの言うサタンの深いところをまだ知っていないあなたがたに言う。わたしはあなたがたに、ほかの重荷を負わせない。 :25 ただ、あなたがたの持っているものを、わたしが行くまで、しっかりと持っていなさい。

そんな教会にあっても、そのような誤りに導かれる教えは受け入れず、ただイエス様だけを見上げて信じている人たちもいたのです。そして、その人々は、サタンの深いところをまだ知っていないというのです。それらの人には他の重荷は負わせないと言われています。

おそらく、そのような教会で間違った教えに対して、この人々は心を痛めているのでしょう。ですから、他の重荷は負わせないと主は言われ、その持っている信仰をしっかりと持っていることを言われています。

間違った教えがなされている教会は、今の時代にもあると思います。
しかし、その教会に属している人が全て裁かれるわけではないのです。その中にあっても、誤った教えを受け入れず、主についている人々はいるし、その人々を主はちゃんとわかってくださっており、救ってくださるのです。


結)私たちのなすべきこと
ここで私たちが受け止めなければならないことは、なんでしょう。
それは、
「間違った教えは受け入れず、ただイエス様だけを見上げ、求めて、御言葉だけにたつこと」だと思うのです。

その時に、主は「勝利を得る者」としての祝福を与えてくださることでしょう。

2007/10/08

07.10.7「言葉は生きている」

黙示録2:12-17
:12 また、ペルガモにある教会の御使いに書き送れ。『鋭い、両刃の剣を持つ方がこう言われる。
:13 「わたしは、あなたの住んでいる所を知っている。そこにはサタンの王座がある。しかしあなたは、わたしの名を堅く保って、わたしの忠実な証人アンテパスがサタンの住むあなたがたのところで殺されたときでも、わたしに対する信仰を捨てなかった。
:14 しかし、あなたには少しばかり非難すべきことがある。あなたのうちに、バラムの教えを奉じている人々がいる。バラムはバラクに教えて、イスラエルの人々の前に、つまずきの石を置き、偶像の神にささげた物を食べさせ、また不品行を行なわせた。
:15 それと同じように、あなたのところにもニコライ派の教えを奉じている人々がいる。
:16 だから、悔い改めなさい。もしそうしないなら、わたしは、すぐにあなたのところに行き、わたしの口の剣をもって彼らと戦おう。
:17 耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。わたしは勝利を得る者に隠れたマナを与える。また、彼に白い石を与える。その石には、それを受ける者のほかはだれも知らない、新しい名が書かれている。」』

黙示録 1:16 また、右手に七つの星を持ち、口からは鋭い両刃の剣が出ており、顔は強く照り輝く太陽のようであった。

序)ペルガモにある教会へ
今日は、7つの教会へあてたもののうちの3つめを見てみましょう。
ここでも、神様は理解と賞賛をしたのち、非難すべきことを伝え、祝福について語り締めくくるというような配慮をしつつ、鋭く指摘されています。

黙示録は、預言書ですから、その解釈も必要だと思いますが、今日は解釈するというのではなく、ここから今の私たちが教えられたり、戒められたり、励まされたりして、イエス様からの糧とさせていただきたいと思います。


1.神は知ってくださっている。

ここでも、神様は私たちのことをちゃんと知ってくださっていることがわかります。
あなたの住んでいる所に、サタンの王座があるというのです。
私たちの住んでいるところには、実はサタンの王座があるということなのかもしれません。
・・・
でもそのことよりも、その中であっても、主の名を堅く保ち、主の忠実な証人アンテパスが殺されたときでも、イエス様への信仰を捨てなかったことを知っていてくださっていることがはっきりと書かれています。

私たちの住んでいる日本では、現在、信仰に対する迫害はないかもしれません。
そういうこともあり、あまりピンと来ないかもしれませんが、これは相当素晴らしいことです。

本当に理解者は、イエス様だけなのです。


そのお方が「非難すべきことがある」といわれていることがあるのです。


2.教えに気をつける。

ここでは、バラムの教えを奉じている。とか、ニコライ派の教えを奉じている。とか出てきます。
この教えがどのようなものなのかを今日解説する時間もありませんし、できませんが、
ここで何を主が私たちにメッセージしておられるのかを見てみましょう。
12節と16節に「両刃の剣」「剣」という言葉が出てきます。
これは、神の言葉を意味していると思われます。
黙示録1:16には、
「また、右手に七つの星を持ち、口からは鋭い両刃の剣が出ており、顔は強く照り輝く太陽のようであった。」とありますし、16節では、「口の剣」とあります。

つまり、バラムの教えを奉じていたり、ニコライ派の教えを奉じているなら、主は御言葉の剣によって戦うといわれているのです。

これは、私たちがいろんな教えを聞くときにも気をつけなければならないということも示されているのではないでしょうか。

どんな人の教えや言葉も神の言葉によって吟味されなければなりません。
そうでないと、神の言葉から出ている言葉だと思っていても、それは実はそうではないかもしれないからです。
個人的には、今の時代は本当に気をつけなければならないと思います。
なぜなら、聖書以外の信仰書や解説書があまりにも多いからです。
信仰の迫害のある国や地方では、こっそりと聖書を読むしかありません。本屋にいっても聖書はありません。勿論、キリスト教書店などはありません。
だから、純粋に聖書だけを、混じりけのない神の言葉だけを読んでその信仰が強くされていくのです。
聖書しかない状態では、信仰が強くならないのでしょうか。信仰を助けるのが目的であるなら、聖書だけを読んでいるだけでは、それができないのでしょうか。
私は決してそんなことはないと思います。
聖書を読むときに、神様は働かれます。真理の御霊によって解き明かしてくださるのです。
そこには、サタンの入る余地はありません。

ヘブル 4:12 神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。

神の言葉は生きているのです。聖なる言葉として・・・。
また、サタンからの言葉であっても、忌むべき言葉として生きているのです。
だから、気をつけなければならないのです。

ここでいうバラムの教えやニコライ派の教えは、神の前に忌み嫌われるものでした。
そんな教えが教会内で奉じられるということが起こり得るのでしょうか。
いや、起こっていたのです。そして、これは今の時代にも起こる可能性を示唆しているのかもしれません。

実際どうであろうとも、私たちは神の言葉を純粋に慕い、神の言葉によって生かされ、神の言葉によって教えられていくものとなりいたいですね。


結)勝利を得る者となるために。
:17 耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。わたしは勝利を得る者に隠れたマナを与える。また、彼に白い石を与える。その石には、それを受ける者のほかはだれも知らない、新しい名が書かれている。
これは、解釈は難しいですが、少なくとも、勝利を得る者には大いなる祝福が用意されていることは理解できます。
そのために私たちは何をすべきでしょうか。
最高の理解者、唯一の理解者である神様の言葉だけを真の教えとして、御言葉にたつものであるべきですね。
殺されるかもしれない。理不尽なことに出会うかもしれない。それでも、神の言葉にだけ立って、その信仰を堅く保ち続けるものとなりたいと願います。
そして、そういう人に主はそうすることができるだけの愛を聖霊によって注いでくださるのです。