09.1.25「イエス様のとりなし」
ルカ 22:31-34
:31 シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。
:32 しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」
:33 シモンはイエスに言った。「主よ。ごいっしょになら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。」
:34 しかし、イエスは言われた。「ペテロ。あなたに言いますが、きょう鶏が鳴くまでに、あなたは三度、わたしを知らないと言います。」
序)私たちはつまづいたり、倒れることもある者
子供はよくこけます。ぼくもそうでした。
幼稚園が小学校の低学年のころ、市内のちょっとした山に遠足かなにかで行ったのですが、
その時、下り坂から上り坂になるようなところがあり、そこを一気に下り、そのいきおいで上るという感じでみんなやり始めたので、ぼくも調子に乗って、走って下りはじめました。
ところが、思った以上に下りがながく、足がついていかずに、のぼりになるまでの前のめりに転んでしまいました。
いまだに下り坂は走りません。。
私たちは、そうやってつまずいたり、転んだり、倒れたりしますが、
これは人生、生活においてもそうですね。
クリスチャンになる前に、タバコを吸っていたのですが、もうやめようと思い、禁煙にチャレンジしました。でも、途中で挫折してしまいました。
そんなことが何度もありました。
また、学生のころ、1年以上つきあっていた彼女に振られた時は、人生につまずきました。
というと大袈裟ですが、そのころのぼくにとってはそれくらいの打撃でした。
毎晩飲み歩いて、つけをため込んだ時期でもあります。
みなさんはこんなつまずきや挫折を経験されてないかもしれませんが、
少なくとも何らかのことで、つまずいたりした経験をしたことはあるのではないでしょうか。
やってはいけないと思いつつも、やってしまって、罪を犯してしまったこと。
今年こそ○○するぞ。と新年に決めたのに、もう既にできていない・・・とか。
人生には、つまずいてしまったり、思ったようにできなかったりして、倒れてしまうような経験が大なり小なりあると思います。
でも、私たちはそういう者なのです。
だからといって、何やってもいいというわけではないですよ。
努力しても、思うようにできないこともある、人はそういう弱さを持っていたり、
サタンがそのように誘惑してきて、それに耐えられない時もある、そういう者であるということなのです。
:31 シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。
どちらにしても、まず自分自身をそのままの自分を受け止めましょう。
スポーツ選手でも、自分の弱点を知らずして、成長はないんですね。
その弱点を克服するように訓練することによって、成長していくのです。
高ぶることなく、まずは、自分はそういうものである事実をしっかり受け止めましょう。
さて、それだけでは、私たちは、自己嫌悪に陥ったり、凹んじゃいますよね。
自分ってなんて情けない、弱い、愚かなやつなんだ・・・って。
でも、イエス様は私たちをどう見ておられるのでしょう。
1.あなたのために祈って下さる。
:32 しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。
イザヤ 43:4 わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。
イエス様は私たちのために祈って下さるお方です。
そんな弱さを持ち、つまずいたり、倒れたりすることをご存知の上で、私たちの為に祈って下さるお方なのです。
ヘブル 7:24-25
しかし、キリストは永遠に存在されるのであって、変わることのない祭司の務めを持っておられます。したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。
私たちの為に日々執り成し、祈ってくださっているのです。
ペテロをはじめ弟子達を愛して、祈られたイエス様。
今、イエス様は私たちがどんなに弱く、倒れるものであっても、私たちを愛して、尊いものとしてみて下さり、私たちの為に執り成して祈って下さるのです。
ここでも、ペテロがつまずき、散らされてしまうことをご存知で、ペテロの為に祈ったと言われています。
もし、過去の罪やイエス様に応えられなかったことや失敗やつまずきをそのまま引きずらないと生きていけないなら、なんという苦しい人生でしょう。
ぼくは、とてもここに立てませんし、教会へのいけないと思います。
でも、イエス様はそうは言われてない。
ペテロに対して、麦のように振るわれるでしょう。でも、信仰がなくならないように祈ったよ。と言われた。
たとえ、失敗しても、つまずいても、倒れても、見捨てないよ。という神様のメッセージを見ることができますね。
見よ、私は世の終りまであなたがたと共にいる。と言われた主が見捨てない、共にいる、愛している、祈っている、、、と言われるのです。
ですから、もし、こんな失敗をした、倒れてしまった、、、
神様に申し訳ない、と思っても、大丈夫です。
イエス様は、既に、そして今もあなたの為に祈って下さっていますから。
だから、私たちは、もう一度立ち上がれるのです。
2.あなたは立ち直れる。
:32・・・・・だからあなたは、立ち直ったら、・・・
イエス様が祈って下さったから、ペテロは立ち直れたのです。
イエス様がここでペテロに言われました。
「あなたの信仰がなくならないように祈ったから、立ち直るのです。」と。
私たちはつまずいたり、失敗したり、倒れたりするけれども、
イエス様が祈って下さっているから、立ち直れるのです。感謝ですね。
私自身、何度もそうやって立ち直ってきました。
それはイエス様が祈って下さっていたから。
また、イエス様によって、私のまわりのたくさんの人が祈ってくれていたからだと思います。
そうやってこれからも立ち直ることができるのです。
これはイエス様によるのです。自分によるのではないのですね。
へりくだって主に感謝しましょう。
このように素晴らしいイエス様だから、まず神の国と神の義を求めましょう。
イエス様が弱い私たちの為に今も祈っていて下さるから。
このお方によって、立ち直ることができるから。
このことを経験するなら、ますますイエス様を信頼し、心を向けるものとなるでしょう。
結)立ち直ったら・・・
ペテロがイエス様の祈りによって、立ち直ったあとに、するべきこととして言われたことは、
「兄弟たちを力づけてやりなさい」でした。
イエス様の祈りによって、信仰がなくならず、自分の弱さに打ちひしがれ、倒れてしまったペテロが立ち直った時に、兄弟達を力づけるということを命じられました。
これは、イエス様によって立ち直った人は、自分だけでなく、周りの人にまでその愛を、恵みを流し出す人になれるということではないでしょうか。
私たちは、同じような苦しみを味わった人の気持ちがわかるでしょう。
その時、その人の気持ちを理解して、執り成して祈ることもできるでしょう。
イエス様は十字架に至るまでの地上の生涯の中で、あらゆる苦しみや痛みを経験されました。
だから、私たちの苦しみを理解して、祈って下さるのです。
そして、このイエス様によって、立ち直ることができた人は、今度は他の人を力づけることまでもできるようになるのです。
私たちの人生に無駄なことなど何一つありません。
失敗したことも、倒れてしまっていた時間も、罪を犯してしまったことも、
イエス様はすべてを益にして下さるお方です。
そして、このお方が「信仰がなくならないように」祈って下さるのです。
イエス様を知った私たちは、どんなに回り道をしたとしても、
立ち直れるのです。そして、兄弟達を力づけることができるのです。
今、自分が倒れているという人は、主に心を向け続けてましょう。
必ず、立ち直れます。なぜならイエス様が祈って下さっているから。
今、自分が立ち直ったという人は、さらに主に心を向け続けてましょう。
弱っている人を力づけることができます。
これは、直接声をかけることばかりでなく、
主が私たちにして下さっているように、執り成して祈ることによってもできます。
本当に感謝です。
この素晴らしいイエス様のとりなしを感謝して、今日もイエス様に心を向けましょう。