2007/04/29

07.4.29「求めるべきもの」

マタイ16:1-12
:1 パリサイ人やサドカイ人たちがみそばに寄って来て、イエスをためそうとして、天からのしるしを見せてくださいと頼んだ。:2 しかし、イエスは彼らに答えて言われた。「あなたがたは、夕方には、『夕焼けだから晴れる。』と言うし、:3 朝には、『朝焼けでどんよりしているから、きょうは荒れ模様だ。』と言う。そんなによく、空模様の見分け方を知っていながら、なぜ時のしるしを見分けることができないのですか。
:4 悪い、姦淫の時代はしるしを求めています。しかし、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられません。」そう言って、イエスは彼らを残して去って行かれた。
 :5 弟子たちは向こう岸に行ったが、パンを持って来るのを忘れた。:6 イエスは彼らに言われた。「パリサイ人やサドカイ人たちのパン種には注意して気をつけなさい。」:7 すると、彼らは「これは私たちがパンを持って来なかったからだ。」と言って、議論を始めた。:8 イエスはそれに気づいて言われた。「あなたがた、信仰の薄い人たち。パンがないからだなどと、なぜ論じ合っているのですか。:9 まだわからないのですか。覚えていないのですか。五つのパンを五千人に分けてあげて、なお幾かご集めましたか。:10 また、七つのパンを四千人に分けてあげて、なお幾かご集めましたか。:11 わたしの言ったのは、パンのことなどではないことが、どうしてあなたがたには、わからないのですか。ただ、パリサイ人やサドカイ人たちのパン種に気をつけることです。」:12 彼らはようやく、イエスが気をつけよと言われたのは、パン種のことではなくて、パリサイ人やサドカイ人たちの教えのことであることを悟った。

序)何を求めてるのか
GWですね。
みなさん、今日4月29日は何の日かご存知ですか?
「みどりの日」じゃないんですよ。今年から「昭和の日」です。
では、5月4日は何の日ですか?
「国民の休日」じゃないんです。今年から「みどりの日」だそうです。
一体何のためにこんなことにしたのか、何を求めてるのかよくわかりませんが・・・^^;

さて、GWは長いお休みということで、人々はいろんなところに出かけたりします。
それは、何を求めているのでしょう。
休息?刺激?娯楽?癒し?・・・?
求めるのは、人によって違うでしょうね。

何を求めているのか、ということは時にとても重要になります。
神様が私たちに何を求めているのかを問われるとき、あなたはなんと答えますか。
今日、お読みした箇所から、教えられたことを分かち合いたいと思います。



1.しるしを求める人々

パリサイ人やサドカイ人たちがイエスを試そうとして、天からのしるしを求めました。
しかし、イエス様は与えられませんでした。

私が、イエス様を信じて救われて教会へ行くようになりはじめたころですが、その頃は京都に住んでいて、週末に長浜の実家に帰ってきて礼拝にいくようなパターンが多かったときです。
ある土曜日の夜、熱がでました。
日曜の礼拝へ行くのに、大丈夫だろうかと思うような状況ですが、
そのときはまだ自分も若く(笑)、礼拝にいくのだから、熱なんて大丈夫だと思っていましたので、迷わず礼拝へ行きました。親は止めましたが・・・^^;
礼拝後も熱は下がらなかったのですが、その日は何人かのクリスチャンたちと一緒に京都へ行って、京都に住んでいるクリスチャンの兄弟と交わったりする予定でした。
そのクリスチャンたちとぼくの車で京都へ行き、京都の兄弟を迎えに行き、ご飯を食べに行って、その後、ぼくのアパートに行って、礼拝の恵みを分かち合ったり、交わったりして、そのままぼくのアパートにみんな泊まりました。
その間、ずっと熱は高いままでした。
翌朝、目を覚ますとみんな遅刻ギリギリの時間でした。
慌てて準備してぼくの車でそれぞれ、家や駅まで送って、ぼくも仕事に向かいました。
なんとか間に合って、ほっとしたのですが、その時、気づいたのです。
「熱が下がってる・・」
ぼくはその時初めて、「癒された」と感じました。
信仰初期に神様を優先して、神様を求めていくときに、このようなしるしを体験しました。

今思うと、信仰初期は神様がこのようなしるしを与えてくださることもよくあるのかなと思うのです。
それは、つまづかないためでもあるかもしれませんが、その時の信仰だとも思います。
イエス様は、信仰によって、山に海へ入れといえば、そのとおりになるとも言われました。
純粋にイエス様を信じ、イエス様を求め、イエス様に信頼し、ついていく。
そんな信仰をイエス様が必要なしるしによって答えられるのだと思うのです。

ここでパリサイ人たちは、「イエスをためそうして」しるしを求めたのであって、イエス様を信頼していたわけではありません。
「しるし」自体を求めているのです。

いろんな集会があります。
教会の集会、教団や教派の集会、超教派の集会・・・
それらに行く事自体は何の問題もないように見えます。
しかし、そこへ行く人が何を求めていっているのか、は非常に重要です。

しるしをもとめ、何か奇蹟をもとめ、
さらには、そのしるしや奇蹟を行う人を求めたり、それをするといわれている人に期待しているならば、それは、危険といわざるを得ません。

イエス様はここではっきりと言われていますね。
「悪い、姦淫の時代はしるしを求めています。しかし、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられません。」
しるしを求める時代は、悪い、姦淫の時代であるとも言えるのです。
今の時代は悪い時代なのかもしれません。
そして、そのようにしるしを求めても、与えられないと言われています。
もし、そのように「しるしそのもの」を求めて、与えられているならば、それはどこから来ているかも吟味する必要があるのかもしれません。
これがまたイエス様が言われた「時のしるしを見分ける」ことにつながるのかもしれません。
この話はまた別に機会にしましょう。。

さて、私たちが求めるべきものは何でしょうか。

私たちは、「しるし」そのものを求めるのではなく、イエス様ご自身を求めることが大切です。
順序が逆になってはいけません。

イエス様を求めて、しるしが与えられるなら、しるしは結果に過ぎないのです。
イエス様を求め続けたいですね。

また、ここでは、この「しるしを求める人々」をも注意する必要があるようです。


2.いのちのパンを求める。

主は「パリサイ人やサドカイ人たちのパン種には注意して気をつけなさい。」と言われました。

パンは私たちが生きていく上で必要なものですが、そのパン種には気をつけなければならないのです。
パン種は、そのパンを膨らませます。ある意味、そのパンはパン種次第なのです。
どれだけパン生地がよくても、パン種によって、どうにでもなるともいえるのです。
このパン種、パリサイ人やサドカイ人たちのパン種には気をつけなければならないのです。

ここでも、私たちが求めるものが問われています。

弟子たちは、パン種のことが、「教え」であることに最後に気づきました。
私たちは人の教えには、十分に注意しなければならないということです。

たとえば、御言葉を実践することについて、
ある人が「この御言葉さえ実践していればいい」といって、次の御言葉を言ったとします。

1テサ5:16-18
いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。
これが、キリスト・イエスにあって、神があなたがたに求めておられることである。

この御言葉は素晴らしいものです。実際にこれを実践することは素晴らしいことです。
しかし、それだけでいいのでしょうか?
聖書は66巻あります。
そのすべてが必要であり、無駄ではないのです。
一つの御言葉だけを実践していればいいような「教え」には注意が必要です。

いろんな集会で、いろんな人が、いろんなことを語ります。
いろんな教えがあります。
今日、私が語っているのも、ひとつの人の言葉です。注意しましょう(笑)
人の言葉は、時には励ましにも慰めにもなることもあるでしょう。
それはそれでいいと思います。
しかし、人の言葉でも、それを自分の生きる糧であるパンのパン種といえるその中心に入れてしまうのは危険です。

では、私たちはどんなパンを、どんなパン種を、求め、それを受け入れるべきなのでしょうか。

ヨハネ6:35 イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。
ヨハネ6:48 わたしはいのちのパンです。

イエス様は、「いのちのパン」です。

もう、パンは用意されているのです。
それは、イエス様ご自身です。
いのちのパンである「イエス様ご自身」を求めるのです。
御言葉の種、御言葉のパン種を入れるなら、いいでしょう。

ヨハネ1:1初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。
イエス様は聖書の御言葉が受肉した方とも表現されています。

つまり、私たちは神様を求めるとき、そこには、いのちのパンがあり、満たされるのです。

人の教えを求めるのではなく、
「いのちのパン」であるイエス様を求めるものになるなら、幸いです。


結)求めるべきものは・・
イエス様は、いのちのパンとして、実際にご自身を捧げてくださいました。
そして、引き裂かれ、私たちの罪の身代わりとなって死んでくださったのです。
その十字架の上で、文字通り、全ての血を流し、血による代償を支払われたのです。
パンとぶどう酒をもって行う聖餐がありますが、まさにこのことを忘れないために記念してこれを続けるようにイエス様が命じられたことです。

あなたは、何を求めますか。
しるしや奇蹟を求めるのでしょうか。
また、人の教えを求めるのでしょうか。
私たちが求めるべきもの、それは、「イエス様ご自身」です。

イエス様も私たちを求めておられます。
罪の支払いは自分ではできません。
その罪の中で滅びてしまわないために、その罪から私たちを救うために、自らを捧げて、救いを用意してくださいました。
それは、イエス様があなたのことを命を捨てるほどに愛しておられるからです。
あなたをそれほどに求めておられるからです。

「人がその友のために命をすてること、これほど大きな愛はほかにない。」
といわれた最高の愛で私たちを愛しておられるのです。

イエス様が十字架にかかって、命を捨ててくださったのは、そのしるしです。

このお方を求める人は幸いです。

2007/04/22

07.4.22「イエス様を知る」

ルカ10:38-42
:38 さて、彼らが旅を続けているうち、イエスがある村にはいられると、マルタという女が喜んで家にお迎えした。:39 彼女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていた。:40 ところが、マルタは、いろいろともてなしのために気が落ち着かず、みもとに来て言った。「主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをするように、妹におっしゃってください。」:41 主は答えて言われた。「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。:42 しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」

序)イエス様が私たちに何をしてほしいと願っておられるか、とか、
聖書では、何をすべきなのか、、、は、今までも聞いてきましたし、
わかってるけど・・・という部分も少なからずあるかも知れません。

祈る、奉仕する、証しする、伝道する、仕える、集会にいく、賛美する、聖書を読む、喜ぶ、感謝する、、、
聖書にはたくさんの行動について、書かれています。

でも、私たちは、これを命じておられる方が、どんな方かを十分に知り、味わい、受け止め、受け入れることが必要であり、そのことの方がはるかに重要であると思います。

マリヤとマルタの話しから、その優先順位がわかります。
マルタは、イエス様をお迎えし、いろいろともてなしをしようとしていました。
それも素晴らしいことです。大切なことでしょう。
でも、イエス様はそんなマルタよりも、何もせずにイエス様のみもとに座って、御言葉を聞き入っていたマリヤの行動の方が良いほうを選んだと言われました。
これから何を教えられるでしょうか。
イエス様のために何かをすることも大切ですが、
それ以上にイエス様のこと知ろうとすることの大切さ、その優先順位のほうが上であることを教えられているのではないでしょうか。

勿論、何もしなくていいというわけではありません。
優先順位のことです。
働かなかったら、食べていけないし、、、ね^^;


さて、「イエス様はどんな方?」
みなさんはどれだけ言えますか?

今朝は楽しくイエス様を味わいましょう。


1.「愛なる方」

アガペーの愛(無条件の愛)で私たちを愛してくださる方です。
新改訳第3版の新約の中に「愛」という言葉は293件あるみたいです。
ちなみに、第2版では、292件、口語訳では291件、新共同訳では、283件でした。


イエス様の特徴はたくさんありますが、全てに共通するものが根底にあるのではないでしょうか。
イエス様は
慰め、励まし、許し、癒し、戒め、教える、共におられる、戦ってくださる、備え、羊飼い、覆い、守ってくださる、

このように、イエス様の特徴はたくさんありますが、
これらは、「イエス様が私たちを愛してくださってる」から、
してくださることと言えるのではないでしょうか。。

イエス様の愛は・・・
ヨハネ15:13
人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。
1ヨハネ4:8
愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。
1ヨハネ4:10
私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。
1ヨハネ4:16
私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにおられます。


十字架で命を捨てるほどの愛、全く自分の為ではなく、わたしたちの為に命を捨てるほどの愛。
これを十分に味わい、受け止め受け入れましょう。

そして、このような最高の愛で愛してくださっているイエス様が私たちにしてくださる最高のこととは何でしょうか。
それが「救ってくださる」ことです。



2.「救い主なる方」

使徒 4:12 この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです。

イエス様による以外、救いはない。
イエス様がどんな方・・・という時に、救い主であることを抜きには語れない。

イエス様は慰めて下さるが、
・・・人の慰めがあるかも知れない、
・・・人の励まし
・・・医者が癒し(治す)
・・・親が戒め教える
・・・伴侶が共にいる
・・・主人が戦ってくれる?
・・・親は備え
・・・誰かが覆い(米銃乱射事件の教授)
・・・誰かが守ってくれる・・・かも。

でも、どんな人も私たちを罪から救ってはくれない。
わたしたちを罪から救って下さり、永遠の命を与えてくださる方は、イエス様だけなのです。

だから、イエス様が救い主ということは、他のイエス様の性質とは別格なのです。
これを同等に扱ってはいけないと思うのです。
「イエス様は、癒してくださいますよ。祝福してくださいますよ。必要を満たしてくださいますよ。救ってくださいますよ。」
「じゃあ、イエス様に癒していただきたいし、祝福していただきたいし、必要を満たして欲しいです。でも、別に救いは必要だとは思ってません」って人がいたら、それは間違いです。

イエス様は私たちを救ってくださる。
これがなければ、イエス様の他のあらゆる性質を本当の意味で知ることはできないのです。
たとえ、癒され、満たされても、救われていないのなら、それは無意味ですよね。


ですから、これだけは、いつも心に留めておきましょう。
決して忘れてはいけないことです。
「たとえいろんなことがよくわからなくても、
イエス様は私を救ってくださる方」
これだけは言えるのです。



決)無条件で愛しているが故に、私たちにいつも良き方であり、
何よりも私たちを救い、永遠の命を得させてくださるのがイエス様です。

更に、イエス様がどんな方なのか、もっともっと知りたいですね。
聖書を読めば、メッセージを聞けば、賛美すれば、祈れば、・・・
神を愛し、自分を愛するように隣り人を愛すれば、もっともっとイエス様を知ることができるでしょう。
そして、イエス様の素晴らしさを体験し、イエス様を見上げる歩みを続けるなら、幸いです。
祈りましょう。

2007/04/15

07.4.15「子供のように」

マルコ 10:13-16
:1 イエスは、そこを立って、ユダヤ地方とヨルダンの向こうに行かれた。すると、群衆がまたみもとに集まって来たので、またいつものように彼らを教えられた。:2 すると、パリサイ人たちがみもとにやって来て、夫が妻を離別することは許されるかどうかと質問した。イエスをためそうとしたのである。:3 イエスは答えて言われた。「モーセはあなたがたに、何と命じていますか。」 :4 彼らは言った。「モーセは、離婚状を書いて妻を離別することを許しました。」:5 イエスは言われた。「モーセは、あなたがたの心がかたくななので、この命令をあなたがたに書いたのです。:6 しかし、創造の初めから、神は、人を男と女に造られたのです。:7 それゆえ、人はその父と母を離れて、:8 ふたりの者が一心同体になるのです。それで、もはやふたりではなく、ひとりなのです。:9 こういうわけで、人は、神が結び合わせたものを引き離してはなりません。」:10 家に戻った弟子たちが、この問題についてイエスに尋ねた。:11 そこで、イエスは彼らに言われた。「だれでも、妻を離別して別の女を妻にするなら、前の妻に対して姦淫を犯すのです。:12 妻も、夫を離別して別の男にとつぐなら、姦淫を犯しているのです。」

:13 さて、イエスにさわっていただこうとして、人々が子どもたちを、みもとに連れて来た。ところが、弟子たちは彼らをしかった。
:14 イエスはそれをご覧になり、憤って、彼らに言われた。「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。
:15 まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、はいることはできません。」
:16 そしてイエスは子どもたちを抱き、彼らの上に手を置いて祝福された。

:17 イエスが道に出て行かれると、ひとりの人が走り寄って、御前にひざまずいて、尋ねた。「尊い先生。永遠のいのちを自分のものとして受けるためには、私は何をしたらよいでしょうか。」:18イエスは彼に言われた。「なぜ、わたしを『尊い』と言うのですか。尊い方は、神おひとりのほかには、だれもありません。:19 戒めはあなたもよく知っているはずです。『殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽証を立ててはならない。欺き取ってはならない。父と母を敬え。』」:20 すると、その人はイエスに言った。「先生。私はそのようなことをみな、小さい時から守っております。」:21 イエスは彼を見つめ、その人をいつくしんで言われた。「あなたには、欠けたことが一つあります。帰って、あなたの持ち物をみな売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」:22 すると彼は、このことばに顔を曇らせ、悲しみながら立ち去った。なぜなら、この人は多くの財産を持っていたからである。


序)子供って素晴らしい
子供の可能性っていうのは、素晴らしいものがあります。
子供がなぜ素晴らしいのか?
それは、いろんな意味があり、いろんな面でその素晴らしさを見ることができます。
まだまだ将来がある、可能性がある、素直さ、純粋さ、感受性、、、
大人になると、素直じゃなくなるんでしょうか。
純粋じゃなくなるんでしょうか。
確かに子供のころと比べたらそうかもしれません。
でも、ゼロになるわけではないと思います。
大人の中には、大人と子供が共存していることもありますが、
子供の中には、ほとんどが子供であり、大人が共存し始めるのはもう少し先なんじゃないかと思います。
大人は知識があります。その上に、子供の純粋さ、素直さも兼ね備えられたら素晴らしいと思います。
子供は子供で素晴らしいのですが、それだけなら、既に大人になってしまった私たちには関係のないことになってしまいます。
でも、聖書にこのように書かれていることは、大人である私たちにも神様がメッセージを語っておられるのだと信じます。

共に見ていきましょう。


1.考えすぎる大人、ありのままの子供

先ほどお読みした箇所の前後を見ると、子供の話じゃないことが書かれています。

:1-12には、「離婚はしてもいいのか?」
といったことを聞いています。
また、:14-では、「どうしたら、永遠の命を受けられるか」と聞いています。

今日はこの内容そのものに触れるつもりはありません。

ここで教えられたことは、大人はすぐに頭で考えて、
いや、考えるのはいいことですが、考えすぎてしまうことがあるのだと思うのです。

律法、法律といったものがあると、すぐに抜け穴を探すのも大人です。
運転中の携帯電話は違反です。となったとき、
「じゃあ、信号待ちの時はいいの?」とか、
運転中に携帯電話で話すことは勿論、凝視することもだめだということになると、
「じゃあ、携帯を見ずにメール打つなら、違反じゃないの?」とか。
屁理屈をこねるのです。
本来の法律が作られた意味を理解するなら、そんなことをいちいち言わなくても、ちゃんと守ります。
わき見運転は危険です。
運転に集中していないと危険です。
これが法律の作られた背景でしょう。
それなら、運転中の携帯電話だけじゃなくて、CDを入れ替えたりすることも危険だと思って、走行中にそんなことはしないと思うのです。
大人は、すぐに考えすぎて、屁理屈をこねて、本来の意味を履き違えてしまうこともあるのです。

よく考えることは大切なことです。

でも、考えすぎたり、屁理屈をこねだすとそれはもう大人の悪い面といわざるを得ないと思うのです。

:13で、人々がイエス様にさわっていただこうとして、子供たちを連れてきましたが、弟子たちはそれをしかりました。
弟子たちはいろんなことを考えすぎたのかもしれません。
子供がたくさんいると騒々しくなるからとか、
イエス様に無礼なことをするかもしれないとか、、、

でも、イエス様は
「幼な子らをわたしの所に来るままにしておきなさい。止めてはならない。」(口語訳)といわれました。
「来るままにしておきなさい・・」という言葉に私は、
「自由にさせたいようにさせなさい」というような意味があるように思いました。

子供がなにかするときに、「なんでこんなことをするのか?」と思うことはあるでしょう。
でも、そこには子供の素直な自己表現があったりするのです。
自由に表現しているのです。そこには考えすぎたり屁理屈をこねたりするようなことはありません。

イエス様はそんな子供の正直な、素直な、純粋な心をそのまま受け入れてくださるのです。
そして、そのように子供のように神の国を受け入れるものでなければ、そこの入れない、とまで言われました。

私たちもまた、ありのままで生きる子供のようになってイエス様のところにいけばいいのです。


現実の社会では、子供のようになって行動するなら、受け入れてもらえないところがほとんどでしょう。
でも、イエス様の前では、子供のようになっていいのです。
いや、子供のようになるべきです。

イエス様の前では、考えすぎず、屁理屈をこねず、ありのままで自分の思うところを表現し、受け入れていきたいですね。


2.手を置いて祝福される

「そしてイエスは子どもたちを抱き、彼らの上に手を置いて祝福された。」

そんな風に、子供たちがイエス様のもとへいったとき、イエス様は手を置いて祝福されました。
イエス様の手は何本ですか?
イカやタコじゃないんですから、8本も10本もありません。
2本です。
少なくとも、同時に手を置いて祝福できるのは二人までです。

また、「子供たちを抱き・・」とありますから、何人もの子供たちを同時にひざに抱くこともできません。
せいぜい2,3人、多くても4人くらいでしょう。

そう考えると、おそらくイエス様は、一人一人、順番にひざに抱き、手を置いて祝福されたのだと想像します。

イエス様は、ありのままでやってきた子供たちを一人一人抱き、一人一人手を置いて祝福されたのです。

私たちもまた、子供のようにありのままで、イエス様のもとに出て行くとき、イエス様は丁寧に私たちをいだき、手を置き、祝福し、慰め、励まし、語ってくださるのです。

簡単に1行で書かれている内容ですが、実に深いイエス様の愛がここにあらわされているのです。
この祝福に預かりたいですね。
いや、預かることができるのです。


結)イエス様の前では子供
私たちは大人です。
でも、イエス様の前では子供なのです。
そして、子供のようにイエス様受け入れ、イエス様の前に出て、自由に自分をさらけ出すことができるのです。

私たちは、イエス様の前ではかっこつける必要もなく、ありのままの子供であればいいのです。
そのとき、イエス様は丁寧に抱き、手を置いて祝福してくださるでしょう。
祈りましょう。

2007/04/08

07.4.8「伝えられるべきイエス様の復活」

マルコ16:1-7
:1 さて、安息日が終わったので、マグダラのマリヤとヤコブの母マリヤとサロメとは、イエスに油を塗りに行こうと思い、香料を買った。
:2 そして、週の初めの日の早朝、日が上ったとき、墓に着いた。
:3 彼女たちは、「墓の入口からあの石をころがしてくれる人が、だれかいるでしょうか。」とみなで話し合っていた。
:4 ところが、目を上げて見ると、あれほど大きな石だったのに、その石がすでにころがしてあった。
:5 それで、墓の中にはいったところ、真白な長い衣をまとった青年が右側にすわっているのが見えた。彼女たちは驚いた。
:6 青年は言った。「驚いてはいけません。あなたがたは、十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのでしょう。あの方はよみがえられました。ここにはおられません。ご覧なさい。ここがあの方の納められた所です。
:7 ですから行って、お弟子たちとペテロに、『イエスは、あなたがたより先にガリラヤへ行かれます。前に言われたとおり、そこでお会いできます。』とそう言いなさい。」


序)キリストの復活祭。
クリスマスと同様かあるいはそれ以上に重要なのが復活。
復活がなければ、わたしたちの信仰はむなしいものとなる。
クリスマスは救い主の誕生という喜びでもあるが、それは十字架での死への第一歩でもある、
と思うと苦しい道であるようにも感じる。
復活祭は、死からの復活という栄光に満ちた出来事で、悲しみから喜びへの変化といえる出来事。
誕生は人にでもあるが、復活はキリスト以外にない。
そういう特別な出来事が復活祭である。
この復活を記念して御言葉を開いてみましょう。


1.イエス様は完全な勝利をとられた、完全な勝利者
「あなたがたは、十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのでしょう。
あの方はよみがえられました。ここにはおられません。」

霊が甦ったとかそういうものではなく、確かに墓には肉体がなかったのであり、
「ここにはおられません」と言われたのです。
エノクは死を見ずに、天へ神が引上げられたという記事がありますが、死んで、葬られ、黄泉に下り、そこから甦って地上で御自身をあらわし、その後、天へ昇っていかれたのは、キリストだけであり、「死」を打ち破り支配するという完全な勝利者なのです。

先日、MLBで、松坂が初登板・初勝利しましたね。
日本のプロ野球も開幕しました。
ペナントレースの全試合を全勝で優勝し、クライマックスシリーズを全勝し、
日本シリーズを全勝で日本一になったらすごいですね、、でも不可能でしょう。
しかもその全てが完全試合だったら・・・。
イエス様の完全な勝利は、これ以上、こんなことなんでもないほどの勝利なのです。

どんな辛いことや、悲しいことや、落ち込むことや、苦難があっても、死ぬほどのものはないのではないかと思います。
私たちにとって、「死」とは究極的に打ち勝てないものです。

しかし、イエス様はこの「死」を打ち破り勝利を取られた完全なる勝利者であり、
このイエス様を受け入れて歩む人生はこの勝利を共有できる人生になるということなのです。


2.復活は伝えられるべきことであった
「今から弟子たちとペテロとの所へ行って、こう伝えなさい。」(口語訳)
「ですから行って、お弟子たちとペテロに、『・(略)・』とそう言いなさい。」(新改訳)

このことは最後に触れます。


3.イエス様は人にわかる形であらわれて下さる「そこでお会いできます。」

弟子達に出会い、食事をして復活した肉体をはっきりと示されました。
疑ったトマスに対しても、傷ついた手を見せ、穴の空いた脇に手を入れてみなさいとまで言われ、明確に示され現されました。
具体的にその人に対して、御自身を現して下さるのがイエス様です。

イエス様は、私たちの生活の中にも具体的に御自身を現して下さる方。

苦しい、つらい、悲しい・・・そのような中でもイエス様は完全な勝利者であり、そのイエス様を迎えいれ共に歩む時に、その勝利にあずかるんだと聞いて、元気になるだけではなく、人生の終わりに振り返ってみた時に、イエス様が御自身を明確に現されたと言えるに違いない。

みなさんの中でも、今苦しくても辛くても、完全な勝利者なるイエス様を見上げて歩む時に、時満ちるに及んで、イエス様が御自身を現して下さることを見る時が来ると確信します。


結)伝えられるべきこと
「死」というような失望をも打ち破って勝利された、勝利されるイエス様のもとに行く時に、
その勝利を共有し、具体的にあらわれて下さるという恵みが復活祭にはあります。
この恵みに預かるものとなるなら幸いです。そうなりたいですね。

しかし、この恵みを知らずに、「死」と同様な失望の中にいる多くの人もいることも事実です。
このことを思う時に、
2.の「伝えられるべきことであった。」
ということは重要な意味を持つことであると言えるのではないでしょうか。

ちょっと勘違いしないで下さいね。
「伝えなさい」「伝えましょう」とはいっていませんし、言いません。
「伝えられるべきことであった、ということをまず知りましょう。」と言っているのです。
今は伝えられなくてもいい、今はこの恵みに預かることが先決です。
伝えられるべきことであるということを理解することが先です。
その上で、恵みを体験し、「伝えたい」と思ったら、その時に伝えればいいんです。
そう、「伝えられるべきこと」として。


私たちは、まず、完全な勝利者なるイエス様を知り、味わいましょう。
そして、この勝利に共に預かるものになりましょう。
そして、具体的に自分の人生に生活にあらわれて下さるイエス様を体験しましょう。
これらは恵みです。

そして、この素晴らしい恵みであるイエス様の復活は、
「伝えられるべきことであった」ということ、
そして、伝える時が来た時に何を伝えればいいかを心に留めておきましょう。

この素晴らしい恵みに今日、もう一度あずかりましょう。

2007/04/01

07.4.1「その名はなんというのですか」

出エジプト3:13-15
:13 モーセは神に申し上げた。「今、私はイスラエル人のところに行きます。私が彼らに『あなたがたの父祖の神が、私をあなたがたのもとに遣わされました。』と言えば、彼らは、『その名は何ですか。』と私に聞くでしょう。私は、何と答えたらよいのでしょうか。」
:14 神はモーセに仰せられた。「わたしは、『わたしはある。』という者である。」また仰せられた。「あなたはイスラエル人にこう告げなければならない。『わたしはあるという方が、私をあなたがたのところに遣わされた。』と。」
:15 神はさらにモーセに仰せられた。「イスラエル人に言え。あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主が、私をあなたがたのところに遣わされた、と言え。これが永遠にわたしの名、これが代々にわたってわたしの呼び名である。

序)名前の力
名前には力があります。
私が彦根で勤めていた事務所は県内では有名なところでした。
私が勤めていた頃、3代目の先生だったという事務所で、彦根の半分以上はここでで登記しているんじゃないかというほどでした。それから土地家屋調査士会会長や名誉会長の経験もあって、天皇陛下から表彰されていました。だからその名前には力があるのです。
友人のKくんが結婚する時、アパートを探していました。
出来るだけ安いところで・・と3万円台を探していたのですが、だいたい5万円代がほとんどでした。
「そんな値段であるわけないでしょう!」と担当の方はいうのですが、
「とりあえず、住所と勤務先を書いて」といわれました。
そこで、勤務先をI司法書士事務所と書いたときです。
急に態度が変わるのです。
「あっIさんにお勤めですか?いつもお世話になってます。
そうですね。ちょっと待ってください。3万8千円のがありますね。」
さっき無いっていったのに!と思いながらも、その名前の力に驚いたそうです。
アパートを決めた時も、敷金礼金が50万円近くかかったらしいのですが、
「すいません、ちょっと安くなりませんか?」
そこでもI事務所という名前が力を発揮しました。
「まあ、I事務所さんに勤務しておられるなら、変なこともないでしょうから、大家さんに交渉してみます。」といわれたそうです。
その名前には大きな力がありました。

モーセは誰の名によってつかわされたのか?ということに関心がありました。
誰につかわされたのか?ということはとても大切なことです。
モーセには自信がなかったのです。
自分がエジプト王のところにいってイスラエルを救い出すなんて。
みんなはなんて言うだろう?逃げてきたわけですから・・・
でもつかわされた方の名前を聞くならば、それで、モーセは確信を持つことが出来ます。
そしてイスラエルの人達がおまえは何者だ!といっても神の名によってつかわされているのです、というならば、きっとイスラエルの人々も納得すると思ったからです。
だからモーセは名を聞きたかったのです。
でも神様はモーセになんと答えられたでしょうか?



1.私は有って有る者

それは神様の性質を表しています。

3:13 モーセは神に申し上げた。「今、私はイスラエル人のところに行きます。私が彼らに『あなたがたの父祖の神が、私をあなたがたのもとに遣わされました。』と言えば、彼らは、『その名は何ですか。』と私に聞くでしょう。私は、何と答えたらよいのでしょうか。」
:14 神はモーセに仰せられた。「わたしは、『わたしはある。』という者である。」また仰せられた。「あなたはイスラエル人にこう告げなければならない。『わたしはあるという方が、私をあなたがたのところに遣わされた。』と。」


神様はモーセに答えられました。わたしは“有って有る者”
モーセはきっと「は?」と思ったでしょう。いえ私は名前を聞きたかったのですが・・
有って有る者?

この言葉は神様の名前ではありません。
それは性質をあらわす言葉です。
神様というお方がどのようなお方なのか?ということをあらわしています。
この時、モーセにとって大切なことは、みんなが納得する神の名ではありません。
その名を持つ方がどれほど偉大な方か?ということを知る、ということです。

“私は有って有る者”とは、どのような方であることをあらわしているのでしょうか?
それは、 "I AM WHO I AM."
無理やり直訳すると、私は存在している、という意味です。
この言葉にはたくさんの神様の偉大さが凝縮されているのです。
神様の素晴らしさは言葉では説明できないのです。だから言われました。
“私は有って有る者”


①神様は、それ自体で存在しています。

あなたはどうしてここにいるのですか?
お母さんから生まれたからです。
そのお母さんは?お母さんのお母さんが・・またお母さんが・・・
このギターはどうして存在しているのですか?
はい、買ったからです。その前は楽器製造工場が製造したからです。
私達のまわりにあるすべてのものは、何かから生まれてきているのです。
でも、神様はそうではありません。何かから生まれてきたのではありません。
神様は神様として存在しているのです。

・ヨハネ1:1 はじめに神は天と地とを創造された。
はじめに神は・・・聖書のその前に何も書かれていませんね。
はじめに神は・・・からスタートしています。
つまりこの世界に何も存在していなかった時、神様はすでにおられた、ということをあらわしているのです。
すべてのはじまりは神様です。有って有る者、それは神様の偉大さを表しています。


②無から有を生み出す力があります。

ということは、すべてのものを神様が造られたのだ、ということです。
すべてのものは神様から造られ生まれてきたのです。
何もなかったところから、神様はこの大地や星や、太陽、生き物を造られたのです。
つまり、何もないところから、新しいものを生み出す力をもっておられる方だ、ということです。


例えば太陽を直径50センチにすると一番近い水星はどのくらい離れるかわかりますか?
約20メートルです。
金星は約39メートル。
地球は約53メートル。
火星は約82メートル。
木星は約279メートル。
土星は約513メートル。
天王星は約1032メートル。
海王星は約1618メートル。
冥王星は約2122メートル。
地球を1mmと仮定すると10メートル先に10センチの太陽があるのと同じです。
我々が見る夜空の星は(金星などの9つの惑星はのぞいて)みんなこの太陽クラスなのです。
それも私たち銀河系内の範囲の一部しか肉眼では見えません。
しかも我が銀河系内だけでもこの太陽(恒星)が1000億個以上もあります。

そしてそれだけではありません。1光年は3482キロ先です。でもまだ星はありません。
一番近い星でも二万キロ以上はなれないとないのです。それが無限に広がっています。
これ全部神様がつくられたのです。
そのスケールの大きさに驚きます。
すべてを造られたお方です。

これは“有って有る者”というお方です。

・イザヤ43:19 見よ、わたしは新しい事をなす。
やがてそれは起る、あなたがたはそれを知らないのか。
わたしは荒野に道を設け、さばくに川を流れさせる。

そう考えると、荒野に道を、砂漠に川を流れさせることくらい、どうってことないですよね。
そう、この有って有る者はあなたの生涯にも働かれるのです。
そして、何もないところからでも、素晴らしい創造をされる方です。
絶望のふちからでも、最高の希望を与えてくださる方です。


③完全です。
愛において・力において・霊において・・・

マタイ5:48 それだから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。
有って有る者、すべてのはじまりである方は完全な方です。
愛において・・・このすべてがはじまる前から存在しておられた方、そして全てを作り出した方、イエス様はあなたのために十字架にかかって死なれたのです。
ただ、身代わりとなる、ということだけのために。
すべての力、能力、権威を捨てて、あなたのために、私達のために十字架にかかり、死んでくださったのです。
イエス様の愛は完全な愛です。
すべてを満たすことのできる愛です。
そして力において、あなたを覆い、助け、満たすことの出来る方です。



2.本当の名は“イエス”です。

神様は有って有る者、その方がいかに素晴らしい方であるのか?ということをモーセに伝えたかったのです。
その名前が何であっても、その名前を持つ方がいかに素晴らしい方か、ということを知らなければどうしてエジプトにいくことができるでしょう。
仮に行くことが出来たとしても、すぐに挫折して帰ってきてしまうでしょう。
”有って有る者”、それは偉大なお方です。

では、なぜモーセに神の名が告げられなかったのでしょうか?
それは後にこられる方によって明らかにされました。。

使徒4:12 この人による以外に救はない。わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていないからである」。

神の名、それはイエスです。
神の名はエホバでもヤハウエでもありません。それは単なる呼び名です。
「イエス」それが神の名前です。

有って有る者、この名のもう一つの呼び名がありました。

3:15 神はさらにモーセに仰せられた。「イスラエル人に言え。あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主が、私をあなたがたのところに遣わされた、と言え。これが永遠にわたしの名、これが代々にわたってわたしの呼び名である。

“あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主が”
これはずっと続いていくのです。
そしてあなたの神という意味があるのです。
そして永遠に私の呼び名である、といわれています。
そうです。イエス様は、あなたの神です。そしてあなたを救う神です。
その名は永遠に変わることがありません。永遠にあなたの救い主なのです。

そして、そのイエス様の名にこそ力があります。
だからイエスの名によって祈ります。宣言します。告白します。

私達を呼ばれ、救われ、用いられる神は、こんなにも素晴らしい方です。
そしてその力ある名を私達は知っています。
このイエス様を知る人は幸いです。
祈りましょう。