07.4.29「求めるべきもの」
マタイ16:1-12
:1 パリサイ人やサドカイ人たちがみそばに寄って来て、イエスをためそうとして、天からのしるしを見せてくださいと頼んだ。:2 しかし、イエスは彼らに答えて言われた。「あなたがたは、夕方には、『夕焼けだから晴れる。』と言うし、:3 朝には、『朝焼けでどんよりしているから、きょうは荒れ模様だ。』と言う。そんなによく、空模様の見分け方を知っていながら、なぜ時のしるしを見分けることができないのですか。
:4 悪い、姦淫の時代はしるしを求めています。しかし、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられません。」そう言って、イエスは彼らを残して去って行かれた。
:5 弟子たちは向こう岸に行ったが、パンを持って来るのを忘れた。:6 イエスは彼らに言われた。「パリサイ人やサドカイ人たちのパン種には注意して気をつけなさい。」:7 すると、彼らは「これは私たちがパンを持って来なかったからだ。」と言って、議論を始めた。:8 イエスはそれに気づいて言われた。「あなたがた、信仰の薄い人たち。パンがないからだなどと、なぜ論じ合っているのですか。:9 まだわからないのですか。覚えていないのですか。五つのパンを五千人に分けてあげて、なお幾かご集めましたか。:10 また、七つのパンを四千人に分けてあげて、なお幾かご集めましたか。:11 わたしの言ったのは、パンのことなどではないことが、どうしてあなたがたには、わからないのですか。ただ、パリサイ人やサドカイ人たちのパン種に気をつけることです。」:12 彼らはようやく、イエスが気をつけよと言われたのは、パン種のことではなくて、パリサイ人やサドカイ人たちの教えのことであることを悟った。
序)何を求めてるのか
GWですね。
みなさん、今日4月29日は何の日かご存知ですか?
「みどりの日」じゃないんですよ。今年から「昭和の日」です。
では、5月4日は何の日ですか?
「国民の休日」じゃないんです。今年から「みどりの日」だそうです。
一体何のためにこんなことにしたのか、何を求めてるのかよくわかりませんが・・・^^;
さて、GWは長いお休みということで、人々はいろんなところに出かけたりします。
それは、何を求めているのでしょう。
休息?刺激?娯楽?癒し?・・・?
求めるのは、人によって違うでしょうね。
何を求めているのか、ということは時にとても重要になります。
神様が私たちに何を求めているのかを問われるとき、あなたはなんと答えますか。
今日、お読みした箇所から、教えられたことを分かち合いたいと思います。
1.しるしを求める人々
パリサイ人やサドカイ人たちがイエスを試そうとして、天からのしるしを求めました。
しかし、イエス様は与えられませんでした。
私が、イエス様を信じて救われて教会へ行くようになりはじめたころですが、その頃は京都に住んでいて、週末に長浜の実家に帰ってきて礼拝にいくようなパターンが多かったときです。
ある土曜日の夜、熱がでました。
日曜の礼拝へ行くのに、大丈夫だろうかと思うような状況ですが、
そのときはまだ自分も若く(笑)、礼拝にいくのだから、熱なんて大丈夫だと思っていましたので、迷わず礼拝へ行きました。親は止めましたが・・・^^;
礼拝後も熱は下がらなかったのですが、その日は何人かのクリスチャンたちと一緒に京都へ行って、京都に住んでいるクリスチャンの兄弟と交わったりする予定でした。
そのクリスチャンたちとぼくの車で京都へ行き、京都の兄弟を迎えに行き、ご飯を食べに行って、その後、ぼくのアパートに行って、礼拝の恵みを分かち合ったり、交わったりして、そのままぼくのアパートにみんな泊まりました。
その間、ずっと熱は高いままでした。
翌朝、目を覚ますとみんな遅刻ギリギリの時間でした。
慌てて準備してぼくの車でそれぞれ、家や駅まで送って、ぼくも仕事に向かいました。
なんとか間に合って、ほっとしたのですが、その時、気づいたのです。
「熱が下がってる・・」
ぼくはその時初めて、「癒された」と感じました。
信仰初期に神様を優先して、神様を求めていくときに、このようなしるしを体験しました。
今思うと、信仰初期は神様がこのようなしるしを与えてくださることもよくあるのかなと思うのです。
それは、つまづかないためでもあるかもしれませんが、その時の信仰だとも思います。
イエス様は、信仰によって、山に海へ入れといえば、そのとおりになるとも言われました。
純粋にイエス様を信じ、イエス様を求め、イエス様に信頼し、ついていく。
そんな信仰をイエス様が必要なしるしによって答えられるのだと思うのです。
ここでパリサイ人たちは、「イエスをためそうして」しるしを求めたのであって、イエス様を信頼していたわけではありません。
「しるし」自体を求めているのです。
いろんな集会があります。
教会の集会、教団や教派の集会、超教派の集会・・・
それらに行く事自体は何の問題もないように見えます。
しかし、そこへ行く人が何を求めていっているのか、は非常に重要です。
しるしをもとめ、何か奇蹟をもとめ、
さらには、そのしるしや奇蹟を行う人を求めたり、それをするといわれている人に期待しているならば、それは、危険といわざるを得ません。
イエス様はここではっきりと言われていますね。
「悪い、姦淫の時代はしるしを求めています。しかし、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられません。」
しるしを求める時代は、悪い、姦淫の時代であるとも言えるのです。
今の時代は悪い時代なのかもしれません。
そして、そのようにしるしを求めても、与えられないと言われています。
もし、そのように「しるしそのもの」を求めて、与えられているならば、それはどこから来ているかも吟味する必要があるのかもしれません。
これがまたイエス様が言われた「時のしるしを見分ける」ことにつながるのかもしれません。
この話はまた別に機会にしましょう。。
さて、私たちが求めるべきものは何でしょうか。
私たちは、「しるし」そのものを求めるのではなく、イエス様ご自身を求めることが大切です。
順序が逆になってはいけません。
イエス様を求めて、しるしが与えられるなら、しるしは結果に過ぎないのです。
イエス様を求め続けたいですね。
また、ここでは、この「しるしを求める人々」をも注意する必要があるようです。
2.いのちのパンを求める。
主は「パリサイ人やサドカイ人たちのパン種には注意して気をつけなさい。」と言われました。
パンは私たちが生きていく上で必要なものですが、そのパン種には気をつけなければならないのです。
パン種は、そのパンを膨らませます。ある意味、そのパンはパン種次第なのです。
どれだけパン生地がよくても、パン種によって、どうにでもなるともいえるのです。
このパン種、パリサイ人やサドカイ人たちのパン種には気をつけなければならないのです。
ここでも、私たちが求めるものが問われています。
弟子たちは、パン種のことが、「教え」であることに最後に気づきました。
私たちは人の教えには、十分に注意しなければならないということです。
たとえば、御言葉を実践することについて、
ある人が「この御言葉さえ実践していればいい」といって、次の御言葉を言ったとします。
1テサ5:16-18
いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。
これが、キリスト・イエスにあって、神があなたがたに求めておられることである。
この御言葉は素晴らしいものです。実際にこれを実践することは素晴らしいことです。
しかし、それだけでいいのでしょうか?
聖書は66巻あります。
そのすべてが必要であり、無駄ではないのです。
一つの御言葉だけを実践していればいいような「教え」には注意が必要です。
いろんな集会で、いろんな人が、いろんなことを語ります。
いろんな教えがあります。
今日、私が語っているのも、ひとつの人の言葉です。注意しましょう(笑)
人の言葉は、時には励ましにも慰めにもなることもあるでしょう。
それはそれでいいと思います。
しかし、人の言葉でも、それを自分の生きる糧であるパンのパン種といえるその中心に入れてしまうのは危険です。
では、私たちはどんなパンを、どんなパン種を、求め、それを受け入れるべきなのでしょうか。
ヨハネ6:35 イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。
ヨハネ6:48 わたしはいのちのパンです。
イエス様は、「いのちのパン」です。
もう、パンは用意されているのです。
それは、イエス様ご自身です。
いのちのパンである「イエス様ご自身」を求めるのです。
御言葉の種、御言葉のパン種を入れるなら、いいでしょう。
ヨハネ1:1初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。
イエス様は聖書の御言葉が受肉した方とも表現されています。
つまり、私たちは神様を求めるとき、そこには、いのちのパンがあり、満たされるのです。
人の教えを求めるのではなく、
「いのちのパン」であるイエス様を求めるものになるなら、幸いです。
結)求めるべきものは・・
イエス様は、いのちのパンとして、実際にご自身を捧げてくださいました。
そして、引き裂かれ、私たちの罪の身代わりとなって死んでくださったのです。
その十字架の上で、文字通り、全ての血を流し、血による代償を支払われたのです。
パンとぶどう酒をもって行う聖餐がありますが、まさにこのことを忘れないために記念してこれを続けるようにイエス様が命じられたことです。
あなたは、何を求めますか。
しるしや奇蹟を求めるのでしょうか。
また、人の教えを求めるのでしょうか。
私たちが求めるべきもの、それは、「イエス様ご自身」です。
イエス様も私たちを求めておられます。
罪の支払いは自分ではできません。
その罪の中で滅びてしまわないために、その罪から私たちを救うために、自らを捧げて、救いを用意してくださいました。
それは、イエス様があなたのことを命を捨てるほどに愛しておられるからです。
あなたをそれほどに求めておられるからです。
「人がその友のために命をすてること、これほど大きな愛はほかにない。」
といわれた最高の愛で私たちを愛しておられるのです。
イエス様が十字架にかかって、命を捨ててくださったのは、そのしるしです。
このお方を求める人は幸いです。