2009/07/19

09.7.19「イエス様と共にいること」

マルコ9:2-8
:2それから六日たって、イエスは、ペテロとヤコブとヨハネだけを連れて、高い山に導いて行かれた。そして彼らの目の前で御姿が変わった。
:3その御衣は、非常に白く光り、世のさらし屋では、とてもできないほどの白さであった。
:4また、エリヤが、モーセとともに現われ、彼らはイエスと語り合っていた。
:5すると、ペテロが口出ししてイエスに言った。「先生。私たちがここにいることは、すばらしいことです。私たちが、幕屋を三つ造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。」
:6実のところ、ペテロは言うべきことがわからなかったのである。彼らは恐怖に打たれたのであった。
:7そのとき雲がわき起こってその人々をおおい、雲の中から、「これは、わたしの愛する子である。彼の言うことを聞きなさい。」という声がした。
:8彼らが急いであたりを見回すと、自分たちといっしょにいるのはイエスだけで、そこにはもはやだれも見えなかった。

序)もうすぐサマーカンファレンス
サマーカンファレンスまで、あと2週間です。
先週は、待望賛美祈祷会を持ちました。カンファレンスに対する期待がさらに高まったのではないでしょうか。
今週と来週、さらに、期待して、祈りつつ、主を待ち望みつつ、迎えたいですね。
今日は、この箇所を通して、共に教えられていきたいと思います。


1.世では見ることのできないことを見る

イエス様は、ペテロとヤコブとヨハネだけを連れて、高い山へ導いて行かれました。
あとの9人の弟子達はうらやましかったかもしれませんね。
そして、連れて行かれた3人だけが、この後、素晴らしいものを見、体験するのです。

突然、イエス様の御衣が非常に白く光り、世のさらし屋では、とてもできないほどの白さに輝いたのです。
そして、エリヤとモーセが現れて、イエス様と語り合ったのです。

なんと素晴らしい光景でしょう。
イエス様に連れられてきたがゆえに見ることができたのです。

以前、車で東京に行ったときのことです。
東名高速を走っていると、突然目の前に巨大なものが見えたのです。
それは富士山でした。
新幹線から遠くに見える富士山を見たことはありましたが、あんなに近くにそびえたつ富士山を見たのは初めてで、感動しました。

その場所に行かなければ、見ることができないものがあります。
イエス様に連れて行かれたペテロ達は、同行したゆえに、見たこともない光景を目にしたのです。

私達は、世の中では見ることのできないことをイエス様によって見せていただくことができるのです。
イエス様は、私達がイエス様と同行する、イエス様と共にいるときに、素晴らしいことを見させてくださるのです。
聖会に参加するということも、イエス様に同行することなのです。
聖会に参加することは、世では見ることのできないことをイエス様に見せていただく時でもあるのです。


2.ここにいることは、すばらしいことです

ペテロは、この世では見ることができないような光景を目の当たりにして、こういいました。
「先生。私たちがここにいることは、すばらしいことです。私たちが、幕屋を三つ造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。」

実は、ペテロは言うべき事がわからなかったのですが、このように言ってしまいました。
でも、確実にいえることは、ペテロの言葉にある
「私達がここにいることは、すばらしいことです。」

そう、ここにいることは素晴らしいことでした。
ペテロ達がイエス様に同行できたことは素晴らしいことでした。

私達がイエス様に同行できたなら、イエス様と歩みを共にできたなら、そして、イエス様と一緒にいるなら、それは素晴らしいことです。
それは、素晴らしい光景を見ることができたからでしょうか。
それもあるでしょう。
でも、そうじゃなかったとしても、イエス様と共にいることは、素晴らしいことなのです。

ご存知の通り、私は自営業ですので、給料はありません。仕事した分だけがお金になるのが原則です。
つまり、景気が悪くなると、仕事が少なくなり、お金が入るのが少なくなります。
でも、経費はかかりますから、下手すると赤字です。
とても、不安定な状態と言えます。ですから、同業の人と話をしていると、この先本当にやっていけるのか、という不安をすごく聞きます。
世の中だけを見ていると、私自身もこの先大丈夫だろうか・・と不安がよぎります。
でも、大丈夫だと思える自分もいるのです。
それは、養ってくださるのはイエス様だという信仰からです。
私がイエス様と歩みを共にしている限り、イエス様が養ってくださる。イエス様と共にいるなら大丈夫という平安です。

ここにいる、イエス様と共にいる、これは本当に素晴らしい事なのです。

聖会に参加して、イエス様の臨在の中にいることは、素晴らしい事なのです。
そこでしか見ることができないことを見るかも知れません。
たとえそうじゃなかったとしても、イエス様と共にいれることは素晴らしい事なのです。


結)イエス様の言う事を聞く
ペテロが言うべき事がわからずに
「先生。私たちがここにいることは、すばらしいことです。私たちが、幕屋を三つ造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。」
と言ったときに、雲がわきおこって覆ったと思ったら、その雲の中から
「これは、わたしの愛する子である。彼の言うことを聞きなさい。」という声がしました。

私達が、イエス様と共にいて、素晴らしいことを見たり、共にいることが素晴らしい事だと悟ったとしても、これからどう行動していけばいいのかわからないと言う事もあるかもしれません。
そんな時の答えが
「イエス様の言う事を聞く」です。

聖会で、主の臨在を体験したり、主の御業を見たり、世では見ることのできないことを見ても、それから、私達がどのように生活していくのか、行動していくのかが大切です。
主を感じたり、御業を見ることが目的ではないからです。
それによって、私達がイエス様の御姿にどう変えられていくかが重要なのです。
そのために、どう行動していくのかをイエス様に聞いていくのです。
そして、イエス様の言われるとおりにしていくならば、さらに素晴らしいイエス様を体験し、実を結ぶ人生を歩むことでしょう。

2009/07/06

09.7.5「言葉にある命」

ヨハネ1:1~14 創世記1:1~
: 1初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。
: 2この方は、初めに神とともにおられた。
: 3すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。
: 4この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。
: 5光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。
: 6神から遣わされたヨハネという人が現われた。
: 7この人はあかしのために来た。光についてあかしするためであり、すべての人が彼によって信じるためである。
: 8彼は光ではなかった。ただ光についてあかしするために来たのである。
: 9すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。
:10この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。
:11この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。
:12しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。
:13この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。
:14ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。

序)言葉には・・

言葉にはいろんな意味で、力があり、命がある。

先日、テレビで、ゲストにある女性タレントが出ていて、実は読書が趣味で・・・という話しをしていた。
彼女は、その本の中で感銘を受けた言葉に付箋をつけて、何かあると読み返して励みにしているということを言っていました。

人は、いろんな言葉や話しによって、心に何かを感じ、励まされたり、癒されたり、力を受けたりするものです。

そういう意味でも、言葉というのは、いろんな意味で力があり、ある時は命となることもあるのです。

なおさら、神の言葉(聖書)には命があります。


1.言葉は神であった(ヨハネ1:1,2)

神の言葉が受肉した(形として現れた)のが、イエス様。(ヨハネ1:14)
そしてこの言葉は「初めにあったもの」そして、神である。(創世記1:1)

聖書の言葉を扱う時は十分に気をつける必要がある。
講壇から語られるメッセージは、あくまでもメッセンジャーが聖書を通して受けた悟りである。

このことは注意が必要です。
だからといって、何か警戒しなければならないというわけではありません。それなら、私が今語っているこのメッセージも本当に警戒して聞く必要があることになってしまいますね。
「牧師の言ってることは、おかしなことじゃないだろうか?」と。

メッセージを通して励まされ、慰められ、教えられることは素晴らしいことだが、神の言葉そのものではない。
みなさんが、メッセージを聞いて、励まされたなら、それはそれで受け止めればいいし、恵みです。

ただ、その言葉が神の言葉ではなく、神の言葉を通して○○さんが悟った悟りを通して励まされた、慰められた。
○○さんが体験した神様の話しを聞いて、励まされた、慰められた、力が湧いてきた。。。

単純に言えば、
私がメッセージで「言葉は神であった」と聖書に書いてあります。ですから、神様の正体は言葉なのです。
と言った場合。
「神様の正体は言葉だ」というのは、私の悟りであって、神の言葉ではない。
しかし、「言葉は神であった」というのは聖書の言葉そのものですから、神の言葉である。ということなのです。

神の言葉は「聖書そのもの」であることを忘れてはいけない。


だが、近年、この聖書そのもの・・・というものも注意が必要な時代になりつつある。

欧米の英語圏における評判の良い聖書翻訳といえば、何といっても
KJV (King James Version)と言われていますが、この訳とくらべて、
近年のアメリカにおいて発行される聖書翻訳は、大きく改ざんされている。

例えば、ある訳は、KJV訳と比べて何と、6万語以上もの単語が削除されているそうです。

黙示録1:5節をKJV訳で読むと;
「また、忠実な証人、死者の中から最初によみがえられた方、地上の王たちの支配者であるイエス・キリストから、恵みと平安が、あなたがたにあるように。イエス・キリストは私たちを愛して、その血によって私たちを罪から清め」
とあるが、
「その血によって私たちを罪から清め」の「清め」の部分について
他の英訳聖書のほぼ全てが「罪から解き放ち」「罪から自由にした」と訳されている。
罪から清められる血が、清めではなく、解放になってしまっている。

神の神性の示す「神が・・・」というところが、「彼が・・・」となってしまっていたり。。

今は聖書であっても、その言葉が全く完全に神の言葉であるといえるか怪しい時代であることも付け加えておきます。

どちらにせよ、聖書の(神の)言葉を扱うものも注意が必要だが、受け止める側も注意が必要であるということです。

しかし、神の言葉がすばらしいものであり、命を与えるものであることははっきりしています。



2.これ(言葉)によって全てのものはできた(ヨハネ1:3)

天地万物は神の言葉によってできました。
神の創造の方法は、「言葉」によったのです。
神様は、私たちに、神の言葉(聖書の言葉)を与えて、わたしたちの内側に良きものを創造して下さるのです。

そして、私達もまた言葉によって、いろんなものを作り出しています。
先ほどのタレントもそうであったように、ある言葉によって、自分を励まし、自分の目標やビジョンを言葉にして行動していくことによって、それを実現していたりします。
これは、私達人間が元々神に似せて造られたものであるからなのでしょうか。

よく、実現したい目標やビジョン、夢をはっきりと紙に書くと実現するだとか、それを口に出して告白すると実現するだとか言いますが、ある意味では、その通りです。
それは、良いことにつけ、悪い事につけ、です。

しかし、神がその言葉によって造られたものは、全て良いものでした。
創世記1:31 そのようにして神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常によかった。

私達は、神様の言葉によって、今もよき物を作っていただく事ができるのです。
世の成功のために、自己中心な欲求のために、神の法則を利用するものではなく、神様の言葉によって、神の御心にかなうものへと自分自身を作っていただくなら幸いです。
そして、それは神様がされることです。私達の中に届けられる神の言葉によって。。

また、神様は私達に良い思い、願いを起させて、それを実現してくださる方でもあります。
ピリピ2:13 あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである。

私達の中に、神の言葉によって、創造の業をなしてくださる神様にもっともっと委ねるものになりたいですね。



3.この言葉に命があった(ヨハネ1:4)

私たちはこの言葉をいただいた時、内側に命が芽生える。
これは神が無から有を生み出されるということです。
この命は光となり、闇に勝つのです。

もし、内側に悪い思いがあるとするならば、神の言葉を受け取りましょう。
神の言葉は命であり、あなたの内で光となります。
その光は、闇に、悪い思いに打ち勝つのです。
だから、もっともっと神様の言葉に満たされるものとなりたいですね。

神の言葉には命があります。命があるから、神の御心の中で実現していくのです。
神の言葉にもっともっと満たされるなら、幸いです。


結)神の言葉をいただき、内側に命あるものとなるために。
「イエス・キリストを心にお迎えする」(ヨハネ1:9-14)
これは、恵みによるのです。
心の戸の外に立って戸をたたいているイエス様に気付いたら、すぐにお迎えしましょう。黙示録3:10
何か難しい行いをすることではないのです。イエス様をいつも心にお迎えするのです。
もし外に追い出してしまっていたら、イエス様は戸をたたいて私たちが戸を開けるのを待っていて下さいます。
気付いたら、謙遜になって(その事実を認めて)、イエス様をお迎えしましょう。
クリスチャン生活とは、とてもシンプルなものです。
「イエスさまをお迎えする」これがスタートであり、永遠の課題かも知れません。
イエス様を心にお迎えし、神の言葉に益々満たされ、神様からの素晴らしい実を結ぶ人生を歩もうとされるなら、幸いです。