07.3.25「わたしは何者でしょう」
出エジプト3:7-12
:7 主は仰せられた。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の悩みを確かに見、追い使う者の前の彼らの叫びを聞いた。わたしは彼らの痛みを知っている。
:8 わたしが下って来たのは、彼らをエジプトの手から救い出し、その地から、広い良い地、乳と蜜の流れる地、カナン人、ヘテ人、エモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人のいる所に、彼らを上らせるためだ。
:9 見よ。今こそ、イスラエル人の叫びはわたしに届いた。わたしはまた、エジプトが彼らをしいたげているそのしいたげを見た。
:10 今、行け。わたしはあなたをパロのもとに遣わそう。わたしの民イスラエル人をエジプトから連れ出せ。」
:11 モーセは神に申し上げた。「私はいったい何者なのでしょう。パロのもとに行ってイスラエル人をエジプトから連れ出さなければならないとは。」
:12 神は仰せられた。「わたしはあなたとともにいる。これがあなたのためのしるしである。わたしがあなたを遣わすのだ。あなたが民をエジプトから導き出すとき、あなたがたは、この山で、神に仕えなければならない。」
序)神の前にたったモーセ
燃える柴を見て、近づいたモーセですが、
そこで神の前に立つことになりました。
そして、神様がモーセに語り始められたのです。
1.神は知っておられる。
エジプトにいたイスラエルの人々は、苦しい労働に苦しみ、痛み、その中で、神に叫び続けていました。
神様はこの叫びを、祈りを、聞いてくださっていたのです。
私たちも祈ります。
「果たして神様は聞いてくださっているのだろうか?」
と思うこともあったかもしれません。
大丈夫、心配いりません。
神様はちゃんと聞いてくださっています。
さて、神様は聞いてくださるだけでしょうか。
いいえ、そうではありません。
神様はそこに救いの手を伸べてくださるお方です。
ここで、神様がモーセに語られたとき、神様がイスラエルの叫びを聞いておられることをモーセは知りました。
しかし、当のイスラエルの人々はまだ知りません。
私たちが祈るとき、届いていて、聞かれていても、それがわかるまでに時間がかかることがあります。
この後、モーセがエジプトに下り、最終的に出エジプトするまで、神がイスラエルの叫びを聞き、救いを与えられたことはわかりません。
でも、すでに知っておられて、救いを用意されていたのです。
私たちが祈るとき、神は既に知ってくださっているのです。
そして、そのために既にその答えを用意してくださっているのです。
ただ、それが届くまでには時間がかかる場合もあるのです。
私たちはこのことから、「神は知っておられて、介入してくださる」という信仰を持って祈り続けるものになりたいですね。
さて、遣わされることになるモーセを見てみましょう。
2.あなたは何者ですか。
神様は言われました。
今、行け。わたしはあなたをパロのもとに遣わそう。わたしの民イスラエル人をエジプトから連れ出せ。
モーセはどうしたでしょうか?
待ってました!主よ、その時が来るのをわたしは今までずっと待っていたのです!
とは言わなかったのです。
ちょっと待ってください。わたしは何者ですか?
ずっと前にエジプト人を怒りにまかせて殺してしまったのです。殺人者ですよ。逃亡者です。
そんなわたしに何ができるのでしょうか?
はっきり言って私は、ただの羊飼いです。そんな大それたことはわたしには出来ません。
神様の声を聞いて従おうとする、その時、大切なことは
“わたしは何者か?” ということです。
モーセは自分を何者だと思っていたのでしょうか。
エジプト人を殺した犯罪者。
イスラエルの人達を救い出そうとして失敗した失敗者。
王を恐れて逃げだした逃亡者。
だから、モーセは神様の声にすぐに従うことが出来なかったのです。
なぜこんな私にそんなことができるのか・・・。
でも本当はそうではありません。
確かにモーセの過去は事実でしょう。
でもイエス様はそうは見ておられないのです。
同じ経験をしたとしても、私は何者であるのか?どのように自分を見るのか?ということは、あなたにまかされているのです。
あなたは何者ですか?
・罪許された人です。
コロサ1:14わたしたちは、この御子によってあがない、すなわち、罪のゆるしを受けているのである。
モーセは過去に犯した罪が裁かれることを恐れていました。
でもイエス様は裁きの神ではなく、許しの神であること知らなくてはなりません。
過去にたいして、許しを宣言しなくてはなりません。
・世界にたった一人しかいない、高価で尊い人です。
イザヤ 43:4 わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。
だからわたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにするのだ。
神様はあなたを何十億のうちの中の一人とは見ておられません。
歴史上たった一人しかいない存在としてみておられるのです。
・イエス様に愛されている人です。
3:7 わたしは、エジプトにいるわたしの民の悩みを確かに見、追い使う者の前の彼らの叫びを聞いた。わたしは彼らの痛みを知っている。
「私の民」これは私のもの、という意味があります。
イエス様があなたは私のものだ。といわれるのです。
それほどあなたは愛されているのです。
そして、十字架で命を捨ててまで救おうとされるほど、愛されているのです。
そして、モーセに「さあ、あなたをつかわしてエジプトから民を救い出します!」
とこの神様がいわれるのなら、それはモーセにしかできないのです。
イエス様はあなたの心に語りかけるかもしれません。
あなたを用いよう!と。
そんな時、わたしにできるわけがない。ではないのです。
イエス様が語られるなら、それは、あなたにしかできないことだからです。
すべてはあなたに委ねられています。
あなたはどちらを選びますか?
モーセの言葉のように自分を見ますか?
それともイエス様の言葉によって自分を見ますか?
イエス様の言葉を信じる人は幸いです。
3.主が共におられます。
なぜなら主が共に働かれるからです。
:12 神は仰せられた。「わたしはあなたとともにいる。これがあなたのためのしるしである。わたしがあなたを遣わすのだ。あなたが民をエジプトから導き出すとき、あなたがたは、この山で、神に仕えなければならない。」
イエス様が選ばれたそのしるし、それは主が共におられる、ということです。
これ以上のしるしがあるでしょうか。それは大きなはげましです。
マルコ16:20 弟子たちは出て行って、至る所で福音を宣べ伝えた。主も彼らと共に働き、御言に伴うしるしをもって、その確かなことをお示しになった。
主が言われるなら、その責任は主が取ってくださいます。
そして、主は共におられ、共に働いて、その実を結ばせてくださるのです。
結)あなたを通して
あなたを通してもイエス様が働かれます。
イエス様に呼ばれた時があなたが立ちあがる時です。
そして、立ち上がるなら、イエス様は共にいて働いてくださるのです。
それは、あなたにしかできないことをイエス様があなたを通してなされるからです。
応答できるなら、幸いです。
祈りましょう。