2010/01/10

10.1.10「見よ。私は新しい事をなす」

イザヤ 43:18-21
:18 先の事どもを思い出すな。昔の事どもを考えるな。
:19 見よ。わたしは新しい事をする。今、もうそれが起ころうとしている。あなたがたは、それを知らないのか。確かに、わたしは荒野に道を、荒地に川を設ける。
:20 野の獣、ジャッカルや、だちょうも、わたしをあがめる。わたしが荒野に水をわき出させ、荒地に川を流し、わたしの民、わたしの選んだ者に飲ませるからだ。
:21 わたしのために造ったこの民はわたしの栄誉を宣べ伝えよう。


序)新しい事を・・・
何か新しいスタートだったり、新しい事というのは、ワクワクします。
先週、イエス様によって、希望と土台を創っていただき、スタートしましょうというお話をしました。そして、そのスタートは、まさに新しいことそのものです。ワクワクしますね。
今日この箇所を通して、神様がなされる新しいことにワクワクしたいと思います。

1.見よ。わたしは新しい事をする。

「見よ。わたしは新しい事をする。今、もうそれが起ころうとしている。あなたがたは、それを知らないのか。確かに、わたしは荒野に道を、荒地に川を設ける。」

神様は、新しい事をされます。それは、出来事にもよるでしょうが、毎年、あるいは日々、新しい事をしてくださいます。まだ起こっていないこともあるでしょうが、もうそれが起ころうとしていると言われます。

でも、私たちがそれを知らないでいる事もあるのではないでしょうか。

神様は私たちが知らなくても、新しい事をなされるお方です。
私たちには理解できないような方法をとられる事もあります。
荒野に道を、荒地に川を設けるようなことをされるお方なのですから。。

わたしたちは、神様がされる新しい事を知ろうとする必要があるのではないでしょうか。
では、何を知ればいいのでしょう。

①イエス様を知る。
まず、わたしたちはイエス様を知らなければなりません。
聖書を通して、イエス様を知る事ができます。
祈りを通してイエス様を知る事ができます。
普段の生活の中でイエス様を体験して、イエス様を知る事ができます。
イエス様を知っていくときに、その御心であったり、主がなそうとされる新しい事を知る事もあるのではないでしょうか。

ホセア 6:3 私たちは、知ろう。主を知ることを切に追い求めよう。主は暁の光のように、確かに現われ、大雨のように、私たちのところに来、後の雨のように、地を潤される。

主を知る事を切に追い求めるものとなりましょう。


②自分の価値を知る。
先ほどの私の話で、自分の置かれた立場、その責任のようなものを感じました。
私に伝えられた福音によって、私は救われた。でも、この福音を伝えるものとしてその立場に置かれているんだという重さを感じました。
それと同時に、神様から愛されて救われているという素晴らしい立場にあるということも感じました。
わたしたちは、神様に愛されているという素晴らしい価値あるものなのです。

イザヤ 43:4 わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。

神様が私たちを愛しておられます。そしてその価値を「私の目には、高価で尊い。あなたを愛している」と言われているのです。

誰があなたをどのような評価をしたとしても、神様の目には、高価で尊い存在なのです。
あなたが誰からも愛されなかったとしても、神様はあなたを愛しておられるのです。


私たちが、イエス様を知る事を追い求め、自分の価値を知り、自覚していくなら、神様がなそうとされる新しい事を知る事ができるのではないでしょうか。
もし前もって知る事ができなかったとしても、それが起ころうとしていくときに、神様の御業であることを知る事ができるのではないでしょうか。

逆を言えば、私たちがイエス様を知ろうとせず、自分の価値を正しく認識していないなら、主が新しい事をされていても気付かずに過ぎていってしまうのだと思うのです。

イエス様を知る事を追い求め、自分の価値を知り、神様がなされる新しい事を知るものとなりましょう。


主がなされる新しい事とはどんなことでしょう。


2.わたしは荒野に道を、荒地に川を設ける。

「確かに、わたしは荒野に道を、荒地に川を設ける。野の獣、ジャッカルや、だちょうも、わたしをあがめる。わたしが荒野に水をわき出させ、荒地に川を流し、わたしの民、わたしの選んだ者に飲ませるからだ。」

荒野に道を、荒地に川を設ける、というのは、簡単なことではありません。
人間的には不可能と思えるようなことを神様はされるのです。
それだけではありません。
神様がされる新しい事は素晴らしい恵みに満ちた出来事です。

アマゾンの熱帯雨林を荒野にして、ナイル川を砂漠にする、とは言われていません。
荒野という道もなく何もないようなところに道を設け、荒地、砂漠のような、川どころか草も生えないようなところに川を設けるという素晴らしい創造です。
さらに、荒野に水をわき出させ、荒地に川を流し、私の選んだ者に飲ませる、とあります。

神様がされる新しい事は、私たちが想像することも難しいくらいの大きな恵みに満ちた出来事ではないでしょうか。

教会として常時使える場所が与えられるように祈り始めています。
現実的な金銭面等を考えるととても難しく感じます。
でも、それこそ、荒野に道を、荒地に川を設けられる神様に期待したいと思うのです。

他にも、人間的には難しく思う事もあるでしょう。
それは、教会としてもですし、みなさんそれぞれ個人的にもあるでしょう。
でも、荒野に道を、荒地に川を設けられる創造主なる神様に期待しましょう。


結)新しい事に期待しましょう。
神様は新しい事をされます。今、もうそれが起ころうとしています。わたしたちはそれを知るものとなりたいですね。
神様がなされる新しい事は、荒野に道を、荒地に川を設けるような恵みに満ちた素晴らしい創造です。
そして、神の民、選ばれた者はその恵みに預かるのです。それは誰でしょう。それが私たちでありたいですね。
そのために、イエス様をもっと知りましょう。自分の価値を正しく知りましょう。
そして、その恵みに預かり、もっともっと神様の素晴らしさを宣べ伝えるものとなりたいですね。
神様がなされる新しい事に期待して、ワクワクした信仰生活を送りたいですね。

2010/01/03

10.1.3「すべてのはじまり」

新年あけましておめでとうございます
今年もよろしくお願いします


創世記1:1-5
:1 初めに、神が天と地を創造した。
:2 地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。
:3 神は仰せられた。「光があれ。」すると光があった。
:4 神は光を見て良しとされた。神は光とやみとを区別された。
:5 神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。夕があり、朝があった。第一日。

口語訳
:1 はじめに神は天と地とを創造された。
:2 地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。
:3 神は「光あれ」と言われた。すると光があった。
:4 神はその光を見て、良しとされた。神はその光とやみとを分けられた。
:5 神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。夕となり、また朝となった。第一日である。


序)はじまりはとても大切です。始まりがなければ、プロセスもないし、終りもない。
やはり始まりはとても大切です。
今日は2010年最初の礼拝です。とても大切です。でも来週も再来週も大切です。そう、プロセスも大切ですから、そして12月26日の2010年最後の礼拝も大切です。終りも大切ですから(笑)
でも始まりがあっての全てです。

というわけで、今日は聖書の一番最初、わたしたちの歴史の始まりである、創世記1章1節を見て行きましょう。

神様ははじめに何をされたでしょう?

1.天と地を創造した。

①天を創られた。
天は、希望を意味するのではないでしょうか。天国への望み、天へ向かう永遠の思い、天・目標や目的に向かう希望。。。
私達は希望なしには生きていくことはとても虚しく困難かも知れません。
神はまず天を創られました。希望を私達に創って下さいます。
聖書を通して私達に希望を与えて下さいます。
また、私達のうちに神様が働きかけて、希望を与えて下さいます。

ピリピ 2:13 あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせる のは神であって、それは神のよしとされるところだからである。

神様は聖書という神の言葉によって、また私達のうちに働きかけることを通して、希望を与えて下さるのです。
私達もイエス様に希望を創っていただきましょう。


②地を創られました。
地は土台を意味するのではないでしょうか。
砂の上に家を建てた人と岩の上に家を建てた人の譬が聖書にでてきますが、まさにそこは「地」です。
私達は岩の上に家を建てたいですね。
神様が創られた土台を私達の土台としたいです。
まさに「聖書=イエスキリスト」がその土台です。
土台がなくして「希望」の実現もありませんし、希望をなくして土台が活きることはありません。
土台をどんなにしっかりと作っても上に家をたてなければそれは何の意味があるのか?と疑問に思います。また、土台をしっかりと据えずに家を建てるならば、その家は長くは持たないでしょう。
欠陥住宅とは、土台が問題であるときに最初からやり直すしか直す方法はりません。土台が本当にいい加減だと傾いてしまったりもします。

Ⅰコリント3:10-11
:10 神から賜わった恵みによって、わたしは熟練した建築師のように、土台をすえた。そして他の人がその上に家を建てるのである。しかし、どういうふうに建てるか、それぞれ気をつけるがよい。:11 なぜなら、すでにすえられている土台以外のものをすえることは、だれにもできない。そして、この土台はイエス・キリストである。


私達も揺るぎ無い土台を作りたい。私たちがイエス様を土台とするならば、その土台は揺るぎ無い土台です。

イエス様を賛美し、イエス様を礼拝し、イエス様に祈り、イエス様と交わり、イエス様に聞き、イエス様に満たされて行く時に、土台であるイエスキリストを据える作業をしているのです。
土台は大きければ大きいほど、しっかりしていればしっかりしているほど、大きな高い建物を建てることができます。
そのために時間をかけることもあるかもしれません。でも時間が短くてもイエスキリストが土台であるなら、それはパーフェクトです。
そして、その上に家を建てていくのです。希望に向かって。。。

私達は神様が最初に創造された天と地、希望と土台を正しく健全に持ちたいと思います。聖書によって、イエス様によって、、、


さて、ここでひとつ気を付けておきましょう。


2.神の霊が水の上を動いていた。

:2 地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。

口語:2 地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。

私達が希望を持ち、土台を据え、スタートするとき、中には明るい状態じゃない場合もあるでしょう。そのプロセスの中にはそのようなことも待っているかもしれません。
創世記の最初もそうだったようです。しかしその中でも神の霊がおおっていたと書いてあります。そう、わたしたちがどんな状態の時も神の霊がおおっているのです。
ですから、神がおられないと感じるような時も神の覆いのなかにいることを覚えましょう。
そうじゃないと、希望と土台だ!といってスタートしてもつまづいてしまうような時があるかも知れません。でも、そんな時にも神がおおいとなって下さっていることを知っているならば、その希望を捨てることはしません。もし土台が不十分だと思うなら、まずはしっかりと土台作りをすればいいんです。

神が全てを支配しておられることを覚えましょう。そうするならば、神様はその後に「光あれ!」と言われることでしょう。
そして、神はその光を見てよしとされるのです。


結)私達は希望と土台をイエス様によって創っていただきましょう。
でも、それらは、喜ばしいものばかりではないかも知れません。その時も神の霊がおおってくださっているのです。
そのことを忘れずにいましょう。いずれ神は光あれと宣言し、わたしたちに素晴らしいものを見せて下さるに違いないのです。
年の最初の礼拝に、イエス様を礼拝し、スタートできるこの恵みを感謝します。
そして、今年も聖書を土台に、イエス様を土台に歩んで行きましょう。

2009/12/27

09.12.27「一年を振返って」

1テサロニケ5:12-22
:12 兄弟たちよ。あなたがたにお願いします。あなたがたの間で労苦し、主にあってあなたがたを指導し、訓戒している人々を認めなさい。
:13 その務めのゆえに、愛をもって深い尊敬を払いなさい。お互いの間に平和を保ちなさい。
:14 兄弟たち。あなたがたに勧告します。気ままな者を戒め、小心な者を励まし、弱い者を助け、すべての人に対して寛容でありなさい。
:15 だれも悪をもって悪に報いないように気をつけ、お互いの間で、またすべての人に対して、いつも善を行なうよう務めなさい。
:16 いつも喜んでいなさい。
:17 絶えず祈りなさい。
:18 すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。
:19 御霊を消してはなりません。
:20 預言をないがしろにしてはいけません。
:21 しかし、すべてのことを見分けて、ほんとうに良いものを堅く守りなさい。
:22 悪はどんな悪でも避けなさい。


詩篇103:1-2
: 1わがたましいよ。主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ。聖なる御名をほめたたえよ。
: 2わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。


序)今年最後の礼拝になりました。
みなさんはどんな年だったでしょうか?
一年を振返ることはとても大切なことです。それは感謝を数えることでもあります。
また、その中にある神様の恵みを数えることはもっとすばらしいことです。
今日は今年最後の礼拝ということで、一年を振返ってみると共に、感謝する時にしたいと思います。

感謝というのはどこかに向けられるべきですね。
辞書をひくと「ありがたいと思う気持ちを表すこと」とありますから、あらわすことは大切です。

全てのことに・・・

1.互いに感謝する。

まずは、人に、、、互いに感謝します。
よくクリスチャンは挨拶を交わす時に「感謝します」といいますが、これはこの御言葉「全てのことに感謝しなさい」から来ていると考えられます。
お互いにその存在を感謝し、また具体的に何かを感謝することもあるでしょう。
そういうことを思い巡らし、
「あぁ、あの人のあの時のあの言葉で励まされたなぁ。」
「あの時のあの笑顔にいやされたなぁ」
「あの時、祈ってもらって感謝だった」
「手伝ってもらって感謝だった」・・・といろいろと思い出せたら、
それを感謝することもまた素晴らしいことですし、神が望んでおられることでもあります。
それよりも何よりもお互いの存在が感謝であることを忘れてはいけませんね。

存在を感謝することはとても大切なことです。夫婦、親子、友人、、、

今年を思い巡らしてお互いに感謝できたら素晴らしいですね。


2.自分に感謝する。

次に自分に感謝しましょう。
みなさんは、人に感謝したり、神様に感謝することは多いかも知れませんが、
自分に感謝されてますか?
「自分を愛するように・・・」とありますが、
まさしく自分を愛する行為の一つが「自分に感謝する」ことだと思うのです。
自分を誉めてあげたり、自分を受け入れることもそうですが、自分に感謝する。

以前、ぎっくり腰になりました。
歩くのもままならない、車を運転するどころか、車に乗り込むことすら痛くて大変でした。
普段は特に気にもしてない「腰」。
健康に正常に動いて当たり前の時は、自分の体に対しての意識は無に等しいですが、
ひとたび、痛み出すと、その健康のありがたさがわかります。
自分の体に感謝しなきゃいけませんね。

勿論、その体を与え、支えて下さっているのは神様でしょう。
でも、その管理を任されているのは、一人一人なのです。
自分に感謝しましょう。

体だけではありません。
神様は私たちに自由意志を与えて下さいました。
自分が今年、よい選択をしたのであれば、その意志決定をした自分に感謝しましょう。
勿論そのように導いて下さったのは神様でしょう。
でも、それに反発することもできたわけですから、その点では自分に感謝し、神様に感謝すればいいのです。


3.神様に感謝する。

これは、本当に大切です。
詩篇103では、「主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな」とあります。
神様に感謝を数え、表すことは命じられています。
まあ、万が一忘れていることがあったとしてもそれを責められるお方ではありませんが、
私たちは、精一杯神様がして下さったよいことを数え、忘れず、感謝したいですね。

先ほどの二つのポイント、
「互いに感謝する」ことも、「自分に感謝する」ことも、
それらは、神様の支配の中であったことであると思うときに、それら全ての感謝は、同時に神様へも表すべきですね。

「○○さんを感謝します。そして、その○○さんを作られた主に感謝します。」
「○○さんのあの笑顔を感謝します。そして、その○○さんを笑顔にしてくださってる主に感謝します。」
「○○さんの祈りを感謝します。そして、その○○さんにそのような心を与えられた主に感謝します。」

「また自分を感謝します。そして私を作り、導いて下さっている主に感謝します」
と。。。

神様に感謝しましょう。それは、私たちを更に素晴らしい恵みの中に入れてくれます。
「ありがとう」という言葉を言う時に、気持ちがマイナスになる人はいないでしょう。
神様へのありがとうを言えば言うほど、神様の素晴らしさを深く味わい、神様が自分にとってどんなによい方であるかを更に知り、自分自身の神様への信仰と愛へとなっていくのです。


結)すべてのことに感謝しましょう。
お互いに感謝しましょう。神様が互いの関係を作って下さったから。
自分に感謝しましょう。神様が自分を作って下さり、うけ入れて下さったから。
神様に感謝しましょう。全てのことは神様の御手の中でのことだから。

そして、その感謝が溢れれば溢れるほど、わたしたちの内側も神様から来るよいもので溢れてきます。

神が人の形をとり、イエスキリストとして地上にきて下さり、十字架にかかって私たちの罪の身代わりとなって命を捨てて下さった。そして三日目によみがえり、天に昇り、今も聖霊として私たちを助けて下さる。
この素晴らしい救い主である神様を感謝しつつ、来年を迎えていきたいですね。
その時に、神様は、新しい年に新しいことをなしてくださると信じます。
感謝を数えつつ、祈りましょう。

2009/12/20

09.12.20「クリスマスの本当の意味」

ルカ2:8-14
:8 さて、この土地に、羊飼いたちが、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた。
:9 すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が回りを照らしたので、彼らはひどく恐れた。
:10 御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。
:11 きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。
:12 あなたがは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。」
:13 すると、たちまち、その御使いといっしょに、多くの天の軍勢が現われて、神を賛美して言った。
:14 「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」

序)本当の意味を知ること
本当の意味を知ることはとても大切なことです。
今日は、クリスマスの本当に意味を知って、あなたにとって、今までと一味違ったクリスマスとな

れば嬉しく思います。

1.クリスマスの本当の意味とは

:11 きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。

①あなたがたのために・・・

クリスマスは、だれの為のものでしょうか。
それは、みなさん一人一人のためなのです。

子供達だけの為にサンタさんがきてくれるから、子供達だけのため?
それとも、イスラエルという遠い国の出来事で、その国の人だけのため?
キリスト教のお祭りだから、クリスチャンだけのため?

そうじゃないんです。
あなたがたのため、全ての人のためのものなんです。


じゃあなぜ、私たちのためなのでしょう。
それは、神様が私たちを愛しておられるからです。

ヨハネ 3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。:17 神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。

神はあなたを愛しておられ、素晴らしい人生を送ってほしいと願っておられます。

また、マタイ 11:28 には、
「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」
とあります。

イエスキリストは、「全て、疲れた人・・」と全ての人に対して、招いておられます。
これもまた、イエスキリストが全ての人を愛しておられることを知る一つの言葉です。
聖書を読んでいくと、神様がいかに私たち一人一人を愛しておられるのかを知ることができます。

だから、クリスマスは、神様が愛しておられるあなたがたお一人お一人のため、全ての人のためのものなのです。
だから、私たちのためにクリスマスがあるのです。


そして、もう一つ・・・

②救い主がお生まれになりました。

クリスマスは、救い主がお生まれになった出来事です。

クリスマスはイエスキリストの誕生日、でもそれは、歴史上のある人の誕生日というよりも、
救い主が地上に生まれた出来事そのものであるといった方が正しいでしょう。

先ほど、神様が私たちを愛しておられるので、私たちの為にクリスマスがあることを見ました。
では、そもそも私たちに救い主は必要なのでしょうか。

イエスは、キリストとして、救い主として、生まれたというなら、何を救うために、何から誰を救うために生まれたのでしょう。

それは、罪から私たちを私たちを救うためです。

ローマ 3:10 ・・・義人はいない。ひとりもいない。
ローマ 3:23 すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができない。

全ての人は罪人であることを聖書は言っています。

刑務所に入ったことはないかもしれません。
法を犯すようなことをした覚えがないとおっしゃるかもしれません。
素晴らしいことです。

でも、わたしたちは、自分が中心、自分さえよければいいと考えてしまう事はないでしょうか。
自分さえよければ、という自己中心が私たちの心を支配するとき、そのために犯罪を犯してしまうのです。
殺人・・自分が死刑になりたいから、人を殺した犯罪者も、自分の事しか考えていない。
盗み・・自分が欲しいものを手に入れる為に、人に被害を与えてでも自分のものにしようとすることは、自分の事しか考えていない。

全て、自己中心のゆえに、犯してしまうことではないでしょうか。
神様は、この自己中心の心を罪であると言われています。
この自己中心の心、罪があるから、いろんな悪いことをしてしまうのです。

では、他者中心に生きるべきなのでしょうか。それも難しいですね。
私たちの心にある自己中心の心を神様におまかせして、神様を心の中心に置く時に、その悪から遠ざかる事ができます。

ですから、わたしたちは、神様に対する反発であっても、神様なんて関係ないという無関心であっても、神様を認めず、神様に背を向ける自己中心が、聖書のいう罪なのです。
罪という言葉には、「的外れ」というギリシャ語が使われています。
神様中心で、神様に向かっていなければならない私たちの心がその的から外れた方向に向いている状態をさしているのでしょう。

そのため、私たちは神様と離れてしまい、神様の存在もその愛も知ることができないのです。
この間を橋渡ししてくれるのが、「救い主」です。

でも、罪を持ったままでも死んでしまえば、それで終りなんじゃないの?
いいえ、聖書には、
「人は一度死ぬ事と、死後裁きを受ける事が定まっている」とあります。
人は、必ず死にます。しかし、それで終りではないのです。
その魂の行き先があるのです。それが天国と地獄です。
罪から救われていない人、罪の許しを受けていない人は、地獄です。
でも、罪から救われている人は、天国です。
これは、宗教的な話しではないのです。全ての人に向けた神様からのメッセージです。

そうです。私達には「救い主」が必要なんです。


クリスマスの本当の意味とは、

「あなたを愛しておられる神様が、
 救いを必要をしているあなたのために、
 救い主として地上にお生まれになった。」



結)あなたも救われて、神の愛を知る

実際にイエスキリストは、その生涯の最後に十字架で死なれました。
これは、私たち人類の罪の身代わりとして死なれたのです。

ローマ 5:8 しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。

全ての人が罪人であることをお話ししました。
罪人が罪人の罪の身代わりになることはできません。
罪のない人じゃないと身代わりにはなれないのです。

イエスキリストは、クリスマスに生まれられ、罪を犯すことなくその生涯を送られ、
その生涯の最後に罪のない人として、罪の身代わりとしてその罰を受けられたのです。

イエスは言われました。
「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。 」

イエスキリストを通してでなければ、神様との関係を回復することはできません。
私も罪人です。でも、イエスキリストを信じたときに、罪が許されるのです。
だから今は罪許された罪人なのです。

クリスマスの本当の意味を知りました。
それは素晴らしいことです。でも、もっと素晴らしいことは、自分にも救いが必要である事に気付き、救い主の救いを自分のものにすることです。

イエスキリストがあなたの罪の身代わりとして死んで下さったのに、それを受け入れないでいるなら、せっかく救いが用意されているのに、救われません。
イエスキリストを受け入れ、その愛を受け入れる時に、あなたは救われ、あなたはその愛を知ることができるのです。

今日、このキリストを受け入れる時に、あなたにとって、本当の意味でのクリスマスを体験することでしょう。
それは、天国への切符を手に入れることでもあります。

祈りましょう。
「イエス様、クリスマスの本当の意味を聞きました。聖書や、イエスキリストについてもっと知りたいです。悟ることができるようにしてください。
また私は、イエスキリストを罪からの救い主として必要としています。
イエスキリストが私の罪の為に十字架で死んで下さってありがとうございます。
私は今、イエスキリストを罪からの救い主として、お迎えいたします。
私の罪を許して下さい。私の心の中心で私の人生を導いて下さい。
イエスキリストのお名前によってお祈りします。アーメン」

09.12.13「 内側から来る神への信頼 」

ルカ 2:1-7
:1 そのころ、全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストから出た。
:2 これは、クレニオがシリヤの総督であったときの最初の住民登録であった。
:3 それで、人々はみな、登録のために、それぞれ自分の町に向かって行った。
:4 ヨセフもガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。
彼は、ダビデの家系であり血筋でもあったので、
:5 身重になっているいいなずけの妻マリヤもいっしょに登録するためであった。
:6 ところが、彼らがそこにいる間に、マリヤは月が満ちて、
:7 男子の初子を産んだ。それで、布にくるんで、飼葉おけに寝かせた。
宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。

序)クリスマスに備える
クリスマスに備える・・・これはキリストの来臨に備えることをも意味します。
つまり今の私達に言い換えれば、キリストの再臨に備える意味もありますね。
今はまさに終りの時代だと思えば、再臨に備えることはとても大切なことです。

今日も御言葉を通して、クリスマスに備えていきましょう。

イエス様が生まれる直前の数ヶ月の出来事を見て行きましょう。

1.イエス様が生まれる前にベツレヘムへ移動した。:1-5

ナザレからベツレヘムまで、直線にして110kmはある。
その直線上は山地なので少なくとも120~150kmはあったと思われます。
時速4kmで1日8時間歩いたとしても3,4日はかかる。
ここから、土岐までが100kmくらいで、香芝までが130kmくらいでしたから、その距離を身重な体で歩いていくわけですから、かなり過酷な旅であったと想像できますね。


しかし、

ミカ 5:2
しかしベツレヘム・エフラタよ、あなたはユダの氏族のうちで小さい者だが、
イスラエルを治める者があなたのうちからわたしのために出る。
その出るのは昔から、いにしえの日からである。

この預言がありましたから、イエス様はベツレヘムでお生まれになるはずでした。
そして、ヨセフとマリヤははからずも人口調査の為にベツレヘムへ移動することになったのです。
このことから、前回もお話したように、神様の言葉は必ず成就することを教えられます。

しつこいようですが、

●神様の御言葉は必ず成るんです。

世の中に絶対はないということがあると思いますが、神様の言葉は絶対なのです。


この意味を履き違えないで下さいね。
神様の言葉が絶対というのは、
神様の言葉だから絶対に従わなくてはならないという単純な意味ではありません。

神の言葉は、聖書です。
聖書を通して解釈された教理は、「教理」でしかありません。
聖書を通しての悟りは、「その人の悟り」でしかありません。
聖書を通して語られるメッセージは、「メッセージ」でしかありません。
預言者を通して語られる預言は、「預言」でしかありません。

どれも100%の神の言葉ではないのです。
混ざり物があるとでもいいましょうか。。


確かに「本当に」神様の言葉なら絶対に従うべきでしょう。。
でも、ここに人間に弱さに付け込んだ悪魔の罠が待っていることがあります。
いろんな教義があります。
しかし気を付けないと、教義を神の言葉としてしまうと危険です。
神の言葉は聖書そのものだけです。それも本当は原典が読めれば一番いいのですが・・・。
それ以外は人の解釈であり、そこから出てきた教義教理です。

とにかく、神の言葉は必ず成就します。
人の預言は外れても、神の預言は外れません。絶対なります。


私達はこの神の言葉を信頼し、より頼み、しっかりと受け止め握り続けたいですね。



2.イエス様は馬小屋で生まれた。:6-7

これは、ヨセフとマリヤが馬小屋に滞在していたことを意味します。
ヨセフとマリヤは、御使いから告げられて自分達の間に生まれてくる子は聖霊によるものであり、イスラエルを治める方であることを聞いていますから、自分達はその両親であるんだということですから、その自分達を馬小屋にしか泊めないなんて、なんて無礼な!という事もできたかも知れません。他の客を馬小屋に追いやってでも客間に入れろということもできたかも知れません。
でも、そんな事を言わずに空いている馬小屋でもいいから…とそこに滞在しました。

ここで、

●神の御名の権威をやたら振りかざさない。

ことを教えられます。

出エ20:7 あなたは、あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。 とあります。


私達が主の名を唱えるのは、どんな時でしょう。
祈りの時、悪魔に命じる時ですよね。
ましてや、未信者や信者に主の名を唱え、振りかざすことは神様が禁じておられます。
これは、ひとつめの話しとも関連してきますよね。

「聖書にこう書いてある。これはこういう意味(解釈)だから、あなたはこうしなくてはならない。これは主の御心であるし、主の命令だ。」なんて牧師や預言者などに言われたらどうでしょう。「主がそう言っておられるのなら・・・」と従うことになってしまうでしょう。
でも、本当にそうでしょうか。

預言についてはどうでしょう。
どう受け止めるべきか…みたいな。
「聖書が第一。預言は励ましや慰めといった意味で受け止めるべき」なのです。

どんな素晴らしい預言があっても、聖書を越えるものではないのです。
どんな素晴らしいメッセージを聞いても聖書を越えるものではないのです。

聖書の素晴らしさを再確認しましたね。イエス様はまさに御言葉が受肉したお方です。

私達は、主の名、その権威によって、悪魔に命じたり自分に告白したり、祈ったりはしても、
決して人にその権威をかざすような言動はしないように心掛けたいですね。


結)神様への信頼
私はここを読んで全体的に感じたんですが、
ヨセフとマリヤは決してその時の時代の流れに逆らっていないということです。
律法にも忠実で敬謙な神を信頼する人であったと思うのですが、
その時の流れに逆らうようなことはしていないですよね。

身重にもかかわらず、人口調査の為に100km以上の距離をも移動し、
身重にもかかわらず泊まるところがなくて馬小屋に滞在する事も拒否せずに。
ここに、目に見えてはあまり見えなくても、内側にある神様への信頼の大きさ強さをみるような気がします。
その信仰が、神の言葉の成就にもつながり、主の御名をみだりに唱えたり振りかざしたりしない行動へとつなげていったのだと感じました。

私達も、目に見える事に振り回されずに、御言葉をしっかり握り、神様だけを信頼する信仰を強くしていただいて、マリヤとヨセフのようにしっかりした歩みをすることによって、神様の御業を見て行きたいと願います。

2009/12/06

09.12.6「神の御言葉が成る」

ルカ1:26-38
:26ところで、その六か月目に、御使いガブリエルが、神から遣わされてガリラヤのナザレという町のひとりの処女のところに来た。
:27この処女は、ダビデの家系のヨセフという人のいいなずけで、名をマリヤといった。
:28御使いは、はいって来ると、マリヤに言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」
:29しかし、マリヤはこのことばに、ひどくとまどって、これはいったい何のあいさつかと考え込んだ。
:30すると御使いが言った。「こわがることはない。マリヤ。あなたは神から恵みを受けたのです。
:31ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。
:32その子はすぐれた者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また、神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになります。
:33彼はとこしえにヤコブの家を治め、その国は終わることがありません。」
:34そこで、マリヤは御使いに言った。「どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに。」
:35御使いは答えて言った。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。
:36ご覧なさい。あなたの親類のエリサベツも、あの年になって男の子を宿しています。不妊の女といわれていた人なのに、今はもう六か月です。
:37神にとって不可能なことは一つもありません。」
:38マリヤは言った。「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」こうして御使いは彼女から去って行った。


序)暦では、先週からアドベント(待降節)です。
イエス様のご降誕を待ち望む期間ですね。
イエス様のご降誕の物語から、イエス様を待ち望んでいきましょう。
さて、ここは有名な箇所ですね。マリアの受胎告知の箇所です。
:26の「六ヶ月目」というのは、ヨハネを身ごもっているエリサベツが6ヶ月目にあたる時のことです。
その時期に御使いガブリエルがマリヤのもとに訪れて、受胎を告げ知らせたところです。
マリヤは驚いたでしょうね。
子供の年は、生まれてから0才で数えますが、これは母体から出てからの時間ですね。
でも中には、胎内に宿った時からがその子の人生が始まっているというふうに考えられている場合もあるようですが、そう思うと、この箇所はまさにイエス様の地上での人生のスタートだったかも知れませんね。

この箇所から「神の御言葉が成る、成就する」ということを見ていきながら、クリスマスへの心の準備をしていきましょう。


1.ヨセフはダビデの家系だった。:27

「神は選ばれた人に御言葉(約束)を届けられる」

マリヤが地上でのイエス様の母となるわけですが、マリヤはヨセフの婚約者でした。
ヨセフはダビデの家系であると書かれてあります。
つまり、イエス様はダビデの家系にお生まれになるわけです。
これは、預言の成就でした。まさに選ばれた人であったわけです。
それによって神様は約束を実行される方であることがわかります。
「神の召しと賜物は変わることはない」と聖書にあります。
神様はいわれた事をなさる方です。

ヨセフとマリヤがなぜ選ばれたのか?
確かに神の前に敬謙な信仰者であったかもしれません。
選ばれて当然のような人であったのかも知れません。
しかし、それ以上に神様はダビデの家系からキリストが生まれることを預言者を通して語っておられた。
つまり、決めておられたからです。
だからダビデの家系に属するヨセフとマリヤを選ばれたのです。勿論ダビデの家系の人は他にもいたでしょう。
その中でこの二人が選ばれたのはその信仰を見られたのかも知れませんが。。。
神の召しは変わらないのです。

旧約において、ヤコブは次男でした。長子の権利はありませんでした。
でも神はヤコブを選ばれたので、その子孫をイスラエルとされたように、神様が決められた事は状況に左右されず、神様は必ず成就されるのです。
そう、神様は自ら決めた選びの約束を必ず成される方なのです。


2.御使がマリヤのところに来て言った。:28

「神は御言葉(約束)を必ず実行される」

マリヤに御使いを通して、御言葉が届けられました。
でも、マリヤはどういう意味かわからなかったようです。
処女なのに身ごもる。その子がダビデの王座につく。
そしてイスラエルを支配し、その支配は永遠に続く・・・。

「え???ホントに?」と驚いたでしょう。

このように理解しがたい言葉が届けられる事もあります。
また、本当に現実化するんだろうかと疑いたくなることもあります。
実際、ヨハネが身ごもるということを聞いたエリサベツの夫ザカリヤはその言葉を信じなかったために生まれてくるまで口がきけなくなりました。:18-19

私達も御言葉が与えられたり、神様からのインスピレーションなんかが示されたりしても、信じられないような時もあるかも知れません。
また、その言葉が神様から来ているのか、自分の思いなのか、分からない時もあるでしょう。
でも、神様から来ているなら、ただ信じて自分が今できることをしているなら、それは神様が成就して下さいます。

ここが重要です。

「神様が成就してくださる」のです。

思いが来たからといって、自分で成就させてしまっては神様の出番はありませんし、もしかしたら自分から出てきた思いを自分で成し遂げたにすぎなかったということにもなり兼ねません。
やってきた思いは大切に心に留め、今自分ができることをする時、神様が成就されるでしょう。

なぜなら、神様に不可能はないからです(:37)
詳訳聖書を見ると「神から出ることばで、実現の力のないものは一つもありません」とあります。神様の言葉は実現する力あるものなのです。

ピリピ 2:13
神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです。(新改訳)

あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせるのは神であって、
それは神のよしとされるところだからである。(口語訳)

とあります。

自分を信じるなら、信用できないかもしれませんが、神様を信じるのです。
これ以上信頼できる方はおられませんよね。神様からの言葉や思いを信じましょう。

イエス様に期待しましょう。
イエス様が成就してくださいますから。

自ら届けた御言葉を自ら実現して下さる神様を信じる人は幸いですね。



結)お言葉どおりこの身になりますように:38
マリヤは、言葉を受け入れ、この身になるようにと告白しました。
本当は不安もいっぱいあったと思います。
結婚していないのに、妊娠したなんて、このことをヨセフに話して信じてもらえるだろうか?
また、周りの人はなんていうだろう?
姦淫の罪を犯したといって、石打にならないだろうか?
たとえ無事出産したとしても、イスラエルの王になるという子供をちゃんと育てられるだろうか?

でも、マリヤは神様からの言葉通りにこの身になるように、と言いました。
これは神様を信頼し、神様に委ねた姿だと思います。
神に選ばれ、神から言葉を受けたマリヤは神を信じ一切を委ねました。
神に選ばれた私達も、神様からの御言葉が与えられています。
神様に信頼し、神様を信じましょう。その言葉を信じましょう。そして委ねましょう。
十字架で命をも与えて下さった主が私達の神様なのですから。。。

今日の御言葉を通して更にクリスマスの心の準備をしていきましょう。

2009/11/29

09.11.29「 心はどこにあるのか 」

マタイ15:1-9
:1 そのころ、パリサイ人や律法学者たちが、エルサレムからイエスのところに来て、言った。
:2 「あなたのお弟子たちは、なぜ長老たちの言い伝えを犯すのですか。パンを食べるときに手を洗っていないではありませんか。」
:3 そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「なぜ、あなたがたも、自分たちの言い伝えのために神の戒めを犯すのですか。
:4 神は『あなたの父と母を敬え』、また『父や母をののしる者は死刑に処せられる』と言われたのです。
:5 それなのに、あなたがたは、『だれでも、父や母に向かって、私からあなたのために差し上げられる物は、供え物になりましたと言う者は、
:6 その物をもって父や母を尊んではならない。』と言っています。こうしてあなたがたは、自分たちの言い伝えのために、神のことばを無にしてしまいました。
:7 偽善者たち。イザヤはあなたがたについて預言しているが、まさにそのとおりです。
:8 『この民は、口先ではわたしを敬うが、その心は、わたしから遠く離れている。
:9 彼らが、わたしを拝んでも、むだなことである。人間の教えを、教えとして教えるだけだから。』」



序)人間のいましめと神様のいましめ
この時代には、人間のいましめ、人間の教え、人々の言い伝えがあったようですし、それによって神のいましめが破られるということもあったようです。
さて、私達の今の時代はどうでしょうか?

人を殺してはいけないと書いてあるのに、なんで戦争なんてするの?
人を殺してはいけないと書いてあるのですから、戦争はだめです。
正義の戦争なんてありません。理由はともあれ人殺しです。
これは人間の教えが神の戒めを破っているといえるでしょうね。

イエス様は人間のいましめと神様のいましめについてどのようにメッセージされているのかを見て行く時に、答えがみえてくるんじゃないでしょうか。


1.心はどこにあるのか。

『この民は、口先ではわたしを敬うが、その心は、わたしから遠く離れている。
彼らが、わたしを拝んでも、むだなことである。人間の教えを、教えとして教えるだけだから。』

人間のいましめと神様のいましめを見る時、神様が偽善者といわれるケースでは、はっきりとひとつのことがわかります。
「心がどこにあるのか?」という事です。

口では立派な祈りをして、神様を告白しているかも知れませんが、その心が遠く離れているならそこには神様はおられません。

1サムエル16:7 しかし主はサムエルに仰せられた。「彼の容貌や、背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。」

神様は私達の心がどこにあるのか…その心に目をむけておられるようです。

私達の心は神様の近くにあるでしょうか?


2.心が神の近くにある時。

心が神の近くにある時、私達はどうなるでしょう。

(1)神を身近に意識した生活をするようになる。

神様と親しく交わり、神様を意識する生活ができるようになってきます。

神様の近くに心がある時「イエス様、これでいいと思いますか?」ってすぐにきけるでしょうね。
悪い思いがやってきた時に「イエス様、だめですよね?」と神様を意識して、罪からは遠ざかる事もできるでしょう。
神を意識した生活ができるようになるでしょう。

心が神様の近くにあるとき、わたしたちは神様を身近に意識した生活をするようになるのです。


(2)神の愛が私たちのうちに全うされる。

1ヨハネ 4:12 もし私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにおられ、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。

神様の近くに心があるなら、神の愛が心に注がれ、神の愛で、神と人を愛する事ができるでしょう。
その時、互いに愛し合うことができ、神の愛が私達のうちに全うされるでしょう。

神の近くに心があるなら、神の愛が注がれ、神の愛で、神と自分と人とを愛することができるでしょう。



結)神に近づく
私達は、神様の近くに心あるためにはどうすればいいんでしょうか?
神に近づく。それだけです。
神様を想う。神様に心を向ける。
それは、個人的な時間でもできるでしょう。朝起きた時、トイレで、台所で、洗面所で、お風呂で、食事の時、寝る前、・・・。
また、このような礼拝の時間もそうですね。神様に心を向ける時を持つことです。

イエス様から私達に近づいて下さいました。
地上にお生まれになり、人々に仕え、十字架の死に至るまで従順であられ、私達に愛を示し、命を与えて下さったイエス様。
私達はそのイエス様を心に迎え入れ、イエス様を思うなら、既に私達のうちに御子を持っています。命を持っています。信じましょう。
そして、これからも心が神の近くに歩む人は幸いです。

2009/11/22

09.11.22「その名はなんというのですか」

出エジプト3:13-15
:13 モーセは神に申し上げた。「今、私はイスラエル人のところに行きます。私が彼らに『あなたがたの父祖の神が、私をあなたがたのもとに遣わされました。』と言えば、彼らは、『その名は何ですか。』と私に聞くでしょう。私は、何と答えたらよいのでしょうか。」
:14 神はモーセに仰せられた。「わたしは、『わたしはある。』という者である。」また仰せられた。「あなたはイスラエル人にこう告げなければならない。『わたしはあるという方が、私をあなたがたのところに遣わされた。』と。」
:15 神はさらにモーセに仰せられた。「イスラエル人に言え。あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主が、私をあなたがたのところに遣わされた、と言え。これが永遠にわたしの名、これが代々にわたってわたしの呼び名である。

序)名前の力
名前には力があります。
モーセは誰の名によってつかわされたのか?ということに関心がありました。
誰につかわされたのか?ということはとても大切なことです。
モーセには自信がなかったのです。
自分がエジプト王のところにいってイスラエルを救い出すなんて。
みんなはなんて言うだろう?逃げてきたわけですから・・・
でもつかわされた方の名前を聞くならば、それで、モーセは確信を持つことが出来ます。
そしてイスラエルの人達がおまえは何者だ!といっても神の名によってつかわされているのです、というならば、きっとイスラエルの人々も納得すると思ったからです。
だからモーセは名を聞きたかったのです。
でも神様はモーセになんと答えられたでしょうか?


1.私は存在している。

私はある(新改訳)
私は有って有る者(口語訳)

それは神様の性質を表しています。

3:13 モーセは神に申し上げた。「今、私はイスラエル人のところに行きます。私が彼らに『あなたがたの父祖の神が、私をあなたがたのもとに遣わされました。』と言えば、彼らは、『その名は何ですか。』と私に聞くでしょう。私は、何と答えたらよいのでしょうか。」
:14 神はモーセに仰せられた。「わたしは、『わたしはある。』という者である。」また仰せられた。「あなたはイスラエル人にこう告げなければならない。『わたしはあるという方が、私をあなたがたのところに遣わされた。』と。」

神様はモーセに答えられました。「わたしはある」
モーセはきっと「は?」と思ったでしょう。いえ私は名前を聞きたかったのですが・・
私はある?

この言葉は神様の名前ではありません。
それは性質をあらわす言葉です。
神様というお方がどのようなお方なのか?ということをあらわしています。
この時、モーセにとって大切なことは、みんなが納得する神の名ではありません。
その名を持つ方がどれほど偉大な方か?ということを知る、ということです。

“私はある”とは、どのような方であることをあらわしているのでしょうか?
原語の直訳は、「私は存在している」とです。
この言葉にはたくさんの神様の偉大さが凝縮されているのです。
神様の素晴らしさは言葉では説明できないのです。だから言われました。
“私はある”


①神様は、それ自体で存在しています。

あなたはどうしてここにいるのですか?
お母さんから生まれたからここにいるのです。
そのお母さんは?お母さんのお母さんが・・またお母さんが・・・

このギターはどうして存在しているのですか?
はい、買ったからです。その前はヤ○ハ楽器が製造したからです。

私達のまわりにあるすべてのものは、何かから生まれてきているのです。
でも、神様はそうではありません。何かから生まれてきたのではありません。
神様は神様として存在しているのです。

・創世記1:1 はじめに神は天と地とを創造された。
はじめに神は・・・聖書のその前に何も書かれていませんね。
はじめに神は・・・からスタートしています。
つまりこの世界に何も存在していなかった時、神様はすでにおられた、ということをあらわしているのです。
すべてのはじまりは神様です。私はある、それは神様の偉大さを表しています。


②無から有を生み出す力があります。

ということは、すべてのものを神様が造られたのだ、ということです。
すべてのものは神様から造られ生まれてきたのです。
何もなかったところから、神様はこの大地や星や、太陽、生き物を造られたのです。
つまり、何もないところから、新しいものを生み出す力をもっておられる方だ、ということです。


例えば太陽を直径50センチにすると一番近い水星はどのくらい離れるかわかりますか?
約20メートルです。
金星は約39メートル。
地球は約53メートル。
火星は約82メートル。
木星は約279メートル。
土星は約513メートル。
天王星は約1032メートル。
海王星は約1618メートル。
冥王星は約2122メートル。
地球を1mmと仮定すると10メートル先に10センチの太陽があるのと同じです。
我々が見る夜空の星は金星などの9つの惑星等一部をのぞいて、みんなこの太陽クラスなのです。
それも私たち銀河系内の範囲の一部しか肉眼では見えません。
しかも我が銀河系内だけでもこの太陽(恒星)が1000億個以上もあるそうです。

そしてそれだけではありません。1光年は3482キロ先です。でもまだ星はありません。
一番近い星でも二万キロ以上はなれないとないのです。それが無限に広がっています。
これ全部神様がつくられたのです。
そのスケールの大きさに驚きます。
すべてを造られたお方です。

これは“私はある”というお方です。

・イザヤ43:19 見よ、わたしは新しい事をなす。
やがてそれは起る、あなたがたはそれを知らないのか。
わたしは荒野に道を設け、さばくに川を流れさせる。

そう考えると、荒野に道を、砂漠に川を流れさせることくらい、どうってことないですよね。
そう、この有って有る者はあなたの生涯にも働かれるのです。
そして、何もないところからでも、素晴らしい創造をされる方です。
絶望のふちからでも、最高の希望を与えてくださる方です。


③完全です。
愛において・力において・霊において・・・

マタイ5:48 それだから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。
私はあるという方、すべてのはじまりである方は完全な方です。
愛において・・・このすべてがはじまる前から存在しておられた方、そして全てを作り出した方、イエス様はあなたのために十字架にかかって死なれたのです。
ただ、身代わりとなる、ということだけのために。
すべての力、能力、権威を捨てて、あなたのために、私達のために十字架にかかり、死んでくださったのです。
イエス様の愛は完全な愛です。
すべてを満たすことのできる愛です。
そして力において、あなたを覆い、助け、満たすことの出来る方です。



2.本当の名は“イエス”です。

神様は「私はある」、その方がいかに素晴らしい方であるのか?ということをモーセに伝えたかったのです。
その名前が何であっても、その名前を持つ方がいかに素晴らしい方か、ということを知らなければどうしてエジプトにいくことができるでしょう。
仮に行くことが出来たとしても、すぐに挫折して帰ってきてしまうでしょう。
”私はある”、それは偉大なお方です。

では、なぜモーセに神の名が告げられなかったのでしょうか?
それは後にこられる方によって明らかにされました。。

使徒4:12 この人による以外に救はない。わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていないからである」。

神の名、それはイエスです。
神の名はエホバでもヤハウエでもありません。それは単なる呼び名です。
「イエス」それが神の名前です。

わたしはある、この名のもう一つの呼び名がありました。

3:15 神はさらにモーセに仰せられた。「イスラエル人に言え。あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主が、私をあなたがたのところに遣わされた、と言え。これが永遠にわたしの名、これが代々にわたってわたしの呼び名である。

“あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主が”
これはずっと続いていくのです。
そしてあなたの神という意味があるのです。
そして永遠に私の呼び名である、といわれています。
そうです。イエス様は、あなたの神です。そしてあなたを救う神です。
その名は永遠に変わることがありません。永遠にあなたの救い主なのです。

そして、そのイエス様の名にこそ力があります。
だからイエスの名によって祈ります。宣言します。告白します。

私達を呼ばれ、救われ、用いられる神は、こんなにも素晴らしい方です。
そしてその力ある名を私達は知っています。
このイエス様を知る人は幸いです。

2009/11/15

09.11.15「わたしは何者でしょう」

出エジプト3:7-12
:7 主は仰せられた。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の悩みを確かに見、追い使う者の前の彼らの叫びを聞いた。わたしは彼らの痛みを知っている。
:8 わたしが下って来たのは、彼らをエジプトの手から救い出し、その地から、広い良い地、乳と蜜の流れる地、カナン人、ヘテ人、エモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人のいる所に、彼らを上らせるためだ。
:9 見よ。今こそ、イスラエル人の叫びはわたしに届いた。わたしはまた、エジプトが彼らをしいたげているそのしいたげを見た。
:10 今、行け。わたしはあなたをパロのもとに遣わそう。わたしの民イスラエル人をエジプトから連れ出せ。」
:11 モーセは神に申し上げた。「私はいったい何者なのでしょう。パロのもとに行ってイスラエル人をエジプトから連れ出さなければならないとは。」
:12 神は仰せられた。「わたしはあなたとともにいる。これがあなたのためのしるしである。わたしがあなたを遣わすのだ。あなたが民をエジプトから導き出すとき、あなたがたは、この山で、神に仕えなければならない。」


序)神の前にたったモーセ
燃える柴を見て、近づいたモーセですが、そこで神の前に立つことになりました。
そして、神様がモーセに語り始められたのです。


1.神は知っておられる。

エジプトにいたイスラエルの人々は、苦しい労働に苦しみ、痛み、その中で、神に叫び続けていました。神様はこの叫びを、祈りを、聞いてくださっていたのです。

私たちも祈ります。
「果たして神様は聞いてくださっているのだろうか?」と思うこともあったかもしれません。
大丈夫、心配いりません。神様はちゃんと聞いてくださっています。

さて、神様は聞いてくださるだけでしょうか。
いいえ、そうではありません。神様はそこに救いの手を伸べてくださるお方です。

ここで、神様がモーセに語られたとき、神様がイスラエルの叫びを聞いておられることをモーセは知りました。
しかし、当のイスラエルの人々はまだ知りません。

私たちが祈るとき、届いていて、聞かれていても、それがわかるまでに時間がかかることがあります。
この後、モーセがエジプトに下り、最終的に出エジプトするまで、神がイスラエルの叫びを聞き、救いを与えられたことはわかりません。
でも、すでに神様は知っておられて、救いを用意されていたのです。

私たちが祈るとき、神は既に知ってくださっているのです。
そして、そのために既にその答えを用意してくださっているのです。
ただ、それが届くまでには時間がかかる場合もあるのです。

私たちはこのことから、「神は知っておられて、介入してくださる」という信仰を持って祈り続けるものになりたいですね。


さて、遣わされることになるモーセを見てみましょう。



2.あなたは何者ですか。

神様は言われました。
今、行け。わたしはあなたをパロのもとに遣わそう。わたしの民イスラエル人をエジプトから連れ出せ。

モーセはどうしたでしょうか?
待ってました!主よ、その時が来るのをわたしは今までずっと待っていたのです!
とは言わなかったのです。

ちょっと待ってください。わたしは何者ですか?
ずっと前にエジプト人を怒りにまかせて殺してしまったのです。殺人者です。逃亡者です。
そんなわたしに何ができるのでしょうか?
はっきり言って私は、ただの羊飼いです。そんな大それたことはわたしには出来ません。

神様の声を聞いて従おうとする、その時、大切なことは
“わたしは何者か?” ということです。

モーセは自分を何者だと思っていたのでしょうか。
エジプト人を殺した犯罪者。
イスラエルの人達を救い出そうとして失敗した失敗者。
王を恐れて逃げだした逃亡者。

だから、モーセは神様の声にすぐに従うことが出来なかったのです。
なぜこんな私にそんなことができるのか・・・。

でも本当はそうではありません。
確かにモーセの過去は事実でしょう。
でもイエス様はそうは見ておられないのです。
同じ経験をしたとしても、私は何者であるのか?どのように自分を見るのか?ということは、あなた自身にまかされているのです。

あなたは何者ですか?

・罪赦された人です。
コロサ1:14わたしたちは、この御子によってあがない、すなわち、罪のゆるしを受けているのである。

モーセは過去に犯した罪が裁かれることを恐れていました。
でもイエス様は裁きの神ではなく、赦しの神であること知らなくてはなりません。
過去にたいして、赦しを宣言しなくてはなりません。


・世界にたった一人しかいない、高価で尊い人です。
イザヤ 43:4 わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。
だからわたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにするのだ。

神様はあなたを何十億のうちの中の一人とは見ておられません。
歴史上たった一人しかいない存在としてみておられるのです。


・イエス様に愛されている人です。
3:7 わたしは、エジプトにいるわたしの民の悩みを確かに見、追い使う者の前の彼らの叫びを聞いた。わたしは彼らの痛みを知っている。

「私の民」これは私のもの、という意味があります。
イエス様があなたは私のものだ。といわれるのです。
それほどあなたは愛されているのです。
そして、十字架で命を捨ててまで救おうとされるほど、愛されているのです。


そして、モーセに「さあ、あなたをつかわしてエジプトから民を救い出します!」
とこの神様がいわれるのなら、それはモーセにしかできないのです。


イエス様はあなたの心に語りかけるかもしれません。
あなたを用いよう!と。
そんな時、わたしにできるわけがない!ではないのです。
イエス様が語られるなら、それは、あなたにしかできないことだからです。

すべてはあなたに委ねられています。
あなたはどちらを選びますか?
モーセの言葉のように自分を見ますか?
それともイエス様の言葉によって自分を見ますか?
イエス様の言葉を信じる人は幸いです。


3.主が共におられます。
なぜなら主が共に働かれるからです。
:12 神は仰せられた。「わたしはあなたとともにいる。これがあなたのためのしるしである。わたしがあなたを遣わすのだ。あなたが民をエジプトから導き出すとき、あなたがたは、この山で、神に仕えなければならない。」

イエス様が選ばれたそのしるし、それは主が共におられる、ということです。
これ以上のしるしがあるでしょうか。それは大きなはげましです。

マルコ16:20 弟子たちは出て行って、至る所で福音を宣べ伝えた。主も彼らと共に働き、御言に伴うしるしをもって、その確かなことをお示しになった。

主が言われるなら、その責任は主が取ってくださいます。
そして、主は共におられ、共に働いて、その実を結ばせてくださるのです。


結)あなたを通して
あなたを通してもイエス様が働かれます。
イエス様に呼ばれた時があなたが立ちあがる時です。
そして、立ち上がるなら、イエス様は共にいて働いてくださるのです。
それは、あなたにしかできないことをイエス様があなたを通してなされるからです。
応答できるなら、幸いです。

2009/11/08

09.11.8「イエス様があなたを呼ぶ時」

出エジプト3:1-10
:1 モーセは、ミデヤンの祭司で彼のしゅうと、イテロの羊を飼っていた。彼はその群れを荒野の西側に追って行き、神の山ホレブにやって来た。
:2 すると主の使いが彼に、現われた。柴の中の火の炎の中であった。よく見ると、火で燃えていたのに柴は焼け尽きなかった。
:3 モーセは言った。「なぜ柴が燃えていかないのか、あちらへ行ってこの大いなる光景を見ることにしよう。」
:4 主は彼が横切って見に来るのをご覧になった。神は柴の中から彼を呼び、「モーセ、モーセ。」と仰せられた。彼は「はい。ここにおります。」と答えた。
:5 神は仰せられた。「ここに近づいてはいけない。あなたの足のくつを脱げ。あなたの立っている場所は、聖なる地である。」
:6 また仰せられた。「わたしは、あなたの父の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」モーセは神を仰ぎ見ることを恐れて、顔を隠した。
:7 主は仰せられた。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の悩みを確かに見、追い使う者の前の彼らの叫びを聞いた。わたしは彼らの痛みを知っている。
:8 わたしが下って来たのは、彼らをエジプトの手から救い出し、その地から、広い良い地、乳と蜜の流れる地、カナン人、ヘテ人、エモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人のいる所に、彼らを上らせるためだ。
:9 見よ。今こそ、イスラエル人の叫びはわたしに届いた。わたしはまた、エジプトが彼らをしいたげているそのしいたげを見た。
:10 今、行け。わたしはあなたをパロのもとに遣わそう。わたしの民イスラエル人をエジプトから連れ出せ。」


序)不完全な私達を完全に用いられる方
みなさん、パソコンは使われるでしょうか。
今、このメッセージを読まれているということは、使われているのでしょう。
私はほぼ毎日使っています。
私は、クラリスワークスというソフトを愛用しています。でも、このソフトは、Win95版しかありません。それを今XPに入れて利用しています。
ですから、印刷バグなどがあり、完全には使えない状態です。
ウインドウズなので、ワードやエクセルを使えればいいと思い、やってみたときの話しです。
とにかく、何がなにやらわかりません。
改行するだけでも、文字がずれたり、おかしなことになってしまいます。

でも、ワードを使いこなす人がいます。
この人が作った文書は、なんでこんな文書が作れるんだ?と思うほどすごいものができます。
エクセルにいたっては、ちょっとしたソフトのようです。
ぼくはそれを使うだけでも大変です。

ワードやエクセルなどは、高機能ですごいことができるのでしょうが、使える人が使うとすばらしいものができるのに、使いこなせないぼくが使うと、ストレスはたまっても、成果はなかなかたまりません。

実は私達も同じなのです。
イエス様の御心を知り、それに従うことが出来れば素晴らしいのですが、なかなかそうはいきません。思いは良いのですが、方法が間違っていたり、神様の時でなかったり・・失敗の連続かもしれません。
そうです。私達は完全ではないのです。完全な方はイエス様のみです。
だから、安心してください。時々間違って良いのです。
でも、イエス様を愛し、イエス様に従いたい・・という思い、心を持っているならば、
イエス様は、不完全な私達を完全に用いてくださるお方です。

私が使ってもたいした成果はできないワード等も、使いこなせる人が使うと素晴らしい成果が出来上がるように、私達がイエス様に委ねるなら、完全に用いてくださると信じます。

モーセが持っていた思い『神の民であるイスラエルの人々を救いたい!』という思いは決して間違ってはいませんでした。でも方法や時が間違っていたのです。
そして、エジプトから逃げ出し、ミデヤンの地にやってきました。
でもそこでアブラハムの子孫である祭司とであうことが出来たのです。
モーセは不完全だったかも知れません。でも神様はそんなモーセの心を見ておられたのです。そして、モーセを呼ばれるのです。イスラエルの民をエジプトから救い出すために。
今日は、イエス様があなたを呼ぶ時・・・というテーマでお話します。
イエス様が呼ばれるのは、モーセだけではありません。
あなたも呼ばれるのです。素晴らしいイエス様の栄光をあらわすために。


1.イエス様が呼ばれた時・・モーセは羊を飼っていた。

モーセはエジプトから逃げ出し、ミデヤンの地で暮らすことになります。
そして羊を飼っていました。
神がエジプトからイスラエルの人々を導くためモーセの名を呼んだ時、彼は羊飼いだったのです。
実は、これはとても大切なことです。
それは、仕事で仕える、ということの大切さをあらわしているからです。

聖書には仕事をしている時に呼ばれた人が他にもいます。ペテロ・マタイ・ダビデ・・
ペテロは漁師でした。そしてひたむきに仕事をしていたのです。一晩中漁をしていたのですから。
マタイは収税人として働いていた時にイエス様が「私に従って来なさい」と呼ばれました。
またダビデは、(モーセと同じように)羊を忠実に飼っている時に選ばれたのです。
格好良くゴリアテを倒した後・・ではないのです。

Ⅰサムエル16:11 サムエルはエッサイに言った、「あなたのむすこたちは皆ここにいますか」。彼は言った、「まだ末の子が残っていますが羊を飼っています」。

サムエルがイスラエルの次の王となるべき人がこの家にいる、といってやってくれば、
ひょっとして私かもしれない・・と思ってまっているのが普通でしょう。
でもダビデはそんな時も羊を飼っていたのです。与えられた仕事を忠実に仕えていました。
モーセも同じです。
祭司の娘と結婚したのですから、祭司になっていれば良かったのに・・と考えたことはありませんか?その方がなんだか良さそうですね。
でもイエス様はあえてそうはされなかったのです。
普通の仕事を、忠実に仕えている時に・・・です。

教会では霊的・・という人が注目を浴びますが、私はそうばかりではないと思います。
もちろん、祈り、イエス様の臨在を感じることはとても大切です。
出来るだけ敏感になりたいものです。

私の好きな御言に、、
Ⅰコリント1:22-25
ユダヤ人はしるしを請い、ギリシヤ人は知恵を求める。しかしわたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝える。このキリストは、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものであるが、召された者自身にとっては、ユダヤ人にもギリシヤ人にも、神の力、神の知恵たるキリストなのである。神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからである。

しるしや奇跡、知恵を求めるのは異邦人です。
そうではなく単純に十字架にかかられたイエス様を愛する心・・・それが大切です。
私達は、社会や学校でこそ人間関係や色々な問題、試練を経験するのではないでしょうか。
そこで忠実に仕えることができなければ、どうしてイエス様に忠実に仕えることができるでしょう。

マタイ25:40
すると、王は答えて言うであろう、『あなたがたによく言っておく。わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである』。
エペソ6:6-7
人にへつらおうとして目先だけの勤めをするのでなく、キリストの僕として心から神の御旨を行い、人にではなく主に仕えるように、快く仕えなさい。

たとえあなたが聖書とは全く違う仕事をしてたとしても、あなたが忠実に仕えているなら、それはイエス様に忠実に仕えているのと同じことなのです。
イエス様はあなたが何をしたのか、ではなく、いつもあなたの心を見ておられるからです。

わたしは今までいろんなところで仕事をしていました。
学生の時にはいろんなバイトもしてきました。
やめたいと思ったこともありますし、実際にやめてきて今があり、
今も仕事をしています。聖書とは遠い仕事です。
でも、それらの仕事での経験は、どんな聖書学校でも習うことの出来ない多くの学びがありました。その中でいかに忠実に仕えるのか・・、ということもとても重要です。

そしてそんな時こそ、イエス様があなたを呼ばれるのです。
さあ、あなたをわたしの栄光のために用いよう、と。
あなたのまわりの民を救い出すためにあなたを用いよう、と。
信じましょう。そしてイエス様の御声に耳を傾けましょう。



2.イエス様が呼ばれた時・・柴は燃えていた。

さて、モーセは燃える柴を見つけます。
あれはなんだろう?不思議なものがあるなあ・・・と思って近づいていきます。
炎が輝いているのです。

3:2 すると主の使いが彼に、現われた。柴の中の火の炎の中であった。よく見ると、火で燃えていたのに柴は焼け尽きなかった。モーセは言った。「なぜ柴が燃えていかないのか、あちらへ行ってこの大いなる光景を見ることにしよう。」

イエス様の臨在がある時、柴は燃えているのです。
私達もイエス様の臨在に触れるなら燃えるのです。
私達の心が燃えるのです。

ルカ 24:32 彼らは互に言った、「道々お話しになったとき、また聖書を説き明してくださったとき、お互の心が内に燃えたではないか」。

弟子達は、イエス様と話しをしているうちに心が燃えてきたのです。
おお!そうだ!そうだ!・・御言は私達の心を燃やします。なぜなら、それは単なる言葉ではないからです。
イエス様の命、生ける御言です。弟子達は御言を通してイエス様の臨在に触れたのです。
燃えること、そして輝くこと・・・それはとても重要なことです。

燃やされるなら、それは力です。
焚き火が燃やされているところは、暖を取ることができますから、人が集まってきます。人を引き寄せる力があるのです。しかし、燃えていない木がそこにあっても、人は集まってきません。
燃やされている人とそうでない人の違いも同じように出てくるでしょう。

輝くなら、それは力です。
光り輝いている場所に人は集まります。虫も寄ってくるでしょう。
輝きに力があるのです。輝く人とそうでない人の違いもまたそのようでしょう。

燃える柴を見てモーセが近づいてきたように、燃えている輝いているあなたを見て人が近づいてくるかも知れません。
私達は、イエス様の御言を通して心を燃やしましょう。
どんな時もワクワクするような希望があなたを包むのです。
どんな時も、輝く炎のように輝いているのです。

そして、本当に主にあって燃やされているなら、燃え尽きないのです。
炎の中の柴が燃え尽きなかったように。。。
一時的な感情だけで燃やされているなら、燃え尽きてしまうでしょう。
それはまさに燃えているからです。明日のジョーのように、真っ白な灰になっちゃうかも。。

私達は、イエス様によって、生ける御言葉によって燃やされましょう。
その炎は燃え尽きない炎です。

結)イエス様は「あなた」の名前を呼ばれる。
神様はモーセの名前を呼ばれました。
それは、神様はすべてを知っているということです。
そして個人的にあなたと出会いたいと願っておられるのです。
そして友達どうしのような親密な関係をイエス様は持ちたいのです。
それはあなたを満たし、心を燃やし、輝かすためです。
イエス様の臨在に触れましょう。
イエス様の御言葉に触れましょう。